料理と宇宙技芸(5) 賽螃蟹、あるいは菜食と煉丹術について|伊勢康平
ゲンロンα 2021年9月14日 配信
2023年4月21日タイトル更新
2023年4月21日タイトル更新
野菜から蟹をつくる──それが今回の料理だ。そんなばかな、と思ったひともいるだろう。だがこれもれっきとした中華料理である。
「賽螃蟹」と呼ばれるその料理は、19世紀ごろに清の西太后の要望によって生みだされたという。蟹が手に入らないときに蟹料理を所望した彼女を満足させるべく、宮廷料理人たちが発明したらしい。これは「がんもどき」のような「もどき料理」の一種で、いわば野菜をもとにカニカマをつくろうというものだ。
日本では、こうした動物性の食材を避けた菜食の料理は「精進料理」と呼ばれるが、それはもともと中国から伝来したものだった。したがって、中国にも豊かな菜食の文化があることは容易に想像できるだろう。とはいえ、中国の菜食文化をすこしでもひもとけば、そこには日本でいう精進料理とはまったく異質の文化や思想があることに気づく。今回は「賽螃蟹」という聞き慣れない料理をつうじて、その一端をのぞいてみよう。
第2回でも取りあげた、清の袁枚の『隨園食単』というレシピ本には、「精進料理の部」という章がある。そこには豆腐やきのこ、山菜などをつかった料理が載っているのだが、なかには「精進料理」らしからぬレシピもちらほら収められている。たとえば、この章の最初の料理である「蒋侍郎の豆腐」をみてみよう(「侍郎」は官職の名前)。
水気を取り、豚脂のうま味をぎっしり吸い込んだ豆腐が、甘辛い海老のスープとからみつつ、ねぎの香りでピリッと締められる。じつにおいしそうな一品だ──いや待て、いまは感心している場合ではなかった。問題は、この料理が「精進料理の部」の筆頭にあるということだ。ほんらい動物性の食材や五葷(にんにく、にら、ねぎなどの香味野菜)を避けるべきである精進料理に、なぜ豚脂や乾海老、ねぎがつかわれているのだろうか。
じつのところ、「精進料理の部」とは中国文学者の青木正児による邦訳であり、袁枚自身は「雑素菜単」という言葉を用いている。「雑」はいろいろなもの、「素」は食材としての野菜、「菜単」は料理のリストのこと。なので、ほんとうは「野菜料理の部」とでも訳しておくべきだったのかもしれない。
とはいえ、これを単なる「誤訳」として片づけるのはあまり生産的ではない。ぼくたちはむしろ、日本と中国のあいだにある、菜食の流儀を示す言葉やカテゴリーのちがいが、この食いちがいをもたらしていると考えるべきではないか。つまり中国には、いわゆる「精進料理」の枠には収まらないような、異なる菜食の伝統があるのではないか。
「賽螃蟹」と呼ばれるその料理は、19世紀ごろに清の西太后の要望によって生みだされたという。蟹が手に入らないときに蟹料理を所望した彼女を満足させるべく、宮廷料理人たちが発明したらしい。これは「がんもどき」のような「もどき料理」の一種で、いわば野菜をもとにカニカマをつくろうというものだ。
日本では、こうした動物性の食材を避けた菜食の料理は「精進料理」と呼ばれるが、それはもともと中国から伝来したものだった。したがって、中国にも豊かな菜食の文化があることは容易に想像できるだろう。とはいえ、中国の菜食文化をすこしでもひもとけば、そこには日本でいう精進料理とはまったく異質の文化や思想があることに気づく。今回は「賽螃蟹」という聞き慣れない料理をつうじて、その一端をのぞいてみよう。
1 乾海老の大きいのを120個
第2回でも取りあげた、清の袁枚の『隨園食単』というレシピ本には、「精進料理の部」という章がある。そこには豆腐やきのこ、山菜などをつかった料理が載っているのだが、なかには「精進料理」らしからぬレシピもちらほら収められている。たとえば、この章の最初の料理である「蒋侍郎の豆腐」をみてみよう(「侍郎」は官職の名前)。
豆腐[……]を一丁あたり一六片ずつに切り、日陰で乾かしてから豚脂で熬る。油から青い煙が立ったら豆腐を入れ、塩をひとつまみ、ぱらっと振りかける。豆腐を裏返したあと、湯飲み一杯の良質な甜い酒と、乾海老の大きいものを一二〇個加える──大きいものがなければ小さいものを三〇〇個でもよい。まず乾海老を煮て二時間ほど泡したのち、小鉢に一杯の醤油を入れて、再び煮る。砂糖をひとつまみ加えてもう一度煮る。細い葱を半寸ばかりに切ったものを一二〇個加えて、ゆるゆると鍋をおろす。[★1]
水気を取り、豚脂のうま味をぎっしり吸い込んだ豆腐が、甘辛い海老のスープとからみつつ、ねぎの香りでピリッと締められる。じつにおいしそうな一品だ──いや待て、いまは感心している場合ではなかった。問題は、この料理が「精進料理の部」の筆頭にあるということだ。ほんらい動物性の食材や五葷(にんにく、にら、ねぎなどの香味野菜)を避けるべきである精進料理に、なぜ豚脂や乾海老、ねぎがつかわれているのだろうか。
じつのところ、「精進料理の部」とは中国文学者の青木正児による邦訳であり、袁枚自身は「雑素菜単」という言葉を用いている。「雑」はいろいろなもの、「素」は食材としての野菜、「菜単」は料理のリストのこと。なので、ほんとうは「野菜料理の部」とでも訳しておくべきだったのかもしれない。
とはいえ、これを単なる「誤訳」として片づけるのはあまり生産的ではない。ぼくたちはむしろ、日本と中国のあいだにある、菜食の流儀を示す言葉やカテゴリーのちがいが、この食いちがいをもたらしていると考えるべきではないか。つまり中国には、いわゆる「精進料理」の枠には収まらないような、異なる菜食の伝統があるのではないか。
2 精進・素食・養生
そもそも「精進」という言葉は、ビールヤ(vīrya)というサンスクリットの漢訳で、ひたすら仏道修行にはげむことを意味している。日本では、そこから転じて、不浄なものを避けて物忌みをすること、さらにそのための料理をあらわすようになった。つまり、菜食のことを精進というのは日本特有なのである。中国では、菜食一般のことを「素食」や「蔬食」という。「蔬」も野菜のことだ。
