ゲンロン猫カフェへようこそ!──三浦瑠麗×東浩紀+乙武洋匡(+宮腰あかり[山猫総合研究所]+上田洋子)「夏休み特別企画、ゲンロン猫カフェ!──山猫総合研究所から出張配信するニャ」
リベラルとコロナの関係
「どうですか? きょうの感染者数は」
イベントは、東のこの問いかけから始まった。8月5日、東京都内の新型コロナウイルス感染症の新規感染者数ははじめて5000人を超えた。 五輪の閉会式を3日後に控え、新規感染者数の急激な増加を五輪開催と結びつけて考える向きもあった。だが、東はその見方に反対だ。五輪以前から、街には人が増えはじめていた。国民はもはや、自粛だよりの政府のいうことを聞かなくなっている。
東によれば、問題はそもそも「いまだけ我慢をすれば、コロナ禍を乗り切れる」という政府の態度にあった。昨年4月から東が一貫して指摘しているのは、コロナ禍は早急には解決しないという前提で、医療体制の立て直しをすべしということ。具体的には、コロナの感染症法上の分類見直しを含め、入院患者を十分に受け入れられるような法整備を進め、病床の確保を目指すべきだ。 同時に東は、専門家の言うことさえ聞いていればいい、という日本人の体質が今回のコロナ禍で露見してしまったとも指摘する。とくにネット上のリベラル(いわゆる「Jリベラル」)は、専門家の意見に従うばかりで、リベラリズムの大前提であるはずの「自分の頭で考えること」が欠けている。三浦は、その体質は、パターン認識の習熟だけを目指している日本の受験教育と結びついた根深い問題なのではないかと応答した。 日本でもすでにデルタ株が流行しており、今後も新しい変異株が現れる可能性がある。短期的な自粛要請をうながすばかりでは、もはや効果がないことは明らかだ。政府には長期的なビジョンで、より現実的なコロナ対策が求められる。
乙武洋匡の義肢プロジェクトの哲学性と、障がい者スポーツ
ほどなくして乙武が会場に合流すると、白ワインで2度目の乾杯がかわされた。
ここから話題は、ソニーコンピュータサイエンス研究所(Sony CSL)の「OTOTAKE PROJECT」に移った。エンジニアの遠藤謙氏が率いるSony CSLが立ち上げた義肢プロジェクトで、名前の通り乙武がかかわっている。ロボット工学の知見を用いて障がいのない未来を目指す彼らのビジョンを紹介しよう。
身体の障がいは現時点では障がいかもしれないけれど、10年後には障がいではなくなるかもしれない。 もし足がなかったとしても、足と同じように動くテクノロジーがあれば、その人は普通に歩くこともできるし、走ることもできる。そうなったら、足がないことは障がいなのだろうか。 きっと未来は、誰もが身体に不自由はなく、自由に身体を動かすことができるに違いない。 そうした未来を目指して、ロボティクスで人間の身体を進化させていく。 四肢のない乙武氏とテクノロジーの融合。テクノロジーと身体の未来がここにあります。[★1]
このような目標を掲げて開発されたロボット義足は、従来のものとどのように異なるのだろうか。 じつは一般的な義足は、片足がない、もしくは両足がないが膝まではある、という人を想定して作られている。乙武の場合は両膝がないために、義足を用いて歩くのは不可能ではないかと考えられてきた。しかし、Sony CSLは人間の膝の動きを再現する画期的なモーターの開発に成功したのだという。このモーターが歩行時の体重移動を支え、地面から跳ね返す膝の機能を代行し、乙武が歩くことを可能にした。 とはいえ、使いこなすのは並大抵のことではない。乙武は、当初は立ち上がるのが精いっぱいで、1年をかけて10メートルを歩けたときには号泣したと当時をふりかえる。いまでは訓練の甲斐あって、およそ70メートルも歩くことができるという。ふだん問題なく機能している身体の部位について、わたしたちはなかなかか意識を向けることがない。三浦は、人間が歩くために膝がいかに大切かと驚きを隠さなかった。
東は「OTOTAKE PROJECT」をたくさんの人に勇気を与えるものだと絶賛、身体イメージについての哲学的な示唆にも興味を向けた。視覚障がい者は白杖の使用に慣れてくると、身体感覚が杖の先まで拡張されるという。では乙武がロボット義足を使って歩行するとき、身体感覚はどこまで延長しているのだろう。そういった身体感覚の議論において、乙武の挑戦は大きな重要性をもつと東は解説した。 ロボティクス技術は、義足を使って歩く「能動性」を可能にしている。しかし、やがては、たとえば義手や義足を優しく触られたとき、そこに快感を覚えるような「受動性」も補う技術も実現するかもしれない。「触れられる」とはそもそもなんなのか? 「OTOTAKE PROJECT」は、たんなるテクノロジーの発展にとどまらない、人間の身体に関する哲学的な問いをわれわれに投げかけてくれるものなのである。
