モンゴルからシラシーを経てシラサーへ至る長い道のり シラスと私(6)|翼駿馬

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webゲンロン 2024年7月16日配信

はじめに

 2023年11月にチャンネル開設してから、半年余りが経過した。

 チャンネルでは、モンゴル語やモンゴルの文化、歴史、仏教などの話題の他、仏教関連として遣唐使船で大陸に渡った円仁という天台宗の僧侶のこと、さらに最近読んだ本に関する話や、アーティストの弓指寛治さんの作品を画像付きで紹介する配信などをしてきた。また、ゲスト回も4回行っている。最近、配信中でもよく口にしているが、「ニッチでマニアックで誰得な」内容になっていると思う。

 このようなチャンネルを運営することは、ある意味とても無謀なことかもしれない。モンゴル自体がマイナーな分野であり、この先、日本でモンゴルの大ブームが来る可能性も限りなく低いだろう。そういう分野を扱っている上に、私はモンゴルを専門とする身でもなく、なんならかなりの期間を地味にサラリーマンとして過ごしてきただけの人間に過ぎない。

 では、なぜシラスで「ホルダンモリのモンゴルの野を駆ける アジアを巡る歴史と文字」という大それた名前のチャンネルを開設するようになったのか。

モンゴル語との出会い

 モンゴル語を話せるようになりたい──そう思ったのは、1995年の夏、29歳のときだった。

 大学は私立の工学部電気電子工学科に入ったものの、専門の勉学に関しては熱心とは言えず、好きな音楽を聴き、好きな本を読んで過ごすような地味な学生生活で、モンゴルとも無縁の暮らしをしていた。読書も系統的なものではなく、小説やノンフィクション、あるいは心理学や社会学など、興味があれば手あたり次第、という感じの雑食的読書だった。そんな中、同級生とお互いに本の貸し借りをしているうちに好きになった作家の一人が椎名誠だった。

 大学を卒業するときにも、これと言ってやれることはなかったので、教授から紹介された会社に入り、たまたま電気設備関係の仕事をすることになった。ただ、結果的にはその仕事が自分には向いていたようで、それなりに面白みを見つけて、第3種電気主任技術者の資格を取得するなど熱心に取り組んだ。

 そんな社会人生活にも慣れてしばらく経った1995年、椎名誠の映画『白い馬』を見たことがきっかけで、学生時代からの友人と二人でモンゴルツアーに参加した。そのツアー中に、ツーリストキャンプのスタッフをしていた牧民のゲルを訪問する機会があった。10人程度のツアー客に対して、ガイド兼通訳は一人。積極的な人はどんどん質問をぶつけていたが、私は質問もせずやり取りを聞いていた。訊きたいことがなかったわけではなく、逆だった。訊きたいこと、知りたいことだらけで、これは自分がモンゴル語を話せるようになるしかないという気持ちになっていた。

 牧民は一つのゲルに収まる家財以外に財産は持たない。暮らしの豊かさを示すのはゲルの外にある家畜だ。冬の寒さが極めて厳しく、乾燥した気候のモンゴルの草原では、よい家畜をたくさん育てることは簡単なことではない──などというような理屈は後知恵というか、帰国後色々本を読んだりして学んだことだ。しかし、ともかく現代日本とは全く違う文化を目の当たりにして言いようのない解放感をおぼえた私は、またここに来なくてはいけないとすら思うようになっていた。

 帰国後、当時としては唯一入手できるモンゴル語教材だった大学書林の『モンゴル語4週間』を、音声教材のカセットテープも併せて買って独学し始めた。当然ながら、独学ではすぐに限界に達した。そもそも音声を聞き取るのが大変だった。

 そこで色々調べた結果、おそらく当時としては外国語学部などを除いて唯一モンゴル語の講座を開設していたDILA(大学書林国際語学アカデミー)に通うことにした。週1回、夜間の講座である。

 DILAでモンゴル語を学び始めると、週1回の講座では物足りなくなっていった。

 同時にその頃、私は仕事の面で行き詰まっていた、担当していた電気設備の技術職から外され、パート社員と同じ仕事をしていた。異動させられた理由は、端的に言って、上司が自分のミスをごまかすためだった。

