ポスト・シネマ・クリティーク(25) ポストシネフィリー映画としてのVRゲームSF──スティーヴン・スピルバーグ監督『レディ・プレイヤー1』|渡邉大輔

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初出:2018年5月25刊行『ゲンロンβ25』

VR世界を描く巨匠の新作SF


 電車の車輌を思わせる細い矩形のガレージがいくつもの鉄骨で組みあげられた集落に、ドローンのようにたゆたうキャメラがゆっくりと近づいてゆく。その高所に積まれたガレージのひとつから、冴えない顔つきの少年が現れると、上方から吊るされたチェーンのようなものを器用に操って、軽やかに地上へと降りてゆく。

 スティーヴン・スピルバーグ監督の最新作『レディ・プレイヤー1 Ready Player One』(2018年)は、このように主人公の少年の鮮烈な「下降」のイメージからはじまっている。この下降は、巨匠の前作『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 The Post』(2017年)のラストシーンの「上昇」のイメージとひそかに呼応しあっているはずだ。そこでは、広い印刷所内部を俯瞰で捉えたロングショットのなか、画面奥に並んで歩いてゆくメリル・ストリープとトム・ハンクスの小さな背中とともに、画面中景にベルトコンベア状に印刷された『ワシントン・ポスト』紙が下から上へとつぎつぎに昇ってゆく光景が写されていた。ひとまずメディアの支持体の物質性を重力という要素と結びつけてみた場合、この両者のイメージは興味深い矛盾、あるいは両義性をはらんでいるといえる。すなわち、『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』の場合は、紙(paper)というアナログメディアを題材にしながら、それらは重力を欠いて上昇してゆき、他方、『レディ・プレイヤー1』の場合は、圧倒的なディジタル空間を舞台にしながら、主人公の身体は重力を伴って下降する。このふたつのイメージのはらむ矛盾、両義性は、本論で述べるように、先駆的なシネフィル世代として大文字の映画史への信仰を吐露しながら、同時にこの半世紀、ほかのだれよりも今日のディジタルシネマにいたる映像革命を成し遂げてきたスピルバーグにふさわしい身振りだといえる。

 ここ数回、東浩紀の「触視的平面」の議論(「観光客の哲学の余白に」)をわたしなりに引き受けるかたちで、ポストシネマなるものの内実を理論的に整理する試みを続けてきた。気づけば2年以上も続けてきたこの奇妙な映画の旅をそろそろ終えるにあたって、今日アクチュアルな(東のいう「能動性と触覚性を加えた」)画面に接近しつつもスクリーンにとどまる「ポストシネマ」的平面の探究として、『レディ・プレイヤー1』ほど、取りあげるのに適格な新作もないだろう。

 本作は、共同脚本も手掛けたアーネスト・クラインの同名の小説(邦訳題名は『ゲームウォーズ』)を原作にした近未来SFである。舞台は地球規模の気候変動やエネルギー危機でスラム化したオハイオ州コロンバス。そこで暮らす主人公の少年ウェイド・ワッツ(タイ・シェリダン)は、世界最大規模のネットワーク型ヴァーチャル・リアリティ(VR)〈オアシス〉に仮想的なアバター「パーシヴァル」として没入し、さまざまなゲームや娯楽に興じることを唯一の楽しみとしていた。そんななか、5年前に亡くなったオアシスの創設者でもある伝説的なゲームデザイナー、ジェームズ・ハリデー(マーク・ライランス)が遺していたあるコンテストが、オアシスのユーザたちに宣告される──生前、自分はオアシス世界の内部に宝の卵「イースターエッグ」(隠し機能)とそれを見つけるためのみっつの鍵を隠していた。それを最初に見つけた勝者には、オアシスの所有権と5000億ドルものハリデーの遺産を相続する権利を与える、と。

 こうして広大なVR空間を舞台とした世界規模の争奪戦(アノラック・ゲーム)の火蓋が切って落とされ、ウェイド/パーシヴァルも、エイチ(リナ・ウェイス)、ダイトウ(森崎ウィン)、ショウ(フィリップ・チャオ)といった親しいオンライン仲間とともにイースターエッグを追う「エッグハンター」(ガンター)として参戦する。ところが、そこにノーラン・ソレント(ベン・メンデルソーン)率いる大企業「IOI社」が絡んできた。ウェイド/パーシヴァルはひそかに想いを寄せる謎の女性ガンター、アルテミス(オリビア・クック)とともに、IOIとの攻防戦に加わることになる。

『レディ・プレイヤー1』のポストシネマ性


 後述するように、映画冒頭に軽快に流れるヴァン・ヘイレンの大ヒットロックナンバー「ジャンプ」をはじめとする80年代ポップカルチャーや日本のオタク文化にかんする膨大な引用でも注目されている『レディ・プレイヤー1』だが、物語や画面のいたるところにこれまでにも論じてきたようなポストシネマ的な主題を見いだしてゆくことはさほど難しくないだろう。

 そもそも本作のモティーフとなったVRゲームというガジェットそれ自体が、これまでにも論じてきたインターフェイス/タッチパネル的画面のひとつだし、あるいは映画冒頭から全編にわたって登場する無数のドローンもそうだろう。また、『GODZILLA 怪獣惑星』(2017年)を取りあげたさいにも注目した、ホログラムのように空中に浮かびあがるディジタル映像のモニター画面が本作のVR空間にもいたるところに登場する。映画冒頭の印象的なワンシーンワンショットにおいて現れる、ウェイド/パーシヴァルが住む集合住宅(スタック)の無数の窓は、まさにこのあとのインターフェイス的な「ウィンドウ」の氾濫を観客に予示しているかのようだ。さらに、異常気象や環境汚染などによって人類の生存に決定的な荒廃がもたらされている近未来社会のイメージは、『10 クローバーフィールド・レーン 10 Cloverfield Lane』(2016年)の回などでも論じたポストヒューマン的な世界観であり、あるいは近年、「人新世 Anthropocene」という仮説的な地質年代で称される人類文明と地球生態系との深甚な影響関係に着目する観点ともつうじあっている[★1]

