日付のあるノート、もしくは日記のようなもの(7) 頭のなかの闇(その3)──5月15日から6月24日|田中功起

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初出:2021年6月25日刊行『ゲンロンβ62』
 朝夕、保育園への送り迎えが日課になっている。

 



 以前のぼくと妻の日々は、朝(といっても昼に限りなく近い時間に)、適当に起きるから毎日がブランチという生活だった。それがいまは6時前に起きて朝ご飯の準備をし、保育園に子どもを連れていくという生活スタイルに変わった。往復で30分ぐらい歩くから身体の調子もいい。普段は出会うことのなかった人々の通勤/通学の姿を見るのも、いまさらながら社会に生きているというリアリティを与えてくれる。これまでの生活スタイルは隠遁者みたいなものだった。都市のなかに生活拠点があっても、その地域にどんな人たちが住んでいるのかを実感として経験することはあまりなかったのだ。

 朝の時間帯は特徴的だ。人間の一生、そのさまざまなフェーズがこの時間のなかに折りたたまれている。見かけるのは子どもから高齢者まで、人生のさまざまな時期の人々の姿。ぼくのように保育園に子どもを送る親、デイサービスを待つ高齢者、ケア・ワーカーに連れられて歩くろう者、仕事に向かう若者や中高生、仕事前に一服している工事現場の労働者やお店を開けるために準備をするカフェの店員。それぞれの生活がある。朝の数十分で出会うさまざまな人々の姿に、人生の機微が凝縮されている。そんな光景が広がっていた。

 



 前回、美術批評(?)へと迂回しすぎて、病気の話がどこまで進んだのか読者は忘れていると思うけど、手術直前まで書いていたのだ。

 まず先に言っておくけど、手術は成功した。

 いや、成功していなかったらそもそもいまぼくはこうやって書いていないだろう。それはわかっている、と思うかもしれない。あ、でも半身不随になってもテキストは書けるかな。

 これはもう2年前、2019年の話。

 その2019年にはなんとも苦い記憶がある。

 ぼくはその年の夏に、あいちトリエンナーレ(以下、あいトリ)という愛知県名古屋市と豊田市で開催される国際美術展に参加した。手術を終えて退院するのは4月半ばだったけど、5月後半には新作撮影の予定を入れていた。進行上、あまり遅らせることができなかったからだ。苦い記憶は、撮影にではなく、あいトリが始まってから起きた出来事に関係する。これは後半で触れよう。

 



 まずは、手術だ。

 ぼくが受けたのは脳血管のバイパス手術で、頭蓋骨の一部を切り取り、適当な血管を頭蓋骨のなかへと導き脳血管に縫合するというもの。詰まっている動脈は脳の内部なのでどうすることもできない。だから外側からのバイパス経由で血流量を増やそうという作戦。頭蓋骨を切り取ると言われたときに疑問に思ったのは、頭蓋骨の外側にある血管をなかの血管に繋ぐわけだから、つまり頭蓋骨は一部開いたままになる? ってこと。そう、その通り、開いたまま。先回りして書いておくと、長方形のかたちに開いている状態になっている。ぎりぎりハガキが投函できるような、そんなサイズ感。もちろん投函しないけど。

 手術は記録撮影をするらしく、映像作家としては、それはぜひとも見たいと思った。4K撮影もできるみたいなので、では4K画質でお願いします(と頼んだけど、忘れてたようでHD画質になっていた)。ところでどのくらいの時間がかかるのでしょうか。5、6時間ぐらいだと思います。この病院では手術回数も多いし、Y先生が担当します(経験豊かな医師とのこと)。安心してください。

 安心のすぐ直後には、さまざまなリスクが説明され(そこに合併症とか、もしものときに対応しますよとか、最悪の事態についての説明とか、が淡々と書かれている)、承諾書類にサインをしていく。何かあったとしても了解済み、とはいえ、ちょっと怖い。はじめての全身麻酔。麻酔医の説明と注意事項、そしてリスクについての承諾書類。サイン・アゲイン。このときまでに、仕事もなにもかもキャンセルしていた(退院後すぐに行う予定のあいトリの撮影だけは、希望として残したままで)。時間ができたので本でも読もう。ひとつはゲンロンが出版している石田英敬+東浩紀『新記号論』、もうひとつはハンナ・アーレント『人間の条件』。

