ポスト・シネマ・クリティーク(5) 60年後の『太陽の季節』──真利子哲也監督『ディストラクション・ベイビーズ』|渡邉大輔

初出:2016年5月13日刊行『ゲンロンβ2』
不穏な背中
くすぶった朝の空気のなか、うらさびれた店が左右に建ち並ぶ狭い路地をキャメラに背を向けたひとりの若い作業服の男が歩いている。
いい知れぬ不穏さが立ち昇る男の背中の向こうに、やがてギターを背負ったミュージシャンふうの男が前方を歩いているのが眼にはいる。その男を視界に捉えるやいなや、突如、作業服の男がうしろから音もなく襲いかかり、路上に激しく殴り倒す。一瞬、虚を突かれ、もんどりうって倒れこんだ男もまた、激昂して作業服の男を殴りかえし、朝靄につつまれた郊外の路地は瞬く間に闘技場と化してゆく……。
本作の主人公である、この汚れた青い作業服の青年、芦原泰良を演じる柳楽優弥の少し丸まった背中がスクリーンいっぱいに現れた瞬間、観客の身中には、──それこそ脊髄反射的に──真利子哲也の映画を観たときの、あの濃密で、じわっと熱い情動がふつふつと滾るのをたしかに感じるだろう。たとえば、長編デビュー作『イエローキッド』(09年)の冒頭の遠藤要にせよ、あるいは短編『NINIFUNI』(11年)の冒頭の宮崎将にせよ、つねに狂気すら漂わせる暴力的な衝迫に裏打ちされた真利子の物語を起動させてきたのは、いずれもこの男たちの不穏な背中だったからだ。
突発する暴力
『ディストラクション・ベイビーズ』(以下『DB』、16年)は、ゼロ年代以降、インディペンデント映画シーンで絶えず話題を振りまいてきた新鋭・真利子哲也の待望のメジャーデビュー作である。
物語の舞台は、愛媛県松山市の小さな港町。海沿いにたたずむプレハブ作りの造船所には、泰良と将太(村上虹郎)の若い兄弟がふたりで暮らしている。兄の泰良は、毎日、地元の青年たちと無軌道な喧嘩を繰りかえし、ある日を境に姿を消してしまった。残された将太は兄の行方を捜し回るが、それからしばらくのち、松山の中心街では、泰良が闘争本能のみ突出した野獣のように、道行く通行人たちを誰彼かまわず無言で殴り倒してゆく姿が目撃されつつあった。そして、そんな目撃者のなかのひとり、高校生の北原裕也(菅田将暉)は驚きつつも、次第に泰良の異形のオーラとカリスマ性に魅了されてゆく。泰良と組み、そのストリート・ファイトをスマホ動画で撮影しながら、街を徘徊する「危険な遊び」にはまりこんでゆく裕也は、キャバクラで働く万引き癖のある少女、那奈(小松菜奈)を盗んだ車で誘拐し、夜の逃避行へ繰りだす……。
『DB』で終始観客の眼を引くのは、やはり何といっても、主演の柳楽が演じる主人公の異形のキャラクター造型とその暴力シーンの演出だろう。映画冒頭の少年の集団や、さきに掲げたミュージシャンとの路上での喧嘩にはじまり、泰良は本作の全編にわたってその視界にはいる人間すべてを──かれ自身が何度殴られ、倒されてもゾンビのように起きあがり──ほとんど無根拠・無目的・無秩序に拳で殴り倒してゆく。実際、映画で柳楽は冒頭からおよそ45分間、ひとことも台詞を発しない(!)。
他方、真利子はそうした主人公のストリート・ファイトのシーンをほぼまったくカットを割らず、すべてを長回し、引きのショットで撮影する。『DB』には、かつての『ほぞ』(01年)、『極東のマンション』(03年)、『マリコ三十騎』(04年)などの習作的短編からはじまり、『ラッシュライフ(河原崎篇)』(09年)、『イエローキッド』、『NINIFUNI』の近作にいたる、突発的かつ情動的な「暴力性」や「身体性」の強調という真利子的なモティーフがきわめて凝縮したかたちで表れているのだ。
「ポストゼロ年代作家」としての真利子哲也
ところで、ここ数回ほど邦画作品が続いていながら、なぜまた今回もあえてこの同様の現代日本の若手作家の作品を取りあげたのかといえば、この真利子という作家の、既存の映画批評の言説ではけっして語られることがない、ゼロ年代以降の文化表現全体から見た時代的並行性の重要さについてあらためて注意をうながしておきたいからだ。
もとより、真利子哲也は、おそらくこれまでわたしがもっとも多く論じ、言及してきた映画作家のひとりである(2012年には一度、イベントでも共演した)。1981年生まれの真利子にわたしが注目しはじめたのはゼロ年代の後半からだったが、その世代的近さ(1歳違い)とも相俟って衝撃を受けたのは、やはり初期からかれのフィルムに一貫して見られた情動的な「暴力性」のモティーフがはらむ、いわば同時代の「ゼロ年代カルチャー」との思わぬ親近性であった。
