料理と宇宙技芸(3) 黄燜雞──厨房の天・地・人|伊勢康平
ゲンロンα 2020年10月20日配信
2023年4月21日タイトル更新
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今回は黄燜鶏という料理をとりあげたい。これは鶏肉を香辛料や砂糖、醤油などで甘辛く煮込んだ料理で、前回の魚香肉絲とおなじく日本ではまだあまり知られていないが、現在の中国では人気のある料理だ。それどころか、近年は黄燜鶏を提供する飲食業が中国全土で急激に発展し、ある種の社会現象になったほどなのである。
黄燜鶏の「燜」という字は「鍋にきちんと蓋をして、食べものを弱火で煮る、またはトロトロ煮込む」(『現代漢語詞典』第7版)という意味だが、これは比較的あたらしい文字である。たとえば『大漢和辞典』には「燜」の項がなく、かわりに「悶」の項に現代の用法として「煮る」「蓋をする」という意味が書かれている[★1]。こういう点からもわかるように、黄燜鶏も歴史が浅い。けれども、この料理の基礎となる「燜」つまり蓋をして煮込むという調理法そのものはたいへん伝統的なものである。今回はこの煮込みという技術について考えてみたい。
そもそも羹は中国でもっとも古い調理法のひとつで、屈原の作品にかぎらず、古代の文献のあちこちに書かれている。たとえば『礼記』内則編では、季節ごとに適切な肉と香味野菜のつけ合わせについて説明されており、うずらや鶏の羹は蓼で香りづけをするのがよいとされている。さらにおなじ内則編には「羹は、諸侯から庶民にいたるまで〔食べられており〕差別がない」とあり、当初からかなり一般的な料理であったことがわかる[★3]。ならば、宇宙技芸としての中華料理のなかで、羹を生みだす煮込みの技法はどのような特徴をもつのだろうか。
まず陰陽についてごく簡単に説明しておこう[★4]。古来中国の思想では、しばしば宇宙のあらゆるものはひとつの「気」によってできていると考える。陰と陽は「気」がもつふたつの側面であり、陰が静的な面を、陽が動的な面をあらわしている。そしてこの陰と陽が相互にきり替わったり結びついたりさまざまな反応を起こすことによって、あらゆるものが生まれ、変化していくという。そこで、日頃ぼくたちが目にするものはすべて、そのありかたに──あるいは気に!──着目して陰と陽のカテゴリーに区別できる。それにしたがえば、天が陽で地が陰となり、男性が陽で女性が陰とされる(こんにちこの区分をどう判断するかはひとまず問わない)。
ここで重要なことは、陰と陽の区分はものの性質ではなくむしろもの同士の関係にもとづいて決定されるということだ。例をあげると、年老いた男性は、性別に着目した場合には陽となるが、子どもとの対比のなかで年齢に着目すれば陰になる。というのも、老人はすでに身体の成長が止まっているからだ。とすると、年老いた男性と若い少女の対比は、単純に陰陽でくっきり分けられないものとなる。これはけっして特殊な例ではない。陰陽の考えかたのなかでは、あらゆるものが多かれ少なかれこうした微妙な関係性のなかに置かれることになる。つまり陰のなかには陽があり、陽のなかには陰があるというわけだ。
このような陰陽の思想は、第1・2回でとりあげた五行思想と組み合わさって陰陽五行思想となった。ただ、陰陽とはちがって、五行の要素は一般的にもの単体の性質によって決まる。たとえば鉄が五行でいう金であるのは、鉄そのものの性質のためであり、ほかのものとの関係はとくに作用してはいない。
さきほどの白瑋のはなしに戻ろう。なぜ白は、煮込みが陰陽の理想的な結合だと考えたのだろうか。
はじめに鍋があった。それはいってしまえばただの曲がった板である。だがひとたび蓋をかぶせた瞬間、天と地という関係性にもとづいて、そこに陰陽の対比が成立する。つまり天=蓋によって鍋は陰の気を宿す「大地」となるのだ[★6]。
さらにいうと、煮込みとは鍋をさかいにして火と水をつなげる技術である。もし鍋をつかわずに火と水を直接あわせてしまったら、たちまちどちらかが消えてしまうだろう。要するに火と水は、鍋によってはじめて共存する関係をもつことができる。そこでこの共存関係を陰陽の考えにあてはめると、ものをあたためて動きをもたらす火が陽となり、ものをひやして動きを止める水が陰となる。ということは、煮込みという技法のなかでは、陰陽の組み合わせが2段階にわたって成立しているといえるのだ。