 さて、あとは手術か……。

 あいトリの出演者にも撮影班にも、手術後2週間ぐらいは連絡とれなくなるけど、その間にもろもろ進めておいて、と伝える。

 さて……。

 妻はぼくの母親と妹を呼び寄せようとする。病院近くのホテルを予約し、電車の乗り換えを伝える。二人は慣れない新幹線を乗り継いで訪ねてきてくれた。

 さて……。

 手術前夜、ひとり、ナースステーション前の食堂兼面会室で本を読み始める。少し読んですぐに閉じる。また少し読んですぐに閉じる、読んで閉じる、の無限ループ。

 さて……。

 新作の撮影プランを再検討してみようか。うーん、集中できない。しかたないからベッドにもどろう。だいたいどんな場所でもどんな状況でも眠れるんだけど、今晩はなかなか眠れない。

 そして翌朝になる。さて……。

 



 手術室に移動し、全身麻酔。

 もうしばらくすると眠くなってきますよと担当医に言われる。ああ、そうですか、どのくらいで眠くなるのだろう、と思っていると、いつのまにか寝ていたみたい。手術台に寝ていたところから記憶がいっきに飛んで、術後に一時的に滞在するICUで目を覚ます。いつのまにか口には酸素吸入のためのチューブがついていて、男性器には排泄のための導尿チューブがつけられていた。目が覚めたので、まず口のチューブを外されたと思う。トイレに歩いて行ける状態ではないから導尿チューブはそのまま。先にはポリエチレン製の採尿バッグが、延長された身体の一部としてベッドの脇に取り付けられていた。

 頭はそれほど痛くない。妻や妹、母親がやってきて、手術は成功だったという。

「令和」になったよ。
(レ、イ、ワ?)

 手術があったのは2019年4月1日。新しい元号が発表されたとき。

 ぼくにとって手術は一瞬だったけど、実際は8時間ぐらいかかった。聞いていたよりもずいぶん長い。

 ICUではほとんど寝ていたけど、ときどき目が覚めて、見た夢などを妻に話した。

 手術中だったか、ICUで寝ているときに見たのかうろ覚えだけどフロイトとデリダが夢のなかに出てきた。『新記号論』のせいだと思う。二人は何かについて議論をしていて、そこで日本人らしきアジア系の人物があいだをとりもっている。

 もうひとつの特徴的な夢は真っ黒なドアが遠くにある光景。

 何かを考えようとすると頭が痛い。夢のなかでは「考える」という行為がなぜか物質化していて手で触ることができる。考えること=頭痛をつかむことができるのだ。頭痛をつかんで遠くにある黒いドアに投げ捨てる。デスクトップ上のゴミ箱のアイコンに書類などを捨てるような動作に似ている。頭痛をつかんで投げる。つかんでは投げる、の動作を延々とくり返す。

 同時に教育についてもなぜか真剣に考えている。どこかの大学で教えているわけでもないのになぜ? そして時折、ものすごくいい教育のアイデアが思い浮かぶ、けど、次の瞬間それがなんであったのかは思い出せなくなる。そして頭痛アゲイン。つかんで黒いドアに投げ捨てる。

 翌日だったか翌々日だったか、CTとSPECT(形態を把握するためのCTとは違って、脳血流などの生理状況を把握するための検査)の再検査をして問題がないとわかる。術後良好。ICUから通常の病室へと移動する。いわゆる脳梗塞などの脳に関係する患者が集められた病棟。

 病室に移って最初に行われたのは、変な話でもうしわけないけど、尿道からチューブを抜くこと。手術のときの痛み以上の(いや麻酔が効いていたから痛みは覚えていない)、この世のものとは思えない痛みだった。全身麻酔で手術をした男性はみなアレを経験するのだろうか。ぼくの制作実践のテーマに引きつければ、この固有の経験はそれを経験していない他者と共有できるだろうか。

