大福とドライアイス、そして物語ること 3月7日午後5時ぐらいから 日付のあるノート、もしくは日記のようなもの 番外篇|田中功起

大福の話をしたい。
大福、といっても和菓子のことではない。猫の名前である。
身体を丸めて寝るときの姿や毛並みの柔らかさから付けた名前だ。とはいえ、大福といっても和菓子のように真っ白ではない。毛色はむしろグレーが多く、白い毛は胸元からおなかにかけてだった。それでもなぜか、ぼくと妻は家にやってきたその猫を大福と呼んだ。
思い返せば、二人の生活の中で猫と暮らすのは初めてだった。子どものころに実家に猫はいたし、ロサンゼルスに住んでいたときは二階に住む大家さんで友人のアーティスト、ユアン・マクドナルドの飼い犬、シェイディを預かったこともある。でも、一人暮らしのころも、結婚して二人暮らしになってからも、動物と共に長く暮らす経験はなかった。なぜ大福を譲り受けたのか、あまり明確な理由はなかった気もする。日本に帰国して京都生活にも慣れてきて、猫がいるといいよね、みたいな軽い気持ちだったと思う。
友人のアーティスト、五月女哲平くんの実家で子猫がたくさん生まれたことを知り、ぼくと妻で連絡をして一匹、引き取ることにした。慣れない環境に直面して小さな身体を震わせていた子猫を、ぼくらはJR恵比寿駅に迎えに行き、そのまま新幹線でとんぼ返りした。心配になりながら何度も籠の中をのぞき、大丈夫だよと声をかけながら駅に着き、家まではできるだけ揺らさないようにそっと歩いて帰った。
新しい空間に、最初は恐る恐るだった子猫はいつのまにかその家にも慣れた。一年、二年とたつうちに、階段を二階まで颯爽と駆け上がり、家中を縦横無尽に探索し、ぼくの仕事部屋にまで潜入するようになる。さまざまなケーブルを噛みちぎり、いたずらをしたあとは本棚の隅に隠れるようになった。奥から引っ張り出し、ほこりまみれの大福を何度も拭いた。外に出かけて遅くなるときは大福の様子が心配になり、同時に、入ってほしくない部屋はしっかり扉を閉めた。太りすぎて尿路結石になってからはダイエットのために決まった量の食べ物が出る自動機械を導入し、旅行に行くときはペットシッターを頼むことにした。大福がいる生活がデフォルトになった。帰宅の言葉は「ただいま、だいふくー!」。娘ができてからは、大福はお兄ちゃんということで、二人とも一緒に育っていった。おそらく動物と共に生活をするひとは同じような経験をしていると思う。大福は家族の一員だった。
そして、ここからは喪失をめぐる話だ。
当時、すぐにこの原稿を書こうと思ってメモしていたところから始めたいと思う。少し時制がぐちゃぐちゃする。
この数日、毎日ドライアイス工場に通っている。
あなたは、自宅付近のドライアイス工場を調べたことはあるだろうか。ぼくが調べてみると自転車で行ける距離に工場はあった。一日に四、五キロぐらい必要だとネットに書いてあり、ひとまず二日分で八キロくらいかなと言うと、工場の事務員は、今日は四キロにして明日も来てください、と言った。作業員のひとには、何に使うのですか、と聞かれたので、猫ですと答えると、ドライアイスの塊をさらに小さく切って紙に包んで渡してくれた。ぼくその工場に何日通っただろう。
その前日、ぼくは大学で、キュレーションと批評についてのトークに参加していた。展覧会を企画することそのものがいかにして批評性を持ちうるのか、というテーマだった。ぼくが話し始めて少したったとき、妻から携帯に着信があった。ぼくがトークに参加していることは知っているはずだから、なぜ電話をしてきたのか不思議に思った。着信は複数回に及ぶ。30分程度のぼくの基調トークが終わり、休憩のタイミングで電話をすると、いまタクシーの中だという。大福が突然痙攣してぐったりして動かなくなってしまったから動物病院に向かっている。大福のかかりつけの病院がわからなかったから教えてほしかった。でもいま別の病院に着くところだからまたあとで連絡する。けいれん?え、どういうこと?