黄燜鶏の「燜」という字は「鍋にきちんと蓋をして、食べものを弱火で煮る、またはトロトロ煮込む」(『現代漢語詞典』第7版)という意味だが、これは比較的あたらしい文字である。たとえば『大漢和辞典』には「燜」の項がなく、かわりに「悶」の項に現代の用法として「煮る」「蓋をする」という意味が書かれている[★1]。こういう点からもわかるように、黄燜鶏も歴史が浅い。けれども、この料理の基礎となる「燜」つまり蓋をして煮込むという調理法そのものはたいへん伝統的なものである。今回はこの煮込みという技術について考えてみたい。
1 調和の技法② 煮込み
「羹にこりて膾を吹く」という言葉がある。屈原(前343頃〜前283頃)という戦国時代の詩人の表現から生まれたいいまわしで、文字通りには、羹で口をやけどしたひとが、それにこりてつめたい膾(生の肉や魚などを酢であえたもの)をも吹いて冷まそうとすることを指し、ひとつの失敗にこりて必要以上に用心してしまうことをいう[★2]。この羹というのがいまでいう煮込み料理のことで、むかしの中国では肉や魚、野菜などを煮込んだものを広くこう呼んでいたらしい。吸いものもここに含まれる。そもそも羹は中国でもっとも古い調理法のひとつで、屈原の作品にかぎらず、古代の文献のあちこちに書かれている。たとえば『礼記』内則編では、季節ごとに適切な肉と香味野菜のつけ合わせについて説明されており、うずらや鶏の羹は蓼で香りづけをするのがよいとされている。さらにおなじ内則編には「羹は、諸侯から庶民にいたるまで〔食べられており〕差別がない」とあり、当初からかなり一般的な料理であったことがわかる[★3]。ならば、宇宙技芸としての中華料理のなかで、羹を生みだす煮込みの技法はどのような特徴をもつのだろうか。
2 煮込みの陰陽論
食文化の研究者である白瑋は、『中国美食哲学』のなかで、煮込みとは陰と陽が理想的に結びついた調理法だといっている。どういうことだろうか。まず陰陽についてごく簡単に説明しておこう[★4]。古来中国の思想では、しばしば宇宙のあらゆるものはひとつの「気」によってできていると考える。陰と陽は「気」がもつふたつの側面であり、陰が静的な面を、陽が動的な面をあらわしている。そしてこの陰と陽が相互にきり替わったり結びついたりさまざまな反応を起こすことによって、あらゆるものが生まれ、変化していくという。そこで、日頃ぼくたちが目にするものはすべて、そのありかたに──あるいは気に!──着目して陰と陽のカテゴリーに区別できる。それにしたがえば、天が陽で地が陰となり、男性が陽で女性が陰とされる(こんにちこの区分をどう判断するかはひとまず問わない)。
ここで重要なことは、陰と陽の区分はものの性質ではなくむしろもの同士の関係にもとづいて決定されるということだ。例をあげると、年老いた男性は、性別に着目した場合には陽となるが、子どもとの対比のなかで年齢に着目すれば陰になる。というのも、老人はすでに身体の成長が止まっているからだ。とすると、年老いた男性と若い少女の対比は、単純に陰陽でくっきり分けられないものとなる。これはけっして特殊な例ではない。陰陽の考えかたのなかでは、あらゆるものが多かれ少なかれこうした微妙な関係性のなかに置かれることになる。つまり陰のなかには陽があり、陽のなかには陰があるというわけだ。
このような陰陽の思想は、第1・2回でとりあげた五行思想と組み合わさって陰陽五行思想となった。ただ、陰陽とはちがって、五行の要素は一般的にもの単体の性質によって決まる。たとえば鉄が五行でいう金であるのは、鉄そのものの性質のためであり、ほかのものとの関係はとくに作用してはいない。
さきほどの白瑋のはなしに戻ろう。なぜ白は、煮込みが陰陽の理想的な結合だと考えたのだろうか。
煮込みの器具についていえば、鍋と鍋蓋は陰陽が合体したものである。鍋が地なら蓋は天だ。そして蓋のもとにある食べものは、天地のはざまにある万物なのだ。そのため、ものを煮込むときにはかならず蓋をしなければならない。鍋に蓋をしてはじめて、天・地・陰・陽が完璧に融合し、ひとつになるのである[★5]
はじめに鍋があった。それはいってしまえばただの曲がった板である。だがひとたび蓋をかぶせた瞬間、天と地という関係性にもとづいて、そこに陰陽の対比が成立する。つまり天=蓋によって鍋は陰の気を宿す「大地」となるのだ[★6]。
さらにいうと、煮込みとは鍋をさかいにして火と水をつなげる技術である。もし鍋をつかわずに火と水を直接あわせてしまったら、たちまちどちらかが消えてしまうだろう。要するに火と水は、鍋によってはじめて共存する関係をもつことができる。そこでこの共存関係を陰陽の考えにあてはめると、ものをあたためて動きをもたらす火が陽となり、ものをひやして動きを止める水が陰となる。ということは、煮込みという技法のなかでは、陰陽の組み合わせが2段階にわたって成立しているといえるのだ。