 



 術後の身体の回復には時間がかかる。頭だけの問題ではなく、全身がとにかくだるい。血流量が増えたことによるてんかんの可能性もあるからイーケプラという薬が投与されている。それもだるさに関係するようだ。とにかく寝て起きてのくり返し。

 最初は症状がひどい人たちを集めた、ナースステーションに近い四人部屋だった。夜眠れないかもしれません、と看護師に言われて、どういうことかわからなかった。こちらはだるいし眠いから大丈夫だと思います。しかし、夜になると、うめき声が聞こえてきた。高齢者のその患者はずっと横になっているから、おそらく床ずれかなにかで身体が痛いらしい。何度も看護師が呼ばれていた。そして1時間おきぐらいにおねしょもしてしまうようだった。おしっこがしたくなったら先にボタンで呼んでくださいね、と言われても、脳の機能障害が関係しているからどうやら間に合わないようだ。そのさらに隣の患者は60代ぐらいだったと思うけど、女性の看護師へのセクハラ発言がひどかった。入院のときにセクハラ行為はしません、という同意書のようなものにサインをしたけど、日常的に問題が多いのかもしれない。痛みと機能障害によってその二人は精神的にも肉体的にもとにかく限界のようだった。

 ぼくは、だんだんと手術の傷が痛くなっていったが、鎮痛剤の量を増やしたり減らしたりするなかで、なんとか回復には向かった。6人部屋に移動になる。トイレも自分でいくようになった。そのほんの少しの距離がうまく歩けない。しんどい。食事をすると、口の筋肉が緩んでいるのかご飯粒が口元についているし、よだれが出ている。それに気づけない。しゃべりたくてもうまくしゃべれない。酔って呂律がまわらないあの感じに似ている。

 6人部屋の患者たちは手術前か後の人が多く、症状が軽めに感じられた。真向かいの40代の患者は脳梗塞になって仕事ができなくなり、アパートを追い出され、友人宅に間借りしていたらしい。しかし友人宅にもいつまでもいられないし、退院したあといままでのような日雇い仕事もできない。これからどうすればいいのかわからない、と市から派遣されたソーシャル・ワーカーに話していた。ずいぶん前に家族と縁を切って大阪に出てきたようで、退院しても家族を頼ることができないらしい。

 聞こえてくる周囲の会話から、その人と家族との関係や個人史の断片が見えてくる。

 トイレの先、ナースステーションあたりまで歩けるようになると、廊下にはリハビリで歩いている人たちがいたことに気づく。ぼくと同じぐらいか少し若い男性が、家族に囲まれて歩く練習をしている。ぼくも状況次第ではそんなふうになっていたかもしれない。

 



 退院したあとも、しばらくはイーケプラを飲んでいた。そのせいもあって集中力がつづかない。どこかぼーっとしている。新作撮影に向けてのミーティングはそのなかで進めていた。

 



 あいトリの芸術監督だった津田大介さんが京都にお見舞いにきてくれた。居酒屋で待ちあわせしずいぶん久しぶりに飲んだ。どういう文脈だったか忘れたけど、コンプレックスの話になる。田中さんは何かコンプレックスはありますか。ええと、そうですね、なんだろう、いまはないけど、以前は背が低いことを気にしていたかな。あんまりコンプレックスはなかったかなあ。

 実はこれ、あいトリで発表した《抽象・家族》のなかのあるシーンへの決定的な前振りとなった。ぼくは津田さんと飲んでから数週間、そういえばコンプレックスってあったかなあ、と考えてしまった。そして思い出したのは吃音のこと。そうだ、吃音だったよ、自分。小学校のころ、人前で話すのが苦手で母音をあ、あ、あ、とか、お、お、お、とくり返して詰まってしまう。自分が言葉にしにくい母音はわかっていたから、言葉を組み替え、言い回しを変えることで苦手な母音が最初にくるのを回避する工夫をしていた。でも教科書の輪読ではそれができない。これがとにかくダメだった。いま思えば国語の教師はぼくが吃音であることを知っていたはずだから、融通を利かせてくれればよかったのになんで読めるまで立たせたのだろう。周りの同級生たちはぼくが緊張して読めないと思っていたから「きんちょー」ってあだ名がつけられた。田中、心配するな、深呼吸をしてから落ち着いてゆっくり読めばいい。いや、そーゆー問題じゃないんだよな、こいつわかってないよ、と心で舌打ち。そのころからそもそも教師全般を信用できなくなっていく。

