日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(5) 頭のなかの闇(その1)──1月21日から2月15日|田中功起
初出:2021年2月19日刊行『ゲンロンβ58』
以前、友人と24時間ぐらい飲み続けたことがある。途中から記憶が曖昧だし、何をしゃべったのかも覚えていない。ろれつもまわっていなかったと思う。でもとにかくよくしゃべって、頭もすっきりしていた、という感覚だけは残っている。そのころは自分の身体は無限に元気でなにも変わらないと思っていた。
京都市では40歳をすぎると健康診断の案内が届く。案内には、ある程度の自費を払うことにはなるが、人間ドックも紹介されていた。人間ドックなんて中年が受けるものだと思っていたけれども、自分もいつの間にかそういう年齢になった。ロサンゼルスに住んでいたころはよくプールにも通っていた。日本に帰ってきてからは、なにかと仕事が忙しくて身体も動かしていない。それでもとくに身体の不調は感じていなかった。妻のすすめもあるし、よし、まずは受けてみよう。せっかくだから脳ドックのオプションもつけてみたら、と妻。いわゆるMRI(Magnetic Resonance Imaging)の検査がプラスされる。MRIは電磁波を使って脳の血管などを撮影することだけど、寝そべるあの装置のSFっぽい感じも含めて、自分の脳の状態が画像として記録されるというのはなんだかすごい、とまずは思ったのだ。それは数年前の話。
いま思えばまったく呑気なものだ。今回はそのときのことについて書いてみたいと思う。
京都市では40歳をすぎると健康診断の案内が届く。案内には、ある程度の自費を払うことにはなるが、人間ドックも紹介されていた。人間ドックなんて中年が受けるものだと思っていたけれども、自分もいつの間にかそういう年齢になった。ロサンゼルスに住んでいたころはよくプールにも通っていた。日本に帰ってきてからは、なにかと仕事が忙しくて身体も動かしていない。それでもとくに身体の不調は感じていなかった。妻のすすめもあるし、よし、まずは受けてみよう。せっかくだから脳ドックのオプションもつけてみたら、と妻。いわゆるMRI(Magnetic Resonance Imaging)の検査がプラスされる。MRIは電磁波を使って脳の血管などを撮影することだけど、寝そべるあの装置のSFっぽい感じも含めて、自分の脳の状態が画像として記録されるというのはなんだかすごい、とまずは思ったのだ。それは数年前の話。
いま思えばまったく呑気なものだ。今回はそのときのことについて書いてみたいと思う。
その前にアネマリー・モルの『ケアのロジック』にちょっと迂回してみよう。
モルはその本のなかで「ペイシャンティズム」という聞き慣れない考え方を提唱する。これが「患者主義」と漢字で訳されるのではなく、カタカナ表記になっているのはおそらく理由がある。それはフェミニズムとの類比関係を元にしているからだろう。モルは本のなかで、女性運動とフェミニズムを対比的に捉えてこう書いている。
フェミニズムが疑問を投げかける「女性」と「男性」というカテゴリーは、ペイシャンティズムにおいては何に類比されるか。それは「患者」と「市民」である。民主的な社会では、市民はその社会を構成する基盤に位置づけられる重要な存在だ。市民は政治に対して自由に議論を交わし、批判精神をもち、そして投票する。啓蒙された、自律的な思考と身体をもち、いわば近代的な人間像をそのまま体現する。それが市民である。
モルはギリシアのポリスにまで遡って「市民」の定義を吟味していく。他方、ここではわかりやすい現代的な例に着目しよう。
「市民」は、まず身体をコントロールできる人々として定義される。その例としてあげられるのが会議における身体だ。モルはパブリック・ミーティングを例としてあげているけど、普段のどんな会議をイメージしてもいい。会議がつづいているあいだ、身体(その生理反応)はコントロールされていなければならない。「身動きしたり、そわそわしたり、あくびをしたり、居眠りをしたり、叫んだり、身体を掻きむしったりしてはいけない」(もちろん、会議の最中に居眠りしている人はいるだろうけど)。あなたの身体は会議をしているその場所にいる。けれどもその身体は「不在」でなければならないのだ。会議では、思考と発言だけが求められる。生理的な反応を示す身体自体はそこでは不要なものだ。
