マーク・トウェインのダストテイル 五反田SFだより(9)|藤琉

今回の寄稿者は同講座の7期(2023年開講)で「ゲンロンSF新人賞」優秀賞を受賞した藤琉さん。受賞作の『聖武天皇素数秘史』は2024年12月にゲンロンSF文庫より刊行されています。本エッセイでは、数か国を渡る放浪の旅のなかでの中東での体験、そして旅のさなかに出会った小説について語られています。『聖武天皇素数秘史』のルーツはマーク・トウェインだった? 藤さんのSF的想像力の源が明かされます。(編集部)
もう20年近く前のこと。1年2ヶ月かけて20数ヶ国を歩きまわる旅の最後にたどり着いたのがバリ島だった。なかでもウブドは豊かな緑と土地の人たちの穏やかな雰囲気が心地よく、バリに着いて2日目からこの村に宿をとった。
空は大きく、時間はゆっくり流れていた。だからその日も自室の前に椅子を出して、中庭を眺めながら日がな一日、本を読んで過ごしていた。そのうちウトウトしてしまい、気づけばガジュマルの木から長い陰が伸びていた。ふたたび本を開いたら、お気に入りの文章がそこにあった。
かつて魯迅は書いたはずである。
『革命、反革命、不革命。
革命者は反革命者に殺される。反革命者は革命者に殺される。不革命者は、あるいは革命者だと思われて反革命者に殺され、あるいは反革命者だと思われて革命者に殺され、あるいは何ものでもないというので革命者または反革命者に殺される。
革命、革革命、革革革命、革革……』
三〇年後のいま、ここでは事態はいよいよ混沌、かつ精妙の一途をたどっている。
何度も読み直した開高健『輝ける闇』の一文だ。
バックパックにはほかにも7、8冊の本が入っているが、もう読んでいない本はなく、あらためて読み返す気にもならなかった。長旅をしていると読み終わった本を交換し合うのが旅人同士のエチケットで、手にした本も手放した本もたくさんあった。だけど『輝ける闇』は最後まで手放さなかった。この本だけは特別だった。読むたびに僕を沈潜させるなにかがあり、ついつい手が伸びる。だからその日もあちこちのページをかじり読みしては雲を眺めたり、宿を囲む塀のレリーフに目を凝らしたりしていた。
本を読むことの素敵さとは、一行に目を奪われ、一言に話しかけられ、知らないあいだに読むことを忘れてしまっている、そんなささいな悠大さにあると、この本から教えてもらった。
さて、こんなにものんびり本を読んでいるのは、実は帰国の迎えを待っているからだ。頼みの綱のM氏は明日、ちゃんと来てくれるだろうか。バリ島まで来たはいいものの、飛行機代もなく、生活費も底を尽きかけていた。実際バリに着いたとき、所持金は3ドル分ほど。そのうち1ドルを使ってインターネット屋に入り、2ヶ月前にタイで仲よくなったJ君に無心のメールを出した。彼がバリ島にいることを知っていたのだ。その日のうちに落ち合い、
「このあと迎えに来てくれる人が返すから! お願い、お金貸して!」
拝みたおして30ドル分のお金を借りることに成功した。
明日M氏が来てくれないと、路頭に迷うことになるだろう。僕は氏の一言を真にうけて旅に出たのだから、責任はとってもらわなければならない。
「詩を書いてんなら、旅に出てみたら?」
その言葉を反芻しつつ、もう一度『輝ける闇』に目を落とした。
*
旅に出る数年前、僕は人の足もとばかりを見て暮らしていた。比喩ではなく、そのままの意味でだ。2001年3月、大学を卒業しても就職せず、夜のハチ公前に座りこみ、詩を書いて売る生活を始めた。ときどき目の前に置いた座布団に座る人と話をして、直接筆で詩を書きおろしたりもしていた。
当時のハチ公前は路上の聖地と呼ばれていて、全国から路上ミュージシャンが次々とやって来ては演奏するような場所だった。ほかにもヘンプのアクセサリー売りや似顔絵描きなどもいて、かなり賑わっていた。そうした人たちにまぎれて僕も座っていた。
