SFつながり(5) Rien.|高木ケイ

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ゲンロンα 2020年7月14日配信

〈ゲンロン 大森望 SF創作講座〉の関係者を中心に、ゲンロンとかかわりの深い書き手によるリレーエッセイコーナー「SFつながり」。今回は講座の第1期でゲンロンSF新人賞に輝き、現在発売中の『SFマガジン』8月号で、巻頭を飾る短編「親しくすれ違うための三つ目の方法」を発表した高木ケイ(高木刑よりペンネームを変更)さん。今週金曜日配信予定の『ゲンロンβ51』からの先行掲載です。

 講座当時から水準の高い作品を発表し大きな注目を集めたものの、一時はSNSのアカウントを削除し、連絡が取れなくなっていた高木さん。「復活を遂げるまでのエピソード、心境の変化などを寄せてほしい」という編集部からの依頼に対する、高木さん一流の返答をお楽しみください。

 なお、SF創作講座は9月スタートの第五期受講生を募集中です。出身者から日本ファンタジーノベル大賞、メフィスト賞、創元SF短編賞など新人賞受賞者を続々輩出する注目の講座。詳しくは公式サイトをご覧ください。

 また大森望さんに「2020年代の日本SFを背負って立つ才能の出発点」と評された、高木さんのゲンロンSF新人賞受賞作『ガルシア・デ・マローネスによって救済された大地』はゲンロンSF文庫001として大好評発売中です。ぜひあわせてお読みください。(編集部より)
 
 おれの頭上にいくつもの水面がある。

 水面の一つ一つは二リットルのペットボトルにしっかりと詰められて、ライザーに並べられている。おれは作業前に水面の数と種類を確認している。三十八歳のおれはアルチュール・ランボーより一つ年上で、ルイ十六世の一つ年下だ。そういう年頃だ。おれは腕を伸ばしてミネラルウォーターのペットボトルに手をかける。二十四時間営業のこのスーパーマーケットでは、陳列棚の上のライザーから在庫を補充する品出しと、レジでの接客業務が並行して行われる。終電過ぎまで客足は絶えることなく、なおかつ品出しも効率よく行わなきゃならない。休憩時間がなくなってしまう。

 ようやく、落ち着いてきた。

 右膝を悪くしてしまったので、低い位置の品出し作業が苦手だ。片膝をつくと激痛が走る。病院では異常は発見されなかった。仕事を変えるしかないんじゃないですかね、とアドバイスをもらい、診療費を支払う。転職サイトを覗いた方がましだった。

 バックヤードから引き出された追加の在庫が際限なく通路に並べられていく。おれは膝の向きに注意しながら体重をかけてダンボールの上部を押し込み、軍手をはめた指を差し入れて糊付けされたダンボールを機械的に開いていく。

 薄っぺらなユニクロのチノパンのポケットに入れた財布とスマホがくっきりと、腿の上に浮かび上がる。スマホというのは何でこうだんだん大きくなっていくんだ? 昔使っていたiPhone5は小さくてとても良かった。何年も使っているうちにバッテリーが膨れ、液晶画面が浮き上がり電源が入らなくなってしまった。あの中には貴重な思い出の写真も入っていたはずだ。SF創作講座の飲み会で、柄にもなくおれはピースサインで写真に納まっている。いつの写真だろう。講座の最初? 最後? うすぼんやりとは覚えているが、それ以上記憶の解像度を上げる気分にもなれない。あの頃のスマホは小さくて良かった。スティーブジョブズだって生きてたしおれだってピースサインぐらいした。今じゃジョブズは地中でおれは水中だ。複数の水底に沈んでて、一度や二度水面に顔を出せたところで足しにもならない。