 くだらない。こんな会社に残っていても意味はない。モンゴル語をやりたいけど、留学するお金もないから、モンゴルで働けないだろうか──。そんな甘っちょろいことを考えていた。ある意味で、逃げ場をモンゴルに求めていただけかもしれない。

 しかし、現状を打破するには行動を起こすしかない。DILAでモンゴル語講座の担当講師だった窪田新一先生に相談することにした。窪田先生はJICA(国際協力機構)関連の仕事をされた経験があり、JICAが運営する青年海外協力隊はモンゴルにも隊員を派遣していることを教えてくださった。

 青年海外協力隊では、任国の希望を出すことができる。しかし、職種毎の募集であるため、モンゴルから自分の専門に合う職種での募集案件がなければ、仮に派遣が決まってもモンゴルにはいけない。1996年の秋募集で運よく電気機器の職種で募集があり、要請内容も実務経験と合致したことから、派遣が内定した。

モンゴルへ

 派遣前には語学を含めた訓練がある。宿泊所も併設された訓練所で、いわば合宿形式で訓練が行われる。現地で必要な言語の習得以外にも、国際協力、任国事情、異文化体験プログラムなど、訓練内容は多岐にわたる。

 語学訓練を担当していたナランツェツェグ先生は、『モンゴル語4週間』のカセットテープの声の主であり、またモンゴルで入手していた『蒙日会話練習帳』の編集にも関わっていた方だった。それを知って、非常に感激したことを今も覚えている。さらに、私がモンゴルに行くきっかけとなった映画『白い馬』の台本をモンゴル語に翻訳する仕事をされていたことも後で知った。

 訓練内容は、午前も午後も語学授業しかない日もあるなど、当然ながら任国で使う言語の習得に多くの時間が割かれていた。教える側にとっても、本当に大変な労力だと思う。それでも、私にとってモンゴル語の語学研修は、毎日とても楽しかった。

 青年海外協力隊に参加希望の方の多くは、英語圏、フランス語圏、スペイン語圏など多数派言語を使う派遣先を希望するそうだ。そのため、モンゴルに派遣が決まると辞退してしまう場合が多いという話もたびたび聞いた。活動終了後も国際協力の場で活動したいという希望があると、仕事の選択肢が狭まる少数言語は敬遠されてしまうようだ。マイナー言語には、常にこの種の悲哀が付きまとっている。

 そんな状況もあってか、私が派遣前にモンゴルに行ったことがあり、多少なりともモンゴル語を学び、そしてモンゴルに派遣されることを希望していたことを、先生はとても喜んでくれていた。

 3ヶ月弱の派遣前研修はあっという間に終わった。

 1997年7月、モンゴルに赴任した。

モンゴル滞在

 モンゴルでの職場は、モンゴル技術大学(現モンゴル科学技術大学)電力学部電子自動制御学科だった。4年生の学生と若手の教師にPLC(プログラマブル・ロジック・コントローラー)という自動制御機器のプログラミングを指導した。製造現場などで使用される産業用自動制御機器である。

 そこでの活動も刺激的なものだったが、今の興味につながっているのは、ウランバートルでたまたま知り合った日本人留学生から聞いた面白い人物の話だ。その留学生は清朝末期のモンゴルについて研究しており、文書館に通って色々調べているとのことだった。

 その面白い人物というのが、第5世ノヨン・ホタクト=ダンザンラブジャー(1803-56年)である。

 チベット仏教の流れを受けているモンゴル仏教には、「転生活仏」という存在がいる。抜きん出てすぐれた僧が、仏や菩薩といった高僧の生まれ変わりとみなされ地位をあたえられたものを指す。その中でも、ノヨン・ホタクトの5番目の転生者、ダンザンラブジャーは、モンゴル語だけでなく、チベット語でも多数の詩を書き、さらに『月のカッコウの伝記』という仏教歌劇を創作して、劇場を各地に作って上演するなど、民衆のための活動をする転生活仏としてモンゴル各地の民衆から崇拝される対象となった。

