オペラを書くという「贅沢な体験」──河野咲子さんインタビュー 五反田SFだより(特別編)|河野咲子

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webゲンロン 2026年2月13日配信

 2021年に小説『水溶性のダンス』で、第5回ゲンロンSF新人賞を受賞した河野咲子さん。2024年からは「ゲンロン 大森望 SF創作講座」のチューターを務め、時には受講生を刺激し、時には構想段階から相談に乗り、後輩たちをサポートしてくださっています。

 そんな河野さんは、小説、批評、戯曲、エッセイ、書籍編集、朗読、展覧会やパフォーマンスへのテキスト協力、トーク配信などを通して、言葉を記し届けることを軸にした「テクスト作家」として活動を続けています。2025年6月には、東京・成城ホールで上演されたオペラ『船はついに安らぎぬ』(作曲は永井みなみ、主催・制作は若手オペラカンパニーのNovanta Quattro)の脚本も記しました。映画・ドラマ・演劇とは異なり、すべての言葉に歌がつくオペラの脚本をつくることは、どのような「テクストを書く」体験だったのでしょうか。「五反田SFだより」特別編としてインタビューをお届けします。(編集部)

撮影:松岡大海

オペラ制作とは、「時間がない」こと……?

——そもそも新作のオペラというものは、とくに日本では上演の機会がかなり少ないものだそうですね。


 

河野咲子 クラシカルな作品の上演のほうがやはり断然多いようで、集客的にも古典のほうが有利だと言われています。でも、『船はついに安らぎぬ』の制作を通じて、必ずしもそうではなく、新作にも大きな可能性があると感じました。

 本作の演出担当であり、いわば仕掛け人でもあった吉野良祐くん──このように呼ぶのは、大学時代の同級生だからです──は、これまでおもに古典オペラを手がけてきた演出家です。古典の上演の重要さは当然のこととして、新作の上演との両輪を回していくことがオペラを未来につないでいくためには欠かせないというのが吉野くんの考えだったのだと思います。彼の主宰するオペラカンパニーであるNovanta Quattroがはじめて新作に挑戦するにあたり、脚本を依頼してもらうことになりました。

 カンパニーはそれまでに古典のオペラを5作ほど上演していました。『ラ・ボエーム』『ジャンニ・スキッキ』『愛の妙薬』『修道女アンジェリカ』『天国と地獄(『地獄のオルフェ』のオリジナル訳詞上演)』です。その後、団体初の新作に挑戦するというタイミングで声をかけてもらったのが、公演の2年ぐらいまえのことでした。

 

——吉野さんは、書き手としての河野さんになにを望んだと思いますか?


 

河野 吉野くんは演出をはじめさまざまな技能を持つひとですが、プロデューサー的な側面もあって、学生時代からの縁がこれまで途切れずに続いており、わたしの執筆についてもよく知っていました。古典ではなく新作をつくるということになって、ようやく一緒に仕事ができるタイミングが来たのだと思います。当然わたしはオペラをつくったことがなかったけれど、いきなり書きだすのではなく、それぞれの専門性を交換しながら制作を進めていこうという方針により、無理なく準備を始めることができました。

 最初に集まったコアメンバーは、演出の吉野くん、脚本のわたし、ドラマトゥルク(舞台芸術において批評的な立場から創作現場をサポートする役職)である伊藤靖浩さんの3人でした。3人とも同い年ですが、伊藤さんはフランス文学の研究者で、音楽に関しても深い知識と感性を持つ「仙人」のような方です。

 この3人を中心としたメンバーで1年にわたって月次の勉強会を開き、オペラ化するといいと思った短編小説を順番にいくつも持ち寄って、さまざまな脚色案を検討しました。


 

——『船はついに安らぎぬ』は、エドガー・アラン・ポーの短編小説「赤き死の仮面」を劇中作にしています。この作品はなぜ選ばれたのでしょう。


 

河野 いくつかあったプランのうち、「赤き死の仮面」をベースにした企画が助成金に採択されました。それは同時に、突然締め切りが決まったことを意味します。オペラに限らずアート関連の助成の多くが似たような感じだろうと思いますが、助成金が出たら、たいていは「1年以内に上演」というスケジュールになっています。ただオペラの場合は、演劇ともコンサートともちがって脚本のあとに複雑な音楽を作る工程もある。稽古も、立ち稽古のまえにいわゆる「音楽稽古」をしなければなりません。あらゆる作業が2倍になるので、1年以内というのはあまりに短い制作期間になりますが、とはいえ、日本にオペラ専門の助成金などはありません。決まってすぐプロットづくりに入りました。

