鶏肉のトマトソース煮込み──限界自炊のすすめ 料理と宇宙技芸(番外編)|伊勢康平

1 弁明
前回の記事の公開からまる1年以上が経ってしまった。読者のみなさまには、ここまであいだを空けてしまったことを申し訳なく思う。本連載がもはや連載の体をなしていないという苦言も甘んじて受け入れざるをえない。
とはいえ、連載が滞ったのは決して怠けていたからではなく、ネタが尽きたからでもない。いちばんの原因は、過去の記事で何度か取り上げている香港の哲学者ユク・ホイの著作『芸術と宇宙技芸』を翻訳していたからだ[★1]。「料理と宇宙技芸」という連載のタイトルは『芸術と宇宙技芸』をもじったものなので、その意味でも「本家」が優先されるのはやむをえないことだったとご諒解いただければ幸いだ。
かといって、その間翻訳だけに明け暮れていたわけでもない。翻訳仕事やこの連載をつうじて私を知った方々にはときどき意外に思われるのだが、私は大学院の博士課程に通う学生である。つまり、現在博士論文を書いている。「博論を書くのはたいへんだ」という話は学部生のころからよく耳にしていたが、いざ当事者となったいま、もっとも難儀なのは博論の執筆よりも生存そのもの、すなわちきちんと生計を立てながら研究を継続することだと痛切に感じる。博論のための作業には当然ながら報酬が出ないので、アルバイトや非常勤講師などをやりながら、どうにかやりくりしなければならない。
もちろん奨学金のような支援策はいろいろと用意されているのだが、博士課程は制度上3年で修了することになっているので、4年目以降は大部分の奨学金が申請すらできなくなってしまう──そして困ったことに、人文系の博論を3年で書けるひとはほとんどいない。私も今年度で博士課程の4年目を迎えた。『芸術と宇宙技芸』の印税は、ほとんどそのまま大学に納められることになるだろう。
おおきな訳業をひとつ終えたいま、この状況から一刻も早く脱け出すことこそが人生における最優先事項にほかならない。そう考えた私は、編集者の横山さんと相談して、博論を書き上げるまで本連載をお休みさせていただくことにした。1年ぶりに更新された記事が事実上の「休載のお知らせ」となってしまったことはじつに心苦しく、読者のみなさまには深くお詫び申し上げたい。博論はもう半分くらい書けているので、おそらく今年中には目処が立つだろう。そのあかつきには、本連載も着実に更新できるようになるはずだ。
というわけで今回は番外編である。紹介する「鶏肉のトマトソース煮込み」は、上記のような慌ただしい暮らしのなかで生まれたレシピだ。料理連載を行なう身としては致命的なことに、いまの私にはあまり料理をする時間がない。というより、料理本を開いて手の込んだ料理や新しいレシピに挑戦するような「趣味としての料理」を楽しむ余裕がほとんどない(せいぜい月に1、2回程度だ[★2])。そのため、ふだんはつい手軽さや利便性だけをただ追求した「生きるための料理」に終始してしまう。「鶏肉のトマトソース煮込み」とは、いわば私がたどり着いた博士課程限界自炊レシピなのである。
2 「限界」自炊とはなにか
ついいきおいで「限界自炊レシピ」と書いてしまったが、そもそも限界自炊とは何だろうか? たとえば定番のレシピ共有サイトである「クックパッド」で「限界」と検索してみると、2024年8月時点で400以上ものレシピがヒットする。それらをざっと眺めてみると、素朴なパスタやもやし料理のほか、インスタントラーメンにウインナーを浮かべたものなどが目に入る。限界自炊の限界性は、食材や手順の簡素さに象徴されているようだ。私たちの限界状態をつくりあげる時間や金銭の不足などに対応するためには、いっけんそれが合理的なのかもしれない。
しかしほんとうにそうだろうか? 私の理解では、限界自炊の本質はまったく別の点にある。それを示すために、まず以下の問いからはじめよう──そもそも「限界」とはなにか?