義足の話題に関連して東京オリンピック、パラリンピックについても議論がかわされた。 この夏に開催された東京オリンピックの重量挙げ種目に、五輪初のトランスジェンダー選手として、ニュージーランドのローレル・ハバードが出場した。記録は残せなかったものの、史上初のトランスジェンダー選手ということで関心を集めた。「多様性と調和」を掲げる東京オリンピックのひとつの成功例と呼べるのかもしれない。 しかし、他方ではこういった事例もあった。東京パラリンピックの男子陸上走り幅跳び種目に出場した、ドイツのマルクス・レーム。2021年6月に出した自己最高記録は8メートル62センチで、これはなんと東京オリンピック金メダリストの記録である8メートル41センチを大きく上回っていた。彼自身はかねてからオリンピックへの出場を希望していたが、IOCから許可を得られなかった。走り幅跳びの跳躍の際、義足で踏み切ることが「テクニカル・ドーピング」だとみなされたためだ。 これに対して、乙武は問いを投げかける。トランスジェンダー選手の出場が認められ、しかし義足の選手が認められないことの線引きはどこにあるのだろうかと。
障がい者の身体を補うテクノロジーが発達し、身体的な欠損を持った選手がそうではない選手よりも好成績をおさめはじめているいま、オリンピックの精神である「身体と意志と精神の健全な調和」の「健全」とはいったいなにを意味するのだろうか? いまこそ議論されるべき問題だろう。
児童文学と翻訳
イベント終盤には山猫総合研究所の宮腰あかりとゲンロンの上田洋子も登壇。読書好きな三浦と上田の間で、子どものころに読んだ児童文学の思い出話に花が咲いた(乙武はすでに帰宅、東は泥酔して撃沈)。
三浦は幼少期に、イギリスの作家トールキンの『ホビットの冒険』や『指輪物語』、そしてC・S・ルイスの『ナルニア国物語』といったファンタジー小説を読み漁っていたという。上田は『ホビットの冒険』があまりにも好きで、続編の『指輪物語』を読むことで世界観が壊れてしまうのではないかと恐れ、子どものころはあえて読まなかったとのこと。最近それを後悔し、『指輪物語』を買い揃えたそうだ。
子どものころにこうした小説にのめり込めたのも、訳の素晴らしさのおかげだったと二人は口をそろえる。海外文学を読むのに際し、重要な問題になってくるのが翻訳だ。とりわけ児童文学であれば、その言葉づかいが子どものイメージを決定づけてしまう。直訳では意味がわからない固有名詞があれば、子どもがイメージできるように訳者は別の言葉で言い換えなければならない。 三浦がとりわけ記憶に残っている訳が、瀬田貞二訳『ナルニア国物語』の「ライオンと魔女」の巻に登場するお菓子「プリン」だ。登場人物のひとり、ペベンシー家の次男エドマンドを誘惑するのに魔女が用意した美味しいお菓子が「プリン」だということに、三浦は子ども心にずっと疑問を持ち続けていたという。「プリン」って、何個も食べたくなるようなものだっけ? しかし、原作だとこれは「プリン」ではなく「ターキッシュ・ディライト」と書かれている。ターキッシュ・ディライトはトルコのお菓子で、現地ではロクムと呼ばれる。砂糖にでんぷんとナッツを混ぜ込み、粉砂糖をコーティングしたお菓子だ。当然プリンとは似ても似つかない。なんと偶然にも、上田も『ナルニア国物語』を読んでまったく同じ箇所が気にかかっていたという。ふたりは熱い握手をかわした。『ゲンロンα』に掲載の「【 #ゲンロン友の声|017 】良い翻訳とは何か?」で、上田はまさにその箇所について言及している。 上田は「プリン」訳を積極的に評価する。こうした翻訳が子ども心にうっすらとしたナゾを残し、異文化への憧れを抱かせてくれるからだ。上田は、古い挿絵が使われている岩波少年文庫版をぜひ子どもに読ませてあげてほしいといった。
議論のテーマは幾度も転じ、ときに気まぐれな猫たちの乱入によるブレイクをはさみながら8時間にもわたった。猫たちの活躍の裏側には、三浦と宮腰の連携プレーがあったことも申し添えたい。東が寝ている間に交わされた、ふたりの信頼関係の話も必聴だ。 コロナ問題やパラリンピック競技など、非常にアクチュアルなトピックが扱われ、充実した内容となった。ぜひ本編動画も楽しんでいただけたら幸いだ。(宮田翔平) シラスでは、2022年2月2日までアーカイブを公開中だニャ。
★1 OTOTAKE PROJECT(Sony Computer Science Laboratories, Inc.)より引用(https://www.sonycsl.co.jp/tokyo/ken/6644/)。