 しかもミネラルウォーターのペットボトルには地下八百メートルから汲み上げたと書いてある。深すぎる。

 夜中の三時にお客様は来ない。牛乳パックの在庫に取り掛かる。冷蔵ケースの何段目に並べる商品かで、在庫の出せる本数が決まってくるためメモを参照する。おれは財布をメモ帳に使っている。というより、小型のシステム手帳に小銭入れや札入れカード入れが合体したものを財布に使っている。おれがこの仕事でレジに立ってみて、まず最初に知ったのが財布の魅力だった。会計の時、人は必ず財布を出す。そして人は毎日同じ財布を使う。顔や背格好より、財布の方がずっと人の印象として残りやすい。よく磨かれたコードバンの赤みがかった二つ折り財布、ジブリのキャラクターが印刷されたビニールの財布、藤色のクロコダイル柄が箔押しされた高級ブランドの長財布、おれも何か、そういった個性を手に入れたかったのだ。この間リフィルを差し替えたばかりで、中身はほとんどまっさらだ。

 何もなしリヤン

 何もなし、というのはルイ十六世からの引用で、彼は趣味の狩猟が不首尾に終わると手帳にそう書き込むのだ。一七八九年七月十四日にも就寝前の彼は手帳にそう記した。バスティーユ牢獄が襲撃された日だ。それからの四年間、彼はじわじわと退路を断たれ最後は断頭台の露と消えたわけだが、この、何もなし、という言葉にはなかなか含蓄があるようにおれには思える。いや、実際にはないのだが、つまり何もなしという言葉には一切含蓄がないということ、後から振り返ってみても想像力の付け入る隙がないこと、こういったことがまさにおれの気分で、ここ一、二年の間、思えばずっとそうなのだ。人生丸ごとの不首尾に対して、その不毛さを事細かに記述する気力もなく、強いて語るなら、何もなし、の一語だけ。もちろんこの一語に華美な装飾を施して、失われた情報を嘘っぱちの感傷でデコードしてやれば、事実のように見えるだろうし、きっとおれにはそういう作業が必要なのだ。だけど工場を回教の寺院に仕立て上げたランボーだって、結局死ぬ間際に残したのは取引した象牙の本数を記したつまらないメモだ。瀕死のランボーにそれ以上望めないじゃないか?

 ついでに言えば晩年のランボーは腫瘍で右足を切断している。
 ぴんぽーん!

 誰かがレジ前の呼び出しボタンを押したのだ。「お客様が、一階レジにてお待ちです」女性の声。ぴんぽーん! ただいま伺います少々お待ちくださいませと叫びながらおれはレジ前へと引っ立てられていく。品出しをやりながら接客も同時に行うこのシステム、批判するつもりはないが、どうしてもある種のイレギュラーなアクシデントとして接客を行うという構造になってしまうので、お客様第一というスーパーの本質と相性が悪いのではないかとおれは思う。そのような気分が、システムの都合でわざわざ醸成されてしまう。こんな失礼な話はない。とはいえ不快な態度をあらわにして接客するなんて言語道断で、お客様相手にはとりあえず大きな声とにこやかな笑顔は忘れない。自分の感情と接客態度を一致させない。心のこもっていない、最高の笑顔を見せること。

 まったく首と体がてんでばらばらなのだ。

 お待たせいたしましたいらっしゃいませ。お客様の顔をちらりと見る儀式を終えてから、かごに注目する。基本は重い商品をかごの底に、軽い商品を上に詰めるのだが、ここで一つ問題が生じるわけで、つまりお客様だって軽いものを上に、重いものを底にして会計に臨んでくる。かごに積んである配置をレジを通しつつ正確に再現しなければならない。それと厄介なのは卵だ。卵は重くて柔らかい。なるべく軽い、納豆、カップ麺、スナック菓子などを卵の上に配置する。理想は紙パックの牛乳などを横倒しにしておいて、その上に卵を置く作戦だ。そう思って失礼しますと言いながら飲料を横倒しにして配置すると置いたそばからマイバッグに詰めるタイプのお客様が現れる。これはレジ係としては助かる場合とやりにくい場合と一長一短で、確かにかごから商品があふれる心配はなくなるが、レジを通す順番の計算が狂う、かごに商品を置く際にお客様の手が接触する、中途半端なタイミングで回収をやめられるとまた計算が狂うなどがある。そしてそういうお客様はたいてい卵を最後までとっておく。