たとえば、現在でもほとんど上映される機会がないだろう、『ほぞ』という処女作がある。真利子が19歳から20歳にかけて撮られたこのわずか15分あまりのドキュメンタリーと映像詩が掛けあわさったような短編では、すでに観る者の瞳を戦慄させる圧倒的な暴力が描かれる。このなかでは、大学構内の(おそらく)部室かロッカー室のような密閉空間で手足を縛られ椅子に括りつけられた真利子が、数人の男に凄まじいリンチを受ける様子が第三者のキャメラで記録されている。そこでの真利子は殴られて大きく腫れあがった顔面から大量の血をポタポタと流し、男たちによってそこにかけられたビールが助長させる激痛に身をよじらせ、激しく絶叫する。真利子がこの映像のなかで受けているリンチ行為がほぼ確実に演技やメーキャップ効果などではないことは、男たちにうながされるかたちで自らの腕を業務用カッターで何度も切りつける様子をクロースアップで捉える異様な映像からも明らかだ。
何にせよ、この『ほぞ』が与える生々しいリアリティ(痛みや不快感)には、他方で当時、まさにわたしやかれと同世代の佐藤友哉や西尾維新といった若手作家たちが『フリッカー式』(01年)や『クビシメロマンチスト』(02年)といった小説作品で描いていた、あの幾重にも屈折した自意識の表出や、「ポスト・エヴァ」=「セカイ系的」と形容してもよい世界観と共通する何かがあったように思う。
当時、「ファウスト系」などと呼ばれたかれら若手作家たちの(とりわけ初期の)作品群では、たとえば佐藤の「鏡家サーガ」にせよ、西尾の「戯言シリーズ」にせよ、本格ミステリの意匠を借りて、いわゆる社会領域の描写がぽっかりと抜け落ちる一方、思春期特有の純化されたトラウマ自意識が、ときに鬱屈した暴力衝動とともに一人称で描かれた。それらは90年代の世紀末的リアリティを背景にゼロ年代前半に台頭していた想像力だったが、『ほぞ』で20歳の真利子が打ちだしていた強烈な閉塞感や理由のない暴力衝動にも非常に近い感覚を与えるものがあった。
すなわち、『DB』の暴力描写の一端には、おそらくはこうしたゼロ年代以降の注目すべき文化表現全体の時代的変遷や記憶が厚みをなして広がっている。そのことには注意しておいてよいだろう。
「太陽族映画」の再来?
いずれにせよ、多くの傑作がそうであるように、『DB』の物語世界もまた、前節で述べたゼロ年代文学との同時代的な通底ぶりのほかにも、わたしにさまざまな過去の物語的記憶との鮮やかな結びつきを想起させる。たとえば、海と山に囲まれた松山の情景や土着的で始原的な若さや暴力のイメージは、どこか(ここ最近の日本映画の主題やルックをいたるところで規定しているようにも思える)中上健次的な風土すら思わせ、これが商業デビューとなった真利子の映画世界に「文学的」な格調を与えている。
とはいえ、「文学的」な感触という点では、思うに、その中上の小説の文体にも少なからぬ影響を与えたとされるひとりの戦後派作家の名前と、その代表作が生みだした戦後日本映画のいちジャンルが思い浮かぶだろう。石原慎太郎と、かれの「太陽の季節」(55年)にはじまる50年代のいわゆる「太陽族映画」である。
周知のように、この石原の短編小説は、かれが当時最年少で芥川賞を受賞し、一躍メディアの寵児となった出世作である。そして、戦後世代の男女の無軌道な「性と暴力」をセンセーショナルに描いたこの小説は、未曽有の黄金時代を迎えていた当時の日本映画界において、翌年すぐさま映画化されたのみならず、その後、石原の同種の作品が続々と映画化され、俗に「太陽族」と呼ばれる社会現象を巻き起こすまでになった。
わたしの見立てでは、この50年代の一連の太陽族映画を『DB』の傍らに置いてみるとき、本作が現代日本映画のなかで示している固有の位相が明らかになってくると思われる。いわば『DB』とは、ちょうど60年を隔てて、今日の21世紀世界に再来した、「もうひとつの太陽族映画」だともいえるのだ。
たとえば試みに、太陽族映画の嚆矢となった古川卓巳監督『太陽の季節』や中平康監督『狂った果実』(いずれも56年)と比較してみよう。「価値紊乱者の栄光」(石原)を高らかに謳いあげるかのような、レイプや集団リンチといった若者のハードボイルドかつ煽情的な暴力描写の氾濫といういかにも真利子的な主題性のみならず、ほかにも港と船という舞台装置や、「兄弟の物語」(『DB』の泰良と将太と、『太陽の季節』の竜哉と道久、『狂った果実』の夏久と春次)であるといったいくつかの点で、両者の作品世界には明らかな並行性が認められる。過去作の『イエローキッド』で登場したボクシングもまた、いかにも石原=太陽族映画的な道具立てだ。