 その反面、酒飲みで、女癖が悪くて、生臭坊主みたいな人物だった。108人の愛人がいて、その後に愛人にしてくれと言い寄ってきた貴族の娘を拒絶したことがきっかけで、その女性に毒殺されたとも言われている。とにかくハチャメチャだけど魅力的な人物で、人々から「酔っ払い活仏」とか「暴れん坊活仏」という愛称で呼ばれた。

 もともとモンゴルでは仏教のことも多少なりとも学ぼうと思っていた私は、ダンザンラブジャーに強く惹かれた。大きな理由として、彼が王侯貴族や知識階級ではなく、一介の牧民の、しかも物乞いをしなければならないほどの貧しい生まれだったということがある。そこから転生者と認定されるというのは、他に類を見ないユニークな経歴である。また、彼が『月のカッコウの伝記』の演者に女性や一般人を起用するという先進的な取り組みをしたことも、魅力の一つだ。

 私が滞在していた当時のウランバートルでは、本の売り買いは路上の古本屋でされる割合がかなり多かった。貴重な1962年モンゴル科学アカデミー版の『月のカッコウの伝記』を不敵な笑みを浮かべる露天商の男から手に入れたときは、ヤバい取引をしているような気分になり興奮したものだ。そして『月のカッコウの伝記』以外にも、ダンザンラブジャーに関する書籍を入手して読んでみると、面白いエピソードがいくつも書かれていた。清朝滅亡や人民革命、社会主義体制下での仏教弾圧などを超えて彼の遺品が後世に伝えられたことなどを知り、知れば知るほどダンザンラブジャーの魅力にハマっていってしまった★1

『月のカッコウの伝記』の書影

 そうしてモンゴルでもっと掘り下げたいものを見つけ、協力隊の活動でも充実感のある生活を送っていたが、当然日本に帰らなければならなくタイミングはやってくる。青年海外協力隊の任期は基本的に2年だが、私は職場からの要請で1年間任期を延長してトータル3年間モンゴルで活動し、2000年7月に帰国することになった。

青年海外協力隊任期終了後とその後

 青年海外協力隊の活動が終了して帰国した後、私は個人的にもう一度モンゴルに行くことにした。一応の名目は留学だ。青年海外協力隊ではあまり自由に旅行ができない。しかし、ダンザンラブジャー関連のことを調べるためには、どうしてもモンゴル南部のドルノゴビ県に行かなければならない。そこにはダンザンラブジャー博物館と、彼によって建立され、その後政治権力によって弾圧された時期を経て近年復興したハマリンヒード寺院があるからだ。

 就職してしまってからではなかなか機会が作れないだろうという判断だった。留学ということで仏教学の先生の個人指導を受けてモンゴル仏教の歴史を学んだが、じつは特にどこかの学校に通ったわけではなく、観光としてドルノゴビ県に行く機会も作った。

 ダンザンラブジャー博物館を作り、ハマリンヒードの再興に力を注いだアルタンゲレル氏と直接会ってお話できたことは、とても素晴らしい経験だった。動画で記録をとり、いろんなお話を聞くことができた。この頃はまだ舗装路が整備されておらず、ウランバートル市内から少し出ると舗装路は途切れ、その先はずっと未舗装路というか単なる轍だった。そのため、途中で一泊しないとドルノゴビ県の中心には着けなかった。そんな苦労も、アルタンゲレル氏と会って話せた感激で吹き飛んだ。

ハマリンヒード寺院の内部。ちなみに背後に掲げられているダンザンラブジャーの肖像は絨毯で、同じものを持っている

故アルタンゲレル氏

 そしてじつは、青年海外協力隊の語学訓練でお世話になったナランツェツェグ先生も、自身がドルノゴビ出身であることを子供の頃の思い出などと共によく語っていた。それもあって、帰国後にナランツェツェグ先生に会ってダンザンラブジャーに関心を持っていることを伝えた。すると、彼女はこう言った。

 「今まで授業でダンザンラブジャーについて話をしたことは一度もなかったが、私は彼を尊敬し崇拝している。協力隊員の中から彼に関心を持つ人が出てきてくれたことがとても嬉しいし、驚きもしました。これからも、ダンザンラブジャーに関心を持ち続けてください」