そこにM氏が現れた。「今度、代々木野外音楽堂で路上ミュージシャンを集めた大きなイベントがあるから、そこで詩を書きおろすパフォーマンスをしないか」と誘われたのだ。なにやらイベントプロデューサーをしているという。
胸のあたりまで伸びた白髪のソバージュと丁寧に切り揃えた白い口ひげ。ダブルの革ジャンに、夜でも外さない黒いサングラス。60歳くらいに見えるがまだ40代前半だった。
そんなインパクト抜群の風貌をしたM氏は、小学生のときのIQテストで150以上を叩き出し、文部省(現・文科省)の役人が家に視察に来たという逸話をもつ。父親は考古学者で、M氏は出土品の黒曜石を手裏剣のように庭の木にシュパッと投げるのが好きだったという。小学四年生のときに産休に入る担任の代わりが見つからないためしばらく授業を受け持つハメになり、義務教育に痛みを感じ、親に中学不登校を嘆願したが認められず、その反発か、中一でアフロヘアーになり、中三でダンプカーを運転してヤクザ事務所に突っ込んだ。そして中学卒業と同時に上京し、Y大学に潜りこみ、勉強そっちのけでサークル活動にいそしんだらしい。大手週刊誌でライターとして長く働いたようだが、あるときトラブルを一身に背負って辞めることになった。そののち音楽雑誌の編集長を経て、フリーの音楽系イベントプロデューサーとして復活、僕の目の前に現れた(本人談)。
僕は、鷹揚としていてとらえどころのないM氏と一緒にいると不思議と心地よさを感じた。M氏はM氏で、妙に僕をかわいがってくれた。だから僕たちは肩書きの関係ないところで親交を深めていった。
あるときM氏はショートピースをくわえて僕に言った。
「困ったときの対処法を教えてやろうか」
「はい」
「たとえば親が『アフロをやめろ』と言ってくるだろ。そしたら眉毛を剃るんだ」
「どういうことですか?」
「『お願いだから、眉毛だけは生やしてくれ。アフロは許すから』と親は泣いてせがんでくるんだ」
M氏は黄色い歯を見せ、カラカラと笑った。
「それ、ひどくないですか」
「それでいい。おまえが正しい。でもな、譲れないものはなにがあっても守りぬけ。俺が言いたいのはそれだけだ」
M氏はそう言って、おびただしい疲労をこめた目を僕に向け、またカラカラと笑った。ショートピースの煙は初めてのデカダンスの匂いがした。
そして不意にこう言った。
「詩を書いてんなら、旅に出てみたら?」
*
というわけで2005年9月、僕は詩を100本書くまで帰らないと決めて初めての海外に出た。旅のおともに10冊、本を持っていくことにした。その1冊に、M氏から教えてもらった開高健の『輝ける闇』があった。
まったく無目的の放浪だった。だからこそなにか目印がほしいと思い、アルチュール・ランボーの生家と商家、終焉の地を訪れもした。オランダではひょんなことから誤認逮捕されたり、オマーンの国境でイミグレの兵士にエロ本を没収されたりしたが、やはりこの旅の一番の奇跡は中東を縦断できたことだ。2005年12月から2006年1月の2ヶ月である。
当時のシリアはどの街に行っても、車という車にアサド大統領の弟マーヘルのステッカーが貼ってあった。秘密警察を統括している彼への忠誠の証である。だがどのセルビス(バンの乗合タクシー)の運転手も僕と2人きりになると、人が変わったように彼を口汚く罵った。本当は誰も忠誠など誓ってなどおらず、ただ密告者に怯えているだけだったのだ。のちにISILに破壊されるパルミラ遺跡もまだ健在で、近くの村では子どもたちがキラキラした顔で走りまわっていた。