 



《抽象・家族》というプロジェクトは、ミックス・ルーツの(ブラジル、バングラディッシュ、ボリビア、在日コリアンの親をもつ)四人の主人公たちが擬似的な家族を一軒家で演じ、時折挿入される劇場シーンのなかでお互いの、現実の家族史やライフ・ストーリーを語るという構成の映像作品である(ちなみにあいトリではマルチ・チャンネルの映像インスタレーションとして展示し、ベルリン国際映画祭では映画版として上映した)。ぼくはそこで家族とは何か、そして大きくは日本人とは何かというテーマを扱った。

《抽象・家族》の撮影はなかなかきつかった。30分ぐらい動くと身体がスリープモードになってしまう。何度も横になって仮眠や休憩を頻繁にとる。

 エンドクレジット後のシーンで、撮影する/されるの関係性を反転させ、アーティストであるぼく自身がフレームのなかに登場する。劇場の中央にセッティングされたダイニング・テーブルはライフ・ストーリーを語る場所という設定だったから、ぼくもそこに座って自分のことを話した。ただ、この収録部分は最終的に使用するかどうかを決めてなかった。個人的なことを開示してくれた出演者に向けて、むしろぼく自身のことも共有しておきたいと思ったからだった。いわば余興のようなもの、だった。

 そこで、ぼくは自分と親との関係を吃音と絡めて話している。

 



 ちなみにみなさんはもうお忘れかもしれないけど、あいトリは国内外のアート界だけでなく、テレビのワイドショーも賑わす、大事件となった。主にキム・ソギョン/キム・ウンソンによる《平和の少女像》(いわゆる「慰安婦像」)と大浦信行《遠近を抱えて Part II》(映像のなかに昭和天皇の肖像写真を使ったコラージュを燃やすシーンがある)に対する、右派系市民からの大量の抗議電話をきっかけとして、それらが展示されている「表現の不自由展・その後」という1セクションが閉鎖される。抗議電話の内容のひどさや対応する量が多すぎて、精神的に参っている県職員を守ることがひとつの理由だった。これは日本のレイシズムとナショナリズムが展覧会の一部閉鎖という事態を通して可視化された出来事だったと思う★1。愛知県知事、名古屋市長、右派系市民団体、大阪市長、神奈川県知事や文化庁も巻き込み、いわば政治ショーのような展開を見せた。名古屋市長を中心にした一部の政治家たちはアートだからと緩く考えていたのか、あまりにもストレートに差別を口にした。

 



 会期後半に向けてはレイシズムやナショナリズムよりも次第に「表現の自由」が中心的な話題になる。閉鎖された「不自由展」を「表現の自由」を守るために再開しよう、そのためにはキュレーターもアーティストも芸術監督と協力して戦おう。これって、芸術監督や彼に協力的だったアーティストたちにとって、あるいはメディアにとっても、そして県知事にとっても都合がいい。問題点をずらしフレームアップしているように感じたんだよね。「不自由展」の閉鎖は県知事と芸術監督による判断だったから、もし「表現の自由」を奪ったとすれば直接的には当の二人が批判される対象のはず。もちろん「市民」の要求に屈するかたちでの判断だったとしても。その大量の抗議電話に対応する事務職員たちが苦しんでいたのも理解できるけど。