 ナランツェツェグ先生は感激した様子で、私にダンザンラブジャーの小さな詩集を一冊プレゼントしてくれた。思えば、私がモンゴルに関心を持つきっかけになった映画『白い馬』やモンゴル語を学ぶためにはじめて手にとった本たちに先生が携わっていたのを知ったのも、出会ったのちのことだった。そして、その後モンゴルでたまたま深い興味を持ち、帰国後の身の振り方にまで影響を受けるほどのめりこんだダンザンラブジャーも、先生が同郷の偉人として崇拝する人物だったことがそのときはじめて分かったのだ。巡り合わせの妙を強く感じた瞬間だった。

東浩紀さんのツイッター

 「シラスと私」というテーマなのに、ゲンロンとすら出会わないまま相当の文字数を費やしているので、少し時間を飛ばす。

 留学から帰国後はしばらくの間、家庭教師のアルバイトをしていたが、その後地元新潟の化学メーカーの工場で電気設備の技術者として職を得ていた。入社後にスキルアップのため、第2種電気主任技術者とエネルギー管理士の資格を取得し、これが結果的に現在の仕事にもつながっている。

 東浩紀さんのツイッターアカウントをフォローしたのは、おそらく東日本大震災後間もない頃だったと思う。ツイッター利用者も増え、それに比例するように怪しげな情報やおかしな言説が目に付くようになっていた。そんな中で東さんのツイートはとても的確でバランスがとれていると感じた。そして誠実さも伝わってきていた。

 この頃は、またしても個人的に色々と行き詰まっていた。一度、転勤で地元を離れていたが、数年後に再び転勤で地元に戻ってきた。そこで配属された職場内で上司からパワハラされた。このままでは自分がつぶれてしまうと思って職探しもしたのだが、次の仕事が決まる前にメンタルが限界になってしまいそうになり、方向転換をした。

 就職でどこかの組織に入ることも、ある種の賭けのようなもので、入ってみないと職場の雰囲気も分からない。技術者としての仕事に限界を感じたわけではなく、組織の中での立ち位置が見えなくなっていたので、「自分自身の居場所」を作るつもりで、会社を立ち上げることにした。在職中に関わった業者に声をかけて、多少なりとも仕事を回してもらえそうだったこともあり、いわば緊急避難的な決断だった。

 パワハラされ続ける環境から脱して、メンタル面は改善したが、自分の会社とは別にいくつか仕事を掛け持ちして、なんとか食いつないでいる状態だった。そのため、書籍購入に回せるお金はなかなか捻出できなかった。

 売り上げが少ないので、会計業務などを外注にする余裕もなく、すべて自分で行うしかなかった。会計ソフトすら使わず、表計算ソフトを使用した。ネット検索で色々調べ、無料でダウンロードできるテンプレートなども活用した。初年度の確定申告は、税務署の方に色々教えていただきながらなんとか期限内に終わらせた。今思い出しても、冷や汗が出てきそうな経験だった。

 そのような状況のため、東さんのツイートでゲンロン友の会やゲンロンカフェのことは頭の片隅にありながら、興味はあっても金銭的にも精神的にも余裕がない状態が続いた。ツイッターに関しても、仕事以外のことに時間をとられないよう意識的に見ないようにしていた。

 掛け持ちしていた仕事のうち、最も安定的かつ金額的にも大きかった仕事の契約が切れる可能性が高まっていた段階で、あらためて正社員の職を探した。

 通勤に片道一時間程度かかるものの、地元の工場で技術職の仕事を運よく得ることができた。自分で創業した会社は、ひとまず役員報酬なしの状態で継続することにした。苦渋の決断ではあったが、その時点で売り上げゼロになったとは言っても、毎期の申告と納税をすれば会社を清算せずに存続できる。銀行からの借入などもともとできる状態ではなかったので、会社の借入金はすべて役員貸付、すなわち私個人のお金だった。だから存続さえすれば、いつかは貸し付けたお金も回収できる可能性がある。そういう僅かな望みに託すしかなかった。しかし、この苦渋の決断も、のちに結果的には良かったと思えるようになる。