 肉を縦置きにするのは許されるのかとか、長ねぎや花束をどうかごに収めるかとか、解決すべき問題はまだある。話を戻そう。このお客様はかごを使ってない。商品をレジ前に直置きである。お客様によってはわざわざレジの左側、つまり会計済みの商品を置くべきスペースに会計前の商品を並べる、会計が済んでも立ち去らない、前に進まない、距離を異様に詰めてくる、商品を手に持ったまま渡さない、世の中には多種多様なスタイルがあり、多くの人間はそのようなスタイルが自分一人のマイルールであることにまったく気付かない。世の中の普通というのはせいぜい九割五分ぐらいの人間にしか当てはまらない、二十人に一人は独創的なスタイルで世の中を渡っておりそして人間隅々まで調べれば何かしら独特なスタイルで通していることが一つや二つはあってしかもそれを世の標準だと当人は信じて疑わないのだ。共和国万歳! 幸いこのお客様は扱いやすい位置に商品が置かれている。ハーゲンダッツのアイスが二つ、メロンソーダ味のお酒。

 酒の上には無料のレジ袋がかぶせられている。本来お弁当用に用意された無料のレジ袋は一回のお買い物につき一枚と決められていて、だが実際二枚三枚取ったからといちいちお客様を咎めるのもどうかと思うので事実上黙認なのだ。問題はこの、無料の袋を取った後どこに置くか。この袋はレジを通す必要がない。つまりこのままお客様が持っておくか、会計済み商品のスペースに用意するのが正解なんだが、これはかなりの難問であり正答率は非常に低い。多くのお客様が良かれと思って会計前のスペースにこの無料のレジ袋を商品と一緒に並べる。店員はそれを左に受け流す。この一手が大きな時間のロスを産む。店員がレジを打つ速度は厳密に計測されておりスコアとして毎週掲示板に貼り出される。初心者は一〇〇〇ぐらい、上級者ともなると二〇〇〇を超える。この数値がどういう計算ではじき出されるのか不明だが、とにかく一瞬たりとも気が抜けず無料のレジ袋一枚、この一枚に幾多のレジ係が泣かされているのは確かなのだ。中にはプライバシー保護の観点からか完全に商品を覆うように上からレジ袋をかぶせて差し出すお客様もいる。いったいどんな商品が隠されているのかわくわくしたくなるんだが、葬式の時、死者の顔に白い布をかぶせる所作みたいでおれはあまりぞっとしない。もっともそれは思い違いで、もしかしてお客様は白いレジ袋を商品にそっとかけてやりながら、小さい頃、ぬいぐるみを寝かしつけていたことを思い出しているのかもしれない。

