浜通り通信(41) 豊間から「当事者として」復興を考える|小松理虔

シェア
初出:2016年8月12日刊行『ゲンロンβ5』
 今年の5月から、いわき市豊間(とよま)地区にある復興商店の手伝いをしている。豊間はいわき市の沿岸部に位置する浜辺の町。東日本大震災では巨大津波に襲われ、地区の620世帯のうち、およそ3分の2の世帯が全壊。85名の尊い命が失われた。いわき市でもっとも甚大な被害を受けた地区の1つである。その豊間地区に再び賑わいをもたらすとともに、被害を受けた店の再開の場を提供しようと2015年1月に完成したのが「とよマルシェ」という復興商店街である。中華料理店、鮮魚店、食堂など4つの店舗が軒を連ねていて、わたしはそのうちの1つ、「豊間屋」という物産商店の手伝いをしている。

筆者が手伝いをしている物産ショップ豊間屋

 

 この「豊間屋」という商店、地域の女性たちが作る郷土料理「さんまのぽーぽー焼き」などの惣菜と、地元の産直野菜をウリにした物産商店で、主に、近くの復興住宅で暮らす高齢者や地元の人たちが利用している。これからますます売り上げ増を見込みたいということで、紆余曲折を経てわたしに声がかかり、商品の販売戦略や店づくりに関する提案をしたり、仕入れ商品の選定や陳列、ポップやショップカードなど販促物の制作などにあたっている。要するに店の売り上げを上げるための「なんでも屋」だ。

 2015年のオープン当初は、被災した人たちが購入できるよう生活雑貨を並べ、そのついでだから地元の母ちゃんたちが集まってお惣菜を作って販売しようといった雰囲気の「コミュニティ機能重視」の場所であったそうだ。「心の復興」を目指す場所と言えばいいだろうか、そこまで数字にはこだわらず、地域の皆さんが元気を取り戻す場所としての性格が強かったと聞く。
 ところが、母ちゃんたちがこだわって作った「さんまのぽーぽー焼き」がことのほか美味しく、遠方からも注文が入るなど売り上げが増え、お店としてしっかり運営すれば、さらなる売り上げ増や若者の雇用などに繋がる可能性が見えたことから、本格的に商売を目指すことになり、ならばそれに適した経験者を探そうということで、わたしに声がかかり、今お手伝いをしているというわけである。

 自分を優秀な人材だと言いたいわけでは毛頭ない。もともとは、首都圏など県外の若者、とりわけ地域づくりに関心のある若者を店長候補として採用し、店づくりを任せる計画だったのだ。東京に本部があり、震災直後から人材派遣を通じて被災地支援を続けているNPO法人ETIC.の「右腕派遣プログラム」というプロジェクトには、豊間の皆さんが人材募集をかけた記事が残っている★1

 その記事はわたしがライターとして取材して書いているのでよく覚えている。県外から人材を呼ぶ予定だったのだ。しかし、募集をかけたのは2015年である。もはや東北の被災地に熱い視線を送るような血気盛んな若者もいまい。さらには店の業務も多岐にわたり、当然激務が予想される。移住のハードルは高い。結局人が集まらず、たまたまライターとして取材していたわたしぐらいしか残っていなかった、というわけだ。

 本来の店長候補には様々な業務があっただろうが、わたしは他にも案件を抱えるフリーランサーなので毎日勤務するわけにもいかない。それで「週に1度お店に伺ってもろもろの提案をする」という、いわばコンサル的な役割でどうだと提案され、それならばということでお引き受けした。しかし、働いてみると案の定話が違う。むちゃくちゃハードである。そしてその現場には、被災地特有の問題が見え隠れする。もはや地元紙以外ではあまり目にすることもなくなった復興問題だが、ここでは未だに強く感じるのだ。この店が始まったのがつい最近だからかもしれない。

 だからわたしがここに書く話は、おそらくは東北の被災地ではどこでも体験済みの「被災地あるあるネタ」なのかもしれない。しかし、復興のもたらす「暗」の部分は、これからの地域づくりを考える上でも、復興の本質を見極める上でも、賞味期限の長いテーマだと感じている。繰り返し、折に触れて提起し、皆さんに現場感を共有してもらいたいと考え、今回の「浜通り通信」は、そんな主旨で書いてみた。いや、正直を言えば、そのような精神をもとに書いた文章ではなく、「みんな聞いて下さいよーマジ大変なんスよー」という愚痴を、皆さんに聞いてもらいたいだけなのかもしれないが。