 そのようなわけで、本論で注目して考えてみたいのは、まず第1に、いわば本作の映画=スクリーン的な画面によって「VR/ゲーム的」=インターフェイス的イメージを表象しようと試みたことから起こっている映像の特異性である。それは、これまでに「ポストキャメラ」(ウィリアム・ブラウン)や「多視点性」という術語で名指してきたものとも重なる「反擬人的」なキャメラワークだ。また第2に、人新世的世界観ともつながる本作のオブジェクト=ガジェットが氾濫する状況設定についてである。

VR、ビデオゲームとのかかわり


 それでは、第1の点から確認していこう。
 すでに説明したとおり、『レディ・プレイヤー1』は、映画全編をつうじて主人公たちが現実世界とネットワーク上のVR世界というふたつの領域をいくども往復しながら、オアシスでのゲームに参加してゆく物語である。そこで頭に装着したヘッドマウントディスプレイをかいして現れる眼前のオアシスの視界に対して、ユーザたちが何らかのかたちで主体的かつ能動的に働きかけうるという設定は当然ながらまさに「触視的」(東浩紀)な性質とかかわっており、いいかえればきわめて「(ビデオ)ゲーム的」な経験を描いた(描こうとした)作品だともいえる[★2]

 いうまでもなく、映像文化としてのゲーム──ビデオゲームは、いまや20世紀の映画、テレビなどの媒体に代わる巨大なエンターテイメントへと成長し、なおかつゲーム理論からゲーミフィケーションまで、現代の情報社会の世界観を示す象徴的なジャンルとなった。そしてそれらが現代社会で存在感を強めていった1970年代は、まさにスピルバーグが映画監督としてデビューした時期だった。実際にスピルバーグとゲームとはゲーム産業の黎明期から、しかも一再ならず結びあってきたという経緯がある。たとえば、スピルバーグ監督による「インディ・ジョーンズ」シリーズ第1作『レイダース/失われたアーク《聖櫃》 Raiders of the Lost Ark』(1981年)、および『E.T. The Extra-Terrestrial』(1982年)を原作に、いずれも「Atari 2600」用の家庭用ビデオゲームとして発売された同名のゲームタイトルは、映画作品のビデオゲーム化の最初期の事例として、これまでゲーム研究の分野でもしばしば紹介されてきた。そして実際、今回の映画のなかでも、物語のクライマックスシーンを含め、作中のそこここでだれもが知るアドベンチャーゲームやアーケードゲーム、対戦型格闘ゲームのモティーフがいくつも参照されている。

ゲーム的映画とポストキャメラ的な動き


 もとよりこの連載では、アニメに実写的なレイアウト(「擬似シネマティズム」)を掛けあわせた『映画 聲の形』(2016年)や長編映画にニコニコ生放送的な画面を大胆に取り入れた異色のフェイクドキュメンタリー『映画 山田孝之 3D』(2017年)など、ディジタル化による「メディア収束」(ヘンリー・ジェンキンス)を蒙ったポストシネマ的作品をたびたび論じてきた。その流れでいえば、全編が一人称視点(POV)によって作られたイリヤ・ナイシュラー監督の奇抜なSFアクション『ハードコア Хардкор Hardcore Henry』(2015年)をそのもっとも象徴的な例として、フェデ・アルバレス監督のホラー・サスペンス『ドント・ブリーズ Don’t Breathe』(2016年)、そしてごく最近ではチョン・ビョンギル監督のサスペンス・アクション『悪女/AKUJO 악녀』(2017年)など、明らかにゲーム──より具体的には、主人公=視点プレイヤー視点(FPV)でゲーム内空間を移動し敵と戦う「一人称シューティングゲーム First Person shooter」(FPS)のプレイ体験を明らかに模した映画が2010年代以降、いくつも現れてきたことに眼を向けなければならない。

 ──率直なところ、わたしとしては、以上のような昨今の先端的な「ゲーム的映画」につらなる演出を、今回の新作でスピルバーグもまた見せてくれるのではないかと、ひそかに期待をいだいていた。なるほど、以下で論じる映画前半に登場する、第1の鍵(コッパー・キー)を獲得するためにニューヨーク市街を再現した高速道路で行われるスリリングなカーレース場面や、または第2の鍵(ジェード・キー)が隠された、映画『シャイニング The Shining』(1980年)の舞台オーバールック・ホテルを模した迷路のような映画館内部の探索場面などは、いかにもゲーム空間そのものを思わせる。また、エイチのガレージでアルテミスが「ハリデーの好きなFPSは?」とパーシヴァルに質問し、かれがNINTENDO64用のFPSゲーム『ゴールデンアイ 007』(1997年)だと答えているシーンがあることからも、スピルバーグが昨今の映画のFPS的なアクション演出を意識していた可能性がなくはない(ちなみに、スピルバーグもゲーム黎明期からの熱心なゲーマーとして知られ、『コール オブ デューティ4 モダン・ウォーフェア Call of Duty 4: Modern Warfare』(2007年)などの「シネマティック」なFPSにも親しんでいるらしい)。だが、今回もかれは、基本的には的確にカットを割った映画的な編集を採用している。