 演出の吉野くんは、古典にアプローチした新作をつくりたいという考えがあったのだと思います。一方、書き手のわたしは、翻案だけではなくオリジナルな物語をつくりたいと考えていました。最終的には「赤き死の仮面」を劇中作として全体にはまったく異なる世界が広がる『船はついに安らぎぬ』独自のプロットができあがりました。それが助成金が決まって1ヶ月後、そこからわたしが脚本の初稿を上げたのはさらにその2ヶ月後ぐらいのことです。


 

撮影:松岡大海

——タイトなスケジュールです。よく書ききれましたね。


 

河野 週に1度、関係者のミーティングを入れて、毎回すこしずつ進捗を報告する、という形式を取りました。毎週、わずかでも書けば、テクストは複利のように増えていくといいますか……。そのやり方でなんとか仕上がりました。


 

——「テクストは複利のように増えていく」(笑)。


 

河野 増えます、たぶん(笑)。書いた直後に吉野くんと伊藤さんほかみなさんのフィードバックをもらうというサイクルを回しつづけたおかげで、エネルギー切れせずにできました。いい物語になったという自負はあるものの、それよりも「どうにか間に合った!」というのが率直な感想で……。


 

——ストーリーはどのようなもので、どうまとめましたか。


 

河野 陸地がすべて水没した終末的な世界に、船が寄り集まって暮らしているのですが、一艘だけが猛スピードで進んでいる。この船が作品の舞台です。船を統治しているプロスペロの耳には海から来るおぞましい声が聞こえていて、逃げるために彼は船を急がせます。同時に船上でグロテスクな宴を催し、声の恐怖をかき消そうともする。しかし、宴のなかで上演される歌劇のプリマドンナがその謎の声を宿し、プロスペロは死に至ります。そのうえ、プロスペロの息子がプリマドンナと結ばれてしまい、ついに船が沈没するに至ります。このとき、最後の宴で上演されていたのが「赤き死の仮面」なんですね。

 この劇中作『赤き死の仮面』自体は感染症をめぐる物語です。原作では城があり、そこにいる領主のプロスペロ──このオペラの船の統治者と同じ名前です──は、感染症を恐れて引きこもり、宴を開いている。しかしあらわれた「赤き死の仮面」と決闘して倒れ、感染症が蔓延してみんなが死んでしまう。というと単純な話に聞こえますが、「恐怖の伝染」が主題のひとつと言える奇妙な物語です。このような劇の上演やその他の虚構が作中の現実に滲み出し、それに伴い、船もまた甘美な恐怖に支配される──というのが『船はついに安らぎぬ』の構造です。

 このように説明すると幻想ホラーのようですが、物語の仕組みはSF的なところもあります。物語の中でなにか非現実的な出来事が起こるとき、それが1回きりの特別なことではなく、世界の中で普遍的に起こることなのであれば、たとえSF的なモチーフがなくてもそれはSFだと、SF創作講座で主任講師の大森さんはおっしゃるように思うのですが、『船はついに安らぎぬ』では「声」に関わるルールが作品に通底しています。何者かが不思議な声で歌う、それを各登場人物がどう思うのかがポイントで、声に対する信念が声に対する認識を書き換えます。謎の存在に幻想を与えられる世界観は、スタニスワフ・レムの『ソラリス』のようだとも言えるかもしれません。

撮影:松岡大海

音楽を聴いて、「あ、キャラクターに命が吹き込まれた」

——第一稿を書いたあと、どのように言葉を磨かれたのでしょうか?


 

河野 プロットは変わらないのですが、脚本の言葉ははじめから2周くらい改稿したと思います。どんな音楽をつくるかによって、どういう言葉が見つかっていくかが決まるからです。驚いたのは、この段階で入ってくださった作曲家、永井みなみさんの解釈の的確さでした。音楽家は、言葉にならないものを追求する職業だから、ともすれば言葉の表現に長けていなくても無理はないと思います。しかし永井さんはまったくそうではなかった。オペラをつくるときには、音楽家にとっては必ずしも専門ではない、言葉への解像度こそが必要になるのだと実感しました。


 

——作曲家がそのタイミングで入るのは、オペラ制作では一般的なのですか。


 

河野 いえ、おそらく多くの場合、作曲家の作品としてオペラ制作は始まるものだと思いますが、今回は成りゆきじょう逆になりました。歴史的に、オペラは「アリア」と「レチタティーヴォ」という2種類の部分から成っていた時代があります。アリアは、いわゆる感情を込めて歌う箇所であり、物語の時間は静止して音楽の時間が前景化します。一方でレチタティーヴォというのは、会話をベースにして物語を進める散文的な部分です。現代では両者がはっきりと分かれているわけではありませんが、それでも音楽と言葉の比重というのは同じ作品の中でもバリエーションがあります。

