SFつながり(2) 岡部|アマサワトキオ
初出:2019年07月19日刊行『ゲンロンβ39』
〈ゲンロン 大森望 SF創作講座〉の関係者を中心に、ゲンロンとかかわりの深い書き手によるリレーエッセイコーナー「SFつながり」。初回の名倉編氏に次ぐ第2回は、SF創作講座の第二期最優秀賞受賞者であり、今年4月には第10回創元SF短編賞を受賞したトキオ・アマサワ氏に寄稿いただいた。専門学校生から創作の道を志すきっかけになった友人とのかかわりが綴られている。なお、創元SF短編賞の受賞作「サンギータ」が掲載された『おうむの夢と操り人形 年刊日本SF傑作選』(創元SF文庫)が来月発売。また、同じく来月発売の、大森望責任編集『NOVA 2019年秋号』(河出文庫)にも寄稿されている(同じく講座出身の麦原遼氏も参加)。あわせてお楽しみに。(編集部より)
人生で二度上京した。
二度目は2015年、翌年開講されるゲンロンのSF創作講座に通うためで、一度目は2009年、単にモラトリアムを延長するためだった。京都の立命館大学を6年かけてやっと卒業した後、まだ働きたくなかったので、借金をして板橋区の本蓮沼で一人暮らしを始め、某専門学校に進学した。
そこで出会った岡部は学年では1年年下だけど4月生まれで、俺は早生まれの1月だから、年は同学年の連中より近いくらいだった。
専門学校は1年制だったが岡部は途中でドイツ留学することを最初から決めていて、暇つぶしのような形で学校に来て、半年経ったところで当初の予定通りドイツに旅立ってしまった。
24歳のときだった。俺は24歳で創作を始めた。きっかけはたぶん岡部だ。
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真っ黒な烏色の髪をして、顔はRADWIMPSの野田洋次郎に似ている。初対面のときの革ジャン姿と、最後に見たざっくり編みのロングカーディガン姿が印象に残っている。大学ではドイツ哲学を勉強していて、小説家はドストエフスキーが好きだった。中二病を患っていて、自身を「悪文家」、「悪文使い」と称していた。岡部の文章は、出会って間もない頃に開設したブログ「血だるま気取りの空廻り」で読むことができた。そこには饒舌な文体で改行もなくえんえんと綴られた日々の思索や、『Cut it up!』という、文字列をめためたに切り刻んで組み立て直してくれる、ブラウザ上のカットアップ作成ソフトを使って作られた謎の詩が、投稿されていた。時たま斜に構えた行動や言動に走ろうとするも、根っこの部分にある優しさがどうしても隠しきれず漏れ出してしまうらしく、ポーズではなく本心から陰口を言ったり人を悪く言ったりしたことは一度もなかった。うっかり傷つけてしまったときはすぐにフォローに入った。父親は大手総合化学メーカーの重役だと言っていた。親にクレジットカードを持たされ、「カードの限度額までなら毎月好きに使っていい」と言われていた。だからといって派手に金を使いまくるでもなく、一緒に行動しているときは、金のない俺のライフスタイルに合わせて最低限の食事と遊びを楽しんでいた。 出会ってから旅立つまでの短い期間、岡部は何かと俺のアパートに入り浸った。千葉の実家暮らしだったが、ある時期までは、千葉に帰るより本蓮沼の俺の部屋に泊まることの方が多かったように思う。五畳ワンルーム、収納ゼロの狭すぎる部屋で、岡部は退屈しのぎと言って「血だるま気取りの空廻り」を新設した。別のときには、学校の仲間にちょっかい出すために、二人でmixiアカウントを開設した。ユーザーネームは「destiny」だった。ユーザー名をこれに決めたのは岡部だったのに、数時間後、このネーミングが岡部自身のツボにはまって深夜に笑いが止まらなくなり、俺も誘発されて笑いが止まらなくなり、揃ってすっかり目が冴えてしまったまま朝を迎えたりもした。そして数日後には二人ともIDとパスワードの両方を忘れてしまい、ログインすらできなくなった。 終始行動をともにしていたから、同室にいながら別々の遊びをしていることも多かった。俺が自作のWindowsデスクトップパソコンでアリスソフトのエロゲー『闘神都市Ⅲ』をプレイしているとき、岡部は隣で、17インチのテレビデオ(液晶の下にVHSの差し込み口がついているテレビとビデオの一体型機器)の小さなブラウン管の前に座り、俺が実家から持ってきたスーパーファミコンに秋葉原の中古ゲーム屋で買ってきた『シムシティ2000』をセットして、自分の王国を拡大し続けていた。 腹が減ったらレトルトのカレーやパスタを作ったり野菜を茹でたりして食べた。外食することは滅多になかった。