日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(4) 怒りと相互確証破壊──11月19日から12月17日|田中功起

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初出:2020年12月25日刊行『ゲンロンβ56』
 怒りはどこからやってくるのだろうか。あとからふり返ればまったくなんで怒ったのかもわからないくらい、些細なことに対して怒っていたということがある。

 



 子どものころの記憶(といってもぼくには小さいときの記憶があまりない)、小学校高学年か中学のころだったと思う。電話口で父親が誰かと激しく口論をしている。ぼくは自分の部屋で寝ていたけど、となりのリビングから声が聞こえてきて、それに耳をすます。当時、父は義兄(つまりぼくの叔父)の経営するコンビニエンス・ストアのひとつを任されていた。店長という立場は父にとってはどういう意味があったのだろうか。あとから気付いたのは、そのころが実家の最初で最後のバブル期だったということ。周囲の住宅環境から完全に取り残された戦後のバラックみたいなその家は、そのころだけ内装が少しきれいになったのを覚えている。しかし父も母もとにかく疲れていた。24時間シフトの穴埋めを、雇われ店長の父とパートとして働く母が受け持っていた。理由はわからないけれど、何かしら気に入らないことがあったのか、経営者の義兄と雇われの父は口論の末、決裂する。その後、親戚の集まりなどで2人が顔を合わせることがあっても親しく会話を交わしたことはなかった。

 父は仕事を変え(母はしばらくパートをつづけていたけど)細々とした収入でなんとかやりくりした。そんななかでどうやってぼくを私立の美大に行かせることができたのかは深い謎だ。だから、家に何か不具合があっても改善することができずそのまま放置された。夏は異常に暑く、冬は屋外よりも寒い。そのひどい環境のまま、2人は不満そうでもなかったけど、ほんとうはどうだったのだろう。

 祖父も短気だったという。ぼくが覚えているのは短気なころの彼ではなく、孫をあやす優しいおじいちゃんとしての彼だった。ペヤングソースやきそばが好きで、かやくとして入っている小さな乾燥キャベツを食べ残すと、「野菜を食べないと大きくなれないぞ」と言われたが、そもそもその小さな乾燥野菜にどのくらいの栄養があったのか、ぼくにはいまでも疑問である。

 

 おそらく父と祖父から受け継いだもののひとつに短気さがある。

 自分でもどこに地雷があるのかわからないけど、突然、沸点を越え怒りがあふれ出す。止められなくなる。以前、グラーツのクンストハウスで個展をしたとき、長めの滞在だったため民泊のアパートをアシスタント・キュレーターが予約してくれた。空港についたあと、タクシーで移動し、とある団地の前で妻と下ろされた。はじめての土地でどのようなエリアなのかもわからない。休日の夜。いわゆる郊外のような雰囲気で、人通りもない。鍵の入手方法も、その部屋が建物のどこにあるのかもわからなかった。建物のゲートをあけてなかに入る。暗がりのなかでたたずむ若者に、この建物のなかに民泊の部屋がないか、と聞くけどわからない。そもそも英語が通じなかったのかもしれない。それにいま思えば、団地のどの部屋が民泊になっているのかなんて住人にはわからないだろう。部屋のオーナーに電話をしてもつながらない。休日の夜だから美術館のオフィスに連絡してもつながらない。めぼしい階段を最上階まであがると、どうもそれらしい部屋の扉があるが(そこだけリフォームされている)、鍵はどこにあるのだろうか。スーツケースをいくつか抱えたまま再び電話をかける。妻もぼくも長旅で疲れていた。

 やっとアシスタント・キュレーターの携帯につながる。彼女もはじめて予約したところだから詳しくわからないという。「Why you didn’t check the place before?」せめて事前に確認しておくべきじゃないだろうか。ホテルではないわけだし。今夜はここに滞在できないようだし、いまからでもホテルを取るべきだ。いますぐホテルに連絡してくれ。ぼくは怒りに任せて彼女を責め立て、電話を切る。

 そのあと、しばらくして部屋のオーナーにやっと電話がつながる。彼は鍵の入手方法を説明してくれ、部屋に入ることができた(扉の横にあった黒い箱がキーボックスで、小さな蓋をあけるとなかに数字のボタンがあった。暗証番号を押せば開く仕組み)。

 部屋で落ち着いてみると、なぜさっきあんなに怒ってしまったのか、自分でもよくわからなくなった。妻も、あれは怒りすぎだという。こうした仕事をつづけていると、相手の確認ミスによるトラブルはよくあること。アシスタント・キュレーターは経験が浅い場合もあるから、些細なミスの、ひとつひとつに怒ってもしかたない。

 



 ぼくたちは2009年にロサンゼルスに引っ越した。ふとした会話で妻からこんなことを言われた。最初ははじめての共同生活で喧嘩もたくさんしたけど、2年目にダウンタウンの南にある工場街に引っ越したあとは、ほとんど喧嘩をしなかったよ。ぼくには意外だった。仕事ではよく怒っていたようだけれども。
 結婚したあとにいきなり海外生活をしはじめたわけだから、なかなかその海外での生活にも2人の生活にも慣れなかった。お互いのこともわからないことが多く、だから衝突もした。それが2年目からだんだんと調整ができて、なんとかやり過ごすことができるようになっていたようだった。むしろ彼女はぼくのアーティストとしての活動や行動を尊重してくれていたのだと思う。