 袋とお酒の缶をいっぺんに掴み、左手に持ち替えるタイミングであくまで失礼な印象を抱かれないように優雅に、レジ袋だけを清算済みのかごにふわりと送り出しながら、缶をレジに通す。固定式のセンサーはレジ正面と底面に設置されているのでこのような三百五十ミリリットルの缶の場合、横向きにして手首をひねればどちらかのセンサーがたいてい拾ってくれる。反応しない場合は手で掴んでる部分にバーコードが印刷されている可能性があるので持ち替える。缶は簡単だがお菓子の箱、四連パックのヨーグルト、冷凍食品などは思わぬところにバーコードが印刷されていてルービックキューブに挑む猿のようにおれはセンサーの前で箱をこねくり回すのだ。首尾よくセンサーがバーコードを読み取るとブザーが鳴る。酒・タバコの場合はこうしてブザーが鳴るのでお客様の外見から二十歳以上かどうかを確認する。二十歳未満なら当然、毅然としてお断りしなければならない。しかし深夜帯に酒を買いに来る若者というものはたいてい大声で、集団で、それだけで何か威圧的で緊張が走る。自信に溢れ声の大きな人間というのは悪気がなくてもそれだけで他人を委縮させるし、ずいぶん得をして生きている。女性が男性に感じる威圧感というのもこんなものだろうか。そしておれの身体からも、中年男性特有の威圧感、べったりとした嫌なプレッシャーは体臭のように発せられているに違いなく、生きるとはこうして、互いが互いに不快感を押し付け合うものなのだ。その加害性はレジの募金箱にお釣りを放り込むことでいくらか軽減されはするのだろうが、根本的に逃れられるものじゃない。それにしても若者ってやつらは何でお酒をかごに入れる時にあんなに楽しそうに、大声で笑うんだ? あれじゃまるで、悪だくみしてると告白するようなものじゃないか。そう思って身分証の提示をお願いするとちゃんと二十一歳ぐらいの免許証を用意している。考えてみれば二十歳なんて子供だし、子供だって酒が飲める。成熟した大人の態度を求めるのが間違いだ。しょせんおれのいらだちなんてあくまで個人的な怒りであって、なんの正当性もない。昨今では怒りはむしろ連帯のきっかけとしての正義に結び付けられているので、おれは完全に時代に逆行している。レジに通した値段を見て高いとか安いとかそこでまたひとつ盛り上がる。たいていグループの一人以上はすでに酔っぱらっていて、閉鎖されてるイートインコーナーのテーブルに腰かけ大声でわめきたてる。「てかこれから歩くんでしょ?」「すぐ、すぐだから。駅近」「あーそっかタカシん家行ったことないんだ」「マハラジャだから、俺ん家はマハラジャ」「え?」「あっ違うシャングリラ! 間違えた、シャングリラ!」爆笑する面々。どんな家だ?
 タッチパネル式のモニターに表示されたエンターキーを押すとブザーは解除される。左手で商品を清算済みのかごに入れつつ右手でアイスを取る。ハーゲンダッツが二つ。新しい味だ、マスカルポーネ。マスカルポーネというのはおそらくチーズっぽい何かだ。客は若い女性で、人間がたいていそうであるように正確な年齢は分からない。二十歳は超えていると責任上断言はするが、人が自分の望むように見た目を選択しようとしている現代において、見た目だけでその人間が二十歳以上かどうかをひよこ鑑別師のように見抜くなんて趨勢に逆行してる気がする。まあいい。いくら野球ファンから恨まれたって審判は必要だ。大リーグではそろそろAIによるストライク判定が実用化しようとしているし、イーロンマスクのロケットは逆再生みたいに着陸するがそれが何だ? 彼女は、おそらく女性なのだと思うがさっきからずっと何ごとか話している。おれに話しかけてるのではなく耳にAirPodsがはめられてるからスマホで通話してるのだろう。レジ係に入りたての頃はぎょっとしたが、むしろ今じゃやりやすい。人付き合いなんて全部、時と場所を同じくしながら、皆が皆、違うことを考えて、てんで自分勝手のブラウン運動を繰り広げてる方がずっと幸せだ。さっきからハーゲンダッツをくるくる回しているのに側面のバーコードをセンサーが読み取らない。この場合は霜が商品に覆っているのが原因なのでふきん等ですばやく霜をを落とす。二つ目のハーゲンダッツもそうする。

