ポスト・シネマ・クリティーク(8) ディジタルゴジラと「ポスト震災」の世界 庵野秀明総監督『シン・ゴジラ』|渡邉大輔

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初出:2016年8月12日刊行『ゲンロンβ5』

「絶滅の時代」のゴジラ


 冒頭、東京湾内羽田沖に無人で漂流する1隻のプレジャーボートが発見される。前後して、海面から大規模な水蒸気煙が吹きあがり、東京湾アクアラインの海底トンネル内では浸水による崩落事故が発生した。

 すぐさま情報収集に奔走する政府関係閣僚・幕僚たちが首相官邸に集まって緊急対策協議が開かれる。しかし、主人公の内閣官房副長官・矢口蘭堂(長谷川博己)以外の面々はこぞって、「原因は局地的地震か海底火山だろう」という穏当な官僚的見解に収束させようとする。ところがその直後、総理執務室の大きなテレビ画面に映しだされたのは、水蒸気煙が発生した海面からたかだかと立ち昇った巨大生物のものと思われる長い尻尾だった。……こうして庵野秀明が脚本・編集・総監督、樋口真嗣が監督・特技監督を務めた、12年ぶりの「ゴジラ」シリーズ第29作『シン・ゴジラ』(2016年)は、映画開始わずか15分足らずのうちにはやばやと、スクリーンに人類と巨大怪獣との戦いのはじまりを告知する。

 ところで、前回は現代ハリウッドの怪獣映画『10 クローバーフィールド・レーン 10 Cloverfield Lane』(2016年)を題材に、今日の「ポストシネマ的」な状況における「絶滅」(ノンヒューマン)の問題に触れた。それで行くと、「絶滅したはずの太古の恐竜が核実験の放射線で異形化した巨大怪獣」という設定をもつ「ゴジラ」もまた、さしあたり同様の問題系を共有するようにも見受けられる★1。事実、今回の『シン・ゴジラ』でもゴジラは、60年前に世界各国が深海に投棄した大量の放射性廃棄物を食べて進化した巨大生物という設定になっている。

 いずれにせよ、こうした『シン・ゴジラ』のいわば「ポストシネマ性」は、わたしの考えでは、この物語の冒頭部分にカットバック的に登場するふたつのイメージ――すなわち、ゴジラの「尻尾」と、それをまなざすひとびとの「顔」に、早くも象徴的に表れていると見ることができるだろう。

「顔の映画」のふたつの意味


 それではまずさっそく、後者の「顔」の問題のほうから考えてみよう。

 上の冒頭部分のシークエンスの記述からも明らかなとおり、『シン・ゴジラ』は、膨大な登場人物たちによるゴジラを撃退するための会議シーンが、全編をつうじて頻出する映画である。すでにネットでは「怪獣映画ならぬ会議映画」という絶妙なコメントもあるように、本作は、2時間近くの物語のほとんどが、主人公・矢口をはじめとする膨大な人数の閣僚・幕僚たちの硬い官僚用語による会話劇と、巨大不明生物=ゴジラの首都襲撃シーンの小気味よいクロスカッティングの連鎖だけで成立している。

 だが、この演出をより抽象化していうならば、すでに述べたように『シン・ゴジラ』は何よりも、「顔の映画」だといえる。実際、この映画では無数の俳優の顔のやや広角気味のクロースアップとその素早い切り返しショットが延々と続いてゆく。おそらくいま、映画館で観ている観客たちは、まずこの演出から、今回総監督を務めた庵野固有の作家性と、他方でそれには還元されない、現代のポストメディウム=ディジタル環境のもつある構造的特質とのふたつの側面を同時に読みとることができるだろう。そこで以下、本稿では『シン・ゴジラ』の演出を、庵野の仕事として読み解いてゆく。むろん、監督の樋口の果たした役割も当然、無視されるべきではない。だが、少なくともこの「顔の映画」の演出自体はまぎれもなく「庵野(アニメ)的」ないし「リミテッド・アニメ的」なのだ。