想定外の激務


 わたしが手伝いをしている「豊間屋」というお店の難しさの1つに「責任者の不在」という問題がある。商店街にある他の店舗は、震災前からの店主が健在だ。運営は非常にシンプルである。しかしこの「豊間屋」という店には店主がいない。店長も社長もいない。いるのは、豊間地区の区長、復興に関わるコンサルの先生、実動部隊としての「ふるさと豊間復興協議会」のメンバー、そして地域の母ちゃんたちである。

 発足の目的が「コミュニティ機能」だったから無理もない。外部に営業をしかけてお金を儲けて地域に産業をもたらそう、という思いで始まったわけでもない。区長は地域のリーダーではあるが店の経営のプロではないし、コンサルの先生もあくまで外部の人である。協議会メンバーも母ちゃんたちも、地域のために一肌脱いでくれているものの、皆さん高齢であり、一儲けしよう、ガンガン事業を進めていこうというわけでもなく、別にこの店が潰れても困る人はいない。そんな「宙ぶらりん」の状態が、責任者の不在を温存してしまっていたのだろう。

 わたしとて、あくまで外部から関わる人間である。しかし、店の運営の経験がある人もいなければ、福島県内の物産を知る人も、仕入れができる人もいない。ポップはいつも段ボールにマジック書きだし、朝礼もなければ営業会議もない。でも誰かがやらなければいけない。誰がやるのか。ガーン。わたしである。

 ああなんでこんな仕事引き受けちゃったんだろうとボヤきつつ、子育てに忙殺されている妻を引きずり出して、ポップを書き、それをラミネートし、商品の陳列方法を考え、仕入れ商品の提案書を作り、仕入れのための電話の仕方を教え、商品情報を伝達しつつ、新商品のアイデアを出し、パッケージデザインにかかる費用を算出し、知り合いのデザイナーと話を詰め、想定される営業先を選び出し、営業のためのツールやパンフレットの制作を提案し、ツイッターやフェイスブックといったツールでの情報発信etc.を行っている。

 自分だけが率先して動いても、それが引き継がれなければ意味がない。だから皆さんにあれをして欲しい、これをして欲しいとお願いをする。しかし皆さん、もう60歳をゆうに超えた普通の父ちゃん母ちゃんたちである。すぐに仕事ができたらそもそも右腕なんて頼む必要がない。当然時間もかかる。それでも、豊間の皆さんの、若い人たちに豊間を引き継ぎたいという思いが本物なのはヒシヒシと感じている。わたしだってプロではない。でも目の前の問題を皆で突破していかなければならない。自分の微力さ加減にはいつも歯がゆさしか感じられないが、やらないよりはやったほうがいい。そう開き直ってお手伝いしている。

復興は地域の衰退スピードを速めているだけなのか


 被災地の復興は、多くの場合、当該地区の復興協議会的な団体が担うことが多い。比較的規模の大きい商業地の場合は、商工会や商店会などが主導することも多いが、そうでない場合は、地域の区長などが中心になることが多いようだ。若手は働きに出ているわけで、当然、メンバーには高齢者の割合が高くなる。だからそこに外部から「コンサル」が入ってくる。豊間の場合も、町づくりの専門家の先生がコンサルとして入り、様々な提案・提言を行いつつ、助成金や補助金の申請などにも関わっていらっしゃる。

 被災地であるがゆえに、助成金や補助金は入りやすい。このため、地域の長老たちだけで地域づくりを進めてしまうこと「も」できる。敢えて酷い言い方をすると、助成金や補助金が「爺さんたちの夢」に火をつける燃料になり、しかもその爺さんたちには、それを得られるだけの当事者性と社会的地位が与えられているということだ。こうなってしまうと、地域の長老と若手の間の対話のチャンネルは狭くなり、結果的に、若い世代の意見を反映させた地域づくりが難しくなってしまう。

 当然、何かしらの事業を続けていくためには「利益」を生み出していく必要がある。しかし、利益を出さなくても「復興」を掲げれば金銭的、人的な支援が受けられてしまう。それが地域の自立を妨げる障害になっている面があるということだ。ある意味での「復興の利権化」というか「支援の受け慣れ」というか、手厚く保護されることへの自覚のなさが日常化してしまっている気がする。もっとも、これは被災地に限らず地方の地域活性化プロジェクトなどに共通する問題かもしれないが。