素食の歴史は古く、先秦にはすでに、祭祀のまえに潔斎(心身を清めること)を行ない、肉食を避ける慣習があった。もっとも、当時は肉食そのものが相当なぜいたくだったようである。たとえば『春秋左氏伝』荘公十年には、曹劌というひとが、君主に謁見するにあたって「肉食の者は鄙し」(肉を食べるひとは目先のことしか考えられないものだ)と発言したと書かれており、肉食が権力者の象徴であったことがうかがえる。
時代が下り南北朝時代になると、肉食の一般化や後漢に伝来した仏教の発展にともなって、素食がより普及していく。たとえば南朝梁の武帝は、仏教に傾倒するあまり「断酒肉文」という文章を書き、仏僧に飲酒や食肉をいっさいやめるよう提唱したという。それは裏返せば、この時期にはすでに、わざわざ禁止しなければならないほど肉食が広がっていたということだ[★2]。
日本の精進料理と同様に、仏教が中国の素食文化にあたえた影響はおおきい。だがそれと並行して、中国固有の素食文化もまた独自の発展を遂げていった。それは道教的な養生の思想によるものだ。
養生とは、生命を養い、長生きしようという考えのことで、不老不死の願望もその延長線上にある。早いものでは『荘子』養生主篇で説かれ、のちに呼吸法や瞑想、房中術といった実践につながっていった。
そうした実践のひとつに「辟穀」がある(断穀とも呼ばれる)。これは穀物をいっさい断つことで、その目的は(もちろんダイエットではなく)俗人の食べものを遠ざけて、体内の気を清浄に保つことにあった。つまり一種の精進潔斎である。そのため、辟穀のさいには肉や魚、香味野菜といったなまぐさものも避ける必要があり、かわりに山菜や薬草、きのこなどを食べて飢えをしのいだ。晋の葛洪による『抱朴子』には、つぎのように書かれている。
〔断穀をするときには〕朮・黄精を食べ、禹余糧〔褐鉄鉱。鉄の酸化鉱物〕の丸薬を一日に二度服用すること。以上の三つのものは、人の気力を増してくれる[……]断穀の法を知っていれば、餓死しないで済む。そのような場合でなければ、急に穀物を断ってはいけない。急に断つと大きな効果は得られないであろう。それに世間に止まって断穀をしようとしても、肉や魚の臭いを嗅げば、必ず心中に欲が起こる[……]それよりは断穀をしないで、食べる量を節制した方がよい。[★3]
この文章にはおもにふたつの重要な点がある。ひとつは無理をしてはいけないこと、もうひとつは辟穀/断穀だけ単独で行なわずに、かならずほかの実践と組みあわせることだ。
ひとつめの点から説明しよう。養生思想では長く生きることがなにより大切だ。なので、きちんと辟穀を実践できるならともかく、いたずらに素食にこだわり穀物や肉を断って身体を壊すくらいなら、むしろ食材は制限せず、食べすぎに注意するほうがよいとされる。このような考えは、仏教的な精進料理とは端的に異なっている。あえて単純化すれば、他の生命を殺さないために素食を強いるのが仏教だとすれば、自分の寿命を伸ばすために素食を選ぶのが養生の思想だといえるだろう。
じっさい、中国では養生の思想やその実践が、道教的な枠組みをこえて、現実的な生活の知恵として、かたちを変えながら定着していった[★4]。いわゆる薬膳料理はその一例である。そこでは、素食が節度ある食生活をささえるひとつの選択肢として、肉食といっしょに受けいれられた。はじめに紹介した『隨園食単』の「蒋侍郎の豆腐」は、こうした素食文化の典型だといえる。精進のための食事ではないのだから、そもそも厳密な食材の制限など不要だったのだ。
といっても、理想をいうと辟穀をやり切ったほうがよいのは事実である。そこでふたつめの点が問題になる。餓死のリスクを防ぎ、辟穀を成功させるためには、生気を養う植物をきちんと食べ、呼吸法や薬の服用なども並行して実践しなければならない。引用した箇所では、葛洪は朮、黄精、禹余糧の3点が必要だと言っていた。このうち朮と黄精は山菜で、素食の材料になる。いっぽうの禹余糧は鉱石であり、長生の効果をもつ仙薬とされていた。
ところで、この手の薬の調達や服用には、ある技術が深くかかわっている。それは「煉丹術」である。
この連載の読者のなかに、煉丹術について知るひとがどれほどいるかはわからない。たぶんあまり多くはないだろう。だがあえて結論からいいたい。素食の料理法がもつ宇宙技芸的な性質は、おそらく煉丹術とのつながりからあきらかになる。これがぼくの考えだ。その詳細を語るために、まずは『抱朴子』を中心に煉丹術をざっくりと解説しつつ、素食(あるいは料理全般)とのつながりを確認しておきたい。
煉丹術とは、不老長寿や不死のために、「丹」と呼ばれる薬を錬成する技術のことである[★5]。「丹」という名前は、もともと「丹砂」という赤色の鉱物に由来している。これは硫化水銀のことで、不老不死の薬の貴重な素材とされた。また、丹砂とならんで重んじられたのが金である。黄金から錬られた丹薬は「金丹」と呼ばれ、おなじく不死の効果をもつといわれた。
とはいえ、いまもむかしも、まとまった量の純金を準備するのは容易ではない。そこで探求されたのが、錫や鉛などの卑金属から金を錬成する方法である。たとえば『抱朴子』黄白篇(「黄白」は金と銀の意味)には、以下のような錬金の方法が記されている。
中国の煉丹術は、しばしば西洋の錬金術と比較される。しかし、煉丹術には長寿という目的が一貫してあり、金の錬成はその手段のひとつにすぎない[★7]。つまり「仙人が黄金を作るのは、自分でそれを食べて神仙になるからであって、金持ちになるためではない」というわけだ[★8]。
じっさい、中国では養生の思想やその実践が、道教的な枠組みをこえて、現実的な生活の知恵として、かたちを変えながら定着していった[★4]。いわゆる薬膳料理はその一例である。そこでは、素食が節度ある食生活をささえるひとつの選択肢として、肉食といっしょに受けいれられた。はじめに紹介した『隨園食単』の「蒋侍郎の豆腐」は、こうした素食文化の典型だといえる。精進のための食事ではないのだから、そもそも厳密な食材の制限など不要だったのだ。