 知られるように、たとえば人物の顔の「止め絵」のアップとその「口パク」の反復的使用といった、いわゆる一般的なテレビアニメに見られるリミテッド・アニメーション技法は、最大の代表作でもあるテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~96年、以下、旧『エヴァ』)を筆頭とする90年代の庵野のアニメ作品では顕著に見られたものである。とりわけ名高い旧『エヴァ』後半以降の展開では、特務機関「ネルフ」の会話シーンに象徴される、短く素早い編集のリズムや、キャラクターたちの顔を正面や真横から捉える平板で簡素なレイアウトが一挙に増加する。いわば『シン・ゴジラ』には、こうした旧『エヴァ』的な庵野固有の画面設計が実写の俳優に置きかえられて巧みに取り入れられているわけだ。実際、『シン・ゴジラ』の物語や演出には、劇中の会議シーンに「ヤシマ作戦のテーマ」がBGMとして2箇所も登場するなど、庵野作品=『エヴァ』との露骨な類比関係がいたるところに見られるが、これは以上のような画面のルックからも強調されている。

 ただ他方で、わたしはここでこのいかにも庵野的な「顔の映画」の演出に、それとはまったくかけ離れた、2010年代の動画文化に広範に共有されるひとつの文脈を積極的に読みこんでおきたい誘惑にかられる。それというのも、筆者のこの類推には、後述するように、かつて90年代の庵野の演出が図らずも(?)同時代のさまざまな先鋭的なコンテンツの示す趣向と密かに共振していたという事実、さらには庵野の作風自体がそもそも複数のメディウム/ジャンル間の「異化」にあったという事実も大いに関係している。ともあれ、その文脈とは、最近のネットで注目される多くの動画コンテンツである。じつはそれらはまさに、無数の「顔の動画」の群れとして組織されつつあるからだ。

 ここ数年の若い世代に支持されている動画文化は、ニコニコ動画からYouTubeやInstagram、Vineといった動画サイトやアプリに急速に移っている。そして、HIKAKINやはじめしゃちょーといったYouTuberにせよ、大関れいかやブライアンといったVinerにせよ、そこで注目を集める人気動画の映像はいちように、まさに『シン・ゴジラ』のようなほぼ被写体(配信者)の「顔」(表情)のアップのみで構成されているのだ。MAD動画からボカロ小説を経てゲーム実況まで、顔はもちろん、固有の身体性を秘匿するのが暗黙の慣習であったゼロ年代のニコ動文化を考えると、この「顔の動画」の氾濫は、日本のネット空間における無視しがたい「公共性の構造転換」だといえる。

 ともあれ、この2010年代の動画コンテンツにおける「顔」の前景化の背景には、いうまでもなくさきのリミテッド・アニメとはまた異なった、別種の映像の抽象化や簡素化への不可避な志向が宿っている。それはおそらく、ここ数年の情報環境の有力な趨勢のひとつである「ウェブからアプリへ」、ないし「デスクトップからスマートフォンへ」という変化が関係しているだろう。すなわち、とりわけ若い世代を中心に、わたしたちはいまや、多様な動画をもはやデスクトップやタブレットの画面ではなく、掌におさまる小さなスマホのディスプレイで眺めることが主流になりつつある。そうした「スマホ・ファースト」の鑑賞条件においては、映像のレイアウトもまた、あらかじめできる限り構成要素を簡素化・縮減し、ユーザーの認知的な経済性(効率性)の向上を図るようになっている。近年の「顔の動画」の氾濫の背景には、「顔」=表情という、神経科学の知見が教える人間の知覚の反応度がきわめて高いイメージを動画制作者たちが無意識のうちに選択していることの結果なのではないか★2

 リミテッド・アニメという戦後日本のテレビアニメ産業の制約がもたらした表現上の経済性と、今日のスマホ・ファーストというメディア環境の変化がもたらしている表現上の経済性。こうした差異はあれど、「顔の映画」として撮られた『シン・ゴジラ』のルックは、かたやネット上に氾濫する無数の「顔の動画」たちのそれを映画館の巨大スクリーンという場で「異化」したもののようにも見えてしまう。むろん、わたしのこの解釈は多くの読者には牽強付会に思えるだろう。事実、そうなのだが、とはいえ、旧『エヴァ』以来、ひとつの作品のなかで無数のメディウムやリアリティ(セルアニメと実写、リアルと虚構……)の文脈をハイブリッドかつ高解像度で掛けあわせ、そのすべてをシニカルに脱臼してみせてきた庵野の一連の仕事を考えるとき、わたしのこの見立てもあながち無益でもないように思う。

ディジタルゴジラの尻尾

 さて、以上のように『シン・ゴジラ』の一連の「顔」の演出は、昨今のネット動画との類推をつうじて、やはりわたしたちに本作におけるディジタル映像表現(ポストシネマ性)とのかかわりについての問いを惹起する。