 音楽の比重が高い部分は、言葉は歌詞のような文体を持っています。いっぽうで、より散文的な要素の強い部分のほうが、かえって言葉のつくり方は複雑であるように感じられました。セリフでありながら音楽的で、歌詞の文体とも散文の文体とも異なっている。漢語を使うと意味が聞きとれなくなるので、和語を用いて切り詰めながら、わかりやすく、しかし詩的にも聞こえるように──と、さまざまな要素間のバランスが求められます。永井さんとのやりとりのあとには、このようなセリフの言葉をほとんどすべて書き換えました。


 

——音楽と拮抗する言葉を通じて、ふだんものを書くのとはちがう経験をされたのですね。


 

河野 作中には、ポオというキャラクターが出てきます。エドガー・アラン・ポーをレファレンスとした役ですが、本作での設定はうら若く自己否定的な青年の作曲家です。そのポオが、最初のほうでプリマドンナのエリザに、「閣下のために、ぼくらのために、どうか歌っておくれ」とお願いするフレーズがあるんです。そこに音楽が乗ったところで「あ、ポオってこういうキャラクターだったんだ」と、命が吹き込まれた気がしました。つまり、作曲家にとって自分の曲を歌ってもらうのがどういうことかわかったんだと思います。

 何気ないシーンでしたが、その箇所に刺激されて、最後のほうの重要なシーンを書き換えたほどです。小説も含めて、わたしはどちらかというと文体や構造に主たる愛着を持つタイプの書き手ですが、はじめて自分の書いた作品のキャラクターに対して他者のような魅力を覚えました。


 

——そうして、2時間のオペラで歌われた全18曲のオペラ楽曲の数々ができあがっていった。


 

河野 永井さんが作曲した音楽がすでに素敵なのに、音楽稽古や立ち稽古が進むと、人の声で歌われる音楽のすばらしさに、そのつど何回目かの感動をすることになりました。すべての稽古は撮影され、わたしはYouTubeの非公開リストで関係者として観ていたのですが、自分の好きな言葉が限りなく複雑なテクスチャとともに立ちあがるのを目にするのはほんとうに贅沢なひとときでした。

 ソロパートも素敵ですが、一方で合唱のハーモニーの凄味にも現場で圧倒されました。それまで楽譜とMIDI音源しかなかったものが実際に歌われるとき、歌っているキャストのみなさん自身が曲のおもしろさに心底はしゃいでいる。出演者もおおむね同世代だということもあり、ものすごくエネルギッシュな現場でした。

 楽譜と音源ができたとき、それが音楽稽古で演奏されたとき、そしてさらに立ち稽古で演出がついたとき、それぞれのタイミングで固有の驚きと高揚感に浸されました。カンパニーの熱気の高さが周囲に伝わって、公演の席がまたたく間に埋まりました。ダブルキャストで1日2公演。予算の都合上、1日のみの上演だったけれど、250人ずつの昼と夜の公演は完売しています。

 新作の場合はクラシックの上演に比べると、事前に作品そのものの魅力を伝えるのがむずかしいところがあります。だからこそ、まずキャストの方たちに作品をおもしろいと思ってもらえることが重要だったのだと思います。キャストのみなさんが、音楽としても物語としても心から作品をおもしろがってくださっていて、それがキャストのみなさんのファンにもかなり正確に伝わったという感触があります。

撮影:松岡大海

「ズボン役」に「稽古ピアニスト」? ――オペラならではの世界

——キャストの方はどのタイミングで決まったのでしょう。


 

河野 脚本のかたちが見えてから数ヶ月後です。脚本の全貌がわかれば、香盤(どの役者がいつ出るかの予定)を決めることができ、さらに作曲や、出演のお願いや、オーディションの準備なども始まっていきます。

 ポオが出てくるのは本作のポイントのひとつですが、それをメゾソプラノの女性が演じるというのが作品にとってとても重要なことだと思っていて。だから、キャスティングの過程ですばらしくハンサムなメゾソプラノのおふたりに出会えたのも印象深いです。


 

——男性のキャラクターであるポオを女性に演じてもらおうと決めたのは、いつですか。


 