といっても、理想をいうと辟穀をやり切ったほうがよいのは事実である。そこでふたつめの点が問題になる。餓死のリスクを防ぎ、辟穀を成功させるためには、生気を養う植物をきちんと食べ、呼吸法や薬の服用なども並行して実践しなければならない。引用した箇所では、葛洪は朮、黄精、禹余糧の3点が必要だと言っていた。このうち朮と黄精は山菜で、素食の材料になる。いっぽうの禹余糧は鉱石であり、長生の効果をもつ仙薬とされていた。
ところで、この手の薬の調達や服用には、ある技術が深くかかわっている。それは「煉丹術」である。
この連載の読者のなかに、煉丹術について知るひとがどれほどいるかはわからない。たぶんあまり多くはないだろう。だがあえて結論からいいたい。素食の料理法がもつ宇宙技芸的な性質は、おそらく煉丹術とのつながりからあきらかになる。これがぼくの考えだ。その詳細を語るために、まずは『抱朴子』を中心に煉丹術をざっくりと解説しつつ、素食(あるいは料理全般)とのつながりを確認しておきたい。
3 煉丹術とはなにか
煉丹術とは、不老長寿や不死のために、「丹」と呼ばれる薬を錬成する技術のことである[★5]。「丹」という名前は、もともと「丹砂」という赤色の鉱物に由来している。これは硫化水銀のことで、不老不死の薬の貴重な素材とされた。また、丹砂とならんで重んじられたのが金である。黄金から錬られた丹薬は「金丹」と呼ばれ、おなじく不死の効果をもつといわれた。
とはいえ、いまもむかしも、まとまった量の純金を準備するのは容易ではない。そこで探求されたのが、錫や鉛などの卑金属から金を錬成する方法である。たとえば『抱朴子』黄白篇(「黄白」は金と銀の意味)には、以下のような錬金の方法が記されている。
まず錫を鍛えて幅六寸四方、厚さ一寸二分の板にする。赤塩を灰汁と和えて泥状にし[……]錫の表面に塗る。その厚さは平均に一分。赤土の釜の中に重ねて置く。錫十斤〔一斤は220グラム〕に対して赤塩四斤の割合である。封をして、縁のところをピッタリと固める。馬糞の火で温めること三十日。火を引いて蓋をあけて見ると、錫のなかみは全部灰状になっていて、その中に豆のようなものがコロコロとつながっている。これが黄金である。[★6]
中国の煉丹術は、しばしば西洋の錬金術と比較される。しかし、煉丹術には長寿という目的が一貫してあり、金の錬成はその手段のひとつにすぎない[★7]。つまり「仙人が黄金を作るのは、自分でそれを食べて神仙になるからであって、金持ちになるためではない」というわけだ[★8]。
では、そもそもなぜ丹砂や金には、不死の効能があると考えられたのだろうか。理由は単純で、これらの鉱物が永遠に朽ちないものだとされていたからだ。『抱朴子』にはこのように書かれている。
丹砂が水銀になりまた丹砂にもどるという発想は、丹砂から抽出した水銀を空気中で加熱してできた酸化水銀(丹砂に似た赤色をしている)を、もとの丹砂と誤解したものだという説がいまでは有力である[★10]。現代からみればただしくない部分があるとはいえ、金の錆びない性質や、もとにもどるという丹砂の「性質」が、煉丹術に独特の地位をあたえたことは理解できるだろう。
さきほど登場した朮や黄精をはじめ、胡麻や枸杞のように、養生に役立つとされた植物はすくなくないが、煉丹家たちにとって鉱物と植物の効能には根本的な差があった。植物は「焼けばすぐ灰になる」ものでしかない以上、「草木の薬は、ただ寿命を延ばすだけで、不死の薬ではない」[★11]と考えられたのである。
とすると、素食と煉丹術のつながりを理解するためには、結果として生みだされたもの(料理や薬)の効果よりむしろ、生みだすまでの技術的なプロセスに着目する必要があるだろう。
そのためのひとつの手がかりが、豆腐にある。
中国には、豆腐は煉丹術の副産物として誕生したという説がある。それによると、漢の時代に、『淮南子』の編纂で知られる淮南王の劉安が、丹薬の錬成中に偶然豆腐を発明したという。この説は前近代の中国では有力だったものの、いまではその信憑性が疑われている。現存する漢代の文献には、豆腐づくりにかんする具体的な記録がまったくないからだ[★12]。
そのいっぽうで、李治寰という研究者は、この説について興味深い考察をしている。李は、もしこの説がほんとうなら豆腐はどうやって生みだされたのかを考えたのである。以下、かれの議論をかいつまんで説明しよう。
丹薬というものは、長く焼けば焼くほど霊妙な変化をするもの。黄金は、火にかけて何度鋳なおしてもへらないもの、地中に埋めても永遠に錆びないものである。この二つの物を服用して、人の体を錬るからこそ、人を不老不死にできるのだ[……]普通の草根木皮は焼けばすぐ灰になるが、丹砂は焼けば水銀になり、さらに何度か変化させれば、また丹砂にもどる。[★9]
丹砂が水銀になりまた丹砂にもどるという発想は、丹砂から抽出した水銀を空気中で加熱してできた酸化水銀(丹砂に似た赤色をしている)を、もとの丹砂と誤解したものだという説がいまでは有力である[★10]。現代からみればただしくない部分があるとはいえ、金の錆びない性質や、もとにもどるという丹砂の「性質」が、煉丹術に独特の地位をあたえたことは理解できるだろう。
さきほど登場した朮や黄精をはじめ、胡麻や枸杞のように、養生に役立つとされた植物はすくなくないが、煉丹家たちにとって鉱物と植物の効能には根本的な差があった。植物は「焼けばすぐ灰になる」ものでしかない以上、「草木の薬は、ただ寿命を延ばすだけで、不死の薬ではない」[★11]と考えられたのである。
とすると、素食と煉丹術のつながりを理解するためには、結果として生みだされたもの(料理や薬)の効果よりむしろ、生みだすまでの技術的なプロセスに着目する必要があるだろう。
そのためのひとつの手がかりが、豆腐にある。
4 豆腐と煉丹術
中国には、豆腐は煉丹術の副産物として誕生したという説がある。それによると、漢の時代に、『淮南子』の編纂で知られる淮南王の劉安が、丹薬の錬成中に偶然豆腐を発明したという。この説は前近代の中国では有力だったものの、いまではその信憑性が疑われている。現存する漢代の文献には、豆腐づくりにかんする具体的な記録がまったくないからだ[★12]。