レバノンでは、イスラエルのシャロン首相(当時)が急病に陥ったことをきっかけに南の国境で小競り合いが始まっていた。しかしバールベック遺跡の近くでは道端に座りこんだ老婆がのんびりと大麻草の茎から葉をむしり取り、手のひらで丹念に揉みこむ作業にいそしんでいた。ハンドメイドのハシシ製造第一工程である。
あるいはヨルダンの首都アンマンでは、たまたま泊まった宿の主人がたえず沈痛な表情を浮かべ、おどおどしていた。それがあまりにも異様だったので同宿の旅行者にわけを訊いてみたところ、どうやらその主人は1年ほど前にイラクでアルカイダ系テロ組織に殺害された日本人旅行者のイラク行きを手配した人物ということだった。僕は彼のコーディネイトする格安ツアーに参加し、死海やローマ遺跡を訪れたが、懸命にもてなそうとする姿や、無理やり食事を奢ろうとする態度に日本人への贖罪とその胸の痛みを感じた。だけど僕にはどうすることもできなかった。
そして、次に向かったのがイスラエルだ。なにはともあれ新しい国に入って最初にすることは煙草を買うこと、というのが旅の決めごとだった。エルサレムの煙草屋の主人に「イスラエルのをくれ」と言うと『IMPERIAL』(帝国)を差し出され、「パレスチナのをくれ」と言うと『TIME』(時)を差し出された。ケースに産地が書かれていないので本当かどうか確かめようもないが、ふてぶてしい顔をした主人が差し出したふたつの銘柄は僕にある啓示をもたらした。「帝国のいまこの時を見ておこう」。それがこの国におけるテーマになった。
パレスチナ自治区であるジェリコ、ベツレヘムで土地の人たちと世間話をしたところ、話題は政治一色で、そのほとんどがアッバス議長は弱腰で頼りにならないというものだった。1年ほど前に亡くなったアラファト議長の後任として、自治区政府とPLO(パレスチナ解放機構)を率いている人物である。「アラファトのころはよかった」「アッバスはイマイチだ」「アッバスになってPLOの内部でも不満が溜まっている」。茶呑み話で口々にそうした愚痴がこぼされた。そして1週間ほどのちにパレスチナ評議会選挙という自治区内の総選挙がおこなわれることも知った。
数日後、ラマラという街にあるPLO議長府を訪れた。PLO議長府にいち旅行者が訪問できるのかと言われれば、できる。ただしひとつだけ条件があって、目的が故アラファト議長のお墓参りであることだ。
PLO議長府の門の格子窓に向かって訪問理由を説明すると、ゆっくりと鉄の扉が開かれた。そして出迎えてくれた軍人に引率されて、墓前に連れて行かれた。僕はそこに墓石があるものだとばかり思っていたが、目にしたそれは小さな四角いお堂のような形をしていた。壁はコンクリートブロックが剥き出しで、周囲には掘り返した土が山積みになっている。作業用の運搬二輪車もわきに置かれていた。どうやらまだ建設途中のようだった。だがその墓堂の前にはポスターほどの大きさの遺影が立てかけられ、花輪が飾られている。
そこに10名ほどの軍人がやってきて、遺影を挟みこむように2列になって向かい合った。「気をつけ」とでも言ったのだろうか、引率の軍人が号令をかけたかと思うと、整列した軍人たちはその場で音を鳴らして足踏みし、背筋を伸ばして直立不動となった。一瞬にして空気が引き締まった。
思わず圧倒されてしまった僕は急いで遺影に一礼し、ぎゅっと目を閉じ、手を合わせた。目を開けると、頭も体もしびれていた。軍人たちのアラファトへの敬愛と忠義が鉄の塊のように僕を打ちつけていた。
その帰り道、まだ茫然としたままの頭を抱えて歩いていると、突然「止まれ」と僕を呼び止める声がした。振り向くと、近くに停車していたパレスチナ軍の4WDの後部座席からひとりの兵士が、こっちに来いと人差し指を上に向け、クイっと折り曲げている。いったいなにごとだろう。僕は緊張した。車に歩み寄ると、後部座席の男が話しかけてきた。車にはほかに3人の兵士が乗っているようだ。