このような問題を考えるとき、中国哲学ではしばしば漢字の意味や語源にさかのぼる。そこで1文字ずつ分けてみると、「限」はもともと山道などで行く手をはばむ険しいところを、「界」は田畑の区切り目を意味していたことがわかる。そこから、「限」と「界」はどちらも境目をあらわすようになった。要するに「限界」とは、「寒冷」や「温暖」のようによく似た意味の文字をふたつ重ねた言葉であり、ある種の境目のことである。
ここできわめて重要なのは、「限」と「界」が、たんに境目をあらわすだけでなく、しばしばその内側を意味することだ。げんに『大漢和辞典』の「界」の項目には「さかいのうち」とあり、『王力古漢語字典』の「限」の項目には「地勢のけわしいところ[……]転じて境界や、範囲の内側のこと」とある[★3]。この点は、たとえば「世界」が空間的な広がりとその内部を指し、「権限」が特定の権利を行使しうる範囲とその内側をあらわしていることを考えればよくわかる。
おなじように、限界とは内側から突破され、超えられてしまうものである。つまり限界という言葉のイメージは、まるで切り立った崖にいたる山道のように、後戻りできない地点──いうなれば破局──との境目と、その手前に広がる空間によって構成される。限界とはつねに破局の手前のことなのだ。
したがって限界自炊とは、この手前にとどまるため、ひいてはそこから引き返すために行なわれなければならない。そして限界自炊が直面する破局とは(少なくとも私にとっては)後戻りできない心身の崩壊のことである。じっさい、心身の不調によって長期間動けなくなると、執筆や翻訳だけでなく労働もできなくなり、なおかつ医療費も少なからず発生するので、経済的な破綻のリスクも向上してしまう。
とすると、限界自炊の目的は、なによりまず心身の状態が限界を突破し、後戻りできなくなるような事態を避けることだといえる。そのうえで、あなたを限界状態に陥れた要因、たとえば時間や金銭の不足や劣悪な労働環境などに都度対応してゆく必要がある。なので、限界自炊の名のもとにもやし炒めやインスタントラーメンなどを作りつづけるのはあまり望ましくないはずだ。
3 限界自炊のすすめ、あるいは「鶏肉のトマトソース煮込み」について
では、限界自炊とはどのようなものであるべきだろうか? 私はおおよそ三つの条件があると考えている。
すでに述べたとおり、限界自炊のいちばんの目的は破局の手前としての限界状態を生き抜くことだ。なので、まずは生存の可能性を高めるために野菜や肉、魚、乳製品などをバランスよく摂取できることが必要だ。
とはいえ、そのような状況に置かれたひとに日々手の込んだ料理をじっくり作る余裕はないだろうから、調理のプロセスは適度に単純であるとよい。適度とは、慣れればあたまを空っぽにして、なにも考えずに作れる程度である。調理をほとんど無意識にできるようになれば、その時間を有効に活用できるようになるからだ。私自身の場合、講演や学会のアーカイブや仕事のために視聴すべき動画が多いので、料理の時間をそこに充てられると、限界状態から離脱できる可能性がより高くなる。そして、頻繁に食べることを考えれば、なるべく飽きづらいものであることが望ましい。
こうした条件のもとで誕生したのが「鶏肉のトマトソース煮込み」である。じつはこの料理は、本連載の第3回で取りあげた「黄燜鶏」から派生したものだ。もともと「黄燜鶏」は私にとって限界自炊レシピの筆頭だったのだが、あまりに頻繁につくりすぎた結果、醤油ベースの味つけに少々飽きてしまった。そこで思い切ってベースをトマトソースに変えてみたところ、なかなかよい仕上がりになったので、野菜や香辛料を多少入れ替えて新しいレシピにしたわけである。基本的な行程は「黄燜鶏」とほぼおなじなので、私にとってはすでにつくり慣れた料理であり、かぎりなく無意識に──道家的にいえば「自然」に──調理できる。
このレシピの成立経緯はとても個人的なものだ。なので、「鶏肉のトマトソース煮込み」は読者のみなさまの限界状態を支える料理にはなれないかもしれない。だがそれは仕方のないことだろう。どんな食材が調達しやすくて、どんな調理が適度に単純なのかは、ひとによってまったく異なるのだから。私が限界自炊として提案したいのは、あくまで良好な栄養バランスと適度な単純さと飽きづらさを兼ね備えることであって、じっさいになにを作るのかはあなた次第である。限界自炊レシピは、どこまでもあなた自身が見つけだすしかないものなのだ。
レシピに移るまえに一点だけ補足しておこう。ここまで私は破局の手前としての限界を生き抜く方法として自炊を語ってきたが、それはあくまで数ある手段のひとつにすぎない。限界状態を生き抜くためには、もちろん市販の惣菜やレトルト/冷凍食品や外食にも大いに頼るべきだし、そもそも食事が最適な手段でない場合すらある。少なくとも私の経験則では、極度に疲労困憊した真の限界状態においては、まず食事よりも睡眠を優先すべきである。なので、その場合はプロテインやオレンジジュース、ビタミン剤などを飲んで一刻も早く就寝し、起床後にあらためて十分な食事をとるべきだろう。睡眠不足に由来する疲労を食欲で埋め合わせようとするのはじつに危険な発想だといえる。