 子どもができてからのこの半年のあいだ、妻とはよく口論になった。原因はぼくの身勝手な行動。いままでのアーティストとしての自由な行動は、子育て中心の生活のなかで変える必要がある。いまのままでは自己中心的な、思いやりのない行動になってしまう。それはぼくの言葉遣いや、ほとんど無意識の行動のなかにも見え隠れする。習慣化されている行動を変えるのはなかなか時間がかかる。こうしてほしくない、と言われたことを、わかったと受け入れたあとに、ふたたびやってしまう。習慣は恐ろしい。逃れられない。すぐに忘れて引き戻される。

 例えば、ぼくの、日用品を使った最初期の映像作品群は、モノに対する日々の習慣的な見方を変え、別様にモノを捉えるためのエクササイズのようなものだった。ひとつのモノに複数の使用法を見出すこと。ところがいまの自分はどうだろうか。習慣的な行動から別様な行動へと変化することはできているだろうか。些細な日常的なディティールだけど、ぼくはいままで部屋の入り口でスリッパを脱ぐとき乱雑だった。子どもを抱きかかえながら移動する場合、足がひっかかって危ない。普段の脱ぎ捨て方をやめ、別な行動をしなければならないと頭でわかっていても、身体の動きはそれを理解しない。少し気をぬくとすぐにもとにもどって、スリッパは混乱する。些細なことのなかにこそ喧嘩の火だねはある。

 



 怒りは、相手との関係のなかで推移する。関係性のバランスが崩れたとき、怒りはおさまらず取り返しがつかなくなる。

 



 ぼくは唐突に相互確証破壊(Mutual Assured Destruction、通称MAD)を思い出す。核による抑止が危うい均衡のなかで成り立つという冷戦期の戦略コンセプトのことだ。相手国からの最初の大規模な核攻撃がありうるとする。その上で、その攻撃を受けた側の国は報復としての十分な核攻撃(確証的な破壊)ができる備えがある場合、少なくとも報復の可能性があると相手国からみなされれば、相手国は先制核攻撃をしない。なぜなら大規模核攻撃を先制することによって双方の国が結果的に消滅するだけだからだ。当時、アメリカも旧ソビエトも相手からの報復を恐れ先制核攻撃に踏み切らなかった。いや、もし踏み切っていたら世界は終わっていたかもしれないけど。報復攻撃によって自国が壊滅するという「恐怖」を双方が感じているかどうか、という心理的な均衡にこの世界の命運がかかっていたというのはいまから考えても恐ろしい。

 

 と、知ったようなことを書いているが、これは完全な受け売りである。

 ぼくは2017年にミュンスター彫刻プロジェクトに参加する。プロジェクトの舞台として選んだのはミュンスターにある核シェルターである。1978年、まさに冷戦期に作られた複合商業施設、その地下駐車場の最深部が核シェルターとしての機能を持っていた。下見をした当時、すでに老朽化が激しく、どのように操作するのかもわからないスイッチパネルも含めて時代遅れのその「機能」は、翌年、つまりちょうどぼくがプロジェクトを行う予定だったころに核シェルターとしての役目を終え、単なる駐車場になった(だから使うことができた)。

 さまざまな文化背景を持つ8名の地元住民たちに参加してもらった、9日間に渡る複数のワークショップは「いかに共に生きるか」(How To Live Together)の意味を問うものとして設計した★1。そしてそれぞれのワークショップにはファシリテーターとして複数のコラボレーターに関わってもらった。そのひとりにカイ・ファン・アイケルス(Kai van Eikels)がいる。彼は、当時ベルリン自由大学で演劇理論などを教えていて、パフォーマンスや演劇の実践的なワークショップも行っている。

 カイは冷戦期に作られた核シェルターという参照点から、相互確証破壊をベースにした「Second Strike: How To React (Politically)」という、即興パフォーマンスや即興演劇で使われる手法を駆使したワークショップを考えてくれた。相互確証破壊において重要なのは最初の攻撃よりも、報復としての2度目の攻撃、つまりどうリアクションするかである。カイは、これをグループの力学のなかに適応させる。相手の行為や発言に対して、どのように応答するか。それも政治的に。

 身体表現も使った複合的なワークショップだったけれども(例えば身体をずっと動かしていなければならないとか、グループで円になってはいけないとか、小さなルールも提示された)、今回の文脈で重要なのは、「Yes, and......」と相手にまずは応答をしなければならない、という即興演劇の練習方法にならったセクションである。ぼくらは議論をするとき、「いや、でも…」というように、まずは否定から入る。その上で持論を展開するわけだ。しかし、ここでは、応答はまず相手の意見を受け入れることからはじまる。その上で、相手の意見を修正するために何かを付け加える。このプロジェクトのなかでは複数の社会問題を取り上げた。例えばネット上での誹謗中傷をどうするか。参加者たちは、仮に絶対的な権力を持っていて何でも決めることができるとする。少し抽象化して書いてみよう。例えば「ひとつの川を挟んだ土地を人々が自由に行き来できるように橋を架ける」とひとりが決める。しかし次のひとりは、その川をすべての人々が渡ってしまっては混乱が起きる。自由な行き来ではなく、多少の制限が必要だ。しかし「でも、○○な理由で橋はいらない」と相手の提案を否定することはできない。だから、「はい、そして、その橋を人々が渡るときに通行税を取る」と応答する。そうすれば、相手を受け入れた上で、橋を残しつつその機能を奪うことができる。実際のワークショップのプロセスでは、この応答方法が日頃の習慣とかなり違うため、会話が動き出すまでに時間がかかった。