 とはいえ他方で、ジョージ・ルーカスとともにこれまで数々の映像革命を映画史に巻き起こしてきたスピルバーグが、やはり本作においても現代のポストシネマ的潮流に棹差すような新奇な演出をいたるところで見せているのも事実だ。その最たる兆候がポストキャメラ的なキャメラワークと映像編集だろう。フィルムという物質的支持体を失いディジタル化した映像は、一編の作品自体にせよ、個々のフッテージごとにせよ、その映像はおうおうにして、延々と続く長尺(ロングテイク)か、それとも断片的な短尺(ショートテイク)かに極端に二極化する傾向をもつ(ウェブの動画が典型的だ)[★3]

『レディ・プレイヤー1』にかんしていえば、たとえばさきほども挙げた映画冒頭、ドローンのようなキャメラアイがスタックの家並みに近づいてから、そこから出てきたウェイドがVRデバイスを設置しているスクラップガレージに入るまでを流麗なキャメラワークで描いたワンシーンワンショットの場面がそうだ。あるいは反対に、ビージーズの「ステイン・アライヴ」に乗りながら、オアシスのダンスクラブでパーシヴァルとアルテミスが踊る場面などは同様の長回しで描かれながら、こちらはむしろミュージック・ビデオのように前後の物語のシーン連鎖からそこだけ断片的に浮きあがって見える(『レディ・プレイヤー1』には、『君の名は。』〔2016年〕のようにMV的な手触りがインサートされているように思える)。さらに、『レディ・プレイヤー1』のオアシス世界の映像では、──ヴァーチャル空間であるにもかかわらず──画面のいたるところに眩いばかりのレンズフレアが頻出している。こうした表現は、従来のヤヌス・カミンスキーのキャメラによる抑制された陰影表現が特徴的だったスピルバーグ作品のルックとは対照的に、あたかも岩井俊二や新海誠、そしてJ・J・エイブラムスらの画面を如実に想起させもする。

「移人称的」なキャメラワークと切り返しの消失


 だが、とりもなおさず興味深いのは、昨今の現代映画に全般的に共通する、ポストキャメラ、あるいはエドワード・ブラニガンが「反擬人的キャメラ non-anthropomorphic camera」[★4]と呼ぶ視点移動を『レディ・プレイヤー1』もまた、ほぼ正確になぞっている点だ。どういうことか。

 たとえば、それは映画冒頭のウェイド/パーシヴァルが最初にオアシスのVR空間にジャック・インするシークエンスに如実に表れている。VR装置が整えられている狭いガレージに入ったウェイドは、頭にさっそくヘッドマウントを装着する。すると、そこまでウェイドの姿を三人称客観視点で捉えていたキャメラアイは、そのままスムースにゴーグルを着けたウェイドの目元までクロースアップして近づき、そのままかれ自身の主観視点となってオアシス世界に入りこんでゆくのだ。その後、キャメラアイは基本的にはウェイドの視点を維持したまま、なめらかにオアシス世界を移動してゆく(とはいえ、ここでは終始、ウェイド自身のナレーションが挿入されていることもあり、純粋なPOV画面という感じもしない)。すると、それまでウェイド自身の主観視点を担っていたはずの視界のむこうから、アバターの人混みに混じってウェイドのアバターであるパーシヴァルが歩いてきて、「これが僕だ」というナレーションが入る──つまり、ここまでのワンシーンワンショットの終わりで、ふたたびキャメラアイが自然に三人称客観視点に切り替わっているのだ。似たようなキャメラアイは、続くエイチ/ヘレンの戦闘シーンでも見られる。ここでも当初、三人称視点でエイチを見ていたキャメラアイは、いつの間にかエイチ自身の視点に切り替わっている(エイチのPOVに投影されていると思われる、画面の端々に現れる小窓のモニターでそれがわかる)。

 いずれにせよ、『レディ・プレイヤー1』のこうしたワンシーンワンショット間の奇妙なキャメラアイの移行は、本作に限らず、昨今のハリウッドを中心とした映画では比較的眼につくものになっている。たとえば、ごく最近の『パシフィック・リム:アップライジング Pacific Rim: Uprising』(2018年)にせよ、『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー Avengers: Infinity War』(2018年)にせよ、それらのとりわけ戦闘シーンでは、同様に三人称客観ショットとキャラクターたちの主観(POV)ショットがシームレスに、超高速でつぎつぎと切り替わってゆく。

 つまり、ここで起きているのは、古典的な「切り返しショット」(ショット=リバースショット)の消失というきわめてラディカルな事態である[★5]。むろん、厳密にいえば、通常はイマジナリーライン(人物の場合、向きあうふたりの視線を結ぶ線)の脇から撮られる切り返しは、小津安二郎のように主観ショットを用いることはあまりない。だが、ここで重要なのは、切り返しに象徴される映画の古典的な文法が対象の自他をはっきり峻別するキャメラアイを宿していることだ。現代映画のディジタルな視線では、それらが溶解している。

 すでに別稿でも何度か触れているように[★6]、こうした現代映画における三人称=一人称のシームレスな視点移動は、近年、日本の文芸批評の文脈で渡部直己(「移人称小説論」)や佐々木敦(『新しい小説のために』)らがこぞって着目している、いわゆる「移人称」の問題系とも通底しているはずであり、なおかつこの連載でも論じた「キャメラアイの多視点性」とも重なっている。