食後に板橋本町のゲオまで歩いていって、映画を2本レンタルして帰り、深夜まで連続上映してから寝るのがいつもの流れだった。黒沢清や青山真治やタルコフスキーを、俺は岡部の映画チョイスで初めて知った。タルコフスキーの『鏡』はリテラシーの低すぎる俺に衝撃を与えた。何なんだこれは、とにかく美しい、が、まったく意味がわからない。岡部のフェイバリットの一つ、フェリーニの『道』を見る前には、「これを見て、心が何も動かなかったらお前は人間じゃない」と言われた。動け心、とやや緊張しつつ見始めたが、『道』はあれ以来、俺にとっても最高の映画の一つになった。 上京以前は滋賀の田舎で地元仲間とばかりつるんでいた。彼らはマイルドヤンキーだった。ドラゴンボール、ワンピース、「最近ハイスタンダードの昔の曲が沁みるわ」、中学高校時代の武勇伝(「いまなら絶対Twitterで炎上してるよな」を添えて)、週末は琵琶湖でバーベキュー。だから岡部といるのは新鮮だった。映画にしろ、それ以外の様々な事柄にせよ、岡部は俺よりずっとよくものを知っていたから、その日見る映画を決めるのも、何をして遊ぶか決めるのも、取るに足りない日常の会話でさえ、すべて岡部が主導権を握った。学校でもいつも二人でいたが、クラスメイトからすると、俺と岡部のひとくくりは「岡部くんたち」であって、「トキオくんたち」では決してなかった。俺は岡部の影だった。岡部がオスカルなら俺はアンドレ。役者と黒衣。 「今度ディズニー行こうぜ。トキオのぶんの金も俺が出してやるよ」と岡部は言った。また別のとき、「トキオも一緒にドイツ来る? 行く気あるんだったら金は俺が持つよ」と言った。どちらの誘いにも「行く」と答えた。 結論から先に書くと、結局どちらも実現しなかった。 溝がだんだん深まり、修復することができないまま関係は途切れてしまった。きっかけは周囲の目だった。学校でディズニーランドに行く計画を話しているとき、クラスメイトの女の子たちに、「二人で行くの?」と訊ねられ、そうだと答えると彼女たちは色めきだった。その様子を見て岡部は「あれ、そういう風に見えるの。だったら嫌だな」と言った。 それ以降、「岡部くんたち」は「そういう風に」見られるようになった。間を置かず、今度は俺と岡部が部屋の鍵をやりとりしているところをクラスメイトに見つかり、「岡部くんってトキオくんの部屋の合鍵持ってるの?」と突っ込まれて、だったら何? と聞き返すと、別に、との返答が返ってきたのだが、岡部がうちの合鍵を持っていることは後日、その場にいなかったクラスメイトたちまで知っている周知の事実になってしまった。 専門学校の連中を責める気はあまりない。一度、滋賀の地元の友人4人が遊びに来たことがあって、そのときも岡部は前日の金曜からうちにいたから、週末に岡部も含めて6人で東京観光に出かけたのだが、仲間のリーダー格のKにも、後になって「岡部くんってトキオくんの恋人?」と訊ねられた。 いまでは自分はヘテロセクシャルだと自認していて、若い十代の頃もそうだったように思うが、二十代の当時は揺らいでいる自覚があった。上京前、滋賀の実家暮らしだった頃、アルバイトの後輩でヘテロのOに「トキオくんが女だったらよかったのに」と言われ、困惑した覚えがある。すでに自分のなかに存在してしまっている好意を、おのれが信仰する特定のジェンダー観に則って抑圧したり是正したりしなければならない、という謎。俺はOとは違った。実際、岡部と恋人同士のように誤解されることを、少なからずうれしく感じていた。 けれども岡部はまた違っていた。岡部は実際に言葉に出してそのように言った通り、明らかに嫌がっていた。 ディズニーの計画は中止になり、岡部のドイツ行きに同行する話も自然消滅した。岡部はその後、学校では俺と距離を取ることを決めたようだった。出会った一番最初の頃から心の垣根を乗り越えてどかどか入り込んでくる奴で、そのことを痛快にも気楽にも感じていたが、そういうこともなくなった。 最後に岡部がうちに泊まりにきたときのことはよく覚えている。その日は久し振りに二人で秋葉原の本屋に出かけた。帰り道、書泉ブックタワーの前の道を歩きながら話をした。とりあえず口を動かしているもののそれらはうわべばかり、驚くほどの無内容で、二人とも、頭では全然違うことを考えていた。岡部は久し振りにトキオの家に遊びに行きたいと思っていて、でもそのことをこちらに告げるためにどんな言葉を用いればいいのか、いまはもうわからず、困っているのだ、ということが俺には完璧にわかっていた。不思議なことに、それ以外にあり得ないと確信していた。岡部との関係は一貫して「岡部くんたち」であって、「トキオくんたち」ではなかった。岡部の傍らにいるとき、俺は岡部の影だった。岡部が動くから、俺も同じように動く。