そのいっぽうで、李治寰という研究者は、この説について興味深い考察をしている。李は、もしこの説がほんとうなら豆腐はどうやって生みだされたのかを考えたのである。以下、かれの議論をかいつまんで説明しよう。
すでに述べたように、丹薬はおもに鉱石の化合物でできている。けれども、かならずしもただ鉱物を溶かして合成すれば丹薬ができるわけではない。ときに煉丹家たちは、素材となる鉱物がもつ「燃えやすく、蒸発したり、爆発したりする性質や、毒性を抑え込む」[★13]ため、さまざまな薬草や肉、塩、牛乳、油脂や酢などを和えていたのである。李のかわりに例を挙げておくと、『抱朴子』にはこのような製法が記されている。
いまからみればさすがに眉唾物ではあるけれども、なかなか興味深い「レシピ」である。それに、真珠を牛乳に漬けると水銀のようになるというのは、どことなく「珍珠奶茶」=タピオカミルクティーをほうふつとさせる。いずれにせよ、金丹や真珠を錬るには、ときに豚の脂や酢、牛乳が必要だった。つまり、丹薬を完成させるためには、しばしば素材を「調理」しなければならなかったのだ。
こうした素材のひとつに豆乳があったのではないか──李治寰はそのように考えた。使用済みの豆乳が、塩や薬草などといっしょに、当時用いられた石膏製の器に破棄された結果、なにかのはずみで凝固したのが豆腐のはじまりだというのである。ちなみに石膏の主成分である硫酸カルシウムは、食品衛生法で、豆腐の凝固剤のひとつに指定されている。
李の研究は興味深いけれども、やはり憶測にとどまっているし、すでに言ったとおり、いまでは劉安による豆腐の発明は俗説だという見方が有力である。中国や日本の食文化の碩学である篠田統は、劉安は「豆腐発明者に祭り上げられた」人物にすぎず、じっさいに豆腐が発明されたのは「唐の中頃、七〜九世紀」だろうと言っている[★16]。
はたして豆腐はほんとうに煉丹術から生まれたのか。それが事実ならたしかにおもしろいが、ぼく自身は根拠のない伝説でもよいと思っている。というのも、このような説がかつて根づいていたという事実そのものが、当時の中国人が料理と煉丹術をどのような距離感で捉えていたかを示しているからだ。
両儀子による、黄金を溶かして食べる法。豚の頸の下の脂肪を三斤、純粋な苦酒〔酢〕を一升〔0.2リットル〕用意する。黄金五両〔一両は14グラム〕を取り、器に入れ、土の炉にかけて煎る。この黄金を脂肪の中に漬け、百回出したり入れたりする。次に苦酒に漬け、同様にする。一斤〔220グラム〕を食べれば、寿命は天地と等しくなる。半斤を食べれば二千年の寿命。五両を食べれば千二百年の寿命となる。[★14]
真珠の直径一寸以上のものも服用できる。これを服用すると不老長寿になる。牛乳で真珠を漬けておくと、化合して水銀のようになる。また浮石、水蜂窠〔ヤドカリの巣〕、鱟化包〔カブトガニの脱皮した殻という説あり〕、彤蛇黄〔「蛇黄」は冬眠中の蛇が食べた土、「彤」は赤色の意味〕で煉りあわせると、長さ三、四尺にも引き伸ばせるようになる。丸薬にして服用。穀物を断ってこれを服用すれば、不老不死となる。[★15]
いまからみればさすがに眉唾物ではあるけれども、なかなか興味深い「レシピ」である。それに、真珠を牛乳に漬けると水銀のようになるというのは、どことなく「珍珠奶茶」=タピオカミルクティーをほうふつとさせる。いずれにせよ、金丹や真珠を錬るには、ときに豚の脂や酢、牛乳が必要だった。つまり、丹薬を完成させるためには、しばしば素材を「調理」しなければならなかったのだ。
こうした素材のひとつに豆乳があったのではないか──李治寰はそのように考えた。使用済みの豆乳が、塩や薬草などといっしょに、当時用いられた石膏製の器に破棄された結果、なにかのはずみで凝固したのが豆腐のはじまりだというのである。ちなみに石膏の主成分である硫酸カルシウムは、食品衛生法で、豆腐の凝固剤のひとつに指定されている。
李の研究は興味深いけれども、やはり憶測にとどまっているし、すでに言ったとおり、いまでは劉安による豆腐の発明は俗説だという見方が有力である。中国や日本の食文化の碩学である篠田統は、劉安は「豆腐発明者に祭り上げられた」人物にすぎず、じっさいに豆腐が発明されたのは「唐の中頃、七〜九世紀」だろうと言っている[★16]。
はたして豆腐はほんとうに煉丹術から生まれたのか。それが事実ならたしかにおもしろいが、ぼく自身は根拠のない伝説でもよいと思っている。というのも、このような説がかつて根づいていたという事実そのものが、当時の中国人が料理と煉丹術をどのような距離感で捉えていたかを示しているからだ。
5 厨房の「煉丹術」:仿葷素菜について
いっけんかなり怪しい煉丹術だが、薬を完成させて口にするまでのプロセスには、意外にもなじみ深い食材や調理法がいくつも登場する。煉丹術は料理に似ているのだ。この節ではもう一歩ふみ込んで、素食の宇宙技芸を説きあかしていこう。ここからが今回の核心である。
はじめにお伝えしたように、今回は賽螃蟹という料理のレシピを紹介する。これはおもに野菜をつかって蟹を再現するもので、もどき料理(中国語では「仿葷素菜」などという)の一種である。
こんにちでも「台湾素食」として知られているように、もどき料理の技術が発達しているのは中国の素食のおおきな特徴だ。宋代にはすでに、林洪の『山家清供』という本のなかで、ひょうたんと麩をつかった「仮煎肉」(肉炒めもどき)という料理が紹介されている。
仿葷素菜では、さまざまな野菜や調味料を組みあわせて加熱し、「肉」や「魚」をつくりだす。こういうと、直感的に煉丹術と似ている気もしなくはない。それに火加減を意味する「火候」は、料理と煉丹術に共通するキーワードでもある。
だが、ぼくが言いたいのはこの程度の類似性ではない。問題は宇宙技芸的な類似性である。つまり、両者をささえる自然と技術の関係性のレベルから考えたいのだ。