「何人だ」
「日本人」
僕がそうと返すと、男はいきなり真面目な顔でこう言った。
「俺にインビテーションカードを書いてくれ」
招待状……? わけがわからないので詳しく聞くと、「招待状を書いて、俺を日本に連れて行ってくれ」というのだ。だけど招待状がなにを意味するのかわからないし、もしそんなものがあったとしても、どこにどう出せばいいのかわからない。どう考えても非現実的な頼みだったから断らざるをえなかった。でも、「ノー」と一言で突きかえすことのできない切実さのようなものが男にはあった。だから僕は「まだ半年以上、旅を続けるつもりだから難しい」と言った。
それに理由も聞けなかった。このように頼まれている以上、理由を聞くのが当たり前かもしれないが、踏み込んではいけないような気がしたのだ。
男は仕方がないとばかりに眉をつりあげ、不意に「あれを知ってるか」と宙を指さした。
そのころパレスチナの街では壁という壁に選挙ポスターが貼られ、まるで小学校の運動会で万国旗がたなびくみたいにいろんな種類の旗が縦横無尽に空に走っていた。男が指さしているのはそのうちのひとつ、緑色の旗だ。
「なんの旗?」
僕が尋ねると、男は言った。
「ハマス」
初めて聞く名だったから、僕は素朴に訊いてみた。
「ハマスはいいの? 悪いの?」
すると男は、車中の3人を牽制するように横目を走らせ、一瞬ためらってから、「いい」と答えた。本音なのか、空気を読んだのか、どちらかわからない口ぶりだったが、そのためらいが気になった。僕は「覚えとくよ」と言って、男たちと別れた。
1週間後の1月25日、パレスチナ評議会選挙でPLOの主流派をおさえてハマスが圧勝し、初めて与党になったことを僕はエジプトのダハブという街で知った。ハマスが過激派であることもそのとき知った。あの男の、あのためらいに胸が詰まった。
*
そうやって、いろいろな国でいろいろな体験をした。けれど『輝ける闇』は僕がどこでどんな経験をしようとも、平然と語りかける強さをもち、体験に溺れるなと釘を刺してきた。
それはベトナム戦争の実相を丹念に炙り出した、ひたすら悩ましい私小説だ。日常と非日常が境い目なしに渾然一体となった戦時下のベトナムで、まるでそれが作法であるかのように、開高氏は衝動的、確信的に自己を低迷させる。何日、何ヶ月そこに滞在しようと自身は異邦人でしかなく、通りすがりでしかなく、当事者でないことの罪深さをどこまでも深く追い求める。そしてあらゆる事物に異様なまでの執着心を燃やし、見るもの、聞くもの、嗅ぐものを、精神のもち米といっても過言ではない豊穣で粒だちのよい文体で、ネチネチ、モチモチ、多情多恨に、多湿につぶやく。
いずれの1行も明敏で明晰なのに、1ページになると泥濘がひろがり、いざ1冊になってみれば、たしかにまばゆいばかりの闇が実体として立ち現れる。
心に残るのは大尉の黄金の胸毛、夜明けに水瓶のそばでブルっと震えるベトナム人女性のシルエット、そしてメコンデルタに長城のようにそびえ立つ夕焼けだ。
その茂みからマーク・トウェインがひょいと顔を出した。開高氏は突如として滔々とマーク・トウェインの『アーサー王宮廷のヤンキー』の批評を数ページにわたって繰り広げるのだ。まだ読んだことのない小説の息づかいに、胸が弾んだ。
さがしもとめていたものがこんなところにあった。ここに何もかもが書かれてあった。たった1日に100億円から200億円に達するめくらむような浪費をアメリカ人はいまこの国でやっているのだが、すべては75年前に書かれた200円たらずのこの1冊の文庫本にある。発端から結末が、細部と本質が、偶然と必然が、このドン・キホーテとガリバーが手を携えてゆく物語のなかにあった。人びとは空想小説のなかでたたかい、おびえ、死につつあるのだ。
