「逆張り」にも仲間が必要だった シラスと私(8)|綿野恵太

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webゲンロン 2025年3月19日配信

 こんにちは。綿野恵太と言います。2024年9月からシラスでチャンネルを開設しました。ぼくは大阪出身、いまは福島県の会津に住んでいる文筆家です。テーマは差別、政治、逆張りなど多岐に渡りますが、基本的にはインターネットの話ばかり書いてます。大学には所属していないので、いわゆる在野の書き手というやつですね。

 配信では、ぼくがいま執筆中の本の構想を語ったり、おもしろい本を書いた作家さんをゲストに招いてお話を聞いたり、さらには読書会のように一冊の本を取り上げて、ああだこうだとしゃべったりしています。興味がわいたら、お時間があるときにでも、のぞきにきてやってください。

 さて、このエッセイでは簡単な自己紹介をしつつ、ぼくがシラスを始めたきっかけ、そして配信を通じて気づいたことをお話ししようと思います。

批評との出会いと挫折

「盗人にも三分の理」という言葉があります。その「三分の理」を擁護するのが批評だと思っています。一見すると間違いや失敗にしか見えないことにも、社会的な「正しさ」に安住しているぼくたちを揺さぶるような、深い理由や背景が隠されているのではないか。さらに言えば、社会の良識に反する行動や逸脱する欲望をあえて肯定してみせる──そういう視点で物事を考えるのが、ぼくにとっての批評の基本です。ネットスラングで言えば、「逆張り」ですね。といっても社会の良識に単に反発するのではなく、既存の価値観自体を問い直し、思考の可能性を広げる営みだと思っています。

 このような脱社会性に惹かれてしまうのは、ぼくが集団になじめない引きこもりだったからだと思います。ぼくは素朴な文学青年だったのですが、高校の図書館に中上健二全集があったんです。この全集は柄谷行人や浅田彰たちが編集していて、それがきっかけで批評に興味を持ちました。なかでも批評家の絓秀実さんや中島一夫さんには強い影響を受けました。当時彼らは近畿大学で教えてらして、ゼミに潜らせてもらったんです。彼らの仕事を理解できたかは別として、そのたたずまいには多くを学びました。

 大学生のころ、東浩紀さんのゼロアカ道場が開催され、友人が出場していてウォッチするためにTwitterを始めました。そこで同世代の批評オタクと交流するようになり、批評めいた文章を書くことになった。震災前のTwitterには良くも悪くもアンチソーシャルな雰囲気が濃厚で、そのノリを共有できるのがめちゃくちゃ楽しかった。

 また、彼らの勧めで東さんの本を集中的に読みました。ただ、当時のぼくは典型的な批評家ワナビーのイキリバカ大学生だった。アンチソーシャルというか社会的常識が欠如していて、いろんなひとに失礼なことを書き込んでいた記憶があります。東さんをはじめご迷惑をおかけした方々には、いまあらためて地に伏してお詫びしたい気持ちです……。

 そんなアホみたいな学生生活を満喫したあとはある出版社でインターンで働いていて、そのまま運よく就職できました。期待に胸を躍らせて入社したものの、現実はきびしかった。先輩の編集者が手がけた人文書が次々とベストセラーになるいっぽう、批評に変にこだわっていたぼくは企画さえ通らないあり様で、担当書も営業部の人間から「文芸批評の本として編集しないでほしい。絶対に売れなくなるので」と釘を刺されました。ああ、この会社では批評とはかかわれへんのや、と一気にやる気がなくなり、最終的に心を病んで退職しました。そのあと出版社に再就職を試みるも全落ちで、流れ流れて文筆業をやっております。

 でも、いま振り返ると営業部の人間のほうが正しいんですよね(笑)。哲学や思想はあれど批評のコーナーなんてない書店がほとんど。というか、出版市場全体がきびしい。本の部数は減り、雑誌は休刊になり、本屋も無くなっている。批評の本を出す余力はもうなかったわけです。

 いま在野で本を書いていきたいなら、とくに批評を書きたいなら、ぜんぶ自分でやらなきゃいけない。原稿を書くだけでなく、ひとり出版社をやり、ひとり本屋になることが求められている。自分で雑誌を立ち上げて、本も編集する。イベントを企画して、インターネットで告知する。noteで記事を販売し、文学フリマで自分の本を売る。たしかにきびしい時代ですが、ポジティブにとらえれば、なんでもやりたいことに挑戦できる自由な時代です。

