シラスと私(1) 南米経由シラス行き!旅するケーナ奏者の挑戦!|山下Topo洋平
ゲンロンαでは1周年を記念し、1月に公開して話題を呼んだ辻田真佐憲さんのエッセイ「余は如何にして『トップ・シラサー』となりし乎」に続き、「シラスと私」と題したリレーエッセイコーナーをスタートします。初回はケーナ奏者の山下Topo洋平さん。先日のゲンロン友の会総会では作曲家・ピアニストの森悠也さんとのライブで視聴者を魅了していただきました。その情熱的でありながら繊細な音楽はどのように生みだされたのでしょうか。(編集部)
Amazonでケーナが売り切れる
2021年4月22日、シラスに新規チャンネル「山下Topo洋平のHappy New Moment」が開設された。その名の通り、僕、ケーナ奏者・山下Topo洋平の配信チャンネルだ。
もしかしたらゲンロン読者やシラスユーザーの方々は驚かれたかもしれない。今でこそシラスはチャンネル数も増えたが、当時はゲンロンとつながりの深い配信者ばかりだった。そこにケーナなる怪しげな笛を操り、南米ボリビアなどという辺境の音楽を奏でる正体不明の男が登場したのだ。僕だったら驚く。
僕のチャンネルは、ゲンロンの外側にチャンネル開設が解放された、いわゆる「シラサー第二世代」の最初期に位置付けられる。しかも初の音楽チャンネルということで、まさに外様中の外様、エイリアンの中のエイリアン。だから、僕は密かに大きなプレッシャーと不安を感じて震えていた。
「シラスユーザーは、僕のようなどこの馬の骨ともわからぬ者を受け入れてくれるのだろうか?」
幸い、初配信から沢山の視聴者・コメントに恵まれ、今やシラスで初めて僕のことを知り、ケーナを始める方も続出している。好奇心旺盛な皆さんには感謝しかない。
僕の放送を通じてゲンロン代表の上田洋子さんもケーナを購入されたというので、公開レッスンを放送してみたら[★1]、異様な盛り上がりを見せた。番組中にAmazonでケーナが40本も売れるという、空前のケーナブームが巻き起こっている。
東浩紀さんもケーナを購入されたようで、いずれレッスンをしなければなるまい……。
このような「祭り」回はとても面白いしエキサイティングだけれど、祭りは日常的なものではない。それよりも、ケーナの奏法や南米のリズムを時間をかけてじっくり伝えるレクチャー回や、日々の雑談やリラックスした演奏を行う通常回にこそ、このチャンネルの本質が詰まっていると思う。僕がずっと大切にしてきたのは日々の生活に根付いた音楽であり、その活動をオンライン化したのが僕のシラスチャンネルなのだ。
3ヶ月で大学を辞めボリビアへ
ケーナは南米のアンデス地方に数千年前から伝わる笛で、日本の尺八とよく似た構造を持っている。現在では竹製や木製が主流だが、古くは骨で作られたものもあり、なんと人骨のケーナまで存在していた。以前ペルーの楽器博物館へ赴いたときに、大切に保管されていた人骨ケーナを実際に吹かせてもらったことがある。霊感などまったくない僕ですら、霊魂に覆いかぶさられているかのような重苦しい空気を感じて、とても気持ちが悪かった思い出がある(でもちゃんと「ケーナの音」だった!)。
こういったことからもわかるように、もともとケーナは楽器というよりも、神様に捧げる儀式などに使われる道具だったのである。
材質や調律が見直され、現代の西洋楽器ともアンサンブルできる楽器として広く知られるようになったのは、じつは1960年代以降のこと。歴史こそ古いが、ポピュラーな音楽の中で使われる楽器としてはまだまだ新参者と言える。
僕がケーナを知ったのは幼少期、4歳か5歳ぐらいの頃だったと思う。
クラシック系の楽器が続かないので、幼いころから音色に魅力を感じていたケーナでもやってみるか、と軽い気持ちで始めたのが高校1年のとき。
楽器と教本を買ってきて一人で練習するも、音が出ない。疲れる。
これはどうにもならん、と思い、この教本の著者である日本人ケーナ奏者エルネスト河本氏が開いているという都内のフォルクローレ教室へ通うことにした。
コツを教えてもらったら、曲はすぐに吹けるようになった。ケーナだけでなく、サンポーニャ(葦の笛)やチャランゴ(弦楽器)、ボンボ(牛の皮の太鼓)やギターなど、フォルクローレで使う一通りの楽器も習得した。同時に南米のリズムも勉強し、フォルクローレのイロハを身につけた。フォルクローレにはクラシックのようなメソッドが無いので、楽器で遊びながら好きな曲を好きなだけ演奏できたのが良かったのかもしれない。
そして大学入学と同時に、河本氏がリーダーを務めるフォルクローレバンド「カンタティ」でデビューさせてもらえることになったのである。
こうなると楽しくて仕方ない。大学の授業を受けるぐらいなら1分でも1秒でも多く練習したい。
結局、通っていた学習院大学文学部哲学科を3ヶ月で中退し、その夏にはもうケーナ発祥の地、南米ボリビアを訪れていた。
僕の音楽家人生はこのとき始まった。大学4年間をかけてやりたいことを見つけるつもりが、入学直後にあっさりと見つけてしまったわけだ。もちろん不安はあった。でも、可能性があるのなら賭けてみたい、むしろやらなければ後悔するという確信があった。