 そのわかりやすい切り口のひとつが、いうまでもなく冒頭に「顔」のイメージと並んで掲げた、東京湾の海上から水蒸気煙とともに顔をだし、続く日本上陸後もゴジラ本体の体高を上回るほどの太さと長さで背後に揺れ動くゴジラの「尻尾」のイメージに示される問題だろう。今回のゴジラの造型は、北村龍平監督の前作『ゴジラ FINAL WARS』(2004年)までのシリーズがすべてスーツアクターによる着ぐるみ演技であったのに比較し、はじめて野村萬斎によるモーションキャプチャとフルCGという手法によってヴァーチャルに制作された点が注目されている。ここにはまず、従来のゴジラ表象からの明らかな進展が認められる。すなわち、それはこの連載の第1回でも簡単に触れていた、イメージの「可塑性 plasticité」といういかにもポストメディウム=ディジタル映像表現特有の問題にかかわるものである★3

 かつてのゴジラの重厚な着ぐるみで作られたものと違い、ディジタル映像で描かれた本作のゴジラの尻尾は、あたかも別の生き物のようにクネクネと独立した存在感をもって印象的に動き回る。さらに、この尻尾に典型的に形象化されているディジタルゴジラの身体のそなえる「柔軟性」は、これも今回の新作で新たに導入された設定である、ゴジラが個体のみで段階的な「進化」を遂げ、映画全編を通してその身体的形状をつぎつぎと生成変化させてゆくという描写にも反映されている。そしてつけ加えておけば、そのゴジラのディジタル的な柔軟性は、逆にいえば、物語のクライマックス(ヤシオリ作戦)で血液凝固剤を投入された同じゴジラの身体に起こる、モノのような「結晶化」(硬直性)の表象ともみごとな対称性をなしているといってよい。

 ともあれ、こうしたディジタル映像で作られたイメージに特有の、固体の「すがた」や「かたち」が有機体(生物)のように動的に伸縮し、あるいは外部からの多様な変形作用を受けながらなお形状を保持する性質のことを一般に「可塑性」と呼ぶ。たとえば、本作におけるゴジラの可塑的身体のイメージは、同じく庵野が脚本を手掛け、樋口が監督を務めた短編『巨神兵東京に現わる』(2012年)の特撮による巨神兵よりも(とはいえ、庵野が作画を手掛けたことで名高い宮崎アニメのほうの巨神兵の表象は可塑的イメージそのものなのだが)、むしろ樋口監督の前作『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』前後篇(2015年)でやはりディジタルで造型された巨人の身体イメージに近い(主演の長谷川博己や石原さとみを含め、『シン・ゴジラ』と『進撃の巨人』は主要キャストもかなり重なっている)★4

 何にせよ、ここでゴジラや巨人たちの身体によって表象される可塑的プロセスにことのほか注目しておきたいのは、以上の可塑的な性質が、近年、ディジタル以降の映像の根本的要素としてしばしば挙げられるからである。というのも、すべてがヴァーチャルな情報で構成されるディジタル映像のメディウム的な内実は、かつてのアナログフィルムのような「物理的現実との結びつき」(「指標性 indexicality」)を徹頭徹尾失い、かわりに「ディジタルアニメーション」や「3DCG」を典型的モデルとする、イメージのそなえる「運動性 mobility」や可塑性の側面に移っているとされているからだ★5。さらにそこでは、レフ・マノヴィッチや押井守が鋭く喝破したように、指標性を欠く一方で、運動性や可塑性に依拠する「映像 moving image」は限りなくジャンルとしてのアニメーションに近いものになるだろう(「すべての映画はアニメになる」)。

 その意味で、いうまでもなくアニメーションを出自にもつ庵野が2010年代のゴジラ表象に独特の可塑的かつ生気論的な映像センスを加味したのは当然だともいえる。また、映画冒頭のプレジャーボートの船内を撮影するPOVショットの視界に一瞬、テーブルに置かれた宮沢賢治の詩集『春と修羅』の初版本が写りこむが、これもまた賢治作品に通底する仏教的なアニマティズム(汎生命論)への目配せのようにも写る。

ディジタルメディアと(しての)庵野作品


 いずれにせよ、「顔の動画」との類推を含め、初のディジタルゴジラを造型した『シン・ゴジラ』には、今日の映像のディジタル化/ネットワーク化の現状をめぐる表現上の変化が、映像演出のいたるところに認められる。たとえば、映画冒頭部分、東京湾アクアライン崩落事故の場面において一般人が撮影したという体裁の崩落現場の動画が画面に挿入され、そこにいかにもニコニコ動画ふうのコメント弾幕が流れるという、よりわかりやすい趣向などもそのひとつだろう(ただこの手の演出は庵野に限らず、もはや最近の邦画一般によく見られるクリシェだが)。