モルはそれに対して、糖尿病の人々を念頭において考える。糖尿病の身体は、必要となれば血糖値の低下を調整するために何かを食べたり、血糖バランスを計るために席を離れたりすることもある。しかし会議という環境はそうした糖尿病の身体を前提としない。
「市民」であるということは、身体の生理反応を環境に合わせてコントロールできる、ということを意味する。
モルはその本のなかで「ペイシャンティズム」という聞き慣れない考え方を提唱する。これが「患者主義」と漢字で訳されるのではなく、カタカナ表記になっているのはおそらく理由がある。それはフェミニズムとの類比関係を元にしているからだろう。モルは本のなかで、女性運動とフェミニズムを対比的に捉えてこう書いている。
解放は抑圧よりはましかもしれないが、同時に、予想以上に限定的な理想でもある。女性運動が教えてくれたように、「女性」と「男性」の平等を目指すことは、女性が(実践的に可能なかぎり)男性と同じようになることを「許される」ことを意味していた。しかし、どれほど素晴らしいものに聞こえようとも、「男性」が基準とされていることに変わりはない。さらによくないことに、「実践的に可能」という限定があるので、結局、実践的に問題がある場合には女性は決して「男性と同じように」はなれないということになる。そのため、女性運動においては、解放は、フェミニズムというもう一つの戦略によって補完されてきた。男性と女性という形象を動かすかわりに、フェミニズムはカテゴリーに干渉する。「女性」と「男性」という定義そのものに疑問を突きつけ、男性を標準とすることに干渉する。患者運動も同じような想像力を持ちうるのではないかというのが、私の提案だ。[★1]
フェミニズムが疑問を投げかける「女性」と「男性」というカテゴリーは、ペイシャンティズムにおいては何に類比されるか。それは「患者」と「市民」である。民主的な社会では、市民はその社会を構成する基盤に位置づけられる重要な存在だ。市民は政治に対して自由に議論を交わし、批判精神をもち、そして投票する。啓蒙された、自律的な思考と身体をもち、いわば近代的な人間像をそのまま体現する。それが市民である。
モルはギリシアのポリスにまで遡って「市民」の定義を吟味していく。他方、ここではわかりやすい現代的な例に着目しよう。
「市民」は、まず身体をコントロールできる人々として定義される。その例としてあげられるのが会議における身体だ。モルはパブリック・ミーティングを例としてあげているけど、普段のどんな会議をイメージしてもいい。会議がつづいているあいだ、身体(その生理反応)はコントロールされていなければならない。「身動きしたり、そわそわしたり、あくびをしたり、居眠りをしたり、叫んだり、身体を掻きむしったりしてはいけない」(もちろん、会議の最中に居眠りしている人はいるだろうけど)。あなたの身体は会議をしているその場所にいる。けれどもその身体は「不在」でなければならないのだ。会議では、思考と発言だけが求められる。生理的な反応を示す身体自体はそこでは不要なものだ。
モルはそれに対して、糖尿病の人々を念頭において考える。糖尿病の身体は、必要となれば血糖値の低下を調整するために何かを食べたり、血糖バランスを計るために席を離れたりすることもある。しかし会議という環境はそうした糖尿病の身体を前提としない。
「市民」であるということは、身体の生理反応を環境に合わせてコントロールできる、ということを意味する。
ぼくはこれを読んでいて、乳幼児をあやしながらオンラインでのミーティングに参加したことを思い出す。子どもはもちろんミーティングをしていることの意味を理解していない(いや理解していたとしても関係ないのかもしれない)。こちらの都合とはお構いなしに自分の生理欲求にまかせてわめくし泣く。ときにはおむつ替えをするために席を立たなければならないこともある。ミーティングでは泣き声によって相手の声が聞こえなくなり中断も生じる。相手は不快に思うかもしれないし、次の仕事がえられるかどうか不安になる。仕事環境のなかに育児が地続きに挿入されることって、現在どれだけ受け入れられているだろうか。