それからというものボリビアには毎年赴いた。滞在は短くて3週間、長いときは3か月。10代終わりから20代終わりにかけて、10回は来訪を繰り返しただろうか。
ボリビアでは標高約3600mの街、ラ・パスに滞在していた。 ケーナは国や地方によって音色に特色があり、僕はラ・パスのケーナの音が好きだったからだ。彼らが持つ、ふくよかで芯があり、どこまでも突き抜けてゆく豊かな音色を手に入れたいと思っていた。昼間は友人の音楽家が営んでいる民族楽器屋で楽器制作を手伝い、夜は彼と仲間とともに、ライブハウスで観光客や地元のお客さんを相手に演奏した。
ラ・パスの夜
忘れられない経験は数えきれないほどある。
夜道を一人で歩いていたら二人組の男に銃を突きつけられたこと(マジで死ぬかと思った)。ライブ後に夜の屋台で食べたアンティクーチョ(牛の心臓の串焼き)の美味しさ。挙げればきりがないが、ここでは音楽的体験に限定する。
ラ・パスでは日本よりもはるかに音楽が生活に密着していて、飲み屋で飲んでいると音楽家でない者でもどこからかギターを持ってきて、泣きながら、あるいは笑いながら歌い始めたりする。彼らの生活からは自然と音楽が生まれる。ここでは生活のために音楽がある。
二回目にボリビアを訪れた1997年のこと。ライブを終えて出演者たちと飲んでいた。それだけでも当時の僕にとっては興奮で、CDで聴いた憧れのボリビアの音楽家たちと同席できてミュージシャン仲間として受け入れられたことが嬉しかった。そんな僕の心境をよそに、この日も酔っぱらった誰かが演奏を始めた。まわりの人間もそれに合わせて一緒に演奏する。
そこで聴いた、名も知らぬケーナ奏者の音が衝撃的だった。
ガラスが割れるんじゃないかと思うほどの空気の振動。
理屈ではなく、身体で、肌で感じる音。
その一発の音で感動した。音圧。気が付いたら涙が流れていた。ケーナとはこんな楽器だったのか。凄い。
僕の中でケーナの価値観が一瞬にして変わった。それからというもの、自分がどうやったらあの音を出せるのか、模索の日々が始まった。
言うまでもなく、その音色を獲得するまでの道は容易いものではなかった。
そもそも標高3600mの街ラ・パスの住人たちは、酸素の薄さに順応するため、生まれたときから肺が発達しているという。胸板が厚く、彼らと僕とでは持っている肉体がまったく違うのだ。
僕の身体の限られたエネルギーをどうやって使えばあの音に近づけるだろうかと、日々思考と実践を繰り返した。何年もかけて磨いていくうちに、ある程度納得できる音色に到達することに成功する。この経験が、現在の僕のケーナ奏法理論にも繋がっている。
もちろんこの道に終わりはなく、今も途上ではあるけれども。
民族音楽を演奏するということ
南米音楽とケーナを極めたい、とガムシャラに追求しているうちに、腕前は次第に上っていった。ボリビアの音楽家やお客さんたちからも毎回「Bravissimo!!(最高!!)」と喜んでもらえるようになり、ライブやレコーディングなどの仕事も問題なくこなせるようになった。
しかし音楽的に自信がついてくると、今度は別の問題にぶつかった。
まず、民族音楽ゆえの音楽的な乏しさに満足できなくなってきた。ダイナミックレンジ(音量の幅)が限られ、転調もなく繰り返しが多く、どうしても単調になりがちなフォルクローレの音楽性に疑問を持つようになったのだ。もっと豊かな音楽がやりたい。出来るはずだ。
「果たしてこのままでいいのだろうか?」
さらに大きな問題は、日本人である僕とボリビア人である彼らとのあいだに決定的な違いがあることだった。問題なく演奏はできる。仕事もできる。みんな喜んでくれる。でも、やればやるほど何かが違う。それがなんなのか、血なのか、DNAなのかはわからない。とにかく、何かが違うのだ。
突き詰めて考えてみて、民族音楽とはその土地で生まれ、育ち、死んでいく人たちの音楽であり、ボリビア音楽は日本人である僕の音楽ではないのではないかと思うに至った。
「このままボリビア音楽を人生の中心に据えて生きることはできない」
もちろんボリビア音楽は大好きだし、心からリスペクトしている。
しかし、リスペクトすることと、この音楽をこのまま続けることはイコールではない。ボリビア人の生活や身体や歴史から生まれた音楽がボリビア音楽であるならば、僕には僕の生活や身体や歴史から生まれる音楽があるはず。
そんなオリジナルの何かを生み出すことこそが、むしろ大好きなボリビア音楽を本当の意味でリスペクトするということなのではないか。
それこそが真の文化交流なのではないか。
僕にはこれまで体得してきたケーナの音色と南米のリズムがある。ここに現代日本に生きる僕の感性を加えたら間違いなく、世界でひとつしかない音楽が出来るに違いない。
一方で、ボリビア人以外のケーナ奏者からの影響も大きかった。
1999年に来日したアルゼンチン人ケーナ奏者ホルヘ・クンボのライブを聴きに行って、その音楽性の高さに感動してしまった。
自由でモダンでお洒落でカッコイイ。しかも僕がよく知っている南米のリズムを使っている!