そして、それは作中、那奈が後部座席に乗った車の運転手を泰良と裕也が襲撃し、そのまま車ごと那奈を拉致して喧嘩巡りに出発するシークエンスで文字通り具体的に示されることになる。かれらが襲撃する夜の駐車場の鉄柵の、車道を隔てた画面奥に広がる闇には、煌々と赤い色のネオンで、「Belami Building」という、いかにもホモソーシャルな隠喩を秘めたサインがはっきりと浮かびあがっているからだ。そう、『太陽の季節』で主人公の津川竜哉(長門裕之)と兄の道久(三島耕)が乗るヨットの名前にも「BELAMI」(「美しい男友達」を意味するモーパッサンの小説『ベラミ(Bel-Ami)』から名づけられている)の文字があてがわれていたのである[★1]。そして、何より──おそらくこれがもっとも重要な点なのだが、太陽族映画も『DB』も、その青年像をつうじてその時代固有の「脱社会的存在」(宮台真司)の雛型を提示している。
「脱社会的存在」の20世紀/21世紀
さて、以上のように1956年の太陽族映画と2016年の『DB』のあいだに巨細にわたる通底ぶりが認められるとして、後者を前者の視点からあらためて照射した場合、本連載の問題意識からそこにどのような論点が読み取れるだろうか。おそらくそれは、20世紀と21世紀それぞれの主体性の差異にかかわってくる。
たとえば、これもよくいわれることだが、60年前の太陽族映画ブームとは、まさに同年の『経済白書』にいう「もはや戦後ではない」という文言が象徴的に示していた、その後の高度経済成長に伴う20世紀後半の日本の都市化=大衆消費社会化の到来を体現する動向であった。すなわち、石原が小説で創出した太陽族青年たちのかかえる怒りや鬱屈、無根拠・無目的な暴力性とは、いうなればこうした戦後昭和の都市化=大衆消費社会化によって日本でも完成した、20世紀型の社会モデルの本質を裏側から照射している。
60年代の高度経済成長によって実現する戦後日本社会とは、いっけんしたところ19世紀西欧社会が理想化した民主的な憲法体制が整備され、再分配システムを国家の社会福祉政策が保障し、あまつさえアメリカニズム的な大量生産・大量消費経済が浸透した「ゆたかな社会」(ガルブレイス)として発展した。しかしながら、その福祉国家=「ゆたかな社会」は、山之内靖から笠井潔まですでに多くの論者が指摘するように、実質的には20世紀前半の総力戦体制の台頭以降に全面化した、19世紀的な憲法秩序と法的支配の無底性が露わになる「例外状態」を国家がつねにすでに構造化することによって成立していた(したがって、アメリカニズムとナチズム、ボリシェヴィズムは20世紀的な社会システムにおいて、それぞれに表裏一体となる)。
つまり、太陽族的な主体性のはらむ本源的な暴力とは、いわばそうした20世紀的な「ゆたかな社会」が内包していた例外状態=脱社会性の精妙なアレゴリーとなっているわけだ。最近発表した拙論でも論じたように[★2]、『太陽の季節』や『狂った果実』、市川崑監督『処刑の部屋』(56年)といった太陽族映画がいちように描く行動的ニヒリズムは、そうした20世紀的な空虚さを如実に体現しているだろう。
何にせよ、他方で『DB』において柳楽が演じた泰良が身にまとう暴力性は、しかし、それとはやはり決定的に異なっているといえる[★3]。50年代の太陽族青年たちの「例外性」には、たとえば父親を殴りつける『太陽の季節』の主人公にせよ、あるいは女学生をレイプする『処刑の部屋』の主人公にせよ、かれらがそこから逸脱/対抗しようとする戦前から続く社会的な制度や慣習が確固とした対立項として存在していた。なるほど、だからこそ太陽族青年たちは社会や家族にどんなに反抗的な態度を取ろうと、結局は、両親たちが住む家や学校から出てゆくことはない。その意味ではかれらもまた、ひとまずは近代的な公共圏や国家に内在する「外部」であったといえる。
ところが、21世紀に生きる泰良の場合、そうした近代社会に構造化されていた「外部」や「例外性」自体がもはや社会全体にとめどもなく拡散し、流動化してしまっているという現状を前提に造型されていることがわかる。造船所から失踪して以来、ふたたび松山市中に出没し、以後、全編をつうじて喧嘩を繰りかえす泰良について、映画は冒頭近くでホームレスのように公園のゴミを漁る姿を一瞬描いた以外は、かれが日々どのようにして生きているのか、いっさい説明しようとしない。そして、さきにも記したように、泰良は作中ではほぼ言葉を発さず、他人とほぼコミュニケーションを取ろうとしないのである。何の目的や根拠もなく、一種の「戦争機械」(ドゥルーズ&ガタリ)と化して、泰良は徹頭徹尾郊外化した日常空間に暴力の亀裂を入れて徘徊する。