今回たびたび引用してきた『抱朴子』には、著者の葛洪と師匠の鄭隠のおもしろい対話が収録されている。そこでは鄭隠が、黄金を求めてリスクのある冒険や投機を行なうのは、長生きするという理想に反しているので、金は自分で錬成するべきだと説いている。けれども、若いころの葛洪はそれに納得できなかった。
私は詰って言った、「それならなぜ世間にある〔本物の〕金銀を食べないで、金銀を合成するのですか? 合成したものは本物ではありません。本物でなければ詐偽でしょう」
鄭先生は答えた、「世間の金銀でもむろん構わない。ただ道士は大概が貧乏だ[……]それに師匠と弟子とで、十人あるいは五人になる。この人数に足るだけの金銀がどうして得られよう。さりとて遠方まで採掘に行くこともできない。だから合成して作るほかない。また、変化によって作り出した金は、使用したもろもろの薬物の精髄であって、自然の金にまさっているのだ」[★17]
鄭隠の回答からうかがえる道士たちの苦境には胸が痛むが、それはともかく、ここで見逃せないのはひとの手でつくった金が自然の金にまさるという発言だ。鄭隠自身はくわしく語っていないけれども、およそ煉丹家たちは、自然界の物質が生成変化していく過程で、ときに質の劣った個体が生じうると考えていた[★18]。だからこそ、鉱山などで自然に産出した金よりも、「もろもろの薬物の精髄」を抽出して錬りあわせた人工的な金のほうが、より良質で丹薬としての効果も期待できると判断したのである。
ならば、仿葷素菜はどうだろうか。
ぼくの知るかぎり、おそらくこの世界にはまだ仿葷素菜の哲学をうまく考察した文献はない。しかし、手がかりになる文章はある。清の李漁という文人が書いた『閑情偶寄』という随筆である。
この本は、劇作家で演出家でもあった李漁が、戯曲の書きかたから屋敷や庭園の趣味、そして礼儀作法にいたるまで、文人たるもののありかたをあれこれと書き連ねたものだ。そのなかに「飲饌の部」という食にかんする章があり、李がこのような素食論を展開している。
素食の至高の美味は「鮮」にある。それは素食が肉食にまさる唯一の点である──李漁はこう語るわけだが、そもそも「鮮」とはなんだろうか。
鮮という文字は、もともと生きた魚をあらわしている。そこから転じて食材が新しいことを意味するようになった。「新鮮」など、日本語でふだんつかわれるのはこの意味だろう。けれども中国語には、じつは食べものがおいしいという意味もある。
ところが、李漁のいう「鮮」は、「生きた魚」はもちろん、「新しい」でも「おいしい」でもないようにみえる。野菜のほうが肉より新しいということはないし(生きた魚以上に新鮮な食材があるだろうか!)、素食の至高の美味はおいしいことだ、というのはずいぶん不恰好なトートロジーではないか。
となると、李漁はこの言葉を独特の意味あいでつかっていると考えたほうがよさそうだ。そこで気になるのが『礼記』の引用である。「甘味は調和を受け、白色は采を受ける」とは、あらゆる彩色が白色のうえに成り立つように、味わいの調和も甘味のうえに成り立っているということだ。つまり中華料理において甘味は、酸味・苦味・辛味・塩味とならぶ五味のひとつでありながら、同時にそれらの調和が展開される土台をつくってもいるのである。「甘」が「あまい」と「うまい」の両方の意味をもっているのも、こうした役割と関係があるのかもしれない。
しかし、はなしはここで終わらない。李漁は、甘味そのものが〈鮮〉から生まれてくるという。といっても、おそらく〈鮮〉を濃くすると甘味になるというような、単純な味の近さを語ったものではないだろう。むしろ味わいの調和に対する両者の位置づけをあらわしていると理解したほうがよいと思う。つまりかれにとって〈鮮〉とは、五味調和の土台である甘味を、さらにその下からささえる第六の──いやむしろ第零の味わいなのではないか。
もうすこし具体的に考えてみよう。結局のところ、〈鮮〉はどんな味なのだろうか。鮮という字の「おいしい」という意味とここまでの考察を組みあわせて、たとえばクセのないおいしさをあらわしていると仮定してはどうか。どんな味にもあわせやすく調和を乱すことはないけれど、けっして味気ないわけではない、そんなおいしさである。
素食の至高の美味は〈鮮〉にあると李漁は言っていた。とはいえ、肉や魚は〈鮮〉でないとは一言もいっていない。むしろその逆である。かれはこのように述べている。
李漁によると、魚のなかでもチョウザメや鯉がとくに〈鮮〉であるらしい。チョウザメは淡白かつ上品な味わいで知られているし、きれいな環境で育った上等な鯉はクセも臭みもない。やはり〈鮮〉は、クセのないおいしさを意味しているようにみえる。ちなみに野菜では、とくに筍としいたけが〈鮮〉だと書かれている。
素食のおいしさを語るひとは、清んでいるとか、潔らかだとか、香りがよいとか、シャキシャキしているなどと言うばかりで、至高の美味のありかを知らない。素食が肉食よりすぐれているのは、ただ〈鮮〉であることだけなのだ。『礼記』〔礼器篇〕には「甘味は調和を受け、白色は采を受ける」と書かれているが、〈鮮〉とはこの甘味が生じてくるところなのである。[★19]
素食の至高の美味は「鮮」にある。それは素食が肉食にまさる唯一の点である──李漁はこう語るわけだが、そもそも「鮮」とはなんだろうか。
鮮という文字は、もともと生きた魚をあらわしている。そこから転じて食材が新しいことを意味するようになった。「新鮮」など、日本語でふだんつかわれるのはこの意味だろう。けれども中国語には、じつは食べものがおいしいという意味もある。
ところが、李漁のいう「鮮」は、「生きた魚」はもちろん、「新しい」でも「おいしい」でもないようにみえる。野菜のほうが肉より新しいということはないし(生きた魚以上に新鮮な食材があるだろうか!)、素食の至高の美味はおいしいことだ、というのはずいぶん不恰好なトートロジーではないか。
