ポスト・シネマ・クリティーク(10)アニメの形、映画の形 山田尚子監督『聲の形』|渡邉大輔

初出:2016年10月7日刊行『ゲンロンβ7』
レンズ越しの風景
スクリーンいっぱいに一眼レフキャメラのレンズ越しに覗かれた俯瞰の風景が現れる。
その映像が一眼レフのPOV(視点)ショットだと観客にわかるのは、むろん、そのショットに先行して、その時点では性別不詳の子どもが、建物のベランダから乗りだして首から下げた一眼レフを覗きこむ動作がすでに描かれているからだ。そして、レンズ越しのその子どもの視線のさきには、このアニメーションの主人公である少年少女が、小さな小川に架かる橋のたもとで向きあって何か話しているのが見える。かれらのたたずむ橋という舞台装置こそ、そもそもが両岸を隔てつつ媒介する建築物なのだが、ほかにも、手話、そしてレンズという、このシークエンスに登場する、それぞれの対象の、たがいに幾重にも隔たったものを媒介する「メディア性」こそ、この作品の内実を象徴する要素だといえるだろう。
映画『聲の形』(2016年)は、大今良時の同名人気少年マンガを原作に、山田尚子監督が京都アニメーション(以下、京アニ)で映画化した長編アニメーションである。
物語の概要はこうだ。主人公の石田将也(松岡茉優)は小学6年生のとき、クラスに転校してきた先天性聴覚障害の少女・西宮硝子(早見沙織)と出会う。ガキ大将で暇をもてあましていた将也は、クラスの輪を乱しがちな硝子を、しだいに同級生の仲間たちとともにいじめるようになる。ところが、将也たちによる硝子の数度にわたる補聴器紛失が、校長も介入する学級会で問題になると、今度はとたんに、将也を標的にクラス中からの陰湿ないじめがはじまる。その後もいじめを受け続けた将也は硝子との距離を縮められぬまま、彼女は転校してしまう。物語はそれから5年後、高校生になった孤独な将也(入野自由)が、硝子と再会し、自分が少年時代に犯したあやまちと向きあいつつ、彼女やその家族、そして幼馴染みの友人たちとのつながりをふたたび取り戻してゆく日々を清新な演出で描く。
吉田玲子の脚本は、全7巻の原作コミックの物語をほぼ忠実に再現しており、「聴覚障害者差別」や「いじめ」というセンシティヴなテーマを扱った物語は、早くもSNSを中心に論議を呼んでいる。
「映画」への目配せ
さて、この連載でアニメーションを取りあげるのははじめてだが、わたしはアニメ批評家やライターではない──さらにいえば、オタクでもない──ので、この京アニにとって10作目となる長編アニメ映画について、「業界的」かつ「オタク的」な文脈をまんべんなく踏まえたレビューを書くことはおぼつかない。ただ、今回の映画『聲の形』がわたしにとってことのほか興味深かったのは、とりもなおさず、本作が何よりも現在の「映画」=「ポストシネマ」のありようを考えるうえで非常に示唆的な作品に思われたからにほかならない。
もとより、本作の原作となった大今のマンガ『聲の形』(2013-14年)自体にもまた、すでに「映画」への目配せが物語の細部に織りこまれていた。たとえば、アニメにも登場する将也の高校のクラスメート、永束友宏(小野賢章)は自主映画を作っており、原作のクライマックスに近い学園祭のエピソードでは、将也の友人たちがスタッフ・キャストで協力する作品を学内上映し、その後、学生映画コンクールにも応募する展開が描かれている。また、冒頭に描写したシークエンスに登場する子ども──映画の映像演出でも重要な役割を果たす硝子の妹・結絃(悠木碧)が、写真撮影が趣味で、つねに首から一眼レフを下げているというキャラクターであるのも、『聲の形』と「実写映画的」な要素との結びつきを垣間見せているだろう。そして、このふたつのエピソードのうち、映画『聲の形』では永束の自主映画撮影のエピソードがざっくり削られていることは、本作における「映画的なもの」とのつながりを、むしろ逆説的に浮かびあがらせているともいえる。
『聲の形』と山田尚子アニメの作家性
事実、このことは、作家論的な手札を使っても本稿に有益な見取り図を提供してくれるだろう。
本作の監督を務めた山田尚子は、まだ30代前半の若さながら、20代なかばにしていわゆる「日常系アニメ」の代名詞となったテレビアニメ『けいおん!』(2009-10年)を成功させ、その後も監督作品が日本アカデミー賞や文化庁メディア芸術祭での受賞歴を誇る、現代日本アニメ界の俊英として知られている。山田の出世作となった『けいおん!』や、その後のテレビアニメ『たまこまーけっと』(2013年)、アニメ映画『たまこラブストーリー』(2014年)といった一連の監督作では、いずれも複数のキャラクター、あるいは主人公と幼馴染みとの中間共同体における「コミュニケーションの不/可能性」が主題として執拗に描かれていた。
とりわけアニメオリジナル作品である『たまこまーけっと』および『たまこラブストーリー』では、主人公の北白川たまこ(洲崎綾)と大路もち蔵(田丸篤志)の気持ちの交流と断絶を象徴するメディアとして「糸電話」が作中で効果的に導入され、日常系的なゆるい「つながりの社会性」(北田暁大)の瀰漫する空間に一定の齟齬や緊張感を与えていた。また、この作品でも『聲の形』の永束と同様、もち蔵は高校の映画研究会に所属しているという設定になっている。これらの点で、「手話」というコミュニケーションメディアによる主人公たちの繊細な人間関係を描き、「映画的」なモティーフも登場する『聲の形』は、さしあたり「作家」としての山田にとっても格好の原作となったことだろう。
アニメの実写フィルム的演出
とはいえ、わたしが本作に惹かれるのは、それらの点のみならず、アニメファンにはすでに広く知られるように、じつは山田自身もまた、本来きわめて「(実写)映画的」な画面作りを志向するアニメーション監督であり、映画『聲の形』においてもそれが如実に表れているように思うからだ[★1]。それは第1に、「実写的」と呼べる映像演出であり、また第2に、「キャメラアイ的」な構図の採用である。
『新記号論』『新写真論』に続く、メディア・スタディーズ第3弾


渡邉大輔
1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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