 あるいはその延長上に、この連載でもすでに何度も着目している「擬似ドキュメンタリーふう」の映像の活用も挙げられる。これも同じく映画の冒頭で起きる無人のプレジャーボートの発見場面で、自衛隊員が船内を捜索する現場を、その背後から同じ隊員と思われる撮影者による手持ちのディジタルキャメラで撮影録画する手ブレのPOVショット映像が挿入されるのだ。

 この手のなかばクリシェ化した擬似ドキュメンタリー表現が、「イメージの例外状態」と化した今日の映像環境の構造やリアリティをベタにかたどっていることはこれまでにも重ねて指摘してきたとおりだ。つまり、90年代のディジタルキャメラとネット環境の本格的な普及がなかば必然的にもたらした表現形式が、この今日ふうの擬似ドキュメンタリー表現だったといえるわけだが、とはいえ、その文脈からここで本作での演出をうんぬんすることは、じつは順番が逆転している。
 というのも、90年代の日本の映像文化において、むしろそうした擬似ドキュメンタリー的なリアリティを――岩井俊二や平野勝之などとともに――もっとも先駆的に提示していた作家のひとりが、ほかならぬ庵野自身だったからだ。映画ファンにすぐに思いだされるのは、何といっても複数の小型ディジタルキャメラを駆使して、まさに「監視社会的」と評するべき奇抜なアングルからのショットを組みあわせた初の実写映画『ラブ&ポップ』(1998年)だろう。ただ、以前書いた原稿でも指摘したことだが★6、じつはそれ以前にも、旧『エヴァ』の第弐拾壱話「ネルフ、誕生」ビデオフォーマット版や、映画『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH (TRUE) 2(注:2乗)』(1998年)には、冒頭に南極大陸でのセカンドインパクトの様子を記録したファウンドフッテージふう映像がすでに登場していた(画面にタイムカウントが入る演出は『シン・ゴジラ』の擬似ドキュメンタリー映像にも共通する)。したがって、90年代当時の庵野の試みは、本来、60年代モンド・ムービーのパロディである『ブレア・ウィッチ・プロジェクト The Blair Witch Project』(1999年)からラース・フォン・トリアーらの「ドグマ95」、そしてテレビのリアリティ番組(ドキュメントバラエティ)まで、同時代の世界的な映像をめぐるリアリティ表現の変容と並行的に見られねばならなかった。わたしがさきに『シン・ゴジラ』のリミテッド・アニメ的な「顔」の表現を、YouTuberたちの「顔の動画」のそれとあえて結びつけたのは、庵野演出にまつわるこうした過去の背景と関係している。

 上記の90年代(マルチメディア!)的な擬似ドキュメンタリー的演出や、本作でも登場する独特の字幕説明(長い会議場面に唐突に「以下、中略」という字幕が入って中抜きされる演出など)の使い方を含め、庵野には作品世界を記号的に表象するメディウムや語り、ジャンル規約の物質性・複数性に対する明敏な批評意識が強固にあり続けている(旧『エヴァ』製作時の「ただの記号論なんですよ、セルなんて」というよく知られた発言などを想起せよ)。そして、ディジタルメディアやソフトウェアがマノヴィッチやアラン・ケイのいったとおり、複数のメディウムを不断に相対化しながらフラットに溶かしこむ一種の「メタメディウム」であるならば、そうした庵野固有の作家性に根ざした表現上の細部はときに現代のメディア環境の構造とも本質的に共鳴することになるだろう。

「ポスト3・11映画」としての『シン・ゴジラ』


 さて、ここまで『シン・ゴジラ』のディジタルシネマとしての側面や庵野作品としてのそれに焦点をあわせてレビューしてきた。最後に、あらためて何よりも「ゴジラ映画」、あるいはそれが一貫して表象してきた戦後日本の精神史的状況との関連についても考えておきたい。

 もとより公開前に発生したビキニ環礁での第五福竜丸被爆事件から着想を受けた第1作のモティーフからも明らかなように、「ゴジラ」シリーズは、(庵野が参加した宮崎駿監督『風の谷のナウシカ』〈1984年〉などと同様)原爆から原子力政策にいたる戦後日本の国民的記憶を一身に体現する映画であり続けてきた。

