ポスト・シネマ・クリティーク(17) 人魚の(原形質的な)踊り――湯浅政明監督『夜明け告げるルーのうた』|渡邉大輔

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初出:2017年6月16日刊行『ゲンロンβ15』

「国産アニメ100年」に届いた鬼才待望の新作


 画面上方に水平線が大きく開け、その下に幾重にも白い波頭がつぎつぎに立ちあがる海が、日光に照らされてエメラルドグリーンに輝いている。白い波のしぶきに乗って、画面手前に小さい赤ん坊の人魚が何匹も楽しそうに現れる。群れをなす人魚たちは海面から顔を出す岩場にたどり着くと、その周辺を恰好の遊び場にして、身体の周りにまといつく泡を転がしたり、たがいに水鉄砲を掛けあったり、それぞれにはしゃぎあっている。やがてなにかに気づいたように水に頭から潜りこむと、そのままなめらかに列をなして海底へと降りてゆく。すると、そこにはさまざまな海中生物たちによる、サーカス団のようなパレードが始まろうとしていた。

 ……と、ひとつのシーンの描写から始めたが、さしあたりは今回の作品を紹介しておこう。人間の少年と幼い人魚の少女との交流を描いたアニメーション映画『夜明け告げるルーのうた』(2017年)は、本作に先立つ4月に公開された『夜は短し歩けよ乙女』(2017年)に続く、湯浅政明の長編アニメーション映画監督第3作である。湯浅といえば、とりわけ90年代初頭から『ちびまる子ちゃん』(1990年‐)や『クレヨンしんちゃん』(1993年‐)など人気アニメ作品の劇場版シリーズには欠かせないアニメーターとして参加してきたが、長編アニメーション映画の監督作品としては、2004年の『マインド・ゲーム』以来、じつに13年ぶりの新作となる。

 周知のように、昨年、記録的大ヒットを飛ばした新海誠監督の『君の名は。』(2016年)以降、国内の映画・アニメ業界ではオリジナル企画ものの空前の大ブームがにわかに到来している。この「アニメ映画ブーム」の流れは、おそらく2010年代中は続くだろう★1。国産アニメーション誕生からようやく100年を迎え、ついさきごろには宮崎駿の新作長編製作開始の報ももたらされた2017年もまた、すでに神山健治の新作が公開されたほか、今後も米林宏昌や新房昭之ら注目の監督たちの新作が待機している。そんななか、現在、地味ながら話題を呼んでいるのが、この2ヶ月で相次いで発表された、湯浅の2作の新作長編である。

『夜明け告げるルーのうた』(C)2017ルー製作委員会


ディジタルデバイスとのかかわり


 本作の物語の舞台となるのは、日無町(ひなしちょう)という裏寂れた小さな漁港の町。主人公の中学生・足元カイ(下田翔大)は、父の照夫(鈴村健一)と傘職人の祖父(柄本明)の3人で暮らしている。幼い頃には東京に住んでいたものの、両親の離婚により父の実家に引っ越してきたかれは、家族や友人たちから心を閉ざし、二階の自室に閉じこもって自作の楽曲をネットの動画サイトにアップロードすることを唯一の気晴らしにしている。カイの数少ない友人の国夫(斉藤壮馬)と遊歩(寿美菜子)は、ある日、かれを自分たちが組んでいるアマチュアバンド「セイレーン」に誘う。相変わらず気乗りのしないまま、バンドの練習場所である、巨大テーマパーク跡地のステージに行くと、かれらの奏でる音楽に誘われて、小さな人魚の少女が現れた。ルー(谷花音)と名乗る彼女は、音楽に乗って楽しそうに歌い踊る。そんなルーと出会ったことで、鬱屈としていたカイの心も少しずつ明るさを取り戻してゆく。しかし、じつは日無町では古来から人魚は人々に災いをもたらす存在として忌み嫌われていた。今回のルーの出現にせよ、当初は暖かく受け入れていた大人たちも彼女の存在を疎ましく思うようになる。それはやがて町中を巻きこむ大騒動へと発展するのだが……。
 さて、この連載で問題にしている今日の「ポストメディウム的/ポストシネマ的状況」に照らして、あらためて『ルー』を見てみよう。