河野 最初期のプロットの段階からです。女性が演じる若い男性の役をオペラでは「ズボン役」と言うのですが、ポオはズボン役でなければというのは最初から思っていました。

 その配役は、この作品が「ものを作るとはなにか」を扱ったものであることに関係しています。ものを作るうえで「ミューズ」とはなにかという問題がありますよね。いろいろある話のごく一例を挙げれば、たとえばシュルレアリスムにおいて男性作家たちにインスピレーションを与える女性たちは「ミューズ」といわれます。しかし、そのような潮流のかたわらで、レオノーラ・キャリントンにしてもレオノール・フィニにしても、女性アーティストたちはシュルレアリストと一定の距離感を保ちつつ独自の活動を展開していました。

そんなこともあって、わたし自身はものづくりにおいては両性具有性がひとつの鍵だと考えるようになりました。つまり自分自身がミューズでもあり、同時に作家でもあるというような存在を「つくるひと」ととらえています。ポオがズボン役なのには、そういう考えが影響しているかと思います。

 

 それから、劇中ではポオが男性の作曲家で、エリザが女性のプリマドンナだけれど、男女が結ばれてうまくいきましたという古典的な結末は、とくにオペラを作るうえでは絶対に避けるべきだと思っていました。物語の結末で船は沈んでしまい誰も助かることはないのですが、それもふたりがそれぞれの道を誇りを持って歩んだ結果であったということを、希望を持って描ければと。


 

撮影:松岡大海

——オペラならではの音楽稽古とはどういうものでしたか?


 

河野 音楽稽古は指揮者の方とキャストの方たちで進めるのですが、「コレペティトゥア(以下コレペティ)」という方も入ります。コレペティとは、音楽稽古専門の技能を持つピアニストのことです。今作の本番では、ピアニストふたりと打楽器ひとりという編成で演奏をするのですが、そのようなオーケストレーションを毎回の稽古で用意することはできません。そこで、稽古ピアニストはそれを再解釈して、ピアノひとりでクリエイティブに表現してくださる。同時に、歌手の音取りもさりげなくサポートする、舞台で弾くピアニストとはまたちがう専門性を持っています。

 そして指揮者の鈴木恵里奈さんが音楽全体をつくりあげていくのですが、マエストロとしての表現の素晴らしさはもちろんのこと、途方もなく細やかな音感にも驚きました。永井さんの楽譜は当たり前のようにハーモニーもリズムも複雑ですが、マエストロは合唱のなかのほんのわずかな響きのズレも逃さず把握し、音楽を導いているようでした。わたしはまったくの門外漢なのでこんなことを言うのも変ですが、それでも指揮者の中でもとりわけ耳の鋭い方にちがいないというのはありありとわかりました。

 音楽稽古では、まずは演奏を徹底的に楽譜通りにしていきます。とにかく楽譜を細大漏らさず正しく読むというのがオペラの大前提です。やがて稽古が進み、楽譜の理解が深まってきてはじめて、演技的なニュアンスを加味した表現へと進んでいきます。


 

——立ち稽古はどんなものだったのでしょう。


 

河野 演出の吉野くんは、自分のやりたいことに周りを合わせるというよりも、こういう役者、セリフ、音楽がそろっているという条件から組み合わせの妙を大事にする、いわば「お料理タイプ」の演出をするひとです。音楽も脚本も、上がってきたものを解釈しなおし、組み合わせて生かしていく。たとえば作中に、オッフェンバックのオペラ「ホフマン物語」から引用した「オランピアのアリア」という有名な曲を歌う場面があります。機械仕掛けのオランピアがかわいらしく歌うという曲ですが、今回の物語で引用したところはおそろしい歌声によって場が大混乱する大事なポイントでもあります。ほかにもさまざまな要素が入り乱れる場面ですが、そこで吉野くんはオランピアをプリマドンナひとりでなく3人の身体で踊るという演出を考えました。プリマドンナ、右腕役のひと、左腕役のひとが最初はひとつの身体を成しているけれど、場が混乱すると3人がばらばらになり乱舞に加わっていく。このシーンは、お客さんたちからも印象的な演出だったとよく言われました。「身体がばらばらになる」という演出的モチーフは、本作のプリマドンナや声の身体性の不安定さと呼応しているから、舞台のうえで大きな役割を果たしていたと感じます。

撮影:松岡大海

「できた!」……上演されていることの喜び

——オペラが完成した、と実感したのはいつでしたか。


 

河野 本番3日前くらいの通し稽古のときでしょうか。統治者の息子であるプロスペロの役の解釈がむずかしかったんです。ポオやエリザといったほかのメインキャラクターたちは、脚本や楽譜ができる中で肉付けされ、どんな人物なのかよくわかりました。でも、プロスペロはエドガー・アラン・ポーの「赤き死の仮面」にも登場する人物であるからこそ、物語の二重化したこの作品において彼がどんな人柄で、どんな闇を持っているのかといった奥行きは、演出のときに解釈しなおす必要がありました。統治者の孤独や欲望のようなところにポイントがあったんだ、と最後にたどり着くまでには、試行錯誤を経る必要があった。吉野くんがアドリブのようにお願いした演技プランをキャストの方がパッとやってみるといった半ば無茶振りのような稽古も経て、次第に心の動きがつかめていった気がします。