*
今回もそこまで読んで、『輝ける闇』を閉じた。11月のバリは日が暮れてもあたたかく、いつまでもそこに座っていられるが、そろそろ文字が見えづらくなってきた。晩飯を食べに行くため、部屋のベッドに本を放り、宿を出た。
翌日、晴れてM氏と再会することができた。だけど特別感動的ななにかがあるわけではない。そんな間柄ではないのだ。それに僕を迎えにきてくれたのはM氏だけではなかった。M氏の幼なじみで彼女のYさんが隣にいた。あろうことかM氏はYさんのお金でバリに来ていて、僕の飛行機代もバリの滞在費もすべてYさんが出すという。Yさんは気さくでカラッとした人だった。J君にも無事お金を返し、それから数日間、僕たちはウブドを心ゆくまで満喫した。
そうして東京に帰って最初に読んだのは、もちろん『アーサー王宮廷のヤンキー』だ。旅のあいだ焦れに焦らされ手に取ったのだから、夢中にならないわけがない。とあるアメリカ人現場監督がひょんなことからアーサー王時代のイギリスにタイムスリップし、持ち前のタフネスと技術を駆使してハチャメチャを繰り広げる長大な物語である。いくら絶望の淵に追いやられても、主人公は理知とガッツと反骨精神で切り抜ける。そこが現場であるかぎり、解体衝動と建築衝動を抑えることができず、たくらみは常に改革でなければならず、その場しのぎでこしらえた乱暴は啓蒙と化す。白は灰になり、灰は黒になり、黒はふとした拍子に白となる。
そして特筆すべきは、ただの冒険活劇でおさまるのではなく、主人公であるちゃきちゃきのコネチカット・ヤンキーを通して、マーク・トウェインがあらゆる場面で文明批評を繰り広げていることだ。主人公が19世紀末のアメリカを称賛すればするほど皮肉が沸き立ち、因習にまみれた6世紀のイギリスを痛罵すればするほど、時代を超えた人間の原像が立ちあがる。おもしろすぎて、おもしろいと言う以外、小説に拒まれる初めての経験となった。
*
21世紀も四半世紀が過ぎたいま、この小説がSFの文脈で語られることはほとんどない。なんせ19世紀末にはジャンルとしてのSFはまだないし、マーク・トウェインはSF作家と見なされていない。だけど主人公がタイムスリップしている点で、広い意味ではSFであると言えるだろう。爆薬や石鹸、広告、そして電話といった近代の技術を6世紀のイギリスに持ち込む構図も、歴史改変SFの草分けと言えなくもない。
この『アーサー王宮廷のヤンキー』が僕という作家の基礎となっていることは間違いない。この1冊が僕に「小説を書きたい」と思わせてくれ、めぐりめぐって『聖武天皇素数秘史』という歴史改変SF小説を書かせてくれたのだ。
ここに興味深い話がひとつある。マーク・トウェインは1835年11月30日に生まれたのだが、実はその2週間前にハレー彗星が地球に接近していた。後年それを知った氏は、死の1年前に「私はハレー彗星とともにやってきた。だからともに去らねばならない」とうそぶいたという。しかして見事、1910年4月21日、ハレー彗星が地球に最接近した翌日に心不全で亡くなった。つまり作品以上に、氏の存在そのものがSFなのである。
そして2061年7月28日、ハレー彗星はふたたび地球に接近する。おそらくその前後で、氏はなんらかのかたちで地球に再降臨を果たすのでないか、と僕は踏んでいる。およそ75年程度の周期で地球に近づくハレー彗星の存在が氏にとって生と死を意味していたとするなら、それがもう二度と起きないと考えるほうが難しい。ハレー彗星とはマーク・トウェインの魂の乗り物──ふるさと──であり、ハレー彗星と地球のあいだで降臨と昇天を繰り返す超越的な運動体こそマーク・トウェインと考えざるをえないのだ。
