日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(10) 育児と芸術実践──11月29日から12月24日|田中功起

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初出:2021年12月24日刊行『ゲンロンβ68』
 娘はいつの間にか1歳と半年を迎え、元気に歩き回っている。

 ぼくのことも妻のことも「ママ」と呼び(この原稿の校正中に「パパ」と言い始めた!)、「どうじょー」と手にもっているものを差し出してきて、「お疲れさまでした」とこちらが言うと深々とおじぎをする。さまざまな動作や言葉はいつの間にかどこかで覚えてくる。保育園で教わったのかと思って、翌朝の登園のときに保育士に聞くと、いや教えてませんよ、と言われることもある。名前を呼ばれて手を上げる動作は、だれが教えるでもなくやりはじめた。

 育児はたいへんだけれども、それでも楽しさを感じることも増えてきた。

 絵本のブラウジングがおもしろい。複数の絵本をあれもこれも読んでほしいとなり、途中でひとつの絵本から別の絵本へとジャンプする。結末までは読まない(そもそも同じ絵本を何度も読んでいるから結末はお互い知っている)。ネット記事をブラウジングしているみたいな状態。はらぺこあおむしはねむりひめの茨の囲いのなかに出現し、ぞうのババールは夜の森でおつきさまのうたを唄い、犬のうんこ!がふうせんねこと共に空に飛び立つ。

 ときにはひとつの物語が編集されることもある。娘は自分でページをめくりたがるから、1枚ずつうまくめくれず、例えば桃太郎の物語は桃が流れてきたと思えば、いきなり鬼ヶ島を目指す海のなかで、鬼たちから財宝を取り返して村に帰ってくるシーンになる。でも途中の文脈が端折られるので、桃太郎と鬼の立場が入れ替わっているように読める。鬼退治ではなく、桃太郎が鬼から略奪しているようにも思えてくる。静かに鬼ヶ島で生活していた鬼たちのところに猛獣らと共にあらわれた桃太郎。痛めつけられた鬼たちが自分たちの財産を差し出す、そんな具合に。

 



 編集する、という作業は目の前にある材料から選び取る行為である。選び、並べ替え、別の意味をそこに与える。ぼくは娘の無意識の編集作業の手伝いをしながら、育児から地続きの芸術実践への道のりを考える。

 キュレーターの職能のひとつが作品を選び、組み合わせ、別の意味をそこに与えることだ。

 今年、2021年はじめ、ぼくははじめてのキュレーションをe-fluxというオンライン・プラットフォームで行った★1。Artist Cinemasというシリーズで、アーティストや映像作家が他者の映像作品を集め、週1で6週間、6作品を紹介するというものだった。ぼくがテーマに選んだのはこの連載でも度々触れている、抽象性と具体性の関係。コロナ禍のなかで「ニューノーマル」などの抽象的な言葉が世界の見方を平板にしている。しかしむしろ個々の具体的な生に着目すべきだ、というのが骨子だ。この考えに合致する映像を集めた。友人のものや若い世代のもの、歴史的な映像も含めて、集め、組み合わせ、そこから観客にテーマを見いだしてもらう。例えば太平洋戦争中の日系アメリカ人強制収容に関するものや障がいをもつ在日コリアンの無年金問題について、ロサンゼルスにある中国系アメリカ人が営むシルク屋の個人史についての映像などを上映した。個々の生を見つめ直すそれらの作品たちを改めて見ることで、ぼくたちが学べることもあるのではないかと思っている。

 



 選ぶことは必ずしもキュレーターだけのものではない。

 ロシアの美術批評家ボリス・グロイスは「多重的な作者」というテキストのなかで、アーティストの仕事がものを制作することからものを選ぶ行為に変化したと書いている。そのはじまりにマルセル・デュシャンがいる。デュシャンは現代アートのはじまりとして位置づけられるアーティストのひとりだ。もっとも有名なのはいわゆる1917年の《泉》である。男性用便器を横に倒し、自身も結成に協力したニューヨークの独立美術家協会での無審査展覧会に「R. Mutt 1917」と署名して出品しようとし、展示を拒否された。このエピソードも含めてこの作品は知られている(加えてオリジナルの便器は紛失している)。のちにこうした既製品を芸術作品として展示することを指して「レディメイド」とデュシャンは呼ぶ。グロイスによれば、デュシャン以降、作ることだけではアーティストの行為は不十分であるという。


[……]創造するという行為が、選ぶという行為になったのだ。つまり、デュシャン以後、芸術の対象となる物を作り出すだけでは、その制作者をアーティストと見なすにはもはや不十分なのである。そのためには、アーティストは自分で作り上げた物をさらに選んで、それが芸術作品であると宣言しなければならない。したがってデュシャン以後、自分自身で作る物とほかの人によって作られた物とのあいだには、もはや違いがない。どちらも、芸術作品と見なされるためには選ばれなければならないのである。今日、作者とは、選び、認定する者のことである。デュシャン以後、作者はキュレーターとなった。アーティストは自分自身の作品を選ぶのだから、まず自分自身のキュレーターである。★2


 そう、現代においてはアーティストがキュレーターなのである。ぼくがe-fluxで行ったように他のアーティストが参加する展覧会をせずとも、そもそも自分で作ったものをどのように選んでどう展示するのか、という行為自体がキュレーションの行為なのだ。個展をイメージすればわかりやすいと思う。どの作品をどのように展示するかを考え、個展のタイトルを決め、ステートメントを書く。これはすべてのアーティストに当てはまる、ぼくらの主要な仕事のひとつでもある。

田中功起

1975年生まれ。アーティスト。主に参加した展覧会にあいちトリエンナーレ(2019)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2017)など。2015年にドイツ銀行によるアーティスト・オブ・ザ・イヤー、2013年に参加したヴェネチア・ビエンナーレでは日本館が特別表彰を受ける。主な著作、作品集に『Vulnerable Histories (An Archive)』(JRP | Ringier、2018年)、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)など。 写真=題府基之
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