泰良は明らかに、かつての太陽族青年たち以上に、あらゆる公共圏や社会的秩序から排除された存在として屹立しているのだ。すなわち、『DB』における泰良はまさに21世紀的なグローバル資本主義が産み落とした脱社会的存在=例外人として表象されているといってよい。たとえば、その見立てを象徴しているのが、作中のいたるところで撮影され、物語世界に氾濫する「泰良の映像群」だ。泰良のカリスマに魅了され、つるむことにした裕也は、泰良の通り魔的なストリート・ファイトに同行しながら、その様子をスマートフォンの動画で撮影し、端からネットにアップしてゆく。また、アーケードに設置された監視キャメラもまた、ふたりの暴行を記録し、その映像がテレビのニュースで流される。映画でも、おそらく実際に菅田将暉が撮影したスマホ動画がそのままインサートされているのだが、こうした無数の泰良の姿を写した動画群がネットやSNSをつうじて拡散し、ひとびとの生活圏を覆っていくのだ。
すなわち真利子は、こうした「映像の例外状態」に仮託して、泰良の身体のグローバル資本主義的な脱社会性を暗示しているのだといえよう。また、この点において、本作のクライマックスに位置する自動車の疾走シーンも時代的な意味をもつ。というのも、チキンレースに象徴されるような「速度」に魅了される心性は、未来派からジェームズ・ディーン、あるいはラカン的享楽にいたるまで、まさにすぐれて20世紀(青年)的なものであった。その疾走シーンがたどる本作の陰惨な末路は、『DB』的な主体性が、そこからは決定的に隔たってしまっていることの証左として機能しているだろう。
かつてジル・ドゥルーズは、現代の「政治的」な映画の本質は、古典的映画の時代においては確固として現前していた民衆が「欠けていること」だと定義した(『シネマ2*時間イメージ』)。つまり、そこでいわれる民衆の「欠如」とは、マルチチュードと化した民衆がいっさいの統一(領土化)から逸脱し、つねにすでに「マイナー」な身分をまとっていることだとされる。
繰りかえすように、泰良は、殴られても殴られても何度でも立ちあがり道行く者を無根拠に殴ってゆく、あらゆる社会空間の「外部」そのものを体現するようなゾンビ的な主体性である。そんな何者も代理=表象しない「例外人」としてのかれの姿もまた、同時に周囲の人間たちや監視キャメラなどのインフラによって絶えず分子状の動画に記録され、その映像の群れはのっぺりとした情報環境のなかで統合されることなくたゆたい続けるだろう。その意味で、泰良の異形の暴力は徹頭徹尾「マイナー」なものである。そのマイナー性は、作中の通常のショットシークエンスの連続のなかに、不意に、前後の映像から浮いて挿入される裕也が撮影したディジタル画質のスマホ動画の例外性に端的に象徴されている。この点において『DB』が現代の日本映画に新たな「政治性」の地平をもたらしたことは疑いを容れないのである。
★1 この描写は、原作小説、映画版双方に登場する。「兄弟は例年通り、ヨットの船名を書く段になって口論した。彼等は毎年船の名前を変えるのだ。[中略]結局順番で今年は道久が、フランス小説家の紀行記から借りて来たBELAMIに決められた」(石原慎太郎「太陽の季節」、『太陽の季節』新潮文庫、1957年、52頁)。
★2 拙稿「石原慎太郎と『映画』の時代」、『ユリイカ』5月号、青土社、2016年、189‐197頁。
★3 その意味で、『DB』の主題との比較からも興味深いフィルムが、デヴィッド・フィンチャー監督の『ファイト・クラブ Fight Club』(99年)だろう。この映画もまた、ストリート・ファイトがテーマであり、現代のモノ中心の消費主義を批判し、いわば一種のバタイユ主義(無目的な肉体の蕩尽)を標榜している。本作はグローバリゼーション時代の脱社会的存在を描いた端境期の映画だといえる。


渡邉大輔
1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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