それではレシピに移ろう。
4 鶏肉のトマトソース煮込みの作りかた
(分量は3人前。ひとり暮らし3食分ともいえる)
◯食材
・鶏肉(部位は何でもよい) 300-350g
・ピーマン 3個
・なす 2本
・しいたけ 3、4個
・たまねぎ 1玉
・ブロッコリー 小房3〜5個
・長ねぎ 青いところを少々
・バター 15g 程度
・バジル 少々
・パセリ 少々
◯調味料
・塩胡椒 適量
・料理酒 適量
・豆板醤 適量
・トマトソース 300-350g
※トマトソースに特別なこだわりはないので、入手しやすいものを適当に選ぶとよいだろう。私が写真にあげたものを使用している理由は、単にひと瓶まるごと使うとちょうどよい分量になるからだ。計量は少々あたまを使う行為であり、自炊の限界性を引き下げるノイズになる。
下準備
・鶏肉をボウルに入れ、分量外の醤油、料理酒、塩、胡椒をくわえる
・ピーマンとなすを乱切りにする
・しいたけはかさを3〜4分割にする
・たまねぎは半分に切って、いっぽうを角切りに、もう片方をみじん切りにする
・長ねぎを細かく切ってまとめておく
・なすとたまねぎ(角切り)とブロッコリーを耐熱容器に入れ、ラップないしフタをしてから電子レンジで温める。めやすは500wで2分半
炒め
・中華鍋を使う場合は、まず滑鍋を行なう(第1回参照)
・バターを鍋にひき、中火でたまねぎ(みじん切り)を炒める。うすい飴色になったら小皿に移す
・若干の油を鍋にひき、中火で豆板醤を炒める
・中火〜強火で鶏肉を炒める。表面に焼き色がついたらたまねぎ(みじん切り)を入れてなじませる
・なす、しいたけ、たまねぎ(角切り)、ブロッコリーを鍋に入れ、料理酒と塩胡椒をくわえる
・強火で全体を軽く炒めたのち、火を止めてトマトソースを入れる
煮込み
・焦げつかないように注意しつつ弱火で沸騰させる
・5分ほど煮込んだら、長ねぎをまぜてさらに2、3分煮込む
・お皿にもりつけて、バジルとパセリを散らす。粉チーズをかけてもよい
完成!
★1 ユク・ホイ『芸術と宇宙技芸』、伊勢康平訳、春秋社、2024年。
★2 一昨年私の兄がタイご出身のかたと結婚し、今年の春には東京まで会いに来てくれた。その際、「プリックヘーン」という本場の乾燥唐辛子と『タイ料理大全』というきわめて本格的なレシピ本をプレゼントされたので、今年は何度かタイ料理に挑戦している。さいきんは「ナムプリック・オン」というものをつくった。日本語でいうと「ひき肉とトマトのディップ」になるそうだ。詳細なレシピは以下を参照。味澤ペンシー、ヴィチアン・リアムテッド、ナルナート・スクサワン『タイ料理大全』、誠文堂新光社、2018年、36-37頁。ちなみに、『ゲンロン13』に寄稿した「ユク・ホイと地域性の問題──ホー・ツーニェンの「虎」から考える」の注2では、タイ料理と宇宙技芸の関係について言及している。
★3 以下を参照。諸橋轍次『大漢和辞典』縮刷版巻七、大修館書店、1967年、1086頁。および王力主编,《王力古汉语字典》(北京:中华书局,2000年),第1583页。なお、漢学の正式な方法としては、原則として古典の適切な用例を引くべきであって辞書の引用はあまりよろしくないのだが、本稿は事実上「休載のお知らせ」として書かれたものなので、ご了承いただければと思う。


伊勢康平
3 コメント
- くっこ2025/01/16 13:24
限界自炊!私は、仕事(自営業)の閑散期で食べ物を買うお金すら節約する時期があり、家に残っていた酵素ドリンクとお茶など使って、緩いファスティング をしてました。よくよく探すと、塩分補給タブレットとか、ちょこちょこ出てきて、料理や間食に至らないが故に余っていた、家の食材を減らすこともできました。食費のために無理してアルバイトも考えましたが、やらなかったことで、時間とのつきあいかたや自分の体質に気づくことも多くあり。限界と向き合うと、発見がもらえますね。
- Kaorumii2025/01/17 14:52
伊勢さんの哲学的料理エッセイ、面白さにうなりながら一気に読みました。 まず、哲学と料理とエッセイという組み合わせがユニーク。今まで見たことがありません。 さらに、無駄のない構成。自己紹介→「限界自炊」という単語の紹介→中国哲学→レシピの流れが自然で、中国哲学の話もまったく違和感を感じないし、「なぜ鶏肉のトマト煮なのか」その意味も納得してしまいます。まるで名人芸のようです。 そして、読みやすい文体。読み物として面白いと感じさせてくれる文体です。うまいです。おかげで、難しく感じがちな中国哲学の話もつるっと読めてしまいます。 鶏肉のトマト煮、作りたいと思っていたところだったので、紹介されたレシピを参考にしたいと思います。 博論執筆、大変だと思いますが、がんばってください。伊勢さんのコラムを再び読めるのを楽しみに待っています。
- 本間盛行2025/01/17 14:53
待っておりました。限界で踏みとどまって、料理の宇宙技芸化エヴァンジェリストとして再び沃野に舞い戻られんことを!(感想は𝕏に記します