 そして、新型コロナあたりから、多くの版元や書店が動画配信に乗り出しました。なので、ぼく自身もなにかやりたいなあ、と思っていた。そのころ、ちょうどシラサーのホルダンモリさんの番組に出演させていただく機会がありました★1。なんかめっちゃええ雰囲気で、自分にもできるかもしれん、と。これがシラスを始めた直接的なきっかけです。

逆張りにぴったりのプラットフォーム

 実際にシラスを始めてみると、「逆張り」のぼくにぴったりのプラットフォームだと感じました。「在野の書き手はなんでもやらなきゃいけない」とは「出版市場でひとりの企業家になる」ということです。新自由主義的だという批判があるかもしれません。たしかにぼくにも資本の圧倒的な”力”を痛感して、苦い酒を舐める夜はあります。大手出版社から本を出せば、自社の媒体やウェブメディアにPR記事を載せてくれる。そんなに実売は伸びてなくても、話題づくりのための大増刷の可能性もある。単行本の売り上げと版元の資本力にはやはり強い関係がある。

 けれど、こういう市場がなくなれば、自費出版できるお金持ちしか本は出せません。もしくは、国や企業や大学から”おぜぜ”を恵んでもらえるひとの本ばかり並ぶようになる。そんな国や企業や大学に左右される文化、それはそれで不健全でしょう? 別にお金儲けの話をしたいわけでありません。ぼくもそういうのは苦手です。けれども、そもそも日本の文芸批評は在野の書き手が担ってきました。であれば、自由にものを書くための経済的な基盤も当然考えなくてはいけない。その銭勘定もふくめて批評的な実践です。経済的自由は精神的自由の必要条件のはずです。

 しかも、企業家として生きるからといって、わざわざ競争を勝ち抜く必要はありません。自分が自由に活動できるぐらいに、経済的に自立できればいいんです。つまり、競争するのではなく、競争しなくてもいい「ニッチ」を見つけること。たとえニッチでマイナーでも、それなりの商売が成り立つのが市場の利点です。かぎられた椅子を奪い合う「文壇」や「論壇」でえらくなったり、賞レースで勝ち上がったりするほうが、ずーーーっとしんどい。別に狭義の「批評」にこだわらなくていい。いろんなやり方で日本の文芸批評の蓄積を活かす手立てはあると思いますね。

 逆張りとは多数派とは逆の道を行くことです。ぼくにかぎらず、社会の「常識」とされることに物申すわけですから、たいていの本は逆張りだといえます。その点において、シラスはニッチな物書きの経済的な自立をサポートしてくれる理想的なプラットフォームではないでしょうか。「いっときバズるよりも100人の心をしっかり掴む」というシラスのコンセプトはまさに逆張り的ですよね。

 ……とまあ、ここまで知ったような口をきいて、えらそうにしゃべってきましたけど、ぶっちゃけていうと、シラスというか、動画を配信することに対して、めちゃくちゃ偏見があって抵抗感を持っていました。

 まず、なんでみんなそんなに動画を見たがるのかよくわかりませんでした。だって、情報を集めるんやったら、文字のほうが圧倒的にコスパがいい。テキストだとパッと見れば、だいたいの内容はつかめる。検索もできます。長ったらしい文章であってもAIに要約させりゃいい。

 たいして、動画はまどろっこしい。ぼくとかは、夕飯の支度をするとき、レシピ動画をよく見るんですけど、もう最悪です(笑)。筑前煮ってどうやってつくるんやっけ。カーソルで早送りしつつ倍速再生。うわー広告入りやがった。材料も手順もテキストにしてくれればええのに……文筆業をしていると余計にそう思ってしまうんです。

 そして、みなさん動画を配信して怖くないのかな、とも思っていました。いまの言論空間には間違いや失敗を許さない空気が強くある。学問的にも、道徳的にも。インターネットを見れば、揚げ足取りと道徳的糾弾の応酬です。そのせいか、自分の間違いは決して認めずに、他人の失敗ばかりを言いつのるひとが幅を利かせています。

 そんな空気の中で動画配信はかなりリスキーだと思っていました。編集なしの生放送。しかも酒を飲みながらしゃべるなんて……。いまでは個人的な言動であってもすぐ問題視される。インターネットで炎上して業界での評判を落とす同業者もたくさん見てきました。ぼくには怖くてようでけへん、と。

