シラスと私(2)「心術練磨の工夫」の場へ──上七軒文庫チャンネル in シラスの理念|亀山隆彦
1 はじめに
上七軒文庫は、筆者が代表を務める「私塾」である。本拠地は、京都市上京区の北野・西陣エリアに位置する京町家。上七軒文庫の名称は、町家のすぐ側を通る花街「上七軒」に加えて、神奈川県の金沢文庫、愛知県の真福寺大須文庫といった日本各地の著名な「文庫」に由来する。2019年8月の創設で、今年(2022年)、3周年を迎える。
既に、様々なメディアを通じて紹介してきたように、上七軒文庫の主な活動は、対面とオンラインそれぞれの講義コンテンツの企画・運営に集約される。もう少し詳しく紹介しておくと、対面は、北野・西陣の町家に受講生を集めて開催される講義を指す。2019年の文庫設立当初は、この対面が、主な講義の形式だった。しかし、2020年春以降は、コロナウィルス感染拡大の影響で、一部を除いて原則オンライン講義に主軸を移している。
そのオンライン講義だが、上七軒文庫は現在、以下の動画配信プラットフォームにチャンネルを維持している。すなわち、①ツイキャス、②ニコニコ動画、③YouTube、④シラスである。各チャンネルの機能と使い分けを述べると、①④中心に、講義のリアルタイム配信を行い、②③は、主に過去の講義動画のアーカイブに使用される。
以上の枠組みの中で、上七軒文庫は、各種人文知から、自然科学、古典芸能、日本の美術とその教育まで、多彩なテーマの講義を発信してきた。本稿の主題は、その活動の背景と将来の展望である。第一に、上七軒文庫設立の理由、さらに活動を支える思想を確認した上で、今後、「上七軒文庫チャンネル in シラス」を中心とする各プラットフォームでいかなる講義を展開する予定か、特に理念的な部分について述べる。
2 今日の大学の環境と人文学の危機
筆者を含む上七軒文庫の運営メンバーが、何故、今の時代に私塾の創設に乗り出したか。その理由やきっかけについては、2年前に『大法輪』に寄稿したエッセイ(「上七軒文庫始動:大学と共存する私塾を目指して」、『大法輪』2020年3月号)の中で、詳しく論じたことがある。先ずは、このエッセイの内容を踏まえ、文庫創設の背景を改めて確認する。
上七軒文庫設立の理由やきっかけは、大きく二つの視点から解説が可能である。第一に、今日の大学の人文学が直面する危機、第二に、日本思想史上、私塾が担ってきた役割である。本節では、この中の前者、今の日本の大学の人文研究・教育がいかなる苦しい状況にあるか、簡単に述べておく。
前述のエッセイでも述べたように、数年前、文部科学省主導の大学入試改革が、大きな話題を呼んだ。改革そのものは見送られたが、一連の過程で発行された資料(「大学入試改革の状況について」、2020年)の中に、人文学の危機を把握する上で示唆的な記述が存在する。すなわち、本資料の冒頭より、「思考力、判断力、表現力」を含む包括的な学力を見極め、その基盤となる「知識・技能」を総合的に評価することの意義が強調される。言い換えれば、学力・知識の実用性と有益性が、受験の重大な課題として議論されるのである。
そして、大学内部の動きも、このような政府レベルの動向と無縁ではない。今日の大学では、学生が享受する教育の有益性や実用性が、しばしば強調される。そもそも大学が提供する講義は、知識の習得にとどまっていてはいけない。それは、知識の生かし方も教えるものでなければならない。その目的達成のために、学生による能動的な学習法、いわゆる「アクティブ・ラーニング」が推奨され、短期的な結果を評価しやすい「実学」を重視する傾向も強まった。
したがって、人文学の研究と教育の諸領域は、自然・社会科学と比較しても、とりわけ困難な状況に置かれているといえる。具体的には、国や大学から人文系学部と学科に配分される予算や人員は、年々減少傾向にある。その結果、大学によっては、人文教育の継続にすら支障が出始めている。遠からず、学部や学科のいくつかが消滅する可能性も想定される。
とはいえ、筆者個人の考えとして、近年の大学の変化をすべて拒絶して、過去に戻れば良いとも思わない。そもそも学生の視点に立って考えれば、決して安くはない学費を払うのだから、その対価として、自身の今後の仕事や経済活動に有用な知識を求めるのは当然である。また、大学自体、様々な公的資金の投入で支えられる存在でもあるので、公益の感覚を絶対に失うべきではない。