患者の身体は(そして育児の身体も)「市民」として求められている状態に答えられない。
次に「市民」は自由な精神をもつものとしても定義される。自律的で批判的な判断を下すことができる、啓蒙された「市民」は、身体の不調から離れた場所で、議論を交わしながら公共性を育むかもしれない。自律的な個人が住まう民主的な社会は必要だ。けれども、そこで生まれる公共性には、他者への依存によって生きられる患者の身体や、育児や介護をするケアの身体は含まれているのだろうか。例えば、自身の病気やケア労働のために、集中して物事を考える気力も体力もない個人は「市民」に含まれうるだろうか。身体の不調をもつ患者の身体も、終わりのない(もちろんそこには喜びもある)子どもの世話に結びつけられた親の身体も、近代社会が前提としてきた「自由な市民」の理想からはほど遠い。でも問題なのはその「市民」という前提なのだとモルは問いかける。
ペイシャンティズムは「患者」と「健康な人々」の平等を求めるのではなく、「正常」のかわりに病気と共に生きることを出発点にすえようとする。病気をしない人生を送れればいいかもしれないが、あなたもいつ病気になるともわからない。「患者の生」を前提とする(いまのぼくなら「育児のある生」を前提に加えてみたくもなるけど)社会を構想することは、自分には無関係とは言い切れないんじゃないかな。
無関係とは言い切れない。
数年前ならば、このフレーズはあくまでもひとつの可能性として書かれ、ぼくはそれを抽象的に捉えていたはずだ。でもそれは唐突に、具体的なものになる。つまり、ぼくはここからぼく自身が受けた手術について書いていくことになる。最初に断っておくけどそれほど深刻なものではない。大きなドラマもない。自覚症状はまったくなかった。だからぼくが「病気」を経験している/していた、といえるのかどうかもわからない。
日常の傍らにある「病気」。「病気」は唐突に現れるけど、そのあとには経過観察というだらだらとした付き合いが待っている。それは中間を生きることでもある。ぼくは普段は健康体であるかのように生活している。いや、実際のところ、健康なのだ。でも半年ごとの検査のたびに、自分の身体の状態を意識することになる。ぼくは「患者」と「健康な人々」のあいだを行ったり来たりしているような、中途半端な存在だ。そういう人は多いんじゃないだろうか。ペイシャンティズムはその2つのカテゴリーのあいだにあるグレーゾーンをしっかりと受け止めてくれる。そもそも人間の身体機能は衰えていくから、病気と共にある生を社会の前提にすえる、という考え方はそれほど不思議なものではない。
患者の身体は(そして育児の身体も)「市民」として求められている状態に答えられない。
次に「市民」は自由な精神をもつものとしても定義される。自律的で批判的な判断を下すことができる、啓蒙された「市民」は、身体の不調から離れた場所で、議論を交わしながら公共性を育むかもしれない。自律的な個人が住まう民主的な社会は必要だ。けれども、そこで生まれる公共性には、他者への依存によって生きられる患者の身体や、育児や介護をするケアの身体は含まれているのだろうか。例えば、自身の病気やケア労働のために、集中して物事を考える気力も体力もない個人は「市民」に含まれうるだろうか。身体の不調をもつ患者の身体も、終わりのない(もちろんそこには喜びもある)子どもの世話に結びつけられた親の身体も、近代社会が前提としてきた「自由な市民」の理想からはほど遠い。でも問題なのはその「市民」という前提なのだとモルは問いかける。
ペイシャンティズムは「患者」と「健康な人々」の平等を求めるのではなく、「正常」のかわりに病気と共に生きることを出発点にすえようとする。病気をしない人生を送れればいいかもしれないが、あなたもいつ病気になるともわからない。「患者の生」を前提とする(いまのぼくなら「育児のある生」を前提に加えてみたくもなるけど)社会を構想することは、自分には無関係とは言い切れないんじゃないかな。
無関係とは言い切れない。