 本作のモティーフや映像演出、製作形態のなかに映像のディジタル化に伴うポストシネマ的な痕跡を認めることは、さしあたりさほど難しくはない。たとえば、本作では開始早々、YouTubeを模した動画サイトの画面から音楽ソフトで制作した楽曲音が軽快に流れだすことにも明らかなとおり、カイの趣味であるノートパソコンでの楽曲制作をはじめ、全編にわたってディジタルデバイスやウェブプラットフォームが数多く登場する。

 主人公であるカイとルーが再会を果たすのも、カイが海に落としてしまったスマートフォンをルーが届けに来たことがきっかけであったし、なかでもとりわけ物語中盤のクライマックスとも言える慰霊のお祭りのシークエンスは、その最たる場面だろう。ここでは広い砂浜で踊るルーと音楽に乗せられて、お祭りに来ていた町の人々が全員思わず身体を振ってリズミカルに踊りだし、しかもその様子を撮影した動画が動画サイト上にアップロードされ、いわゆる「踊ってみた」の動画のように、ウェブ上にどんどん拡散されてゆく様子が描かれる。

「OP/ED映像的」、「踊ってみた的」


 以上のように、『ルー』では、主題歌である斉藤和義の代表作〈歌うたいのバラッド〉をはじめ、ときに物語の線的な進行を突き崩すほどに無数の楽曲や、それらを演奏し、狂乱して歌い踊るキャラクターたちの描写が頻出する。こうした音楽を伴ったダンスシーンは、先行する『夜は短し』の「詭弁踊り」の描写などにも共通する要素だ。ここでは湯浅の描くキャラクターたちは、いちように関節が外れたようにしてリズミカルにうごめく。有機的な全体性をことごとく脱臼されたかれらの身体は湯浅特有の幻惑的なパースによって捉えられ、音楽にあわせて自律的な意志を欠いたまま、うねうねくねくねと動きだす。いわばここで湯浅的キャラクターは、文字通りの意味で「器官なき身体」(ドゥルーズ&ガタリ)に還元されているといってよい。

 湯浅自身のアニメーターとしてのキャリアに即して言えば、こうした演出の数々は、知られるように、かれのごく初期の代表的な仕事であるテレビアニメ『ちびまる子ちゃん』(第1期は1990‐92年)の初代オープニング「ゆめいっぱい」や、初代エンディング「おどるポンポコリン」の作画から通底しているものだろう。アニメーターとしての湯浅は、ある意味で物語の連続的な展開よりも、むしろ伴奏音楽と映像双方をリズムにあわせてフラッシュ・カット的に心地よく同期させる作画や編集にこそ、積極的に意を用いるクリエイターなのだ。いわば湯浅のアニメ的感性には、本来的に「OP/ED映像的なもの」、あるいは「ミュージック・ビデオ的なもの」が一貫して伏在している★2。この点は、湯浅とほぼ同年代であり、同じく90年代初頭にミュージック・ビデオの演出から出発した岩井俊二が、昨今きわめて「ポストシネマ的」な映画作家としてあらためて注目を集めていることと考え併せてもきわめて示唆的である。