 たとえば、よく知られるところでいえば、「ゴジラ」という表象に「敗戦のトラウマ」を読みとろうとする解釈がある。川本三郎、加藤典洋、笠井潔などいわゆる全共闘世代の批評家たちが好んで採用するこの解釈によれば、とりわけ敗戦から10年経たずしてはじまった第1期(昭和ゴジラシリーズ、1954~75年)のゴジラ表象とは、アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)で戦死した戦没者=英霊の隠喩とみなせる★7。すなわち、太平洋沖から何度も再来して復興後の近代都市を破壊して廻る恐怖の象徴・ゴジラは、昭和30年代の日本人にとって、いうなれば本土決戦を回避し、安寧とした民主主義国家を謳歌している戦後日本社会に対する怨恨を伴って現れる英霊たちの記憶そのものにほかならない。「幽霊 revenant」とは、同時に「再来するもの re-venant」である。ゴジラとはいまだ戦争の爪痕が生々しい時期の日本社会にとって、まさに「抑圧されたものの回帰」=トラウマ的幽霊であったわけだ。

 したがって、そんな敗戦のトラウマ的記憶が高度経済成長=消費社会の到来にとって薄らいでいった60年代なかば以降、ゴジラのイメージも急速に変質してゆく。第6作『怪獣大戦争』(1965年)でゴジラに「シェー」をさせたり、第8作『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』(1967年)でゴジラの子ども「ミニラ」を登場させたりするように、ゴジラは「おぞましい他者」(リアルなもの)から「かわいいもの」(イマジネールなもの)へと変貌していったのだ。

 それでは、ひるがえって今回の『シン・ゴジラ』はどうか。ひとことでいえば、やはりそのモティーフや演出の細部の多く(ゴジラ上陸時の大津波、放射線計測、国会前デモ……)が、21世紀日本の象徴的な「敗戦」=「災後」といえる2011年の東日本大震災と福島第一原発事故を濃密に想起させる、まぎれもない「ポスト3・11」のゴジラ映画として仕上がっている。そもそも庵野が現在、手掛けているリブート連作「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」(2007年~)の最新作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012年)もまた、巨大な「災厄」(ニアサードインパクト)のあとの世界を描く点で、同様の「復興期の精神」を描く映画であった。また、第1作を継承し、ゴジラを「神の化身」と見立てる本作の設定は、『巨神兵東京に現わる』と同様、たとえば筒井康隆『聖痕』(2013年)から中村文則『教団X』(2014年)、あるいはクァンタン・メイヤスーにいたる国内外の「震災後文学」や「震災後思想」にどこか通底する宗教的/神学的主題とも共通するところがある。

 ただ、やはりそのなかでも重要なのは、昭和の「ゴジラ」シリーズが体現してきた戦後日本の精神史的状況、とりわけ日米関係の表象とのかかわりではないか。『シン・ゴジラ』ではゴジラ襲撃後、合衆国から来日した日系人の大統領特使カヨコ・アン・パタースンが日本側の矢口とつねに行動をともにするほか、国連多国籍軍の威を借りた合衆国が、ゴジラ処分のために東京で熱核兵器の使用を検討していることまでが明らかになる(このシーンでは原爆投下後の広島、長崎のスチール写真もインサートされる)。

 以上のような『シン・ゴジラ』の大筋の展開は、いみじくも昭和ゴジラが暗に表象していたいわゆる戦後日本の「永続敗戦レジーム」(白井聡)を戦後から70年を経た現在も相変わらず反復しているように見えるだろう。事実、そのBGMの使い方にも端的に表れていたように、今回の『シン・ゴジラ』の演出の妙味は、昭和の「ゴジラ」シリーズの記憶の巧みなパッチワークにもあった。そして、映画の終幕、血液凝固剤の投入によって結晶化したゴジラを眺めながら、「わたしが大統領のときにあなたが総理大臣、それが理想のヴィジョンよ」と語りかけるパタースンに対して、「理想のヴィジョンじゃなく、理想の傀儡だろう」とシニカルにかえす矢口の姿には、「戦後70年」にして「ポスト震災」の日本を生きるわたしたちの政治的な隘路がまざまざと描かれていた。

 本稿で冒頭から繰り返してきた「顔」の主題に引きつけて短く敷衍してみるならば、わたしたちはこの戦後のゴジラ表象の問題を取りあげた加藤典洋の議論をここで思い起こすこともできる。「グッバイ・ゴジラ、ハロー・キティ」(『さようなら、ゴジラたち』所収)のなかで加藤は、戦後日本のポップカルチャー表象において、敗戦直後の「おぞましい他者」としての昭和30年代ゴジラから「かわいいもの」に変貌していった昭和40年代ゴジラに相当する対象として、今日、世界的な「kawaii」キャラクターの象徴となっている「ハロー・キティ」を挙げている。