◯香辛料
・生姜 薄切りで5枚くらい
・八角 2個
※お好みで唐辛子や花椒を入れてもよい。ぼくはあまり入れない。
◯調味料
・醤油 大さじ1
・紹興酒(または料理酒) 大さじ1
・砂糖 大さじ1弱
・食塩 すこし
・胡椒 すこし
下準備
・鶏肉をボウルに入れ、分量外の醤油、料理酒、塩胡椒で味つけしておく
・野菜をきる。ピーマンは短冊状。しいたけは太さがピーマンとおなじくらいになるようにきる。小松菜は葉と茎できりわけ、茎はピーマンの長さにあわせてきる
・生姜は1ミリくらいの薄切りにして八角と待機
・生姜 薄切りで5枚くらい
・八角 2個
※お好みで唐辛子や花椒を入れてもよい。ぼくはあまり入れない。
◯調味料
・醤油 大さじ1
・紹興酒(または料理酒) 大さじ1
・砂糖 大さじ1弱
・食塩 すこし
・胡椒 すこし
下準備
・鶏肉をボウルに入れ、分量外の醤油、料理酒、塩胡椒で味つけしておく
・野菜をきる。ピーマンは短冊状。しいたけは太さがピーマンとおなじくらいになるようにきる。小松菜は葉と茎できりわけ、茎はピーマンの長さにあわせてきる
・生姜は1ミリくらいの薄切りにして八角と待機
炒め
・鍋を火にかける。少量の油をしき、かるく煙がでるくらいまで加熱。その後きれいなキッチンペーパーなどをつかって油を捨て、あらたに油を追加※これは「滑鍋」という技法。詳細は第1回を参照。
・生姜と八角を炒める。生姜に焼き色がつきはじめたら鍋からだす
・砂糖を入れて弱火でゆっくり加熱する。カラメル状になりはじめたら鶏肉を入れる。砂糖が焦げないように注意
・肉を中火で炒める。表面がわずかに焦げるくらいまで加熱すると、煮込みのときに味が流出しないのでおいしくなる
・炒めおわったら醤油と酒を入れる。中華鍋をつかっているひとは、鍋肌から回し入れるのが大切。これは中華鍋の「気」を解放する手段のひとつとされる
※ 中華鍋の「気」については次回に詳しくとりあげる予定。
煮込み
・しいたけを投下、なじませる・水を200〜300cc ほど入れる。水の量は鍋の形状によって変わる。いずれにせよ、食材がしっかり浸かるくらいまで入れる。なお、ここで五反田が誇る無添加特製の「信濃屋だし」をつかってもよい(くわしくは第1回「麻婆豆腐」を参照)
・蓋をして中火と弱火の中間くらいで煮る。鍋のなかの温度が下がるので、蓋をとってなかを確認するのは厳禁
・10分くらい煮たあと一度だけ蓋をとり、塩胡椒で味つけ。味見をするならここで行なう。この段階では、ややうすいくらいがよい
・ふたたび蓋をして20〜30分くらい煮込む。合計で30〜40分くらい煮込むことになる。この時間は最初に入れた水の量や鍋の種類などでかなり変わるので、何度かつくってみて、それぞれの環境によって最適な時間を把握するしかない
・多少水気がでてきた時点で小松菜の葉を入れる。すぐに蓋をして、中火で1分くらい加熱して仕上げる
※野菜は香りや色がちゃんと残っているほうがよいので、加熱しすぎないように注意する。つまり羹を「同」にしてはいけない。
・葉がいい感じに縮んだのを確認して盛りつける
なお今回の撮影には、渋谷キッチンスタジオを使用した。渋谷駅からとても近く、設備も充分なうえに利用料金も安いので、たいへんおすすめだ。
・ふたたび蓋をして20〜30分くらい煮込む。合計で30〜40分くらい煮込むことになる。この時間は最初に入れた水の量や鍋の種類などでかなり変わるので、何度かつくってみて、それぞれの環境によって最適な時間を把握するしかない
仕上げ
・ピーマンと小松菜の茎を投下。まぜあわせる。中火で2〜3分くらい加熱・多少水気がでてきた時点で小松菜の葉を入れる。すぐに蓋をして、中火で1分くらい加熱して仕上げる
※野菜は香りや色がちゃんと残っているほうがよいので、加熱しすぎないように注意する。つまり羹を「同」にしてはいけない。
・葉がいい感じに縮んだのを確認して盛りつける
なお今回の撮影には、渋谷キッチンスタジオを使用した。渋谷駅からとても近く、設備も充分なうえに利用料金も安いので、たいへんおすすめだ。
伊勢康平
1995年生。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専門は中国近現代の思想など。著作に「ユク・ホイと地域性の問題——ホー・ツーニェンの『虎』から考える」(『ゲンロン13』)ほか、翻訳にユク・ホイ『中国における技術への問い』(ゲンロン)、王暁明「ふたつの『改革』とその文化的含意」(『現代中国』2019年号所収)ほか。