 いよいよ会計だ。この会計というのも現金のほかにもクレジットカード、ペイペイ払いなどがある。クレジットカード払いの場合は一回払いと複数回払いがあるので、カードを預かった場合は「一回払いで承ります」と声を出して確認するのだがたかだかスーパーの買い物で一回払いのほかに何があるんだと絡まれることもしょっちゅうであり、これはだいたい二回払いでお願いしますと要望するお客様と同じ程度出現する。彼女は表示金額を見て、ずっと財布の中身を凝視している。長財布を開いて、小銭を数え、計算している。この現金支払いにも人それぞれのさまざまな癖があり、一枚ずつ出す、手持ちの金をトレイに全部ばらまく、千円札を一枚出した後にずっと小銭入れを眺めているがそれが特に何を意味するわけでもないなど、さまざまな手練手管で翻弄してくるので一瞬だって気を抜けない。レジ係はそのすべてを肯定する。どんな払い方だっていい。どんな会計の仕方だっていい。どんな風に商品を持ってきても、何を買っても、平等であるかのようにちっぽけな人間の器で精一杯受け止めてやる。レジ係が求められるのはそういう包容力で、会計の際にお客様が出すのが金属製のプラチナカードでも、かびだらけの十円玉でも、まったくそういったことは本質ではないし、だから笑顔、笑顔、そういったものを絶やさない。おれはそういう人間になりたかった。おれ自身から見て、なれているとは到底思えない。結局、おれは良いレジ係にはなれなかったんだ。これはきっとそういう告白で、そのためにお客様を、読者を、世界中を不愉快にさせているようなものでとても惨めで申し訳ない。レジ係がこの文章のせいでいわれなき悪意に巻き込まれるのも望むことじゃない。しかし、だったら何でこんなものを書いてるんだ? 何でこんなところに突っ立てるんだ?

 そうだ、でも、おれは肝心なことをまだ聞いてない。

 スプーンお付けしますか?

 レジ横にある小物入れには二種類のスプーン、箸、ストローが用意されている。二種類のスプーンというのはゼリー用の小さな透明のプラスチックのスプーンとアイス用のハーゲンダッツのマークが刻印された白いスプーンで、例えば十個ヨーグルトを買うからと言って十個スプーンを付けてくれと要求するお客様は稀だし、稀であるが存在し、その度にスプーンを十個数えてかごに入れる。面倒だって本音もあるだろうが本音で動いていたら今すぐレジを破壊し、金を踏んだくって逃げ、逃げるついでに総菜コーナーの唐揚げを貪り食うのが筋というもので言うほど人は本音で動いてない。

 彼女は戸惑ったような笑顔を見せた。突然目の前の物体に話しかけられたらそうなるだろう。その時おれは初めて、彼女がマスクを着けていないまっさらな顔なのに気付く。きっとその困惑の端にうっすらと浮かんでいる笑みは、おれに向けられたものではなく、さっきまで会話していた電話の相手へのもので、つい漏らしてしまったんだろう。それとも店員と、客との関係で、彼女が常に心掛けている表面上の快さの鎧なんだろうか? いちいち接客中にこうしたことを考えるのは気持ち悪く、倫理に反する。だからおれは日ごろそのような不気味な思考を働かせながら接客作業を行っているわけではないということを改めて、再度、念押しする。何もなし。すべてはこの一語に付け加えられた、想像力による余計な修飾だ。彼女はおれに向かって意外なほどはっきりとよく通る声で、はい、お願いしますと答えた。

 いくつお付けしますか?

 二つ、と言いながら、彼女は左手でおれに向かってピースサインを作った。


ゲンロンSF文庫001 高木ケイ『ガルシア・デ・マローネスによって救済された大地』 2018年5月17日刊行 電子書籍のみ ゲンロンショップ:https://genron.co.jp/shop/products/detail/284 Amazon:https://amzn.to/2ZqkU13

高木ケイ

1982年生まれ。ゲンロン大森望SF創作講座第1期に参加(高木刑名義)。「ガルシア・デ・マローネスによって救済された大地」にて第1回ゲンロンSF新人賞を受賞。最新作「親しくすれ違うための三つ目の方法」は現在発売中の『S-Fマガジン』2020年8月号(早川書房)に掲載。
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