 加藤の議論が興味深いのは、ここでもかれがほかならぬハロー・キティの「顔」の表象に注目している点だろう。周知のように、キティの顔には「口」が描かれていない。これは、『シン・ゴジラ』含め昭和のゴジラが耳まで裂けるほどの大きな口から周囲をつんざくような不気味な咆哮を絶えずあげているのとは対照的である。おぞましい「声」(=リアル)を発する「顔」から、「声」自体の消滅したもうひとつの「顔」(=イメージ)へ。日本の戦後空間の変化とは、いわばこのゴジラの「顔」からキティの「顔」への移行として解釈することができるだろう。そして、「ポスト3・11映画」としての『シン・ゴジラ』はいま、かつてのゴジラのおぞましい「声」=「顔」をふたたび呼び覚ましたトラウマ的映画だったのではないか……。

 以上のように、ディジタルゴジラがうごめく『シン・ゴジラ』の「ポスト3・11的」な世界もまた、依然としてなお(抑圧されてきた)「昭和ゴジラ」の呪縛に凍結されているように思う。まさに稼働を停止した原発のように、空に向かって冷たく固まったゴジラの巨大な尻尾が写されて映画は終わる。その尻尾がふたたび動きはじめるとき、ゴジラ映画にも真の意味で、戦後=災後が訪れるのかもしれない。


『シン・ゴジラ』公式サイト
http://www.shin-godzilla.jp/index.html

★1 たとえば、『シン・ゴジラ』はいわば「オブジェクト指向」の怪獣映画としても作られている。映画の後半、巨大な高架下の舗道を、矢口蘭堂とカヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)が歩くシーンで、当初ふたりを手前のカヨコ側からフォローしていたキャメラは、その後ゆっくりと頭上高くに舞いあがるが、これはいま流行りのドローン撮影によるものだろう。あるいは、その後の「ヤシオリ作戦」のさいにゴジラを爆撃する目的で無数の無人爆撃機や無人運転の新幹線が活用されるが、こうした「オブジェクトの自律化」という趣向も「ポストシネマ的」な状況と連動している。つけ加えておけば、このシークエンスを含め本作に民間人の活躍の描写がいっさい登場しないのも、演出上の瑕疵(反本多イズム?)というよりは、こうした「客体優位」のポストメディウム的世界観に基づいている。
★2 この点は以下の記事に示唆を受けた。「10代カルチャーのかたち 2016」、『Febri』vol.35、一迅社、2016年、24頁
★3 アニメーション表象とも馴染みが深いイメージの可塑性の問題については、近刊の新海誠論でも触れている。拙稿「彗星の落ちる『風景』――『君の名は。』試論」、『ユリイカ』9月号、青土社、2016年。
★4 『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN』の可塑的イメージについては、以下で論じた。拙稿「モノたちの喧騒の場――マンガの実写化が映画にもたらすもの」、『ユリイカ』10月号、青土社、2015年、62-71頁。
★5 Tom Gunning, “Moving Away from The Index: Cinema and The Impression of Reality, ” Differences, Volume 18, Number 1, Bloomington: Duke University Press, 2007, pp. 29-52.
★6 拙稿「『ヱヴァQ』のふたつの顔――映像・映画史的『エ/ヱヴァ』試論」、『ヱヴァンゲリオンのすべて』、BLACK PAST、2013年、132-144頁。
★7 川本三郎『今ひとたびの戦後日本映画』、岩波書店、1994年。加藤典洋『さようなら、ゴジラたち――戦後から遠く離れて』、岩波書店、2010年。笠井潔『8・15と3・11――戦後史の死角』、NHK出版新書、2012年。ちなみに、21世紀最初のゴジラ映画である金子修介監督『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年)では、ゴジラは文字どおり「太平洋戦争の戦死者の怨霊の集合体」だと説明されている。

渡邉大輔

1982年生まれ。映画史研究者・批評家。跡見学園女子大学文学部准教授。専門は日本映画史・映像文化論・メディア論。映画評論、映像メディア論を中心に、文芸評論、ミステリ評論などの分野で活動を展開。著書に『イメージの進行形』(2012年)、『明るい映画、暗い映画』(2021年)。共著に『リメイク映画の創造力』(2017年)、『スクリーン・スタディーズ』(2019年)など多数。
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