 区長をはじめとした高齢者たちは、当然のように「若者を取り込んで町づくりをしたい」と願う。しかし、実際には若手がいないためコンサル頼みになってしまう。コンサルは各地の成功事例などとともに、現代的な地域づくりの提案をするだろう。ところが現場は高齢者ばかりなのでうまくいかない。しかしそれでも事業そのものに対しては補助金が出るのでそれはそれで食えてしまう。地域の重鎮とコンサルが中心になるため数少ない若手は疎外感を感じてしまう。結果的に魅力のない地域になり、若者の移住者なども集まらず、町の衰退が進んでしまう。そしてそれに対して誰かが責任を取るわけでもない。そんな負のスパイラル。復興は、地域の衰退を速めているだけなのだろうか。

 もちろん、皆、そうならないように、若い人たちに地域復興のバトンを渡そうと考えているのだろう。しかしそれが難しい。どうしようもないのだろうとも思う。特に、いわきの沿岸部の場合、中心部から離れていて、通勤や通学を考えれば市内の中心部に移住したほうがいい。人材がいない。仕事もない。1人や2人、県外から優秀な若者が入ってきたとしても、大きな変化は望むべくもない。しかも、豊間や、その隣の薄磯(うすいそ)といった地域は、いわき市内の「地区」にすぎない。別に、豊間から平に引っ越した人がいたからといって、自治体の人たちは困らない。むしろ、過疎地から中心部への移住が促進されたと考えるかもしれない。

急速に衰える道か、アクロバティックな再生を目指す道か


 もともと衰えていた東北の小さな港町。皆、口を揃えて「かつての賑わいを取り戻したい」と言う。しかしその「かつて」とはいつなのか。爺さんや婆さんが謳歌したであろう高度経済成長の時代だろうか。北洋サケマス船が空前絶後の儲けをもたらしていた時期だろうか。残念ながら、わたしはそのような時代感は共有できない。失われ続けている平成という時代に生きてきた。だからこれから大きく発展するという展望を開くことができない。被災地は、これまで以上に急速に衰えていくか、あるいは震災を原動力とし、アクロバティックに町づくりを展開し、突き抜けて面白い場所として生き残りを模索するか、どちらかしかないと思う。これまでのように「現状維持を狙いつつもまったりと衰えていく」なんてことは、望めないのだ。

 豊間の皆さんは、後者の道を歩もうとされているはずだ。いや、東北の被災地の多くがそれを望んだに違いない。しかし、結果はどうだろう。成功例は数少ないように思う。まだ成功か失敗かを判断する時期ではないのかもしれない。いずれにしても、わたしは、手伝う以上、豊間には突き抜けて面白い場所になって欲しい。そうなったほうが、関わる自分もヘルシーだからだ。どうしたら豊間に移住したくなるだろうか、豊間に行きたくなるだろうか。そればかり妄想しながら、勝手に意見を出させてもらっている。

 実は、いわき市は、「いわき七浜」と呼ばれる美しい浜を持ちながら、海を見ながらビールでも飲みつつまったりと時間を過ごせるようなカフェやバーがほとんどない。豊間の海岸は、震災前から鳴き砂の美しい海で知られ、震災後の現在も県内外からたくさんのサーファーが訪れている。「古き良き港町」ではなく、現代的な「ビーチタウン」として再生できたら面白い。メール配信などで日々波の情報を伝え、駐車場を整備し、復興商店で朝ごはんを用意する。必要なら、地域の公民館などもゲストハウスとして開放してしまえばいい。復興住宅の空いた部屋など、サーファーの宿泊場所として最適である。

 これから住宅地の造成が始まるのだから、地域独自の景観規則を作り、新築の家は木造の平屋を奨励する。例えば、いわき市産の杉などを活用したパッシブハウスなどに対して助成金をつけるのもいいだろう。いわき市は東北一の年間日照量を誇る地域だ。高気密高断熱のエコハウスを推進し、ゼロエネルギー住宅の先進モデル地区にしてしまえば、地域の間伐材の利用促進になり、山から甦ることになる。海の見える高台に、無垢材をたっぷり使ったモダンな平屋の住宅が並べば、思わず移住したくなる人もいるだろう。

 朝の波乗りを楽しんだサーファーたちが「豊間屋」を訪れ、母ちゃんの作った惣菜とともに、朝のコーヒーを楽しむ。昼ともなれば、ランチを楽しむ客がやってきて午後のコーヒータイム。海を見に外に出れば、モダンな木造住宅の軒下に置かれたサーフボードが目に入る。白い砂浜にはドッグランが整えられ、犬たちと走り回る子どもたちの声が聞こえてくる。勝手な妄想だが、豊間がそうなったら、わたしは豊間に移住すると思う。「何を勝手なこと言ってるんだ」「妄想だけで実際には何も取り組んでいないじゃないか」と言われればオシマイだが。