「パーティクル化」と「プリヴィズム」の到来


 ただ、こうしたポストキャメラ的な変容の問題について考えを深めるには、最近ではさしあたり平倉圭による以下の問題提起が参考になるだろう。平倉は、かつての映画のイメージで頻繁に見られた、粘性の重みをもった不定形にうごめく物体──それをかれはスティーヴ・マックィーン主演の映画タイトルを借りて「ブロブ的なもの」と呼ぶ──がある種の映画的運動を駆動していた時期が21世紀に入る前後に終わり、それに代わって「ピタゴラ装置的」な、リジッドに計算可能な物体の挙動パターンをフラットに描くイメージが前景化してきたことに注目し、それを「パーティクル化」と名づけている。

二〇〇〇年代に現れてきて、二〇一〇年代に過激に誇張されているのが、「パーティクル化」だというふうに僕は考えてるんです。世界はブヨブヨしていなくて、パリパリしている、細かくクリスプに割れるっていうふうになる。一見不定形なものも、すべて計算可能な粒子の挙動でできていて、明晰に割れる。『パシフィック・リム』とかが顕著だろうと思います。[…]自分のiPhoneとかで世界をデータに変えて、それをパターン認知にどんどん送り込む。それが普通になった時代の映画には、「世界はパターンでできている」、「世界は根本的にパターンの集合である」という感性がはっきりあると思う。[★7]


 ここで平倉が提示している「ブロブ的なもの」と「パーティクルなもの」のイメージ的対比は、いいかえれば「特撮的」な時代のオブジェクトと「3DCG的」な時代のそれの対比におおよそ重なるものでもあるだろう。

 そして続けて平倉は、ジョージ・ミラー監督の『マッドマックス 怒りのデス・ロード Mad Max: Fury Road』(2015年)のアクション演出を例に、こうしたある種の重み=物体の抵抗感を欠いた今日のパーティクルな映像に違和感を表明している。曰く、

『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は、全編がスタントワークで、物体とか肉体の無理のきかなさが現れてきてもおかしくないはずなんだけど、でも、全然現れてこない。なぜかと言えば、モノがまったく抵抗しないから。モノが無抵抗なんです。[…]今のハリウッド映画では、敵はトラックから外にはじき出されたらすぐ消滅しちゃうんだよね。うわーって落ちて、死んで、すぐ次いく。でも『レイダース』では、はじき出された後、しがみついたトラックの外装がモノとしてもつかどうか、ということで引っ張って、ああー!、やっぱりもたなかった、というタメの時間がある。いまはこういう物体の可塑的抵抗性が作り出すサスペンスがあまりなくなってる。[★8]


 ここで平倉が鋭く指摘している、近年の映画におけるモノの可塑的抵抗感の希薄化=「パーティクル化」という傾向は、ポストキャメラ的なキャメラアイのシームレスな移行とそれに伴う切り返し(的)ショットの弱体化という事態と、ほぼ確実に表裏一体であるだろう。その両者に構造的に共通するのは、確固とした輪郭と重力をもった主体と客体──たとえば人間とモノやキャメラアイと世界とが、相互排他的な距離を伴って存在するという二項対立的なあり方の根本的な失効だといえる。そして、その構図こそ、認識論的には長らく線遠近法が担ってきた映画=スクリーン的な表象システムそのものであった。

『レディ・プレイヤー1』や『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』のディジタル映像の画面は、やはりその意味で、反スクリーン的な、いわばインターフェイス的平面の秩序に接近しつつある。世界の事物、またキャメラアイは、人間に近づいてゆき、文字通り触覚的にふれあい、溶けあう。また、そうしたポストキャメラ的レイアウトやパーティクル化の台頭の原因には、平倉自身の指摘しているように、明らかに昨今の映画製作で採用されている「プリヴィズ」(「ビデオコンテ」「アニマティック」などとも呼ばれる試作映像)の影響が大きいだろう。これによって映画のなかでのキャラクターの動きにせよ、あるいは画面自体の動き(キャメラワーク)にせよ、「「タメてタメて解放」っていうんじゃなくて、計算されたリズムで「解放・解放・解放」を打ちまくる感じ」[★9]になっており、また Mac のインターフェイスに搭載されたジニーエフェクトのように、空気抵抗を欠いたつねに均一なリズムでシームレスに視点が切り替わってゆくような動きのモードを全面化させているのだ。こうした「プリヴィズ主義 prevism」(?)とでも呼ぶべき動向が、2010年代の映画の画面を根本的に書きかえつつあるのはたしかである。

ガジェット=ノンヒューマン・エージェンシーの氾濫


 このように、昨今の多くのハリウッド映画と同様、『レディ・プレイヤー1』の画面もまた、さまざまな点でインターフェイス/タッチパネル的画面にもつうじる「キャメラアイの例外状態」=ポストキャメラ化を打ちだしている。そして、ここで重要になってくるのが、おそらくはこの作品のもうひとつの重要な要素として、第2に挙げた多種多様なガジェット=「オブジェクト」の召喚という演出だろう。

 本作では(世間的にはむしろこちらのほうが評判を呼んでいるが)知られるように、原作小説から引き継いで、じつに多くのガジェットやキャラクターが作中に登場する。前半のレースで出現するデロリアンや金田バイク、キングコング、ティラノサウルスレックス、あるいはクライマックスの戦闘シーンでも登場するアイアン・ジャイアントやチャッキー、メカゴジラ、そしてダイトウ/トシロウの操るガンダム(RX-78-2)などなど……、ハリウッドや日本を代表するポップアイコンが画面を所狭しと現れるのだ。