となると、李漁はこの言葉を独特の意味あいでつかっていると考えたほうがよさそうだ。そこで気になるのが『礼記』の引用である。「甘味は調和を受け、白色は采を受ける」とは、あらゆる彩色が白色のうえに成り立つように、味わいの調和も甘味のうえに成り立っているということだ。つまり中華料理において甘味は、酸味・苦味・辛味・塩味とならぶ五味のひとつでありながら、同時にそれらの調和が展開される土台をつくってもいるのである。「甘」が「あまい」と「うまい」の両方の意味をもっているのも、こうした役割と関係があるのかもしれない。
しかし、はなしはここで終わらない。李漁は、甘味そのものが〈鮮〉から生まれてくるという。といっても、おそらく〈鮮〉を濃くすると甘味になるというような、単純な味の近さを語ったものではないだろう。むしろ味わいの調和に対する両者の位置づけをあらわしていると理解したほうがよいと思う。つまりかれにとって〈鮮〉とは、五味調和の土台である甘味を、さらにその下からささえる第六の──いやむしろ第零の味わいなのではないか。
もうすこし具体的に考えてみよう。結局のところ、〈鮮〉はどんな味なのだろうか。鮮という字の「おいしい」という意味とここまでの考察を組みあわせて、たとえばクセのないおいしさをあらわしていると仮定してはどうか。どんな味にもあわせやすく調和を乱すことはないけれど、けっして味気ないわけではない、そんなおいしさである。
素食の至高の美味は〈鮮〉にあると李漁は言っていた。とはいえ、肉や魚は〈鮮〉でないとは一言もいっていない。むしろその逆である。かれはこのように述べている。
魚を食べるひとは、まず〈鮮〉を重んじる。それについで、脂の乗っていることが重視される。脂が乗っており、なおかつ〈鮮〉であれば、それ以上魚に求めることはなにもないだろう。[★20]
李漁によると、魚のなかでもチョウザメや鯉がとくに〈鮮〉であるらしい。チョウザメは淡白かつ上品な味わいで知られているし、きれいな環境で育った上等な鯉はクセも臭みもない。やはり〈鮮〉は、クセのないおいしさを意味しているようにみえる。ちなみに野菜では、とくに筍としいたけが〈鮮〉だと書かれている。
このように、〈鮮〉は素材の性質やポテンシャルとして、ある程度食材ごとに決まった分だけ備わっている。とはいえ〈鮮〉がある種のおいしさであるなら、それは料理によって高められるものでもあるはずだ。じっさい、李漁はこのように語る。
料理は出来たてが一番──こんな平凡なことを語るだけなのに「空虚無人の境界」などというものものしい言いかたをしてしまうのは、さすがは中国の文人である。ぼくもいつかは食卓でつかってみたいものだ。
こんな調子で、李漁はさまざまな食材や料理法について語っているのだが、おもしろいことに、ある食材を語るときにだけ筆致がさまがわりする。それがほかでもない蟹である。
蟹に対する李漁の執着には異常なものがある。かれは蟹が解禁される(陰暦の)9、10月を「蟹秋」と呼び、毎日欠かさず蟹を食べていた。そのために毎年蟹のために貯金をして、それを「買命の銭」つまり命を買う金と呼んでいたらしい。なぜ蟹は、そこまで李漁を魅了したのだろうか。かれはこのように語っている。
ここで目につくのは、やはり蟹を金や宝玉になぞらえているところである。もしも蟹を買うお金がなかったら、あるいは蟹が解禁されるまえに「痴情」を抑えられなくなったら、かれはどうするだろうか。もちろん「錬成」するしかない。事実、賽螃蟹という料理はそのようにして生まれたのだ。
とはいえ結局のところ、そのような「錬成」によって生まれるのは、蟹に似て非なるもの、本物の下位互換でしかないのではないか。
いや、かならずしもそうではない。素食の至高の美味は〈鮮〉であり、それが肉食にまさる唯一の点であると李漁が言っていたことを思いだそう。とすると、「もろもろの薬物の精髄」から錬成された金が自然の金にまさる良薬になるといわれたように、料理によって野菜の精髄である〈鮮〉を引きだし、高めながら「蟹」や「肉」や「魚」をつくりだすことができれば、それは〈鮮〉という一点において、オリジナルの蟹、肉、魚を超えるのではないか。
もしそうであるなら、仿葷素菜という技術にとって、野菜のもつ素材ほんらいの味とは、加工するほどに失われていくようなものではないといえる。それはむしろ技術によって高めるべき〈鮮〉というポテンシャルであり、食材の外見からは想像もつかないような飛躍の足掛かりとなるものなのだ。
レシピへ移るまえに一点だけ補足しておきたい。
魚がもつ至高の味は〈鮮〉である。そして〈鮮〉の味わいがもっとも高まるのは、調理され、釜から出された直後のひとときだけなのだ。もしさきに料理して待ってしまえば、魚の至高の美味は、空虚無人の境界へと発散されてしまうだろう。[★21]
料理は出来たてが一番──こんな平凡なことを語るだけなのに「空虚無人の境界」などというものものしい言いかたをしてしまうのは、さすがは中国の文人である。ぼくもいつかは食卓でつかってみたいものだ。
こんな調子で、李漁はさまざまな食材や料理法について語っているのだが、おもしろいことに、ある食材を語るときにだけ筆致がさまがわりする。それがほかでもない蟹である。
飲食の美味にかけては、私には言葉にできないものなどない[……]だが蟹だけは[……]そのよろこびや甘さ、そして忘れがたさの要因を、まったく言い表せないのだ。私にとって、この蟹というものほど痴情に駆られる食べものはない[……]蟹よ、蟹よ! 私と一生を共にしてくれないだろうか![★22]
蟹に対する李漁の執着には異常なものがある。かれは蟹が解禁される(陰暦の)9、10月を「蟹秋」と呼び、毎日欠かさず蟹を食べていた。そのために毎年蟹のために貯金をして、それを「買命の銭」つまり命を買う金と呼んでいたらしい。なぜ蟹は、そこまで李漁を魅了したのだろうか。かれはこのように語っている。
蟹は〈鮮〉であり脂も乗っていて、甘くてなめらかである。そしてその身は、玉のような白銀色と金のような黄金色をしている。[★23]
ここで目につくのは、やはり蟹を金や宝玉になぞらえているところである。もしも蟹を買うお金がなかったら、あるいは蟹が解禁されるまえに「痴情」を抑えられなくなったら、かれはどうするだろうか。もちろん「錬成」するしかない。事実、賽螃蟹という料理はそのようにして生まれたのだ。