考えなければならないのは、前述の状況をすべて飲みこんだ上で、いかにして、人文学の伝統を守り存続させるかである。そこで必要になるのは、ある種の極端な発想の転換である。方向性は二つある。大学の中を向くか、外を向くかである。すなわち、大学の中にとどまり、実用性や有益性の観点から人文学そのものを作り替え、存続を図るか、一度、大学の外に出て、まったく別の回路から存続の可能性を模索するか、のどちらかである。
いうまでもないが、筆者を含む上七軒文庫の運営メンバーは、この中、後者の視点に立ち、今日まで文庫の活動を進めてきた。
3 もう一つの人文学のバイパス
あるいは、我々のパースペクティブを数百年単位の歴史的なものに調整し、構造的に問題を眺めるなら、近現代の大学の在り方それ自体が、危機を生み出す大元のようにも見えてくる。逆説的だが、大学制度の必然的な帰結として、昨今の人文学の状況があるのではないだろうか。
誤解のないよう、もう少し踏み込んで論じておくと、今日、高等教育と研究活動の多くが、大学に集中してしまう構造、そして、その構造の中で、人文学が大学以外の「足場」を作れない(あるいは作ろうとしない)ことが、苦境を生じる根本の原因ではないかと推定されるのである。
日本の社会史や思想史を紐解くと、今日の人文学や古典研究以前にも、様々な学問領域が、存続の危機に直面してきた。例えば、江戸時代の西洋医学や自然科学の知識、太平洋戦争中の外国語学や欧米文学等である。これら学問は、同時代のイデオロギーに脅かされながら、決して系譜を絶やすことなく、今日まで命脈を保ってきた。
どうして、そのような文化の保全が可能だったのだろう。具体的な方法は様々だろうが、一つに、研究・教育を一極集中するのではなく、様々な社会階層に多元的に散布させたことが決定的だったと考える。本節では、その具体的な事例として、近代学制が制定される以前、江戸時代の教育・研究環境に注目する。
江戸期の教育・研究環境を構成する要素として、先ずは「藩校」や様々な「学問所」等、幕府と諸藩が運営する公的な教育機関が挙げられる。これら公的な教育期間は、主に武士の子弟を中心に人材育成に努めると同時に、様々な学知の集積所としても機能した。その社会的意義は、部分的にではあるが、今日の大学とも比較できると考える。
近世・近代の日本思想史の中で、私塾が、いかに大きな役割を担ったか。改めて説明するまでもないだろう。国学者本居宣長の一連の業績に着目するなら、江戸時代の傑出した古典研究や漢籍研究の成果は、私塾を中心に蓄積・展開したと指摘される。また、西洋の最新知識を導入する際には、適塾のような私塾が、ある種の媒介の役割を果たした。
さらに注目すべき事実を挙げると、近世の公私それぞれの教育機関、換言すれば、藩校と私塾は、決して相互に排他的にならず、情報と人材を頻繁に交換して、効果的に共存した。思想史学者の前田勉氏が明らかにしたように、その証拠の一つとして「会読」の流通が挙げられる。詳細は、次節で明らかにするが、江戸時代の私塾では、会読と呼ばれる討論ベースの学習法が盛んであった。その会読が、ある時期から藩校や学問所にも導入され、大きな成果をあげた(前田勉『江戸の読書会──会読の思想史』平凡社、2018年)。
換言するなら、江戸時代、人々の教育や研究は、藩校のような公的機関に一極集中することはなく、私塾を介して、日本社会の多様な場や階層に浸透していった。そのような状況下で、非専門家の学びが促進され、江戸時代、学自体が一種の遊戯たりえた。
現代に話を戻すと、人文学の危機を構造的に解決する上で必要なのは、「知」の一極集中の解消、教育・研究環境そのものの改善と考える。その具体的な方策は色々あるのだろうが、一つに、人文学のためのもう一つのバイパス構築が挙げられる。つまり、私塾のリバイバルである。
大学のような公共の教育機関と共存しながら、それらと相容れない学知を引き受け、守り育てるもう一つの教育期間。このような前近代の伝統に根差した、今日的な私塾を目指して、上七軒文庫の活動は継続される。
4 私塾の新たな意義
ところで、前述のエッセイから2年が経過した現在、上七軒文庫設立の背景や私塾リバイバルに関する筆者の見解も、若干変化した。2年前は私塾の社会的意義、つまり、人文学のもう一つのバイパスという役割だけが重要だったが、現在は、私塾で実践された教育内容にも注意を払うようになっている。具体的には、「会読」と呼ばれる教育が果たした役割が、21世紀の私塾教育を構想する上でも、重要と捉えるようになった。