 重要なのは、これらのオブジェクトたちが原作ごとの文脈をほぼ抜かれて、モザイク状に引用されていることだ。したがって、これらのキャラクターたちはさきに述べたようなポストキャメラ的に過剰流動化し、また逆にモジュール化する『レディ・プレイヤー1』の映像世界において、視線の結節点となるオブジェクト(ボールゲームのボールのようなモノ)の役割を果たしている。そして、同様の効果はさきほども挙げたようなここ数年のハリウッドのブロックバスターSF大作に共通して指摘できるだろう(日本を舞台にした『パシフィック・リム:アップライジング』のなかにもガンダムの巨大な像が登場する)。

 もとより、何もこうした有名キャラクターやアイテムのみならず、いくつもの矩形の箱やジェンガのように組みあがったスタックや、道を埋めるほど地上に積みあがったスクラップの山のシーンからはじまる『レディ・プレイヤー1』はすぐれてオブジェクトが主役の映画だといってよい。そして、そのオブジェクト性はいうまでもなく、VR世界で活躍する本作のキャラクター(人間)たちのありようにも不可避に侵入している。パーシヴァルやアルテミスといった仮想的なアバター=ディジタルなモノと重ねられて描かれるウェイドやサマンサの映画のなかでの身体性は、いわばなかばは通常の主体(ヒト)でありながら、もうなかばはキングコングやガンダムのような客体(モノ)としての二重の性質を帯びているだろう。したがって、いうなればかれらはこの連載で何度も参照してきた「準‐客体 quasi-objet」(ミシェル・セール)や「アクタント actant」(ブルーノ・ラトゥール)と呼ぶべきノンヒューマン・エージェンシー──『艦隊これくしょん』の「艦娘」のようなモノ──に近い。

 思えば、本作におけるこうしたキャラクターやガジェットの準‐客体性は、まさに作中でキャラクター自身によって自己言及的にほのめかされていたともいえる。というのも、主人公のウェイドは、「ウェイド・ワッツ」(WW)という自らの名前の由来について、「ピーター・パーカー」(PP)や「ブルース・バナー」(BB)といった有名なアメコミのスーパーヒーローになぞらえて姓名のイニシャルが一致するように父親がつけたと明かす。この発言は、オアシスに登場する数多くのヒーローキャラクターと同様、「自らの存在がそれらキャラクター=オブジェクトとハイブリッド化したアクタントであること」を隠喩的に表明しているようにも受け取れるだろう。ちなみにこの点については、ウェイドの両親がかれの幼い頃に死別しているという設定ともあわせて、スピルバーグ作品を強固に貫くいわゆる「孤児」の主題(藤井仁子)との関連からも示唆的である。

「ガジェットの映像文化」の起源としての80年代


 ともあれここでさらに重要なのは、現代思想でいう「オブジェクト指向の存在論」(OOO)ともつうじる『レディ・プレイヤー1』のこうしたオブジェクトや準‐客体にまつわる問題系、すなわち、「ガジェットの映像文化」が、映画史や映像文化史において本格的に前景化してきたのが、ほかならぬ本作がリバイバルする80年代であったという事実だろう。この点について、石岡良治は本作でもフィーチャーされたやはり80年代を代表する大ヒット作『バック・トゥ・ザ・フューチャー Back to the Future』3部作(1985〜90年)を主要な参照モデルとしつつ、かつて以下のように述べていた。

70年代以降のハリウッドは、クラシックファンから「大人のドラマが減った」「ギーク(オタク)っぽくなった」としばしば言われますが、その象徴がスピルバーグとルーカスです。2人がタッグを組んだ『インディ・ジョーンズ』や、ライトセーバーを振り回す『スター・ウォーズ』もそうです。日本だとガンダムが同様のポジションに相当するでしょうか。つまり、物語自体はややチープだけれども、固定のファンがいて、ガジェットを通じてその魅力が強化されているというモデルです。[★10]


 石岡は、ここでいみじくも80年代映像文化としてのハリウッドのスピルバーグと日本の『ガンダム』を並べながら、それらがいちように今日のポストシネマにつながる「ガジェットの映像文化」の先駆であったことを指摘していたのだ。こうした石岡の視点は、同じく80年代のガンプラ、キン消し、ビックリマンシールといった「ガジェットの映像文化」の日本版としての「戦後メディアミックス」に着目したマーク・スタインバーグや、前回の脚註でも紹介した模型文化にかんする松井広志の仕事などとも密接にリンクしている。その意味で、『レディ・プレイヤー1』とは、ガジェットの映像文化の創造者のひとりであるスピルバーグ自身による一種のメディア考古学的な実践でもあった。

スピルバーグ的な「表象」の主題の反復


 さて、ここまで『レディ・プレイヤー1』に見られる、映画=スクリーン的画面とはへだたったインターフェイス/タッチパネル的画面、ポストシネマの先端的な演出について確認してきた。

 本作が昨今のラディカルな動画体験を取り入れた映画作品群と同様の、注目すべきポイントをいくつもかかえた作品であることは間違いない。しかし、ほかならぬスピルバーグという本作の監督がかかえる両義的な作家性を反映するかのように、他方で、この映画がいわば従来の映画=スクリーンの時代の秩序や文化圏にはっきりと片足を入れている側面もあることを忘れるわけにはいかないだろう。そしてその相反する二面性こそが、スクリーン的な秩序とインターフェイス/タッチパネル的な秩序に引き裂かれた、まぎれもないポストシネマとしてのこの作品のアクチュアリティを体現しているのだ。