 ビビりすぎかもしれませんが、実は、ぼくは間違いや失敗を許さない空気を意識しすぎて、皮肉なことに、自分の本の読者さえ怖がっていたのです。トークイベントをしてても、観客のみなさんが敵に見えた。自分の本を読んでくれたひとがちょっとした疑問点をつぶやいただけなのに、なぜか自分が攻撃されたと勘違いして過剰反応してしまったり……だから、動画を配信する勇気なんてありませんでした。

 逆張りのくせに。いや、逆張りだからこそ、そういう間違いを許さない社会に過敏になったのだと思います。そのころは、いまからでも素性を隠した覆面作家になられへんかなあ、とわけわからんことを考えていました。本さえきちんと書ければ、それで十分やろ。たとえ世間では認められないことでも、自分が正しいと思うことを正しく書けば、それだけでひとはわかってくれる。そう思い込んでいたんです。

 でも、あるとき、このままだといけないと気づいたんですよ。とくになにがあったというわけでもありません。その日は会津に大雪が降って、雪道を八甲田山気分で歩いていてハッと思ったんです。業界やネットの評判ばかり気にしてたんちゃうか。もっと読者のほうを向かなあかんぞ、と。

間違いや迷いから生まれるリアリティ

 ちょうどそのころ、エドワード・サイードの『知識人とは何か』(大橋洋一訳、平凡社、1998年)を読んで、とても参考になりました。サイードは顔の見えない専門家を批判して「代表的なリプリゼンタティブ知識人」の重要性を説いています。

 代表的な知識人とは、公衆に向けて、または公衆になりかわって、思想やメッセージ、意見などを表象=代弁リプリゼントし、明確に言語化できる個人のことです。そして、このような知識人が、国際社会で承認された世界人権宣言に基づき、いまだ表象=代弁されない弱者の立場に立って、国家や権力に対して権利を主張し、社会運動に積極的に関与すべきだ、とサイードは主張します。たしかにこれは大事なことですけど、似たようなことをいろんなひとが言っています。

 むしろ、サイードがおもしろいのは、知識人は社会運動や政治思想の単なる「代弁者」や「シンボル」にはなれない、とも述べている点です。代弁する人間には「つねに個人的な曲解があり、私的な感性が存在する」からです。しかし、このような個人的な曲解や感性が、「いま語られつつあることや、書かれつつあることに、意味をあたえる」と(『知識人とは何か』p.39)。

 さらに興味深いことに、ヴァージニア・ウルフの『自分ひとりの部屋』(片山亜紀訳、平凡社、2015年。引用は『知識人とは何か』から)をサイードが高く評価しています。ウルフはこのエッセイで「女性は、もし小説を書こうとするなら、お金と自分自身の部屋をもたねばならない」という有名な主張をしています(『知識人とは何か』p.69)。

 しかし、ウルフはその結論をただ述べるのではありませんでした。どうやって自分がその主張を持つにいたったのか。そのプロセスや背景を丁寧に語りました。女性性のような論争を呼ぶテーマを扱うときには、「聴衆のひとりひとりが自分の手で結論を導きだせるようなチャンスを、聴衆にあたえるにこしたことはない。そのためにも、聴衆に、語り手の限界や、語り手がいだく偏見や個人的嗜好をとくと観察してもらうのだ」とウルフは述べています(『知識人とは何か』p.70)。サイードもその点を評価している。

 つまり、サイードが言いたいのは、ただ正論を振りかざすだけではひとの心に響かない、ということです。たとえ、どれほど立派な思想や信念であっても、ぼくたちは有限な人間なのだから、完璧には代弁できません。ときにはその思想や信念を揺るがす個人的な偏見や曲解が入り込む。しかし、人間的な失敗や迷い、間違いを隠さずにさらけ出すからこそ、その言葉にリアリティと緊迫感が生まれて、相手を動かす力になる。

 見せたくもない個人的事情をさらすリスクを背負うこと。これこそが、道徳的なお題目ばかり並べるお説教者や、神の言葉を語るとのたまう預言者らと、代表的な知識人を区別するポイントなのだ、と。

 まあ、こんな読み方をすると、サイード専門家から怒られるかもしれませんが、でも、いろいろと見えてくることがありました。サイードやウルフみたいなすごい人たちでさえ、おのれの偏見や間違いを見てもらうしかないって言うてんねんから、ぼくみたいなつまらん人間が利口ぶってる場合とちゃうやろ、と(笑)。

 人間は全知全能ではない。みんな間違えるし、やはり失敗する。うわべだけの正しさを取りつくろっても、どうせ自分はクズなんやし、いずれバレる。それで叩かれるんやったら、叩かれてもええわ。そもそも最初から武装放棄すれば、揚げ足取りと道徳的糾弾のゲームに参加する必要もないんやし。