 なんにせよ、他方で、情報社会の進展を踏まえたメディア文化理論の文脈ではつとに指摘されてきたことだが、つねに広範なネットワークに紐づけられた今日のディジタルコンテンツにおいては、それらを制作/鑑賞するユーザ双方の身体的情動をスムースに惹起する「音楽的」な要素がきわめて重要な意味を担う。2016年に話題になった事例で言えば、「ピコ太郎」から「恋ダンス」までを思い起こせばわかりやすいだろうが、そこでは音楽やリズムがコンテンツや文化表現自体をスケーラブルに拡散させ、新たに創発させるプラットフォームの役割を担っているのだ。その意味で、『ルー』の音楽的な演出は、湯浅の創造的出自につうじる「OP/ED映像的なもの」の表れであると同時に、昨今の「踊ってみた」や「MMD」などにも連なるきわめて「ポストシネマ的」な慣習にも裏打ちされていると言えるだろう。
 さらにつけ加えれば、すでに多くの指摘があるように、『ルー』は先行する著名なアニメ作品を思わせる具体的細部がいたるところに認められる作品でもある。たとえば、「(ほぼ)片親の少年と人魚の少女との交流」や「大きな崖下の町」といった設定や描写は、宮崎駿の『崖の上のポニョ』(2008年)、また、ルーのパパ(篠原信一)のキャラクター造型や「洪水になった町」は、同じ宮崎の『となりのトトロ』(1988年)や高畑勲の『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』(1973年)、さらにルーがブランコに乗って遊ぶシーンは、これもテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』(1974年)を容易に髣髴とさせるだろう。またジブリ作品のみならず、キャラクターのペタッと塗られた「影なし作画」は細田守作品を思わせるし、あるいは神山健治の『ひるね姫 ~知らないワタシの物語~』(2017年)でも見られた「東京と地方」の対比や音楽的演出の前景化は、どこか『君の名は。』をも思わせる。こうした先行作品の細部をマッシュアップ的に見せる趣向も(監督の湯浅の意図がどうあれ)結果的に本作の印象を、ウェブ上で創発される動画コンテンツにきわめて接近させているようにも見えるのだ。

『夜明け告げるルーのうた』(C)2017ルー製作委員会


フラッシュ・アニメと原形質性


 以上に見てきたように、『ルー』は「ポストシネマ的」な環境に満たされている。あるいは、とりわけ以上に述べてきた物語上の趣向は、ほかならぬ本作の製作工程においても踏襲されている。そして、その点が図らずも、本作をアニメーションの表現史的にも興味深いイメージの系譜に呼びこんでいるのだ。

 じつは本作は、全編がいわゆるAdobe Flashを用いた「フラッシュ・アニメーション」で製作されている点で画期的な作品でもある。そもそも湯浅とかれが率いるスタジオ「サイエンスSARU」のスタッフは、これまでにも北米のテレビアニメ『アドベンチャー・タイム Adventure Time』の1エピソード「フードチェーン Food Chain」(2014年)や、テレビアニメ『ピンポン THE ANIMATION』(2014年)などの短編作品で、フラッシュによるディジタル作画表現を実験的に取り入れてきた。今回、劇場用長編作品としてははじめて全編、フラッシュ・アニメーションで製作を行ったわけだが、その結果、動画チェックから彩色にいたるまで、手描きの工程では煩雑であった作業や修正が格段にスムースになったという。

 ところで、本作でのフラッシュ・アニメートを手掛けたアニメーターのひとり、アベル・ゴンゴラは、本作の物語世界で重要な役割をもつ、海の水の特徴的な表現について、以下のように述べている。


 特に本作では、そういうところ〔註:滑らかな水の動きの表現〕にフラッシュのよさが表れていると思います。フラッシュ的には「シェイプトゥイーン」という機能があるんですね。これは、四角い物がだんだんと丸くなるようなモーフィングの処理を自動的に行ってくれる機能です。こういう形の水の塊が次はこんな形に変化すると認定すれば、その間の形を自動的に作ってくれるんですよ。だから本作ではゆらめくような水の表現が多用できたわけです。★3