 具体的に、そのスピルバーグと『レディ・プレイヤー1』がもつ映画=スクリーン的な側面とは、まず第1に、世界や画面を「深さ」=見えないものと「浅さ」=見えるものとの二項対立図式で捉える「表象(不)可能性」をめぐるモデルであり、また第2に、そうしたモデルを理念的かつ倫理的に後押しする「シネフィリー」をめぐる問題である。

 すでによく知られており、またわたし自身もスピルバーグをめぐる文章でたびたび言及してきたが、スピルバーグというシネアストの一貫して好む特権的な主題系として、表象可能性と表象不可能性、「見えるもの」と「見えないもの」の相克とでも呼べるものがある。スピルバーグ的な物語においてはしばしば、当初、いわば画面には可視化されていない対象や記号があたりに潜在化しており、それが物語の経過のなかで不意に可視化された瞬間にこそ、もっともその映画的強度が高まるという構造が反復して見られる。たとえば、『ジョーズ Jaws』(1975年)で海面下から現れる「人喰いサメ」、『未知との遭遇 Close Encounters of the Third Kind』(1977年)における「異星人」、あるいは、『ジュラシック・パーク Jurassic Park』(1993年)におけるコップの波紋によってその出現が暗示される「ティラノサウルスレックス」、『プライベート・ライアン Saving Private Ryan』(1998年)での膨大な数の兵士のなかから見つけだされる「ライアン二等兵」、『マイノリティ・リポート Minority Report』(2002年)での未知の未来を視覚化する「プリコグ」……などなど、その具体的事例は無数に指摘できる。その最たるフィルムが、「ホロコースト」という出来事の「表象不可能性」をめぐって世界的な論争にまで発展した『シンドラーのリスト Schindler’s List』(1993年)だ。

 何にせよ、作中で敵役のソレントがウェイドらに騙されるように「リアリティ=見えるものの多層化」であるVR世界を描く今回の『レディ・プレイヤー1』において、こうした従来のスピルバーグ的主題がどのように展開されるのかに、当初、わたしの興味はあった。結果的にいえば、物語のクライマックスにおけるAtari 2600用のアドベンチャーゲーム『アドベンチャー Adventure』(1979年)に隠された「見えないドットを探す(=可視化する)」という展開によって、それは今回も明確に反復されていたといえるだろう(というより、そもそも「見えないイースターエッグを探す」という物語自体がゲーム的であると同時に、この構造にあてはまっている)。このように、映画がディジタル移行したあとも、いまだにフィルム撮影のこだわりを捨てていないスピルバーグらしく、かれの半世紀近いキャリア全体で見た場合、『レディ・プレイヤー1』もまた、一面できわめて映画=スクリーン的な「表象(不)可能性」の秩序に満ちた映画なのだ。

ポスト・シネフィリー問題再考


 そして、以上の視点に立ったとき、なかば必然的に、いみじくも本作の80年代文化とも関係する第2のシネフィル文化にまつわる解釈が一挙に呼び起こされるのだ。

 昨年、スピルバーグと同世代の巨匠マーティン・スコセッシの『沈黙 -サイレンス- Silence』(2016年)を取りあげたさいにも論じたように、現在、「シネフィリア cinéphilia」の「歴史化」とそれに伴う再注目が世界的に高まっているように見受けられる。あらためて要約しておけば、シネフィリアとは映画に対して尋常ではないほどの愛と情熱を注ぐ、熱狂的な「映画愛」のスタンスのことであり、それを体現する「シネフィル cinéphile」と呼ばれるひとびとは、一方で映画史的記憶、また他方でナラティヴには回収しえない些末な細部=瞬間に拘泥し、それらが相互にベンヤミン的な「星座」を取り結ぶ「シネマ」という大文字の理念を頑なに信じようとする。

 しかし、ポスト撮影所システム時代のすぐれて「歴史的産物」でもあったシネフィリー文化は、今日のポストメディウム的状況のなか、急速に消滅しつつある。実際、大学で映画を教えていても、いまやヒッチコックも小津も、ゴダールも見ていない学生の存在が当たり前なのだ。そして、そうした状況の裏面として、「シネフィリア研究」が世界的なトレンドになっていることも見逃せない。事実、日本でもここ数年続くある種の「映画批評ブーム」(?)のなかで、三浦哲哉の『映画とは何か』(筑摩選書、2014年)にせよ、石岡、三浦らの討議集『オーバー・ザ・シネマ』(フィルムアート社、2018年)にせよ、廣瀬純の『シネマの大義』(フィルムアート社、2017年)にせよ、あるいは「「シネフィルである事」が、またOKになりつつある」という至言が記された菊地成孔の『菊地成孔の欧米休憩タイム』(blueprint、2017年)にせよ、注目すべき大部の著作は大なり小なり、総じてこの「シネフィリー」の問題を示しあわせたかのようにあつかっているとさえいえる。

 あるいは、それは批評や学術研究の分野のみならず、近年の話題作のモティーフにも深くかかわっているようにも思える。たとえば、ここでひとつ、別の作品を取りあげれば、リー・アンクリッチ監督のディズニー/ピクサーの新作アニメーション映画『リメンバー・ミー Coco』(2017年)。その邦題通り「忘却と想起」を主題としたこのアニメーションは、音楽好きの主人公の少年の曽祖母のほとんど薄れかけた「父の記憶」の想起が、失われた大切な家族の絆を呼び起こす物語であった。