 稽古では演出のリクエストが毎回ちがっていて、役者としては本来一発で決めて欲しいのかもしれないけれど、そうした試行錯誤を経たからこそ、魔性の存在に惹かれる人物像が深まっていきました。

 作品全体のコンセプトをあらためて共有するため、わたしとドラマトゥルクの伊藤さんは本番の2〜3週間前に内部向けのポッドキャストを録って関係者のみなさんに聴いていただきました。一見謎めいて見えるセイレーンはどんな理屈で動いているのか。プロスペロの孤独はどんなものか。なぜポオはズボン役か。プリマドンナのエリザはどんな欲望を持ち、なぜセイレーンといっしょになることを選んだのか。そんな解釈を理解してもらったことも、一定の役割を果たしたと思います。


 

——いま、ドラマトゥルクの伊藤さんがひさしぶりに出てきましたが、伊藤さんはどんなことをしていたのですか?


 

河野 伊藤さんは、作家、作曲家、演出家、キャストなどすべてのひとの壁打ち相手として、さまざまな相談に乗っていました。思い返せば、わたしにとって一番大きかったのは、「真説聖ジュネ」(ジャン・ロトルー作)という作品のことを伊藤さんに教えていただいたことでした。これは、劇中劇を取り入れた最初期の作品であるという17世紀フランスの演劇で、あらゆる技法はその発明とともに発明され尽くされているのだと思わされる、巧みなメタ構造をもつ物語です。かんたんなあらすじはカンパニーのnote記事★1でも紹介したことがありますが、『船はついに安らぎぬ』の構造を思いついたのはこの作品のことが頭にあったからでした。


 

——3日前の「オペラができた」と思った瞬間は、どういうものだったのですか。


 

河野 むずかしいのですが、たぶん、笑いと恐怖と官能のバランスが取れたタイミングが、完成した感じをもたらしたような気がします。つまり、当たり前だけどむずかしいこととして、恐怖の演技では恐怖をあらわしづらく、むしろ笑いや官能のほうが狂気と手を結びやすい。またその前提として、出演者全員がその複雑なコンテクストを共有している必要があります。あきらかに異様なことが起きているからこそ魅了されてしまうという笑いや官能の按配が、怖さとの相乗効果をだんだんと発揮していきました。それをわたし自身は横で観ていて、お話がひとつの上演としてできあがったと感じたのだと思います。

 稽古場でやった最後の通し練習は、とても贅沢なものだったのを覚えています。狭い空間のいちばんまえで観ているから、ものすごい迫力で。一方、本番ではスタッフとして後ろから観るし、音の響きも思いのほかストイックな感じのホールでした。でも、こんなに遠くからでも綺麗に見えているし、すみずみまでおもしろいのだなと、作品の力がより客観的にわかった時間でした。上演されていることの喜びに満たされた一日だったと思います。


 

——その喜びが伝わってきました。


 

河野 その後、2025年の7月には『ゼッタイ絶体絶対音感主義者』というオペラの脚本を担当しました(作曲:高橋宏治)。オペラ的なスペクタクルに満ちた『船はついに安らぎぬ』とは対照的に、むしろオペラとオペラでないものの境界へ向かっていく実験的な作品です。歌手の演技のみならずストレートプレイの役者にも出演いただき、音楽や言葉がくずれて渾然一体となっていく感覚を快楽するような作品になりました。

 最近、わたしは、自分のことをプロフィールで「テクスト作家」と記すことがあります。小説、批評、エッセイだけでなく、オペラの脚本や、美術やパフォーマンスのためのフィクショナルな言葉、ほかにもその場に合ったさまざまな言葉を書くことを「使用可能なテクストを作ること」と広くとらえているからです。これからも、そういう「言語行為」としての創作活動を続けていきたいと思います。

撮影:松岡大海

2025年12月10日
東京、ゲンロンオフィス
構成=編集部
 

河野咲子

テクスト作家。小説『水溶性のダンス』にて第5回ゲンロンSF新人賞を受賞。幻想怪奇小説、オペラ脚本、批評、エッセイなど、さまざまな分野で文章を執筆している。オペラの脚本に『船はついに安らぎぬ』など。トーク企画への出演、ワークショップ、書籍・雑誌編集などにも取り組む。日本SF作家クラブ会員。
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