 ぼくは、「表現の自由」をめぐる空虚な議論よりも、むしろあいトリはレイシズムについて、あるいは天皇をめぐる問題について、人々が学ぶきっかけになりえたと思う。しかし、新聞・テレビ・インターネットなどのメディアによるあおりやアーティストたちの自己顕示欲も相まって、本筋からどんどんと逸れていった。すくなくともぼくにはそう見えた。文化庁による補助金不交付をあいだに挟み、会期終わりに向けて数日間、閉鎖されたセクション、「不自由展」は再開する。不交付問題は、行政からの介入だとして運動化され10万筆の署名を集めた。しかし、しばらくのちに愛知県が自らの瑕疵を一部認めることで補助金が減額され再交付されてしまう。愛知県による文化庁との政治的な駆け引きがあったにせよ、残念な幕引きに思えた★2

 ぼくはその事件のさなか、さまざまなことを学んだけど、やっぱり状況が政治化するよりも、《抽象・家族》を観客に普通に見てほしかったよ、ほんとうは。

 



 ぼくは後に自分の脳みそを見る。

 先に書いたように手術は映像で記録されていたから、手術からしばらく経って、何度目かの定期検診で病院を訪れたとき、その一部を見せてもらった。脳は白くてぶよぶよしていて、なんだかよくわからなかった。血管は干からびたミミズに水をかけて戻したような感じ。自分の身体なのに自分のものとは思えない。それでもそこには血液が流れ、生きている。

 人が生きている、という客観的な事実をその映像は淡々と示してくれた。

 



 今朝も保育園に子どもを送りにいった。人生のさまざまなフェーズにある人々に道すがら出会う。他の誰かから見ればぼくも、この小さな娘も、その風景の一部を構成する見知らぬ誰かとして見えるのだろう。ぼくは彼(ら)であり、彼女(ら)でもある。でもそんなあたり前の光景、人生の一断片に妙に心が動かされている。

 なんか最終回っぽいですが、手術編は終わってもまだまだ連載はつづきますよ……。
 
次回は2021年8月配信の『ゲンロンβ64』に掲載予定です。

 


★1 ぼくは、あいトリに参加しているタニア・ブルゲラが中心となった、主に南米系のアーティストたちによるオープンレターに賛同し、閉鎖されたセクションの再開のための展示ボイコットに加わる。ただ扉を閉めるだけでは、はじめて来る観客にはどこがボイコットしているのかわからないと思ったため、《抽象・家族》の展示空間の扉を半分閉じ、観客は少しなかを覗けるが入れないようにした。展示している映像はオンラインで公開し、会期中には複数回、会場を勉強会のような場として利用した。声明文や観客に理解を求める手紙も書いている。 「表現の自由を守る」(オープンレター) URL=https://www.art-it.asia/uncategorized/202352 「展示の再設定のための、遅れたステートメント」 URL=https://www.art-it.asia/uncategorized/202563 「不安についての短い手紙」 URL=https://www.art-it.asia/top/208733
★2 あいちトリエンナーレで起きたことについては、ぼく個人の視点から時系列で以下にまとめている。 「質問する 第17回(ゲスト:田中功起)―過去との往復書簡 あいちトリエンナーレ2019の、渦中のひとに向けて」、「アートイット」。 「1:2019年7月30日のあなたへ」 URL=https://www.art-it.asia/top/contributertop/207754 「2:2019年8月19日のあなたへ」 URL=https://www.art-it.asia/top/contributertop/208758 「3:2025年4月1日のあなたへ」 URL=https://www.art-it.asia/top/contributertop/209175 「4:2019年9月9日のあなたへ」 URL=https://www.art-it.asia/top/contributertop/209358 「5:再び2019年9月9日のあなたへ」 URL=https://www.art-it.asia/top/contributertop/209884 「6:未来のあなたへ」 URL=https://www.art-it.asia/top/contributertop/212277
 

田中功起

1975年生まれ。アーティスト。主に参加した展覧会にあいちトリエンナーレ(2019)、ミュンスター彫刻プロジェクト(2017)、ヴェネチア・ビエンナーレ(2017)など。2015年にドイツ銀行によるアーティスト・オブ・ザ・イヤー、2013年に参加したヴェネチア・ビエンナーレでは日本館が特別表彰を受ける。主な著作、作品集に『Vulnerable Histories (An Archive)』(JRP | Ringier、2018年)、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)など。 写真=題府基之
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