「海の民」の尊厳を傷つける防潮堤


 しかし、そのような妄想とは裏腹に、海岸線に沿って南北に走る防潮堤の建設は着々と進んでいる。サーファーが集まるカフェを作ったとしても、海が見えないのでは魅力は半減どころでは済まない。海から歩いて来れるところにカフェがあるのが理想だが、そのようなところからは海が見えないのだ。あのような巨大津波を経験した地元の皆さんが「安全」と「防災」を求めるのはよくわかる。しかし、その結果できた新しい町に「"外の人が感じられる"わかりやすい魅力」がなければ、外から人はやってこない。若い移住者が来なければ、結果的に地域の高齢化はさらに進んでしまう。

薄磯地区では防潮堤を兼ねた防災緑地の上部が見学広場になっており、工事の様子を見下ろして確認することができる

 

見学広場から望む薄磯地区。この場所が防災緑地となる

 
 被災地の皆さんは「外から人に来て欲しい」と願う。それなのに、外の人たちにとっての価値、「海が見える眺望」というほとんど唯一の価値を、防潮堤によって捨て去ってしまったというジレンマ。確かに復興はスピード感が重要だ。安全と防災も重要だ。しかし、今少し慎重に計画を練り、現地の人たちの思いを受け止めつつ、安全性と眺望を両立できるプランはなかったものかと考えずにいられない。

 以前、劇作家の岸井大輔さんをお連れしてこのあたりを視察したときに、岸井さんが嘆息しながら「建築も町づくりもワークショップも、防潮堤に敗北したんですよ」と言ったことがあったが、それが強烈に記憶に残っている。確かにそうなのだろう。防潮堤の前に、人はあまりに無力である。防潮堤を前にすると力が失われるような気がするのだ。情緒的な発言で怒られそうだが、実際そうなのだ。海に生きてきた人間にとって、海から閉ざされている感覚が強いからかもしれない。

豊間の北に位置する薄磯地区の造成の現状。蛇のように走る防潮堤がよく見える

 

塩屋埼灯台から望む豊間地区。こちらも防潮堤が伸びている様が確認できる。まるで長城のよう

 
 思い出すことがある。つい最近、福島の食を巡るイベントを開催したときのことだ。平地区で生まれ育った人たちと、小名浜生まれのわたしで「いわきの食文化」について語ったのだが、平の皆さんに話を伺うと、地域の食とは「母の味」、ひいては「先祖の味」だと言う。例えば、母が会津出身なら会津の味つけになり、仙台なら仙台の影響が残る味になる。地域の食を考えることは、先祖の味を考えることであり、先祖を敬うことでもあるのだと、そんな話だった。

 一方、小名浜の味について話すと、例えば「カツオの藁焼き」は土佐の漁師から伝わったとか、「サンマのみりん干し」は、三陸のイワシが手に入らない時代にサンマで代用したのが起源だ、といったように、先祖ではなく、他の地区の港町と海で繋がっていくという話になった。いわきの食という同じテーマでありながら、平の人たちが歴史を「縦」に遡って地域性を見出すのに対し、小名浜の人たちは空間を「横」に広げて太平洋に飛び出していく。そんなところに地域性が表れて面白いね、とそんな話をした。

 港町は常に海に開かれている。ともすれば内陸に背を向けているフシもあるかもしれない。小名浜の人たちが内陸であり市内の中心である「平」をあまり見ていないのは、そういう理由かもしれない。小名浜の漁民たちにとって、例えば北の町といえば相馬であり石巻であり気仙沼であろう。しかし平の商人にとって北は四倉であり久之浜、双葉郡である。空間の捉え方が、小名浜の人たちが「船-港-海洋(海の民)」であるのに対し、平の人たちは「鉄道-駅-大地(山の民)」なのだ。

 だとするならば、海の民にとって防潮堤の出現は生命線を断ち切られるようなものである。自分たちの命や文化を育んできた海との間に壁を作り、海の民としての遺伝子を捨ててしまうことになりかねない。いわき市内の沿岸部に点在する龍王神社や数々の石碑は、津波に襲われながらも、津波を畏れ、海の神を鎮め共存しようとした海の民の知恵の証そのものではなかろうか。そして何より、太平洋の水平線を視界に捉えられるあの「眺望」こそが、この地の住人を海の民たらしめてきたものではなかったか。防潮堤を目の前にしたときのあの無力さ、力を無効化されるような感覚は、わたしのなかの「海の民のDNA」のざわめきなのかもしれない。