ぼくは切りのいいところでトークを抜けだし、動物病院に向かう。妻の目は腫れて、泣き疲れて呆然としていた。四歳の娘は心なしか元気がないけど、いつも通りに見えた。母を支えようと、きっと小さいながらに気を張っていたんだと思う。
一緒に病院から家に帰ると、たくさんのカードが床に散乱していた。妻は、大福のかかりつけの病院がわからずカードを探していたようだ。引っ越しをしてから病院も変わり、まだぼくも妻も名前を忘れるほどだった。動物保険証に病院の名前が書いてあるかもと思っていたようだけど、カードは今年からデジタルになっていて、実物のカードはなかった。娘は、ママは大福を抱えながらずっと、どうしようどうしようどうしようどうしよう、って言っていたよ、と教えてくれた。妻はぐったりした大福(水のようにぐにゃっとしたと彼女は言った)を抱えて、娘を連れて近所のひとに近くの動物病院について聞いて回り、タクシーを捕まえ、タクシーの運転手が教えてくれた救急動物病院に向かった。しかしそこは夜診のみで閉まっていて、もう一度運転手が調べてくれて、なんとか別の動物病院にたどり着くことができた。
妻は、私が取り乱したのは、痙攣のあと大福はその場で亡くなってしまったことに気づいたからだと、しばらくたって教えてくれた。死の原因は動物病院の医師にもわからなかった。喉に何かが詰まっていたわけでもない。尿結石になったのもずいぶん前で、そのあとは健康そのもので、兆候はまったくなかった。その日の朝、ぼくが見たときも元気で、出窓に向かってぴょんと飛び乗った。その後ろ姿が最後だった。ぼくがトークの最中に妻の電話に出れていれば、かかりつけの動物病院に行けたかもしれない。心臓マッサージが少しでも早ければ......。ぼくはそうやって、なんですぐに電話を取らなかったのかくり返し自問することになる。
死化粧をして呼吸を止めた大福はまだ柔らかく温かかった。なでているといまにも喉をゴロゴロ鳴らしそうだった。大福、いったいどうしたの?
そしてぼくは葬儀までの間、遺体を腐敗させないためドライアイスを毎日買いに行った。
時制の乱れは、ここからリアルになる。大福の死は、些細な日常の中でフラッシュバックのように蘇ってくる。大福の死のあと、引っ越しをしてからずっと布で覆っていた窓にロールカーテンをつけたす。朝になって、ロールカーテンを開ける度に、ああ、大福がいたらきっとここから見える景色を見たかっただろうな、とくり返し思う。
ぼくと妻は、大福の亡くなった翌日から最後の彼の行動について何度も何度も話した。大福はこの家にきて幸せだったかな、亡くなる直前は苦しくなかったかな、最後はどんな気持ちだったのだろう。
痙攣の直前までいつもの定位置に大福は寝ていた。妻のベッドの上の方だ。ちょうど妻の頭に触れるか触れないかの場所が好きだったようだ。夕方、保育園から妻と娘が帰ってきてリビングのテーブルで何かをしていると、寝ていた大福はすっと起きて、スタスタとやってくる。その姿が妻の視界に入る。でも、こちらに向かってくる途中で、突然倒れる。そして、痙攣を起こして足を何度も突っ張る。妻は急いで走り寄り、抱きかかえる。大福は、そのとき、水のようにぐにゃっとする。抱きかかえることさえできない。どうしようどうしようどうしようどうしよう。そこに娘が駆け寄る。携帯をどこに置いたのかわからなくなってしまった妻は、娘に言う。携帯がない。娘は携帯を探し妻に渡す。そして彼女はぼくに電話をかける。
ぼくと妻はカーペットに座り、大福が倒れたあたりをそっとなでる。大福どうしちゃったんだろうね。なぜだろうね。そして、ぼくは、妻の布団に大福の足跡がまだ残っていたことに気づく。妻はそこでは寝れないと言って、布団は昨日のままにしていた。