 知られるように、クリストファー・ノーランから岩井俊二、近年の新海誠にいたるまで、「記憶喪失の物語」は21世紀以降の映画で手を替え品を替え作られ続けており、しかもそれは映像のディジタル化による映画史の身体的記憶の喪失という今日的事態と明らかに隠喩的に結びついていた。3D化したディズニー/ピクサーもまた、『ファインディング・ドリー Finding Dory』(2016年)以来、同種の問題意識と自覚的に向きあってきたといえる(「あたしはドリー。なんでもすぐ忘れちゃうの……」)。

 そして、『リメンバー・ミー』がきわめて興味深かったのは、その「父の記憶」=大文字の映画史の記憶を呼び戻すきっかけとなるのが、表象=視覚的記憶ではなく、音楽=聴覚的記憶のほうであったことだ。曽祖母ココは老化による視力の低下もあり、父の顔の部分が破れた昔の家族写真をいくら見せられても、あれほど大好きだった父を思いだすことができない。物語の最後で彼女が父の記憶をついに取り戻すのは、父の歌っていた曲「リメンバー・ミー」を耳にし、そのメロディー、リズムに身体を揺らすことによってである。今日において、過去の大文字の記憶を呼び覚ますのは、もはや視覚的な表象のアーカイヴではなく、むしろ(触覚性ともつうじる)身体的な情動性の喚起ではないか……『リメンバー・ミー』が投げかけていたのは、おそらくこうした「ポスト・シネフィリー的」な問いであった。

「シネマ」としてのオアシス


 話を戻そう。『レディ・プレイヤー1』でスピルバーグが描いていたのも、図らずもまさにこうしたポスト・シネフィリー的な問題であったのではないだろうか。

 ここでまた、本作が重要な参照項としてきた80年代という時代の意味が不意に浮かびあがってくるだろう。知られるように、この時代は家庭用ビデオデッキが先進諸国で普及し、ひとびとが過去の膨大な映像資料に簡単にアクセスできるようになったことで、「消費文化と結託した教養主義」が一挙に花開いた。日本におけるシネフィル文化やオタク文化、あるいはアメリカのギーク文化も基本的にはそうした文化的インフラの整備に基づいている[★11]

 そう、ここで注目に値するのが、『レディ・プレイヤー1』に登場するオアシス内部にあるアーカイヴ施設「ハリデー年鑑」のもつ意味である。ここはハリデーの生涯にかんするあらゆるデータや映像資料がログ化され、万人に公開されているのだ。しかし肝なのは、ウェイド/パーシヴァルが語るところによると、いまでは館内はすっかり閑散としており、訪れるのは、もはやかれのような少数の奇特なハリデーオタクしかいないのだという点である。そして、ウェイド/パーシヴァルはだれもいないハリデー年鑑のなかでかれの頭に記憶されているハリデーのトリビアを渉猟し、なおかつ映像として記録されているハリデーの言動の細部に耳目を凝らしながら、イースターエッグの鍵のヒントを見つけてゆくのだ。

 結論からいうと、『レディ・プレイヤー1』で登場するハリデー年鑑とは、いわばゲームに仮託された、大文字の映画史的記憶のアーカイヴの隠喩であり、またそれにたったひとり拘泥する「遅れてきたオタク=教養主義者」ウェイド/パーシヴァルの姿とは、アナクロニックなシネフィル(あるいはオタク第一世代?)のそれとして見立てることが可能だろう。ハリデーの映像を何度も巻き戻して凝視するウェイド/パーシヴァルの身振りは、まさにビデオでホークスやルビッチの画面を繰りかえし観る(いまではほぼ絶滅した)80年代のシネフィルの姿そのものではないか? このわたしの見立ては、監督のスピルバーグが、スコセッシやフランシス・フォード・コッポラなどとともにハリウッドにおけるシネフィルの先駆的世代であり、また、作中のハリデーも『ハエ男の恐怖 The Fly』(1958年)のリメイク(1986年の『ザ・フライ The Fly』)を映画館に観に行くなど、(シネフィルというより、『映画秘宝』的なマニアだが)筋金入りの映画オタクとしても描かれている点からも、あながち的外れとはいい切れないはずだ。というより、ハリデーこそ、ウェイドにとっていわば「大文字のシネマの理念」を体現する存在なのだ。そのように見ると、表面的にはあからさまにアップルのスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックをモデルにしている、ハリデーとかれの親友でグレガリアス社の共同創業者であるオグデン・モロー(サイモン・ペッグ)の人相が、むしろヌーヴェル・ヴァーグの立役者でシネフィル精神を体現したジャン=リュック・ゴダールとフランソワ・トリュフォーのコンビにこそ似ている気がしてくる(このふたりも片方のトリュフォーは早世したし、かれはスピルバーグの『未知との遭遇』に出演している)。

 ただ、だとすると、「オアシス世界への拘泥」=シネフィリー的倫理からある程度決別し、「いまここの現実を生きよ」というメッセージを力強く発する『レディ・プレイヤー1』のスピルバーグの結論は、いささか単純かつ保守的に映らなくもないこともたしかだ。