数年前ならば、このフレーズはあくまでもひとつの可能性として書かれ、ぼくはそれを抽象的に捉えていたはずだ。でもそれは唐突に、具体的なものになる。つまり、ぼくはここからぼく自身が受けた手術について書いていくことになる。最初に断っておくけどそれほど深刻なものではない。大きなドラマもない。自覚症状はまったくなかった。だからぼくが「病気」を経験している/していた、といえるのかどうかもわからない。
日常の傍らにある「病気」。「病気」は唐突に現れるけど、そのあとには経過観察というだらだらとした付き合いが待っている。それは中間を生きることでもある。ぼくは普段は健康体であるかのように生活している。いや、実際のところ、健康なのだ。でも半年ごとの検査のたびに、自分の身体の状態を意識することになる。ぼくは「患者」と「健康な人々」のあいだを行ったり来たりしているような、中途半端な存在だ。そういう人は多いんじゃないだろうか。ペイシャンティズムはその2つのカテゴリーのあいだにあるグレーゾーンをしっかりと受け止めてくれる。そもそも人間の身体機能は衰えていくから、病気と共にある生を社会の前提にすえる、という考え方はそれほど不思議なものではない。
コロナ禍についても同じように考えることができるかもしれない。「ウィズ・コロナ」とは、だれしもがいつかは感染症にかかる時代になったということだ。ぼくもあなたも、感染症にかかるまでの途上にある、宙づり状態にあるといえる。それは当事者と非当事者の境界がなくなることを意味する。すべてはグレーの中間的な領域がだらーとつづく世界だということだ。コロナと共にあるというのはそういうことだと思う。となれば、みなが感染症にかかる前提で、医療も、流通も、学校も、会社も、社会も再考されなければならない。「健康な人々」が前提にあると、感染者を排除する思想になる。でもだれもがかかる前提ならば、感染者数が問題ではなく、死亡者数を減らすための医療体制の充実こそが問題になるだろう。そうすれば感染に対して社会全体がもうすこし寛容になるかもしれない。モルのペイシャンティズムを現在の状況につなげて再解釈すると、そうなると思う。
なかなか本題に入らずに迂回をつづけているのには理由がある。実は自分の受けた手術やその「病気」について書くことは、少し気が引けるのだ。アーティストが、展覧会や書籍などを通じて手術を受けたことや自身の病気を公表する場合がある(ぼくもいまそれをしようとしている)。病気の情報は確実に作品の見方を変えるだろう。ぼくにはそれがいいことなのかどうかはわからない。例えばあいちトリエンナーレ(2019年)で最初に発表した《抽象・家族》(2019年、劇場版は2020年)は、手術前から構想され、退院後の回復のさなかに作られた。同じ方法論ではもう作ることができないかもしれないという覚悟のうえだったので、ぼくにとっては「遺作」のような意味合いをもっていた。実際、撮影はしんどかったし、回復期に何か起きないともかぎらない。ぼくはもちろん当時、そうした情報をそのプロジェクトを発表するときのステートメントに書いていない。
これにも理由がある。
ぼくがこの10年ぐらいのあいだ行ってきたことは、当事者性の強い問題を非当事者としてどこまで引き受けることができるのか、という問いをめぐる実践だった。逆にいえば、自分にとっての当事者性の強い問題をどうやって非当事者に開いていくのかについてはあまり考えてこなかったということだ。当事者であるということは、ぼくの制作実践をその当事者性のなかだけに囲い込み、作品と観客との距離を生んでしまう可能性がある。それは自分とは関係ないこと、観客はそう判断してすぐさま去っていくことができる。いや、でも《抽象・家族》はミックス・ルーツの主人公たちによる「家族」がテーマであったから、ぼく自身の手術や病気の話を絡めて書く必然性はなかったんだけどね。
観客との距離を生んでしまうという懸念は、実際に観客からの言葉を通して現実になる。《抽象・家族》のエンドクレジット後のフッテージで、ぼくはある事柄を語る(これについてもいつかこの連載で書くかもしれない)。そのシーンを見た観客がこのようにいうのを展覧会会期中のイベントのなかで聞いた。この作品にはマイノリティしか登場しない。田中さんも「それ」を語ることで「そういう人」であることを表明している。そのようにしてこの作品はマジョリティとマイノリティを分断し、マジョリティである自分たちを排除している。問題含みの言い方はどうあれ、そこでは「距離」が生まれてしまうことが批判的に語られていたんだと思う。
