コロナからナショナリズムを見つめる──萱野稔人×飯田泰之「不謹慎狩りの向こうに」イベントレポート|ゲンロン編集部
ゲンロンα 2020年5月20日配信
日本社会はクレームに弱い
トークは大学でのオンライン授業の話題から。登壇した2人は共に大学の教壇に立っている。飯田はオンライン授業の利点として、対面授業よりも多くの質問が出されることを挙げた。逆に言えば、通常の対面授業でいかに学生が周りの目を気にして質問していないかをオンライン授業は明らかにしたのだ。飯田は、昨今日本で過剰化する「自粛警察」との共通点をここに見出す。つまり、日本という社会が持つ同調圧力の強さや世間体への過度なこだわりがその根底にあるのではないか、と。 萱野もこれに同意。それと相関する問題として、日本では個人商店だけでなく、大学や政府機関まであらゆる組織がクレームに弱いと指摘した。クレームへの弱さが、自粛警察の活動を活発化させているのではないか。萱野は飯田にどうすればクレームに強い社会になるのだろうか、と尋ねた。
豊かさが現実を隠す
コロナウイルスで国家が直面したのは、この「豊かさ」によって見えにくくなっていた問題だ。例えば、医療が充実し高度に発達した社会においては、老人と若者、どちらの命を優先すべきかはほとんど問われない。「どちらの命も均等に助ける」ことができたからだ。しかし、今回のコロナ騒動で国家が直面したのは「どちらかの命を選ばなくてはならない」という現実だった。人工呼吸器の数には限りがある。それを使用すべきは若者なのか老人なのか。いままでの社会では切実に考えられてこなかった問題を判断しなければならない。 萱野はそのような問題がコロナ騒動を経たグローバル社会にとって重要になると述べ、例としてEUを取り上げる。つまり、EUは社会が豊かであるからこその連帯だった、と。EU圏の国々が移民を積極的に取り入れたのは好景気で人材が不足していたからであり、コロナ騒動後にはイギリスを嚆矢として起こったEU脱退の機運が高まるのではないか。それは現実的に事態を見据えれば当然の論理である。経済的な困窮に陥り、「命を天秤にかける」ことを余儀なくされたとき、国家がそのメンバーである「自国民」を優先するのは合理的な判断であって、グローバリズムの理想は現実的なナショナリズムの問題の前では効力を持たないのではないか。 豊かさの存在が、その奥にある複雑な現実とナショナリズムの根強さを隠していたのである。
ナショナリズムと市場経済
これらの問題はつまり、再分配の問題としても考え得る。限られた資源の中で誰の命を優先し、富を分配するのか。これは一朝一夕に決定ができる問題ではないが、それを決定し、実行できる強制力を持つのは国家だけである。 逆にリーマンショックのときに明らかになったように、国家の強制力がなければ市場経済はいまより不安定になり、資本主義そのものが存立しなくなる可能性さえある、と飯田はいくつかの経済理論を挙げながら説明。つまり国家の介入とは一見無縁に思える市場経済でさえ、国家がなければ現実には稼働しない。その2つを切り離して考えることはできないのだ。
トークでは、コロナ以後の資本主義のあり方や、コロナ以後に覇権を握る国家の条件など、様々な話題が飛び交った。 気になる方はぜひ、実際のイベント動画を見て欲しいのだが、それらすべてに一貫していたのは、理論の単純さに回収され得ない現実の複雑さと、その現実と密接に関わる「ナショナリズム」の問題である。 飯田は「原理や原則ばかりに縛られると現実の世の中は動かない」と、トークの最後をこう締めた。複雑な現実を見つめ、もう一度私たちを否応なしに規定する「ナショナリズム」を見つめることからコロナ以後の議論は生まれるのではないだろうか。(谷頭和希) ゲンロン中継チャンネルでは、番組をタイムシフト公開中(5月25日まで)。都度課金1000円で、期間中は何度でも視聴できます。視聴ページはこちら。