ゲンロン友の会入会

 転職してようやく安定した収入を得られるようになり、書籍購入など知的な愉しみに使える金額も少しずつ増えていった。

 おそらく東さんのツイートがきっかけだったと思うが、2019年9月に第9期駆け込みセット付きの10期の友の会に入会した。学生の頃に興味を持って読んだ心理学関連を含めて人文知全般に興味があったし、「ゲンロン」という書名や会社名がシンプルながらかっこいいとも感じていたからだ。さらに、ゲンロンカフェが面白そうだと思ったことも大きい。ただ、この時点ではまだそこまで深くゲンロンにのめり込んでいたわけではなかった。その証拠に、友の会総会の存在にも気づいてはおらず、届いた『ゲンロン』もしばらく開封しないままになっていた。

 この頃は安定した収入を得た一方で、公害防止管理者大気1種という資格取得の勉強に時間を割いており、時間的な余裕が全くない状態だった。試験に合格して資格取得できた後は、モンゴル語やモンゴル関連のことを調べたりする方に多くの時間を割いていた。そんなこともあって、 友の会は次の第11期でも会員を継続していたが、届く本はまたもや積読の方に回ってしまった。そればかりではない。2020年の暮れごろに出版された『ゲンロン戦記』の存在にもリアルタイムでは気づいていないという状態だった。

 シラスの面白さにようやく気づくきっかけになったのが、友の会第11期総会である。コロナ禍により配信のみで行われた総会だった。トークの面白さに加えて、ライブ配信にリアルタイムでコメントする面白さを実感した。

 ようやくゲンロン完全中継チャンネルの月額会員になり、それ以前のゲンロンカフェの番組も、後追いで視聴した。さらにゲンロン完全中継チャンネル以外のチャンネルでも次々と月額会員になり、消化しきれず「積みシラス」が増える日々が始まってしまったのである。

 そんなところにいい意味で追い打ちをかけたのが、『ゲンロン戦記』だった。自分で会社を作ったものの、ずっと燻らせ続けていた私にとっては、とても刺激になる内容だった。特に事務の重要性に関するところは、いわゆる「一人株式会社」としてすべてを自分一人で処理しなければならなかった経験とも重なって、他人事とは思えないものだった。

 さらに言えば、ダンザンラブジャーが仏教歌劇『月のカッコウの伝記』をモンゴル各地で上演していたことと、「知の観客を作る」というゲンロンの取り組みに、非常に似たものを感じた。『月のカッコウの伝記』の観客は、歌劇を楽しみながら自然に仏教を学んでいく。さらに、ダンザンラブジャーは劇場も各地に作って、演者を女性や一般人にまで広げることで間口も広げていった。彼は、仏の教えという「知」を、歌劇の「観客」を作ることで弘めていったのだ。「知の観客を作る」というサブタイトルが付けられた『ゲンロン戦記』を読んで感銘を受けたのも、そういう共通性を感じたからだ。

 また、極めて知的な内容であれ、「無」の話であれ、白ワインを飲みつつ軽快にトークをして、ときに飲みすぎてしまう東さんと、「酔っ払い活仏」と呼ばれたダンザンラブジャーにも通じるものを感じている。「酔っ払い活仏」と呼ばれたのも、崇拝の対象である転生活仏でありながら、親しみが持てるキャラクターだったからこそのはずだ。

 さて、一度社名変更をして「株式会社翼駿馬つばさしゅんま」となった私の会社は、ゲンロンと創業の時期があまり変わらない。しかし、現在の会社の状況は全く違う。そもそもパワハラで会社を退職するときの口実というか、緊急避難的なことで会社を作っても、それだけで会社が回るようになるわけがないのである。言い訳をするつもりはないが、自分でもそれは分かっていた。

 それでも、自分の会社があるんだということは、ギリギリのところで心の支えになっていた。東さんですら、ゲンロンをここまで続けることに苦労してきたのだから、自分の力量を考えたら、とりあえず潰さずにきただけでも上出来だろう。低レベルの慰めかもしれないが、そういう気持ちだったのは間違いない。