会読は、素読や講釈と並ぶ近世の学習法の一種である。各学習の内容を順に説明すると、素読は、学習する文献の意味内容を解釈せず、文字だけを音読・暗誦することで、三つの中では、最も初等の学習法である。講釈は、教師が口頭で行う一斉授業である。素読を完了した時点で開始される。そして、その講釈が進んだところで始まるのが、会読である。会読は、一つの文献を複数の人間で討論しながら読み解く、共同読書会的な学習法を指す。
この会読の伝統が、いつ開始されたかだが、前述の前田勉氏によれば、江戸初期の儒学者伊藤仁斎が、五経の会読を初めて実施したという。その流儀を、江戸中期の荻生徂徠が継承する。徂徠の蘐園塾では、門弟の育成にあたって、会読が効果的に用いられたと伝えられる。江戸後期に入ると、日本各地の私塾のみならず藩校も、積極的に会読を採用するようになり、近世から近代にかけての日本人の精神活動に多大な影響を及ぼすことになる(前田勉『江戸の読書会』)。
①②③の原理に支えられた会読は、第一に、近世の厳格な身分制社会の中で、純粋に物事の道理を追求し、ストレートに各自の学力を練磨する場であった。さらに、前田氏の言葉を借りれば、討論に基づく「心術練磨の工夫」の場であることも期待された。すなわち、会読の中で、各学生は、自分と異なる出自・身分の人間と出会い、その言葉を「虚心」に聞いて、討論することを求められる。その一連の過程で、自らの独断や偏見を深く見つめ、矯正する機会を得るのである。
会読は、上意下達を旨とする身分社会の中で、寛容な精神を育成する貴重な機会であった。前田氏は、この会読の伝統があったからこそ、自由と平等の精神に関する近代日本の議論も可能であったと推定する(同書)。
以上のように、藩校に対する私塾の社会的意義のみならず、その中で実践された会読も、21世紀の私塾リバイバルを目指す上七軒文庫にとって、非常に重要な存在といえる。上七軒文庫も、かつての会読に類比される新たな教育方法を生みだし、混迷と分断の深まる現代日本社会の中で、人々にとっての「心術練磨の工夫」の場であらねばならないと考える。
5 おわりに
上七軒文庫の対面・オンライン講義の中には、柱となるシリーズ講義がいくつか存在する。上七軒文庫チャンネル in シラスでは、今のところ、次の2種のシリーズ講義を配信している。すなわち、①「町家座談」、②「『思想』から考える日本仏教の歴史」である。最後に、各講義の内容を簡単に紹介しておきたい。
①から解説すると、上七軒文庫の本拠地である町家にゲストを招き、思想、哲学から美術や建築まで、多様なジャンルのトークを実施する対談、ないし鼎談番組である。これまで、計9回開催し、宗教学者、美術家、能楽師、生物学者等、8人のゲスト講師から話をうかがった。その意義を改めて総括しておくと、異分野のスペシャリストの言葉を「虚心」に聞き、議論し、そのプロセスから新たな知見を引き出すという、会読の純粋な精神性が結実した講義といえよう。②は、これまで政治史や経済史の視点で語られることの多かった日本仏教の歴史を、広い意味での思想史から捉え直す試みである。こちらは、2022年5月の時点で、計26回の講義を行っている。
仏教が、日本の思想・文化にとっていかに重要か。仏教に対する日本人の関心は、年々大きくなっている。ところが、大学や公的な研究機関において、日本仏教の歴史を語る場や人々は、逆に減少傾向にある。これは重大な問題と考える。もう一つの人文学のバイパスを目指す上七軒文庫は、その流れを批判的に捉え、思想という視座からであっても、日本仏教を包括的に語る場を育てたいと考え、②の講義を運営している。荒唐無稽に聞こえるかも知れないが、将来的にはこれら講義の取り組みに基づき、近世私塾の会読に比較される新たな人文知の学びを発明したいと考えている。その上で、上七軒文庫チャンネル in シラスに加えて、ツイキャス、ニコニコ動画、YouTube 各チャンネルの講義すべてを、「心術練磨の工夫」の場にまで昇華していくつもりである。
URL= https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu
亀山隆彦