 海の民のDNAといったところで、あらかた「お前は何を言っているんだ」で終わりである。被災地はあなたの妄想を実現する場所ではないとか、そういう発言は地域の復興を邪魔するとされてオシマイだろう。しかし、海に支えられてきた地域の歴史や文化、海に対する眼差しを無視した防潮堤の町が果たして魅力的になるだろうか。無機質なニュータウンをここに作って移住したくなる若者がいるだろうか。

塩屋埼灯台から望む太平洋。なんといっても、この海の美しさこそ財産

豊間の町づくりは、いったい誰の問題なのか


 豊間地区では目下、高台の住宅地を造成中だ。南と北に2カ所あり、平地の住宅地と合わせて300世帯分の土地を造成するという。しかし、話を伺うと300世帯のうち70世帯程度しか戻る意志の確認が取れていないそうだ。230世帯分の土地が余ることになる。もちろん、それらの土地の幾つかは買い取られるのだろうが、首都圏のハウスメーカーに買い取られた土地が豊間らしさを引き継ぐとも思えない。ここにどんな町を作るのか。豊間にしかできない町づくりをいかに進めていくのか。残された時間は少ない。

宅地造成の進む豊間地区。本来なら写真左側に海が見えたはずだが現在は見えない

 

町内からは海が望めなくなってしまった豊間地区。ちなみに路線バスは1時間に1本

 
 当然のことながら、わたしには何の意思決定権もなければ、豊間の住人でもない。しかし、週に1度復興の手伝いをしているという意味での当事者ではあるし、車で30分で行ける場所に暮らし、たまには豊間で海でも見ながらビールを飲みたいいわき市民としての当事者でもある。つまり、豊間がどのような町になるかは、わたしの問題でもある。だから個人的には、区長やコンサルの先生に対して「豊間はこうなって欲しいな」ということを言い続けるつもりだ。

 地域の復興は、第一には、そこに暮らす人たちが考えるべき問題である。しかし、その町は、今回の記事の中盤でも書いたように、外から移住してくる若者がいなければ急速に衰えてしまうだけだろう。もちろん、決めるのはそこに暮らす人たちだが、外部への目線がなければ魅力的な地域はできない。外の人たちが自由闊達に意見を発信できるチャンネルがあってこそ、内側がより面白くなるのではないか。その意味では、当事者でない人なんて、この世には存在しないのだ。

 わたしの暮らす小名浜だって、イオンモールができるからといって安心していられない。イオンが去る日だってないとも言えない。いずれは過疎化して魅力のない町になるのかもしれない。そんなとき、小名浜のことは小名浜の人間が決めるのだから黙ってろとは言えないだろう。どんな町なら小名浜に移住したくなりますか? わたしが町づくりに関わっていたら、そう聞くと思う。もちろん100%それに従う必要もないが、チャンネルを閉ざすようなことは地域にとってマイナスである。

 今回書いてきたように、被災地の復興には色々な負の面がある。地域が抱えてきた問題がより激しさを増した形で顕在化しているケースも多い。ここで書いたからといって、明日にも防潮堤が撤去されるわけでも、若者が大挙して訪れるわけでもない。厄介な問題を抱えたまま、そして衰えながら、流れを変える石を投げ続けていくしかない。厄介だからといって事情を知らない外部の人間は関わるなと遮断してしまっては、議論はますます閉じこもり、地域の発展は望めない。内側の発展を願うからこそ、外部の声を遮断せず、接点を作り続ける必要があると思っているし、自分自身、そのような心持ちで、豊間の皆さんとも付き合っていきたいと思う。

 いわきに来る機会があったら、ぜひ豊間を訪れて欲しい。そして失われた命や復興について思いを馳せながら、さんまのぽーぽー焼きを味わって欲しい。何しろこの「さんまのぽーぽー焼き」、原価率無視。使う必要のない最高級サンマを豪勢に使って、1枚1枚手づくりで作ったぽーぽー焼きである。マズいわけがないのだ。自分たちが美味ければいいというのではない。余所から来る人にうまいものを食わせたい。母ちゃんたちの目だって、いつも「外側」に向いているではないか。

 


★1 「東北の湘南」と言われる地で、若者とタッグを組みたい!(新 みちのく仕事)http://michinokushigoto.jp/magazine/9489

小松理虔

1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。2018年、『新復興論』(ゲンロン)で大佛次郎論壇賞を受賞。著書に『地方を生きる』(ちくまプリマー新書)、共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『常磐線中心主義 ジョーバンセントリズム』(河出書房新社)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)など。2021年3月に『新復興論 増補版』をゲンロンより刊行。 撮影:鈴木禎司
    コメントを残すにはログインしてください。

    浜通り通信

    ピックアップ

    NEWS