 そして、重課金シラシーになっていた私に転機を齎したのは、上田洋子さんのチェンネル「ロシア語で旅する世界УРА!」である。キリル文字でモンゴル語を学んだ者として、またモンゴルと関わりが深いロシアに対する興味もある者として、上田さんのチャンネル開設はとても嬉しかった。その勢いで、初回配信で「モンゴル語をやっていたのでキリル文字には馴染みがあります」というようなコメントをしたところ、上田さんや他のシラシーの方からもモンゴルに関するコメントがあった。そして上田さんから「できたらゲストに」というお話を頂けた。

 実際にそのゲスト回は2022年2月に実現した。さらにその年の6月に開催された第12期の友の会総会では、トークイベントで上田さんと対談する機会まで頂けた。SNSがテーマだったことから、私はモンゴルのFacebook事情などを中心に資料を作りお話ししたのだが、結果的に仏教関連でチベットに関する言及が多くなって、チベットとモンゴルが交錯する、とても楽しいトークイベントになった。しかも直前のトークイベントには、チベットSF『虹霓のかたがわ』を書かれた榛見あきるさんも登壇されていた。この時点では全く想像もしていなかったが、榛見さんにはのちに自分のチャンネルの初回ゲストになっていただくことになる。そんなめぐり会わせもそこで起こっていたのである。

 たった一言のコメントから、連鎖反応のようにいろんなことが起こる。シラスが極めて自由な雰囲気のある空間であり、東さんや上田さんの取り組みが常に外に対して開いていることの証でもある。ダンザンラブジャーが、『月のカッコウの伝記』の演者を仏教関係者に限定せず、一般に対して開いていたこととも通じているように感じる。フルオープンでもフルクローズでもなく、適度にオープンであること。共通性を感じるのは、決してこじつけではないと思う。

 ここまで来ると、極端に言えば「もう今後の人生はシラスなしにはありえない」という状況になっていたと言えるだろう。そして、この頃には「いつか自分のチャンネルを開設できたらいいな」という気持ちも強くなってきていた。でも、自分にその力量があるのだろうか、という気持ちもあった。そもそも、ゲンロン/シラス界隈はすごい人ばかりだから。

 しかし、シラスチャンネル開設はその頃予想していたよりも早く実現することになった。

そして、シラサーへ

 シラスでチャンネル開設キャンペーンが告知されたのが、2023年7月。特典として、配信用のWebカメラとマイクがもらえるという、あまりにもお得過ぎるキャンペーンだった。これはチャンスだという判断で、チャンネル開設の申請をした。正直に言って、チャンネル開設が決まるという自信は全くなかった。しかし、申請しないと後悔するような気がしていた。

 チャンネル開設が決まるのと前後して、定年まで2年余りを残して、会社を退職した。そして、シラスとの契約は、株式会社翼駿馬として取り交わした。役員報酬はゼロのままだが、休眠会社から脱出することができた。苦渋の決断で会社を実質的に休眠状態にしていたものの、清算せずにいて良かったと思った瞬間だった。

 シラスのチャンネル開設が確定する以前から、榛見あきるさんと、ゲンロンカフェのアフターで声をかけさせていただいた評論家の與那覇潤さんにはゲスト出演のお願いをしていた。どちらも早々に実現し、とても充実した番組になったと思う。また直近では、「雑学鉄道ライター」の新田浩之さんや文筆家の綿野恵太さんにもゲスト出演していただけた。特に、ゲスト回の配信はゲストから知的刺激が得られることと、通常の配信のときとは違ったコメントがくるので、モンゴル語やモンゴル関連のメインコンテンツに対してもいい刺激になっている。

 自分がシラサーとして配信中に頂くコメントで、気づかされることもある。特に、自分にとっては当たり前のことに思える知識や考え方も、モンゴルに馴染みがない方にとっては全く当たり前ではなく、逆に新鮮に感じられるということだ。そして、配信で話す内容がリアルタイムで膨らんだり、その後の配信で取り上げる話題にも反映されたりする。これは実際に配信する側になってみないと体感できない面白さだろう。