 ここでゴンゴラが解説するように、終始、海辺がおもな舞台となる『ルー』で観客たちの眼を引くのは、なめらかに躍動する液体から四角く凝固して浮かびあがり、またもやふたたび粘性を伴う液状のイメージへと循環的に生成変化してゆく海水の特徴的な描写だろう。そして言うまでもなくその水の表現は、ひるがえって、さきほども述べたような、湯浅作品特有の、通常のパースどりから逸脱してふにゃふにゃくねくねとアメーバのように動くキャラクターの身体イメージともぴったり重なるものでもある。
 この特異な作画表現の内実について考えるとき、おそらくまっさきに参照すべきなのが、これもここ数年、アニメーション研究や映像文化論の分野でさかんに注目を集めている、セルゲイ・エイゼンシュテインによる「原形質性 plasmaticness」をめぐる議論だろう★4。原形質性とは、エイゼンシュテインが晩年に書き記していた未完の草稿の一部であるディズニー論のなかで、ディズニー作品に代表されるアニメーション表現固有の性質として指し示していた概念である。それはいわば「アニメーション表現固有の形状の自由な変形可能性」を意味する。


[……]かつて――そして――永久に割り当てられた形式の拒絶、硬直化からの自由、いかなるフォルムにもダイナミックに変容できる能力である。

 その能力を、私はここで「原形質性」と呼びたい。[……]いまだ「安定した」形状を有さず、どんな形式を呈することもでき、進化の梯子の横木を飛び越して、どんなそしてあらゆる――すべての――動物の形式へと自らを固定させることのできるものである。★5


「『安定した』形状を有さず、どんな形式を呈することもでき」るという、この原形質性を、エイゼンシュテインは、ディズニーキャラクターたちの柔軟で伸縮自在な身体性に発見している。それはまさに今日の湯浅のアニメーションが描き出す、「可塑的」なキャラクターのそれに突出した形で認められるものでもあるだろう。事実、エイゼンシュテインは、同様の原形質的な身体性を、「脊椎のないゴムのようにしなやかな生き物とな」る舞台の「ヘビ人間」や、ニューヨークの黒人ナイトクラブの「スネーク・ダンサー」たちにも見ていたのである★6。さらにかれはアニメーションにおける重要な原形質的表象として「炎」にも頻繁に言及するのだが★7、ここでもまた物語のクライマックスで日無町を襲うルーのパパの可塑的な身体に無数の炎がまといついていたことを想起しておいてもよいだろう。

 そしてここで、わたしたちにとってより注意に値するのが、そんな原形質性を宿すディズニーのアニメーションのうち、エイゼンシュテインが「最も驚くべき作品」と呼んでいた作品こそ、著名な短編連作「シリー・シンフォニー」シリーズ(1929‐1939年)の第72作である『人魚の踊り Merbabies』(ルドルフ・アイジングヴァーノン・スターリング監督、1938年)であったという事実だろう。そう、ここでもう一度、本論の冒頭でわたしが描写したシーンに立ち戻ってみよう。無数の幼い人魚が海で戯れる場面である。もし『ルー』を未見の読者ならば、それはいつものように本作に登場する一場面の情景かと思ったかもしれない。しかし、ここで種明かしをすれば、じつは『ルー』のものではなく、この『人魚の踊り』の冒頭部分だったのである。この短編アニメーションでは、海面に出た岩場に波に打ちつけられて立つ無数の水泡がみるみると人魚の赤ん坊に美しくメタモルフォーゼしてゆく姿が描かれたのち、やがて海底では、タツノオトシゴやタコといった海中の軟体生物たちが馬や象などの陸上生物に形状を自在に変化させながらサーカスの行進を始める様子がユーモラスに描かれる。