 むしろ、それよりも自分の読者に対して誠実であるべきだ。そこは嘘をつかないでいくべきだ。自分の愚かさもみじめさも、迷いや逡巡もそのまま文章にすべきだ、と決意しました。まあ、当たり前の話ですよね。自分がまず信頼しないと相手も信頼してくれるわけがない。それ以来、書いている文章もかなり変わりましたし、動画配信にも積極的になりました。

 そして、シラスを始めて、配信のおもしろさもわかってきました。

 さっきのレシピ動画の話に戻ると、料理研究家の土井善晴さんのファンで、土井さんの動画もよく見ていたんです。土井さんの動画がおもしろいのは、ただ単にレシピを再現して見せるのではなく、それ以上のしゃべりがあるからなんですね。食材に火が通るまでのあいだ、いや、しばしば作業の手を止めてまで料理に対する考え方をお話しされる。その語りを聞くと、ちょっとしたレシピのひと工夫に、土井さんの哲学が反映されているとわかる。コスパ的には無駄に思える余談に本質が宿っている。

 シラスの魅力も、配信者の個人的なところを見せてしまう点にあると思います。長時間の生配信が基本だし、話の本筋から脱線した雑談や余談がむしろ喜ばれます。本来の動画編集ならカットされるダラダラ感の中に、そのひとのクセやアクがにじみ出る。もちろん、無駄な炎上を引き起こさないように制度設計がしっかり工夫されているからこそなんですが。いま流行りのショート動画が、「これが答えだ!」と力強い言葉で断言し、あたかも配信者を完璧な教祖のように演出するのとは、非常に対照的です。

 また、シラスでは声と眼差しがとても大切にされているのもポイントです。配信を始める前に受けたレクチャーでは「良いマイクを使うこと」と「コメントを見て反応すること」が重要だと教わりました。つまり、声と眼差しを通して、そのひとの存在感を伝えることが大切にされている。声も眼差しも、そのひとの身体の一部ではないが、そのひとらしさを最も強く感じさせる不思議な力がある。文字には絶対に出せない存在感。そういえば、さっき取り上げた『知識人とは何か』も、B B Cの講演シリーズでサイード自身の声を通して語られたものでした。

現実を変えるためには仲間がいる

 ぼくは音楽をほとんど聴きませんが、ブルーハーツの「月の爆撃機」という曲が好きなんです。「ここから一歩も通さない/理屈も法律も通さない/誰の声も届かない/友達も恋人も入れない/手掛かりになるのは薄い月明り」という歌詞で始まります(THE BLUE HEARTS『STICK OUT』収録、作詞作曲甲本ヒロト、イーストウエスト・ジャパン、1993年)。この歌詞は本を読んだり書いたりすることを歌っているのだ、とぼくは勝手に解釈しています。

 本を読んだり、書いたりするのは、誰も入れないひとりの世界を確保するためです。目の前の社会からとりあえず逃げるため。別の世界もありえるのだと夢想するため。簡単にいえば、現実逃避です。ぼくはそういう本の楽しみ方をしてきた人間です。

 とはいえ、こんなクソみたいな社会を少しでも変えようと思えば、ひとりではむずかしい。仲間がいる。それは、ビジネスでも、政治でも、同じことだと思います。そのために本を書くようになった。

 そのはずなのに、いつごろからか、読者のみなさんが敵だと思い込んでしまった。本を壁にして自分の世界にふたたび閉じこもっていたことに気づいたのです。だから、もう一度、シラスを通じて、しっかりと読者のほうに向き直そうと思っています。

  

★1 2024年6月1日にシラスチャンネル「ホルダンモリの「モンゴルの野を駆ける――アジアを巡る歴史と文字」」で配信された「「逆張り」的生き方〜綿野恵太さんとゆるく語る」のこと。
URL= https://shirasu.io/t/hurdanmori/c/acrosstheborderline/p/20240526232154

綿野恵太

1988年大阪府生まれ。批評家。元出版社勤務。詩と批評『子午線』同人。2019年に『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)を上梓。論考に「真の平等とはなにか? 植松聖と杉田水脈「生産性」発言から考える」「『みんなが差別を批判できる時代』に私が抱いている危機感」「大炎上したローラ『辺野古工事中止呼び掛け』をどう考えればよいか」(以上三篇、いずれも「現代ビジネス」講談社など。「オルタナレフト論」を連載中(晶文社スクラップブック)。
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