日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(12) 生、あるいはウクライナ侵攻について──2月24日から4月13日|田中功起

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初出:2022年4月28日刊行『ゲンロンβ72』
 ソフィーとその母親が家でお茶を飲んでいるとだれかが訪ねてくる。

 だれだろう、こんな時間に訪ねてくるひとはいないはずだけど。そうして玄関のドアを開けると、そこには大きなトラがいる。二人はお腹を空かしているトラを招き入れ、サンドウィッチなどを与える。しかしトラの胃袋は満たされず、戸棚にしまってあった食べ物を食べ尽くしてしまう。冷蔵庫の食べ物も飲み物も、家のなかにあった食料はあらいざらい食べられてしまう。お風呂に入るときに使う水もすべて飲み干されてしまう。そうしてトラは満足し去って行く。

 これは絵本作家ジュディス・カーによる『おちゃのじかんにきたとら』★1のストーリーだ。ジュディス・カーの父アルフレッドは、1930年代当時、政権の座につくかつかないかのころのナチスに批判的だったため、身の危険を感じ、家族でドイツを出る。彼女が子どものころのことだ。家のなかにあるものをすべて食べてしまうトラは、彼女のそうした幼少期のエピソードを反映し、戦争や災害などのメタファーとしてとらえることもできるだろう。もっとも彼女自身はその解釈を否定していたようだけれども。

 いずれにせよ、災難は突然やってくる。日常は取り返しのつかない状態になる。

 



 2月23日はロシアのアーティスト、カジミール・マレーヴィチの誕生日だ。

 彼の1910年代の抽象絵画はとくに有名である。白いキャンバスに白い四角形を描くという「白の上の白」(1918年)は、抽象絵画のはじまりのひとつであり、これ以上は突き詰めようがないという意味で、絵画の終わりでもある。だからそれはシュプレマティスム(絶対主義)と呼ばれた。

 



 ロシアの美術批評家ボリス・グロイスはこのマレーヴィチの抽象的な「白」をモスクワ郊外で行われたパフォーマンスの記録に接続する。70年代、アンドレイ・モナストゥイルスキィを中心とするロシアのアーティスト・コレクティヴ「集団行為」は少数の観客/参加者に向けた、言わばプライベートなパフォーマンスを行う。例えば、指定された場所に観客/参加者が訪れると、遠くからグループのメンバーたちが現れてこちらに歩いてくる、といったシンプルな行為だ。それは写真とテキストで記録され、のちに公開された。

それら(著者註:「集団行為」の行ったパフォーマンス)の記録が文章で描写したのは、パフォーマンス自体よりも、むしろそこに参加した人々の体験や思考、感情であり、その結果として際立った説話性と文学性を帯びることとなった。きわめてミニマリズム的なパフォーマンスは雪に白く覆われた野原で行われたのだが、カジミール・マレーヴィチのスプレマチズム(シュプレマティズム) 絵画における背景を思わせる白い平原は、ロシア・アヴァンギャルドのトレードマークになった白い平面とも重なっていた。[…]スプレマチズムの「人工的」な白い背景と、ロシアの「自然の」雪を等価視するということは、つまりマレーヴィチの「無対象の」芸術を生のなかに置き戻すことであり、[…]かくしてマレーヴィチの絵画は自律的な芸術作品としての性質を失い、ある生の体験、すなわちロシアの雪のなかでの生の記録として解釈しなおされることとなる。★2


 現実離れしたマレーヴィチの抽象を「集団行為」は具体的な生の体験として再解釈する。絵具の白は冷たい雪原になり、そこに描かれる四角形は人が雪原を歩いた足跡になる。さらに郊外への移動の時間は、途中の何気ない会話や水筒に入れた飲み物の温かさ、そうした実感を伴い、シンプルなパフォーマンスを個別具体的で、個人的なかけがえのない体験にする。

田中功起

1975年生まれ。アーティスト。主に参加した展覧会にあいちトリエンナーレ(2019)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2017)など。2015年にドイツ銀行によるアーティスト・オブ・ザ・イヤー、2013年に参加したヴェネチア・ビエンナーレでは日本館が特別表彰を受ける。主な著作、作品集に『Vulnerable Histories (An Archive)』(JRP | Ringier、2018年)、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)など。 写真=題府基之
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