とはいえ結局のところ、そのような「錬成」によって生まれるのは、蟹に似て非なるもの、本物の下位互換でしかないのではないか。
いや、かならずしもそうではない。素食の至高の美味は〈鮮〉であり、それが肉食にまさる唯一の点であると李漁が言っていたことを思いだそう。とすると、「もろもろの薬物の精髄」から錬成された金が自然の金にまさる良薬になるといわれたように、料理によって野菜の精髄である〈鮮〉を引きだし、高めながら「蟹」や「肉」や「魚」をつくりだすことができれば、それは〈鮮〉という一点において、オリジナルの蟹、肉、魚を超えるのではないか。
もしそうであるなら、仿葷素菜という技術にとって、野菜のもつ素材ほんらいの味とは、加工するほどに失われていくようなものではないといえる。それはむしろ技術によって高めるべき〈鮮〉というポテンシャルであり、食材の外見からは想像もつかないような飛躍の足掛かりとなるものなのだ。
■
レシピへ移るまえに一点だけ補足しておきたい。
じつは現代の中国語では、「鮮味」という言葉が、20世紀に日本で発見された「うま味」の訳語となっている。じっさい、中国では動物性・植物性を問わず、うま味調味料がとても豊富に開発されており、それらがこんにちの仿葷素菜の質を飛躍的に向上させている。なかには、もはや仿葷素菜は(理屈のうえにとどまらず)すっかりオリジナルを超えてしまったと主張するひとすら出てきているのである[★24]。
けれども、かつて李漁らが語っていた〈鮮〉がうま味そのものだったのかはわからない。共通している部分もあるかもしれないが、〈鮮〉は素食一般が肉食にまさる唯一の点だといわれていたことを考えれば、安易な断定はつつしみたいところである。
賽螃蟹には、卵をつかうものや人参だけでつくるもの、また人参とじゃがいもをつかうものなど、いくつかのバリエーションがある。ここではおもに人参、じゃがいも、しいたけをつかったレシピを紹介する。この組みあわせは、『舌尖上的中国』(英題は A Bite of China)という中国のドキュメンタリー番組で紹介されたものだ。
これを選んだのにはふたつの理由がある。ひとつは、〈鮮〉を高めるためにはしいたけがあったほうがよいから。これは李漁の教えだ。そしてもうひとつは、そもそもぼくがこの番組のおかげで賽螃蟹を知ったからである。そこでは賽螃蟹をつくる料理人の技術が「魔術」と形容されているのだが、たしかにその調理過程は魔術的であり、動画をはじめてみたときにはおおいに感銘を受けた[★25]。
ただし、今回は上記の材料にくわえて「鹹鴨蛋黄」(アヒルの卵黄の塩漬け)をつかっている。レシピを書くにあたってずいぶん試行錯誤したが、やはり発酵食品がもつ複雑なニュアンスを利用したほうがうまくいったのは否めない。動物性の食材をつかうことになるが、これは「精進料理」ではなく素食なので問題はないだろう。もちろん、完全な菜食にこだわるなら抜いてもかまわない。あくまでもベースは野菜なので、いずれの場合でも十分に「錬成」の妙味を楽しめるはずだ。
ちなみに、アヒルにかぎらず鹹蛋(卵の塩漬け)は中国では一般的な食材で、生卵を塩水に漬けておくだけなので簡単に自作できる。といっても、日本ではアヒルの卵を買うのは簡単ではないので、既製品をつかうのが無難だ。今回ぼくがつかった商品は、その名も「神丹」。神丹は丹薬の呼称のひとつで、なかなか味わい深いものがある。
けれども、かつて李漁らが語っていた〈鮮〉がうま味そのものだったのかはわからない。共通している部分もあるかもしれないが、〈鮮〉は素食一般が肉食にまさる唯一の点だといわれていたことを考えれば、安易な断定はつつしみたいところである。
6 賽螃蟹について
賽螃蟹には、卵をつかうものや人参だけでつくるもの、また人参とじゃがいもをつかうものなど、いくつかのバリエーションがある。ここではおもに人参、じゃがいも、しいたけをつかったレシピを紹介する。この組みあわせは、『舌尖上的中国』(英題は A Bite of China)という中国のドキュメンタリー番組で紹介されたものだ。
これを選んだのにはふたつの理由がある。ひとつは、〈鮮〉を高めるためにはしいたけがあったほうがよいから。これは李漁の教えだ。そしてもうひとつは、そもそもぼくがこの番組のおかげで賽螃蟹を知ったからである。そこでは賽螃蟹をつくる料理人の技術が「魔術」と形容されているのだが、たしかにその調理過程は魔術的であり、動画をはじめてみたときにはおおいに感銘を受けた[★25]。
ただし、今回は上記の材料にくわえて「鹹鴨蛋黄」(アヒルの卵黄の塩漬け)をつかっている。レシピを書くにあたってずいぶん試行錯誤したが、やはり発酵食品がもつ複雑なニュアンスを利用したほうがうまくいったのは否めない。動物性の食材をつかうことになるが、これは「精進料理」ではなく素食なので問題はないだろう。もちろん、完全な菜食にこだわるなら抜いてもかまわない。あくまでもベースは野菜なので、いずれの場合でも十分に「錬成」の妙味を楽しめるはずだ。
ちなみに、アヒルにかぎらず鹹蛋(卵の塩漬け)は中国では一般的な食材で、生卵を塩水に漬けておくだけなので簡単に自作できる。といっても、日本ではアヒルの卵を買うのは簡単ではないので、既製品をつかうのが無難だ。今回ぼくがつかった商品は、その名も「神丹」。神丹は丹薬の呼称のひとつで、なかなか味わい深いものがある。
7 賽螃蟹のつくりかた
○食材
・じゃがいも 1つ
・人参 1本
・しいたけの粉末 大さじ1
・しょうが(スライス) 1〜2枚
・鹹鴨蛋黄 2つ
○調味料
・白酢 小さじ1
・料理酒 小さじ2
・塩 小さじ2
・こしょう 小さじ1
・味の素 ひとつまみ
・片栗粉ひとつまみ(水 50cc ほどで溶いておく)
下準備
・じゃがいもと人参を薄切りにして蒸す
※環境や道具によるが、水を足しつつ80〜90分ほど蒸すとよい。目安は箸でかるく挟んでつぶせるくらい。