 すなわち、『ルー』で描かれた無数の原形質的なイメージの奔流による現代の「人魚の物語」は、そうしたドローイング・アニメーション表象の「起源」としてかつてエイゼンシュテインが鋭く見出していた、ディズニーによるもうひとつの「人魚の物語」からまっすぐに派生したものだともいえるだろう。なおかつ本論の文脈から重要なのは、本作の場合、その原形質的なイメージが、やはりフラッシュによるディジタル表現によって、さらに洗練されて結晶化している点に相違ない。
 たとえば、最近でも土居伸彰は、アニメーション映像のディジタル化に伴って隆盛しているロトスコープ技法から「アニメーション・ドキュメンタリー」と呼ばれる新ジャンルまでを例に出しながら、エイゼンシュテイン的な原形質性が、とりわけディジタル化以降のアニメーション表象にこそ多く見られるようになっていることを指摘している★8。土居によると、それらディジタル化された近年のアニメーションにおいては、たんに身体的な形状のみならず、記号と意味、主体と客体、現実と虚構などといった従来のアニメーション空間を支えている多種多様な図式もまた、流動的に混淆してゆく様態が顕著に認められるという。そのことで思い出されるのは、これも『ルー』でいたるところに登場する奇妙なキャメラアイの存在だろう。その例をひとつだけ、短く挙げておけば、ルーとカイが海の望める丘のうえのブランコに乗っているシーン。ふたりがふと前方を見ると、東京でモデルをやっていたが、いまは帰省して町で喫茶店を営んでいる伊佐木(伊藤静)が男性とキスをしている姿が眼に入る。ここで映画はその姿をまなざすふたりどちらかのPOVショットに切り替わるのだが、不思議なことに、そのキャラクターの目が見たはずの映像では、人間の肉眼のようではなく、あたかもキャメラのレンズのように、小刻みに画面がズームアップする動きが描かれる。この一見して奇妙な表現は、観る者に対して、まるでルーとカイが機械のキャメラに変貌したかのような錯覚を感じさせる。

 思えば、ポストシネマとは、たとえば『ゼロ・グラビティ Gravity』(2013年)がそうであったように、「人間的」なキャメラアイの消失、いいかえれば「ポストヒューマン的」ともいえるキャメラアイの創出とも決定的にかかわっていた。だとするなら、それはこの『ルー』のディジタルな表象にもはっきりと共通していたといえる。そしてひるがえって、そうした『ルー』のポストシネマ的な原形質性の「起源」の一端が、はるか30年代のディズニーのクラシックアニメーションにも認められるとき、わたしたちはポストシネマをめぐる一種のメディア考古学的な循環性にも気づかされることになるだろう。その意味で、本作におけるルーたちのきわめて「原形質的」な踊りには、今後のアニメーション表象の行方を占う、さまざまな論点が胚胎されていると見ることができるのだ。



★1 この点については、国内最大手の東宝が2012年からテレビ作品も含めたアニメーション製作に本格的に乗りだしたことも大きい。まさに『ルー』もその配給作品である。ちなみに、『君の名は。』は、「TOHO animation」が企画し、東宝が配給した初の作品であった。「ポスト『君の名は。』」のアニメ産業については、たとえば数土直志『誰がこれからのアニメをつくるのか?――中国資本とネット配信が起こす静かな革命』、星海社新書、2017年などが詳しい。

★2 アニメーション作品における本編(物語)以外の傍系的な映像やジャンル(「OP/ED映像」「アイキャッチ」「ミュージック・ビデオ」など)に関する研究も、まだ端緒についたばかりである。この分野で最近注目を集めた研究としては、以下の論文を参照。石岡良治「宮崎駿『On Your Mark』とアニメの系列的読解」、『美学芸術学論集』第13集、神戸大学文学部芸術学研究室、2017年、56‐108頁。

★3 「サイエンスSARUが描く"フラッシュアニメーション"の世界」、『夜明け告げるルーのうた』劇場パンフレット、2017年参照。〔 〕内引用者。

★4 エイゼンシュテインの「原形質性」についての日本語論文では以下が詳しい。今井隆介「〈原形質〉の吸引力――エイゼンシテインの漫画アニメーション理論」、加藤幹郎編『アニメーションの映画学』、臨川書店、2009年、11‐56頁。

★5 セルゲイ・エイゼンシュテイン「ディズニー(抄訳)」今井隆介訳、『表象』第七号、表象文化論学会、2013年、160‐161頁。

★6 「ディズニー(抄訳)」、160頁。

★7 「〈原形質〉の吸引力」、40頁以下を参照。

★8 土居伸彰『個人的なハーモニー――ノルシュテインと現代アニメーション論』、フィルムアート社、2016年、180‐225頁。

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渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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