自分の「病気」について書く、ということはまさにこの距離を生み出すだろう。でも先に書いたように、実際には当事者と非当事者の境界線は流動的で、無数に引かれうるグレーなものだ。病気や育児という境界線はあっという間に変化する。数年前にぼくは育児について非当事者としてテキストを書いたことがあったけど、いまそれを当事者として読み返している。
人間ドックとオプションの脳ドックの結果が2週間ぐらいで届いた。そこにはD判定の部分があり、すぐに脳神経外科を受診するように書いてあった。たまたまその日の値がおかしかった、というような、でも念のため精密検査をオススメします、みたいなことだろうと思って1ヶ月ぐらいほっておいた。
予約を入れて脳神経外科を訪ねると、その医師はぼくにでもわかる程度に動揺していた。どう判断していいのか考えあぐねている感じだった。隣にはMRIで撮影したモノクロのMRA(血管撮像)の立体画像がある。モニターに映された画像には白い線がたくさん走っている。それはぼくの脳の内部にあるくねくねとした血管たちだ。医師はその立体画像をくるくると回す。しかし、そこには違和感がある。左右対称のはずなのに、なぜか左半分には血管を表す白い線たちがない。画像では反転するから、つまり右脳の部分にはなにもないのだ。真っ黒な空洞。闇が脳の半分を覆っている。どうやら右脳の血管に血液を送り出すための、いわば元栓のような大動脈が詰まっているようなのだ。精密検査が必要なようです。脳血管造影検査、つまりカテーテルによる造影剤を使った検査が必要です。
ええと、ちょっと待って、ぼくは右脳を使わずに生きてきたってこと? んん? どういうこと? というか、造影剤? カテーテルってなんですか?
無限にあると思っていた健康は、こうして終わりを告げる。そもそも自分の身体がどういう状態にあったのかさえもぼくは自覚できていなかったようなのだ。
予約を入れて脳神経外科を訪ねると、その医師はぼくにでもわかる程度に動揺していた。どう判断していいのか考えあぐねている感じだった。隣にはMRIで撮影したモノクロのMRA(血管撮像)の立体画像がある。モニターに映された画像には白い線がたくさん走っている。それはぼくの脳の内部にあるくねくねとした血管たちだ。医師はその立体画像をくるくると回す。しかし、そこには違和感がある。左右対称のはずなのに、なぜか左半分には血管を表す白い線たちがない。画像では反転するから、つまり右脳の部分にはなにもないのだ。真っ黒な空洞。闇が脳の半分を覆っている。どうやら右脳の血管に血液を送り出すための、いわば元栓のような大動脈が詰まっているようなのだ。精密検査が必要なようです。脳血管造影検査、つまりカテーテルによる造影剤を使った検査が必要です。
ええと、ちょっと待って、ぼくは右脳を使わずに生きてきたってこと? んん? どういうこと? というか、造影剤? カテーテルってなんですか?
無限にあると思っていた健康は、こうして終わりを告げる。そもそも自分の身体がどういう状態にあったのかさえもぼくは自覚できていなかったようなのだ。
次回は2021年4月配信の『ゲンロンβ60』に掲載予定です。
★1 アネマリー・モル『ケアのロジック 選択は患者のためになるか』、水声社、2020年、81−82頁。
田中功起
1975年生まれ。アーティスト。主に参加した展覧会にあいちトリエンナーレ(2019)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2017)など。2015年にドイツ銀行によるアーティスト・オブ・ザ・イヤー、2013年に参加したヴェネチア・ビエンナーレでは日本館が特別表彰を受ける。主な著作、作品集に『Vulnerable Histories (An Archive)』(JRP | Ringier、2018年)、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)など。 写真=題府基之
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