ちなみに実は1986年にもハレー彗星は一度地球に接近したのだが、そのときは太陽の向こう側を走っていた。なんと過去2000年間でもっとも観測しづらい年だったという。言い換えれば、過去2000年間でもっとも降臨のチャンスがなかったということだ。だけどここに不可解な事実がひとつある。その年の1月、アメリカのスペースシャトル〈チャレンジャー号〉が打ち上げ直後に爆発するといういたましい事故が起きたのだ。もちろん偶然かもしれない。だが僕は、そこにマーク・トウェインのDNA――諦めずに策を弄するヤンキーの痕跡を感じてしまう。「降臨の道が閉ざされたなら、別の方法で突破するしかない」そんな発想のもとに無謀な計画を立て、チャレンジャー号へ干渉したのではないか、と。しかし結果失敗し、シャトルを爆発させてしまった。
だからまだハレー彗星は、いやマーク・トウェインの魂は輝く塵の尾をたなびかせ、宇宙をひた走っている。2023年12月に遠日点(太陽からもっとも遠い地点)に達したということで、いまは地球への帰途にある。
僕は知りたい。2061年7月28日、この世界はどうなっているだろう。その日地球に降り立つ氏は、僕たちの社会をどのように批評するだろう。どうしても聞いてみたいのだ。
だから僕はその日が近くなったら、マーク・トウェインを探す旅に出かけようと思う。冗談で言っているわけではない。僕は21世紀中葉に氏の言葉を──総括と無数の小片を──求めている。氏は20世紀のほとんどを見ないまま地球を離れたが、ハレー彗星となって宇宙をめぐる150年間に地球でなにが起きたかくらい、つぶさに知りえているだろう。氏であれば人工衛生や宇宙探査機やISSなどをギミックにして地球の情報をたやすく収集できる。もちろん僕たちにはわからない奇想天外な方法によって。むしろ宇宙からの視点も得ながら、分厚い言説を新たに磨きあげているにちがいない。
ならばそれを聞き出さねばならない。そのために、どこにどんな姿で降臨するのか、降臨したらどのような行動に出るのか、見当をつけなければならない。著書のなかに必ずその手がかりが隠されているはずだ。
20年近く前のあの日、ラマラの路上で声をかけてきたあの軍人の顔を正確に思い出すことはもうできない。だけど記憶とは不思議なもので、表情や仕草はぼんやりと、その光景ははっきりと思い出せる。彼が言った、「俺にインビテーションカードを書いてくれ」という言葉が頭から消えない。爆撃され、入植され、消滅させられようとしている人たちのたったひとりが、あのとき一瞬ためらい、「いい」と言った。その一言から育っていった現実はあまりにも残酷だ。
いまから35年と10ヶ月後、僕はマーク・トウェインを探す旅に出る。その途中にもう一度パレスチナに立ち寄るつもりだ。そこに彼らの望む平安があることを信じている。


藤琉
1 コメント
- TM2025/10/21 16:26
豊かな読みものだった。M氏はまるで小説の人物それもとりわけアクの強い人物であり、エピソードが虚構じみている。僕自身、剥き身の越境者として旅する姿は一般的な観光客の枠を越えていて、読み手は日常の遠くに誘われる。 マーク・トウェインは最近『ジェイムズ』を読んで合わせて『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んだ。確かにあれもまた当時のアメリカから抜け出す物語だったが、そこから『アーサー王宮廷のヤンキー』のSF設定やハレー彗星に重ねられたSF的射程の広さは想像できなかった。ハックやトム・ソーヤだけではマーク・トウェインは捕らえられないのだろう。 彗星の戻って来る未来。それを想像することこそ文学に託すことができるものかもしれない。