 ともあれ、スピルバーグの『レディ・プレイヤー1』が貴重なのは、その題材や演出に打ちだされた、映画以後の新たな「画面」の可能性を指し示しているのと同時に、じつは今日における「シネマ」の運命にもひそかに眼を向けているその矛盾、両義性にある。物語の最後、ウェイド/パーシヴァルが少年時代の幻影とともに現れたハリデーに静かに語りかける。「あなたは本当に死んだの?」と。ハリデーはその問いには答えず、笑みを浮かべながら、VR空間の向こうに消えてゆく。表象=現前性の死としてのスクリーンと、衰滅せずにディジタル化した無限の生をまとうインターフェイスという対照的なふたつの「画面」のあわいで特異な光を放つポストシネマの姿を、スピルバーグとハリデーの微笑みがかたどっているように、少なくともわたしには思えるのである。

 


★1 とはいえ、80年代の大量記号消費社会のアイコンが溢れかえる『レディ・プレイヤー1』の世界は、人新世的世界観というよりも、より正確にはダナ・ハラウェイらが提起するような、人類の近代消費文明が生態系にもたらす地質的影響を示す「資本新世 Capitalocene」的なそれと捉えたほうが適切だろう。資本新世については、たとえば以下を参照。ダナ・ハラウェイ「人新世、資本新世、植民新世、クトゥルー新世──類縁関係をつくる」(高橋さきの訳)、『現代思想』12月号、青土社、2017年、99-109頁。クリストフ・ボヌイユ&ジャン=バティスト・フレソズ『人新世とは何か──〈地球と人類の時代〉の思想史』野坂しおり訳、青土社、2018年、第10章。
★2 『レディ・プレイヤー1』のなかでもっとも「触覚的」なイメージは、おそらくダンスクラブでアルテミスと踊るパーシヴァル/ウェイドが、VRシーツをかいして下腹部を含む身体のいたるところを彼女に刺激される、いささかエロティックな場面だろう。「VR専用アダルトビデオ」など近年のポルノメディアを想起させるシーンだが、たとえばシネマトグラフ登場以前の手回し式のピープ(覗き)メディア「ミュートスコープ」は、その身振りからも、早くから男性のマスターベーションなどポルノグラフィックなニュアンスとともに喧伝されていた。「触視的」映像メディアとポルノの関係はそれ自体重要な問題系だが、当該のシーンもそれを暗示させる。ミュートスコープのポルノ的受容については、たとえばエルキ・フータモ『メディア考古学──過去・現在・未来の対話のために』太田純貴編訳、NTT出版、2015年、130-131頁を参照。
★3 デイヴィッド・ボードウェルは同様の事態(ロングテイク化とショットの増加)を、「強化されたコンティニュイティ intensified continuity」とも呼んでいる。 David Bordwell, 〝Intensified Continuity: Visual Style in Contemporary American Film〟, in Film Quarterly 55:3, 2002, pp.16-28. また、同様の論点は、現在、話題を集めているインド映画『バーフバリ Baahubali』2部作(2015、17年)について論じた近刊の拙論でも論じた。拙稿「『バーフバリ』の「不純な画面」──あるいは「インド映画化」する現代?」、『ユリイカ』6月号、青土社、2018年5月末刊行予定。
★4 ブラニガンは、「反擬人的キャメラ」の特徴を、「奇抜なアングル、超高速パン、不可能なキャメラ位置およびキャメラワーク」とまとめている。以下を参照。 Edward Branigan, Projecting a Camera: Language-Games in Film Theory, Routledge, 2006, p.39.
★5 この現代映画における「切り返しショットの消失」という事態に絡んで興味深い事例に、白石晃士演出のテレビドラマ『ミュージアム ‐序章‐』(2016年)におけるスマートフォンを使った演出が挙げられる。いわゆる「擬似ドキュメンタリー」の作り手で知られる白石は、この作品でも「主人公が手にもったスマートフォンのインキャメラで撮影した映像」という同種の体裁で物語を展開しているのだが、このなかでかれは通常の映画の切り返し(的)ショットを、スマホキャメラの自撮り(セルフィー)撮影用の画像の反転機能を用いて表現しているのだ。こうした表現も、きわめてポストキャメラ的なものである。ちなみに、トークイベントで白石自身がわたしに語ったところだと、このセルフィー的な映像演出は、実際のスマホでの撮影時には使えず、あとから加工で再現したものだという(白石晃士・三宅隆太・渡邉大輔「ホラー表現と物語」、於・ゲンロンカフェ、2018年4月10日)。
★6 たとえば、拙稿「キャメラアイの多視点化=多自然化」、『現代思想』3月臨時増刊号、青土社、2018年。
★7 石岡良治・三浦哲哉『オーバー・ザ・シネマ 映画「超」討議』フィルムアート社、2018年、285-286、290頁。
★8 同前、305-307頁。
★9 同前、309頁。
★10 石岡良治『視覚文化「超」講義』フィルムアート社、2014年、66頁。ちなみに、石岡は音楽のプロモーション・ビデオがはらむ「ガジェット性」にも触れている(同書、143-147頁)。
★11 シネフィル文化を担った蓮實重彦と山田宏一が監修を務めた伝説的なVHS企画『リュミエール・シネマテーク』全10巻が発売されたのが80年代であり、また氷川竜介によれば、80年代におけるアニメオタクの登場も、家庭用ビデオデッキの普及によるテレビアニメの反復視聴が可能になったことが要因だとされる(『アニメ100年ハンドブック』参照)。あるいは、サブカル世代論的にも、シネフィル世代の中心(青山真治ら)とオタク第1世代(庵野秀明ら)はほぼ重なっている。
 
『新記号論』『新写真論』に続く、メディア・スタディーズ第3弾

ゲンロン叢書|010
『新映画論──ポストシネマ』
渡邉大輔 著

¥3,300(税込)|四六判・並製|本体480頁|2022/2/7刊行

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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