その逆はない。だからこのときも、確信を抱きながら、相手の言葉を待っていた。空疎な言葉の応酬の後、岡部は、びっくりするほど下手なタイミングで、それまでのふわふわ会話の文脈を断ち切って唐突に、「今日トキオんち泊まっていい?」と言った。 二人で本蓮沼の小さなスーパーに行って野菜や肉を買い、米を炊いて、晩ご飯を作った。ゲオで映画を2本借りて、連続上映した。そして眠った。これまでと何も変わらず楽しかった。そして、これまでと何も変わらない筈なのに、この時間を過ごすための手続きだけが、以前よりもずっと困難なものになってしまった、と思った。 それから俺はクラスメイトの女の子と付き合いはじめた。ぎこちない関係を修復できないまま、岡部はドイツに旅立った。別れの挨拶もまともにせず、見送りにも行かなかった。そもそも日本を出立する具体的な日取りさえ知らなかった。その後、いまにいたるまで、岡部の所在や動向はまったく不明だ。 うちに入り浸っていた時期、岡部は1度だけ、「トキオのやってるゲームやらせてくれよ」と言って、『闘神都市Ⅲ』をプレイしたことがある。2時間かそこら遊んで、すぐにやめた。数日後、岡部は買ってきたばかりの本を、ぽんとくれた。三省堂のブックカバーを開くと、それは『動物化するポストモダン』だった。いまも大概だが、当時はいまよりも馬鹿だったから、書いてあることをどれほど理解していたか我ながら疑わしいが、それでも最後まで読み通した。これが東浩紀を知ったきっかけで、ひいては数年後、ゲンロン主催の小説講座に応募するところまでつながっていく。 『動ポモ』を読み終えるとほとんど発作のようにエロゲーのシナリオを書き始めた。それまでお話を書いたことなんて1度もなかったのに、どうしてそんなことを始めたのか、未だにさっぱりわからない。が、当時の記憶を辿り、多少無理をして発作の理由をでっちあげるとするならば、以下のようになる。――大学のときに岡部は、ゼミの教授に「君は作家になりなさい」と言われた、と言っていた。1度だけではなく、岡部はこの話を俺に向かって何度もした。俺はとにかくあらゆる面で岡部に感化されていたから、知らず知らずのうちに「それなら俺も」という気になった可能性がある。作家は、とても無理だろう。でもエロゲーライターならなれるかも、と思ったのだ。 岡部がドイツに旅立つとすぐに、俺も専門学校に通うのをやめてしまった。残りの半年は赤羽のコンビニでバイトばかりして、翌年は名実ともにフリーターになった。コンビニの廃棄の弁当で食いつないで食費をほぼゼロまで切り詰め、なけなしの金をはたいてポメラDM20を買った。毎日深夜0時までコンビニ業務に従事したあとでポメラを持って板橋本町のガストに行き、ドリンクバーだけを注文して、謎シナリオを書いた。それは夜が明けなくなった世界に閉じ込められた連中の話だった。恥ずかしすぎて題名は書けない。 ポメラで書いたシナリオをポートフォリオに福岡のゲーム会社に入社して、エロゲー業界に入り、東京をはなれた。処女作で派手に炎上したりクソゲーオブザイヤー in エロゲー板にノミネートされる栄誉にあずかったりしながら(それはまた別の話だ)、途中でソシャゲ業界に拠点を移し、いまもなんとかやっている。2度目の上京、ゲンロンSF創作講座の受講を経て、ありがたいことに、当初は「とても無理」と思っていたはずの作家としても、書かせてもらえるようになった。 発端には岡部がいる。 岡部がどうしているのか気になっているが、連絡手段が何もない。岡部は当時、携帯電話を持っていなかったし、ブログ「血だるま気取りの空廻り」は、退屈しのぎも必要なくなったんだろう、ドイツに旅立った後、間もなく削除されてしまった。 Facebookで検索すれば見つかるかも、と思ったこともあったが、駄目だった。そのとき初めて気づいたのだが、驚いたことに、いっときは誰よりも長く同じ時間を過ごしたにもかかわらず、俺は岡部の下の名前を、どうしても思い出せないのだ。■
「岡部」はもちろん仮名だ。けれどもこれを本人が読めば、自分のことが書かれていると、すぐにわかると思う。 岡部。遠くはなれてしまったように思えるけど、実はすぐ近くにいたりしないか。随分世話になったように思うから、一度くらいメシでも奢った方がいい気がするんだよ。俺のメールアドレスはtokioamasawa@gmail.com。連絡を待つ。アマサワトキオ
1985年滋賀県近江八幡市生まれ。SF創作講座第1期および第2期受講を経て「ラゴス生体都市」で第2回ゲンロン新人賞を受賞。2019年、「サンギータ」で第10回創元SF短編賞を受賞。『NOVA』2019年秋号(河出文庫)に「赤羽二十四時」が掲載された。