・しょうがと鹹鴨蛋黄をみじん切りにしておく。鹹鴨蛋黄はなるべく細切りにして、しょうがはあまり細かくしすぎないようにする
・すり鉢などに野菜を移してつぶす。このとき、すべての材料をくわえてまぜる
炒め
・滑鍋を行なう(連載第1回参照)
・鹹鴨蛋黄を鍋のなかでくずしつつ、中火で炒める
・鹹鴨蛋黄が白く泡立ってきたら、野菜をいれて炒める
※加熱しすぎるとパサパサになるので、手短に炒める。一般家庭用のガスコンロなら、鹹鴨蛋黄をいれてから1分以内に仕上げられる。
レシピ自体は単純だが、単純であるがゆえのむずかしさもある。ぼく自身もまだ習得しきれたとはいえないけれど、成功すると意外に蟹の味がしてくるのでおどろきだ。そのうえ、野菜ならではのさっぱりした仕上がり──もとい〈鮮〉の風味も相まって、なかなかおいしい料理になる。読者のみなさんにもぜひ挑戦してみてもらいたい。
なお、今回は気鋭のライターでゲンロンの編集スタッフでもある谷頭和希氏に試食していただいた。谷頭氏は甲殻類アレルギーがあり蟹をあまり口にできないそうだが、試食後、以下のようなよろこびの声を寄せてくれた。
ほんらい、しょうがと蟹の味わいはそれほど似ていないはずだが、「賽螃蟹」にしょうがを加えると、なぜか妙に蟹らしい後味が生じる。つくるときの参考にしてみてほしい。
なお、今回は気鋭のライターでゲンロンの編集スタッフでもある谷頭和希氏に試食していただいた。谷頭氏は甲殻類アレルギーがあり蟹をあまり口にできないそうだが、試食後、以下のようなよろこびの声を寄せてくれた。
しょうがの風味が思った以上に蟹感を醸しだしていて、めちゃくちゃ蟹を食べた気になりました。普段は食べることのできない蟹を好きなだけ摂取できる(ような気がする)背徳感に浸れるので、甲殻類アレルギーの人にはおすすめです!
ほんらい、しょうがと蟹の味わいはそれほど似ていないはずだが、「賽螃蟹」にしょうがを加えると、なぜか妙に蟹らしい後味が生じる。つくるときの参考にしてみてほしい。
写真=編集部
撮影場所=渋谷キッチンスタジオ
★1 袁枚『隨園食単』、青木正児訳注、岩波文庫、1980年、163頁。強調は筆者。以下本稿では、既訳を参照した場合も一部訳文を変更している。
★2 本節のここまでの記述は、おもに以下を参照した。周爱东:“中国素食探源”,《中国烹饪研究》1999年第2期,页55-59、吉村昇洋『精進料理考』、春秋社、2019年。ちなみに、一般に肉食を禁じる印象のつよい仏教だが、もともとインドの初期仏教ではすべての肉食が禁止されていたわけではない。「三種の浄肉」といって、殺されたのを見ておらず、聞いておらず、知ってもいない動物の肉にかぎり、口にしてよいとされていた。
★3 葛洪『抱朴子 内篇』、本田濟訳注、平凡社、1990年、300-301頁。
★4 水野杏紀『易、風水、暦、養生、処世——東アジアの宇宙観』(講談社選書メチエ、2016年)では、生活の知恵と化した養生の思想やその実践について、前近代の日本における受容にも言及しつつまとめられている。とくに第四章「養生」を参照のこと。また、こうした日常的な養生にもとづく食生活については、中村璋八、佐藤達全『食経』(明徳出版社、1978年)が参考になる。
★5 厳密にいうと、「丹」を服用せずに体内で錬りあげる「内丹」という後発の技法も煉丹術に含まれるが、ここではじっさいに薬(丹薬)をつくり、服用するものに焦点をあてる(これを内丹と区別して「外丹」という)。
★6 葛洪、前掲書、340-341頁。重量などの単位の解釈は邦訳にしたがった。
★7 F・S・テイラーは、『錬金術師──近代化学の創設者たち』(平田寛、大槻真一郎訳、人文書院、1978年)のなかで、長寿や不死のために錬成をするという発想は「イスラム時代までは西洋錬金術にはいってこない」(90頁)ものなので、「中国的伝統がイスラムのルートをとおって西洋の錬金術師に生命のエリキサ(霊薬)という考えを与えた」(95頁)可能性があると述べている。
★8 葛洪、前掲書、333頁。
★9 同書、67-69頁。
★10 秋岡英行、垣内智之、加藤千恵『煉丹術の世界──不老不死への道』、大修館書店、2018年、10-11頁を参照。
★11 葛洪、前掲書、237頁。
★12 20世紀末の中国では、漢代の画像石のなかに豆腐づくりを示す絵があったと主張するひとがあらわれ、ちょっとした論争が起きた。だがそうした見解も、いまでは旗色のわるいものになっている。以下を参照。孙机“豆腐问题”,杨泓、孙机《寻常的精致》,辽宁教育出版社,1996年,页174-181。
★13 李治寰:“豆腐制法与道家炼丹有关”,《农业考古》1995年第3期,页221。
★14 葛洪、前掲書、97頁。
★15 同書、228頁。
★16 篠田統、秋山十三子『豆腐の話』、駸々堂、1976年、17-18頁。
★17 葛洪、前掲書、333-334頁。
★18 秋岡、垣内、加藤、前掲書、8頁を参照。
★19 李渔《闲情偶寄》,上海古籍出版社,2000年,页263。
★20 同上注、页281。
★21 同上注、页282。
★22 同上注、页284。
★23 同上注。
★24 戴涛、熊喆:“论素食发展的历程”,《南宁职业技术学院学报》,2019年第1期。
★25 CCTV纪录:"《舌尖上的中国》A Bite of China EP7 我们的田野", YouTube, 2018年2月16日。 URL= https://youtu.be/oSy7bHIXmWI(2021年8月25日閲覧)。賽螃蟹にかんする部分は 22:40〜23:30 周辺。
伊勢康平
1995年生。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専門は中国近現代の思想など。著作に「ユク・ホイと地域性の問題——ホー・ツーニェンの『虎』から考える」(『ゲンロン13』)ほか、翻訳にユク・ホイ『中国における技術への問い』(ゲンロン)、王暁明「ふたつの『改革』とその文化的含意」(『現代中国』2019年号所収)ほか。