 シラスの配信者は基本的に自分の自由にやらせてもらえるということも素晴らしい。配信者として申請を通してしまえば、基本的には運営側がガチガチに内容を縛るようなことはない。いい意味で個人主義的で、組織が個人を束縛するところがないモンゴルと似ている感じがしている。はじめてモンゴルに行ったときのなんとも言えない解放感を、もう一度感じているとも言えるかもしれない。

 せっかくなので、さらにチャンネル内容に引きつけて言うと、モンゴル帝国史に関する書籍を再読しても、モンゴルとシラスの類似性を感じる部分がある。モンゴル帝国は領土を拡大していった際、例えば支配下においた町があれば、もとの支配者の地位、文化や習慣などを尊重し、基本的にそのまま生かしたと言われている。一般的に、モンゴル帝国と言えば「虐殺」や「破壊」というキーワードで語られることも多いが、それはじつは実態を表しておらず、ロシアや中国などでモンゴル帝国の支配が及ばなくなってから遥か後に創作された面があるようだ。

 いつの時代でも、乾燥地帯は多くの人口を支えることができない。モンゴル帝国時代も、モンゴルの祖となる人々はせいぜい数十万人だったと言われている。だから、基本的には人を大切にする。むやみな殺傷は、ただでさえ人口が少ないモンゴルの「力」を削いでしまうことになる。現代的な感覚で言えば、緩やかな統治とでも言おうか。さらに、商業や工業を振興し、交通の安全を確保した。そういうことが、モンゴルが世界帝国を築く背景にあったことを考えると、ゲンロンの自由さと商人マインド的な部分ともつながりがあるのではないか、と感じている。やや強引に感じられるかもしれないが、私の中ではモンゴルに対する興味と、ゲンロンやシラスに対する興味が緩やかながらも確実に結びついていることは間違いない。

 今はまだ弱小チャンネルに過ぎないが、もっと多くの方に私のチャンネルを知っていただき、興味を持って番組を見ていただけるように精進していきたい。

最後に

 こうして書いてきて思うことがある。

 現代の知の巨人であり、将来に偉大な哲学者として名を残すに違いない東浩紀さんが作ったゲンロンやシラスで、僅かながらでも自分の足跡を残すことができたことは、誇りに思っていいことなのではないか、と。

 先日、ゲンロンのイベントで、とある有名シラシーの方にとても印象的なことを言われた。

 「ホルダンモリさんって、絶対にシラス辞めなそうですよね」

 事情はあるにしろ、閉鎖したり、閉鎖しないまでも配信が途絶えてしまうチャンネルが少なからずあることを気にかけていたようである。その点、ホルダンモリチャンネルは大丈夫そうだと思われたようだ。そう思ってもらえたのは、とても嬉しかった。

 もちろんである。シラスを辞めるつもりなど全くないし、そもそもシラスを続けることを、最優先事項として考えるようになっている。諸事情あって最近生活拠点を新潟から神奈川に移したことも、シラスを続けることを第一に考えて決めたことだ。私のような者に、情報発信の場を与えてくれているゲンロンやシラスを裏切るようなことは絶対にしない。そして、とにかく続けなければ、「僅かながら」残した足跡を大きくすることもできない。だからシラスを続ける。シラスのような空間は、世界中どこを探してもないはずだ。

 シラスは楽しい! シラシーとしても、シラサーとしても。

  


★1 ダンザンラブジャーに関する詳細は、今年のゲンロン総会のために作成して頒布した『蒙探1号』で紹介した。今後もシリーズ化を予定している『蒙探』で引き続き取り上げていくつもりなので、総会などの機会にお手にとっていただければ幸いである。
ホルダンモリの「モンゴルの野を駆ける──アジアを巡る歴史と文字」
URL= https://shirasu.io/c/acrosstheborderline

翼駿馬

1965年新潟県生れ。電気系エンジニア(設備管理)。青年海外協力隊(平成9年度1次隊、モンゴル)。帰国後細々とモンゴルとの関わりを続けている。ゲンロン友の会プレミアム会員。 シラシー的=シラサー的二重体。ゲンロン/シラス界隈ではHurdanmori(ホルダンモリ)の名で活動中。翼駿馬(つばさしゅんま)は社名かつ筆名。
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