 

 カイのワークショップを通して見えてくるのは、応答の仕方によってその場の状況自体をどのようにでも作り替えることができるということだ。怒りに任せて相手に反応していては、「確証破壊」に至り、後戻りできなくなる。まずは「イエス」と受け入れ、その上で状況次第でどのような言葉をかけるかを決める。もちろん、こうして冷静なときにはそう書くことができる。問われているのは怒りが湧いてきているときにその判断ができるのかどうかだ。いや、でもそもそもあとから考えれば、なぜそれにイラッとしたのかわからないようなことばかりなんだ。怒りの原因を思い出せないものも多い。正直、どうかしていると思う。ぼくは少し前に脳外科手術を受けたけれども(これもまたそのうちこの日記のようなもののなかで書くことになると思う)、怒りっぽさにも脳の状態に原因があったのかもしれないと疑ったことがある。結局、もともと怒りっぽかったと友人にも言われたから関係なかったようだけど。

 もっとも怒りは原動力になることもあるだろう。以前、日本のアートシーンに対してめちゃめちゃ怒っていたら、友人のキュレーターに「田中くんも海外での活動が長い日本人アーティストの伝統を引き継いでいるね」と言われたことがある。怒りつづけることで制作意欲を駆動させることもある。彼はそのとき村上隆さんを念頭においていたみたいだけど。村上さんはよく日本の若手アーティストに対して怒っていた。ぼくは村上さんに個人的に失礼なことをして怒らせたことがあるから、たぶんぼくにも責任がある。これもまた別の話。

 



 怒りとは何だろうか。

 ぼくの短気が、世代を越えて受け継いできてしまったものならば、ここでそのサイクルを止めるべきなのかもしれない。中年になって、いまさらながら習慣の外に出られるだろうか。できるかもしれない。でもなかなか難しいだろう。環境や状況の変化に合わせて、方法に手直しをしつづけることを前回、「ケアのロジック」から学んだ。日々の変化に対して調整をする必要がある。そろそろ6ヶ月になろうとする娘は、ぼくらのそんな日々にはお構いなしに成長する。寝返りを覚え、笑いの表情が豊かになる。あらゆるモノを口にいれ、気にせずにおならをし、すぐに全力で泣く。すべてを委ねてくる小さな生命を前にして、怒りの感情はどこかに消えてしまう。そんなふうに他のこともすべて受け入れられたらと思う。いや、でも、受け入れてばかりでいいのだろうか。むしろ批評的な距離を置いて物事を判断し、現状を疑い、声をあげなければならない。あれ、待てよ、ここで重要なのは相手を受け入れることだ。話を大きくしてはいけない。冷静にまずは相手を受け入れる。イエス、そして……。そして、そのあとのことはまた考えればいい。大きな問題に意識が流される前に、まずはここにある現実的な実践にダイブする。いまここにある育児。問題が起きたら話しあい、わからなければ頼れるひとに頼ればいい。区役所にいる保健師でも、栄養士でも、ヘルパーでも、それぞれの両親でも、友人たちでも。ケアのロジックでは、治療は個人ではなく集団として行われる。医師も看護師も栄養士も理学療法士もその他のヘルスケアの専門家も、そして患者も、その家族も、チームとして治療にあたる。育児もそんな集団的なものとして見えてくる。そしてその集団を駆動させるためには、怒りは不要だ。取り返しがつかないところに落ち込まないように注意しながら怒りの火だねを取り除く。相手を受け入れることによって、自分を変えることによって、この小さな集団を先に進める、ことができると思う。そうできるといいよね。


★1 本プロジェクト《Provisional Studies: Workshop #7 How to Live Together, and Sharing the Unknown》(2017年)は、ドイツで10年に1度開催されるミュンスター彫刻プロジェクト(Skulptur Projekte Münster 2017)にあわせて制作、発表された。現在も以下のリンク先ですべての記録映像を見ることができる(https://vimeopro.com/kktnk/ps7)。カイ・ファン・アイケルスのワークショップは「Day 3」。
 

田中功起

1975年生まれ。アーティスト。主に参加した展覧会にあいちトリエンナーレ(2019)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2017)など。2015年にドイツ銀行によるアーティスト・オブ・ザ・イヤー、2013年に参加したヴェネチア・ビエンナーレでは日本館が特別表彰を受ける。主な著作、作品集に『Vulnerable Histories (An Archive)』(JRP | Ringier、2018年)、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)など。 写真=題府基之
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