ここで寝ていた大福は起き上がり、この歩幅で歩いてきた。布団に残っていた足跡の歩幅を観察する。いつものまっすぐした足取りに見える。ふらふらしていたわけじゃない。きっとカーペットのところにくるまでは、普通に歩いてきたんじゃないかな。たぶん大福は、二人がテーブルで何かをしているから、ちょっかいをだそうと思っていつも通りに歩いてきたんじゃない。
さらにぼくたちは、妻と娘が帰ってくる前のことを考えてみる。不意に、自動機械の音声が大福を呼ぶ。「大福、ご飯だよ、大福」。ぼくと妻の録音された声が部屋に響く。あ、そうか、大福はベッドで寝る前にちょうどご飯を食べたんだ。皿には食べ残しがなかったから、自動機械で出てくる一回分のご飯を大福は全部食べていた。食べて満足して、そしてベッドの定位置で寝ていたんだ。そこに二人が帰ってくる。妻と娘がテーブルで何かをしているから、ちょっとのぞいてみよう、いつものようにテーブルにのって二人にちょっかいだしてみようと動き出したんだ。きっとそうだよ。そうだね、大福にとってはいつもどうりだったのかもね。そして痙攣して突然亡くなったのかもね、苦しまずに。いや、あるいは苦しいってことを二人に教えにきたのかもよ。でもだとすればあの歩幅じゃないよね。そうだね。やっぱりちょっかいだそうってやってきたんだよね、いつもの感じで、大福は、たぶん......。
ぼくと妻は突然死の直前の大福の動きを推理し、気持ちを想像する。
亡くなった彼を前にして、無意味なことかもしれない。でもぼくらはそれによってなんとかこのいきなりの出来事を、突然の喪失を、彼の死を受け入れようとしている。想像して語ることで、そこになんとか、大福の物語を見いだす。いや、むしろ死を物語ろうとする。最後の行動を物語り、理解しようとする。納得しようとする。これって、いわば、原初的な物語の場面に立ち会っているみたいじゃない。死を受け入れるために物語を紡ぐこと。これが物語ることのはじまりだよ。そんな感覚があった。いや、それは大げさかもしれない。だけど、ぼくたちにはどうしても物語ることが必要だった。彼の死の場面を思い描くことが必要だった。
物語ることでひとは何かを受け入れる。例えば傷を受け入れていくのかもしれない。
医療人類学をベースに議論を展開する哲学者のアネマリー・モルは、完治が難しい糖尿病患者を調査する中で、患者を含む家族にとっての物語の機能について書いている。何もできないとしても、矛盾を含んだ豊かな「物語」はきっと慰みになるだろう[★1]。おそらくぼくと妻にとって、そしてたぶん娘にとっても、どのように大福が亡くなったのかを分析し、推理し、想像し、そして物語ることは、彼の死を受け入れるために必要だったんだと思う。そうでもしなければ五歳の健康な家族の突然の死を受け入れるのは難しい。
気を張っていた娘も、数日たってからは寝る前によく泣くようになった。大福ともう遊べないね、大福また生まれてくるかな、また生まれてきたら大福って名前を付けよう。そう言いながら、おいおい泣いた。
あれからしばらくたった。だからこうしてあのときのことを書くことができる。でも、時がたっても、再び時制が乱れることがある。日常の些細な行為の中に喪失感が突然に訪れることがある。
扉を閉める。扉を開けておく。
そうした日々の動作の中で妻が気づく。娘も気づく。ぼくも気づく。もう扉を開けておいてもいいよ。ああ、そうか、もう大福がいないから扉は開けっぱなしでいいのか。妻のスタジオやぼくの仕事部屋に大福が潜入しないようにするために、ぼくらはいつも扉を閉めていた。大福がいることがデフォルトの生活習慣を思い出す。ぼくも妻も娘も大福との生活を思い出す。娘はいまでも扉を閉めようとする。まだそこには大福がいるよ、と言っているかのようだ。ぼくと妻は、扉を開けたままにすることが多くなる。そしてぼくらは大福がいない生活に慣れていく。
★1 アネマリー・モル『ケアのロジック』田口陽子・浜田明範訳、水声社、二〇二〇年、168頁。


田中功起
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