ポスト・シネマ・クリティーク(20)「ファジー・ウォー」のポストシネマ性 クリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』|渡邉大輔

初出:2017年10月20日刊行『ゲンロンβ18』
三つの視点からたどる戦争の史実
すべての物語が終わったあと、この映画作家のエムブレムともいってよいだろう、映画の冒頭部分と同じく、真っ黒いヴィスタサイズの画面に、いくつかのクレジットとハンス・ジマーによる重低音の音楽に続いて映画のタイトルが白抜きの端正な文字でゆっくりと浮かびあがる。
スクリーンを眺める観客は、そのすでによく見慣れた画面の少し前、物語の主要な舞台のひとつとなった、鉛色の曇天の空の下に広がる広大な砂浜のうえに、びっしりと転がったいくつものヘルメットを眼にする。まるで小さな亀の群れが身体を休めるように画面のはるか奥まで続くヘルメットの絨毯。その光景は、それらをかつてかぶっていただろう、個々の兵士たちの固有の容貌をこの世界から引き剥がし、そのままかれらをのっぺりとした匿名性の時空へと連れ去ってしまったかのようだ。
クリストファー・ノーランの3年ぶりの監督作が公開された。第10作にして、かれがはじめて史実を題材にした『ダンケルク Dunkirk』(2017年)は、これまでもたびたび映画化されてきた、第2次世界大戦の西部戦線におけるいわゆる「ダンケルクの戦い」を、連合軍(英仏軍)の大規模撤退作戦(「ダンケルク大撤退」や「ダイナモ作戦」と呼ばれる)を中心に描いた戦争サスペンスである。
ダンケルクの戦いとは、1940年の5月下旬から6月初旬までの10日間ほど、フランス最北端の港町ダンケルクにおいて起きた戦闘である。フランスに侵攻してきたナチス率いるドイツ軍の攻勢から逃れるため、沿岸部に追い詰められた英仏軍が行った一連の防戦とイギリス本国への撤退戦を指す。この戦闘のさなか、英仏軍の約40万人の将兵たちが、駆逐艦や大型の輸送船はもちろん、民間の小さな貨物船や漁船までをも動員して、大規模撤退を敢行した。この奇跡的な撤退・救出劇は、ノーランの故国イギリスではいまも愛国心を鼓舞する逸話として語り伝えられている。
映画は、冒頭でダンケルクの戦いの概要をごく簡単な字幕で説明したあと、画面に浮かびあがる字幕とともに、3つの異なったシチュエーションを順に示す。最初の「防波堤:一週間の出来事」では、人気のない街の大通りを数人の分隊と歩いていたイギリス陸軍の若き2等兵トミー(フィン・ホワイトヘッド)が突如、市街戦に遭遇する場面からはじまる。ドイツ軍の銃撃からひとり逃れ、トミーはダンケルクの砂浜にたどり着くが、そこでは足止めを食らった膨大な数の兵士たちが、救出のための船舶を待って長い行列を作っていた。トミーは浜辺や防波堤で出会ったギブソン(アナイリン・バーナード)、アレックス(ハリー・スタイルズ)らとともに、間一髪でなんとか掃海艇に乗りこむことに成功する。続いて、「海:一日の出来事」では、ところ変わってイギリス本土、ダンケルクに取り残された同胞たちを救出するため、イギリス海軍が民間船を徴用している。小型のプレジャーボートの船長で愛国心溢れるドーソン(マーク・ライランス)は、19歳の息子ピーター(トム・グリン゠カーニー)とその友人ジョージ(バリー・コーガン)のふたりの若者とともにダンケルクを目指して船出する。そして3つめの「空:一時間の出来事」では、今度は広大な海のうえ、ダンケルクの大撤退を支援するため、イギリス空軍の3つの戦闘機スーパーマリンスピットファイアが飛行している。ドイツ空軍との空中戦の末、隊長機が撃墜されるが、残ったファリア(トム・ハーディ)とコリンズ(ジャック・ロウデン)という若きパイロットたちは、燃料計の故障にもかかわらず飛び続ける。
『ダンケルク』では、これら冒頭で示されたトミー、ドーソン、ファリアをさしあたりの主人公とする陸・海・空の3つの物語が、戦場を再現する迫真の映像・音響表現と、ひたすらディテールを積み重ねる演出で、交互に描かれてゆく。
「ファニー・ウォー」ならぬ「ファジー・ウォー」?
『ダンケルク』はいっけんして、──この監督の多くの作品がそうであるように──「奇妙」な戦争映画である。
何が奇妙なのか。それは本作全体の語り口がかかえる、圧倒的な「ファジーさ」にある。本作では、西部戦線で名高い史実を映画体験として限りなく忠実に再現することを試みているにもかかわらず──あるいはだからこそ、物語やシチュエーション、また俳優が演じるキャラクターの描写といった映画のさまざまな構成要素において、本来こめられるべき全体性や統一性、もしくはあるいは連続性や固有性などの世界観を枠づける確固としたまとまりが徹底して欠如している。映画全体がもとからバラバラに分解されていて、それを眺める観客も、自分たちがいったいどこに連れて行かれるのかわからなくなるような感覚があるのだ。
この独特の感覚をより深くたしかめるために、本作を論じるさまざまな批評家がすでにそのタイトルに言及しているが、やはりここでもスティーヴン・スピルバーグの『プライベート・ライアン Saving Private Ryan』(1998年)との比較検討が有益となるはずである。『ダンケルク』はその圧倒的にリアルな戦場の視聴覚体験が喧伝されているが、知られるように、もとよりノルマンディー上陸作戦を題材にした『プライベート・ライアン』もまた、そうした今日の戦争映画のリアリティ描写に画期をもたらした作品だと評価されている。実際にノーランは『ダンケルク』の撮影前に本作を見直したことをインタビューで明かしているが[★1]、しかしこの2本はさまざまな意味でじつに対照的な戦争映画だろう。
『新記号論』『新写真論』に続く、メディア・スタディーズ第3弾


渡邉大輔
1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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