一曲目を聴いた瞬間、思った。
「やられた!」
僕がやりたかったのはこういう音楽だったのかもしれない。
しかし、彼はアルゼンチン人。音色は細く、ラ・パスの奏者のような豊かな音は持っていない。
だとしたら、僕はラ・パスの街が育んだ豊かな音とホルヘ・クンボのような自由な音楽性、この二つをミックスした音楽を目指せば良いのではないか。
そんな活動を行っている人間は世界中にまだ誰もいない。自分のやるべきことはこれだ。音色も音楽性も情熱も、何ひとつ犠牲にしない。ケーナがこれから音楽の歴史に埋もれず楽器として残っていくためにも、この道しかないと思った。
そしてシラスへ
2021年になっても音楽に対する僕のビジョンは変わっていない。
日本で結成したバンド「Tierra Cuatro」で2015年に行った南米ツアーは一つの目標の達成である。南米で音色やリズムを受け取った僕が、日本でメンバーとともにオリジナルの音楽に昇華して、再び南米へ戻り、現地の人たちに直接聴いてもらうことができたのだ。彼らは僕たちの音楽を驚きと喜びをもって熱狂的に歓迎してくれた。貫いてきた僕のビジョンが受け入れられた瞬間でもあり、本当に素晴らしい経験だった[★2]。2020年のコロナ禍直前にはニューヨークへのツアーも敢行し、南米以外の土地へも足掛かりを作りつつある。
また、自分の音楽を生み出そうと思い始めてから、必然的に「音楽とは何か」「人間とは何か」など、根本的な問いかけについて、より深く考えるようになった。演奏中、ごくたまに、いわば身体が空間に調和して自分と他者の境界線が無くなり、全てが一体になったかのような果てしない気持ち良さを感じることがある。ユートピア的とも感じられるこの状態を無視することはできない。いったいこれは何なのか、これこそが音楽の目的なのか、この状態を常に感じるにはどうしたら良いのか、これらの謎を解明するためにケーナを持って一人で日本の山に籠って修行をしたこともある(これもマジで死ぬかと思った)。この体験からは、音楽家としてだけでなく、僕の人生にとってターニングポイントとなるぐらいとても大切なことを感じることができた[★3]。
シラスチャンネル「山下Topo洋平のHappy New Moment」もまた、紛れもなくこれらのチャレンジの延長線上にある。
これは、僕が人生を賭けてやってきたことをオンラインに拡張する試みだ。
繰り返すが、僕には僕の生活や身体や歴史から生まれる音楽があるはずだ。僕はシラスで音楽だけでなく、生活や身体や歴史をまるごと番組に乗せて、視聴者の皆さんと繋がっている。
日々の瞬間瞬間を充実したものとして感じられるような何かを僕と視聴者の皆さんで共有できたら、とても嬉しい。
★1 【上田洋子 ケーナ奏者への道】ゲンロン社長、上田洋子さんがケーナを購入!シラス初の公開レッスン! https://shirasu.io/t/topo/c/topo/p/202107192
★2 【旅!】南米!ボリビア~アルゼンチンへ!民族楽器オーケストラとの共演!いきなりテレビ出演!【南米#1】 https://shirasu.io/t/topo/c/topo/p/20210529(シリーズ放送中)
★3 音楽における「ゾーン」から理想の「瞬間」の体験。笛一本一人旅と山籠もりで感じたこととは!?雑談から飛び出した超重要エピソード! https://shirasu.io/t/topo/c/topo/p/20210604
山下Topo洋平