モンゴル社会とシャーマニズム──島村一平×東畑開人(司会=上田洋子)「シャーマニズムと心理学、あるいは社会主義は呪術なのか?」イベントレポート
このレポートでは、「シャーマニズム、ヒップホップ、口承文芸──韻の憑依性をめぐって」を紹介する。キーワードである「韻の憑依性」と、治療・教育・宗教が未分化なシャーマンの呪術実践に着目し、イベントの魅力をお届けしたい。
シャーマニズムの実践と韻の技法
伝統的なかたちで伝統を創造するという伝統を維持してきた。
──これこそがシャーマンの魅力だ、と島村は語る。シャーマンは精霊や過去の人物を自身に憑依させ、伝統そのものを創造的に語り、自己のあり方をも変えていく。
島村はまた、「精霊とは、言葉である」とも言う。シャーマンが精霊を呼び出す呪術実践である「召喚歌」では、韻を踏んでいるうちに自然と言葉が出てくるという。多くのインタビュー調査を行うなかで得られたのは、シャーマンが語る「精霊」の正体、それが韻であるということなのだ。 島村は憑依を次のように定義する。
自分が意識して語れる言語とは異なる、意識的に操作できない言語を自動的に語らしめるテクノロジー(『憑依と抵抗』272頁)
韻は、同一あるいは類似した意味や音の形式を反復する言語技法である。韻の例として島村は、「俺は東京生まれ ヒップホップそだち 悪いやつはみんな友だち」を挙げる。意味と文法形式が類似・連関する「生まれ」と「育ち」、音韻が共通する「育ち(so-dachi)」と「友だち(tomo-dachi)」がリズムを刻み、次なる言葉を生み出していく。シャーマンの儀礼は、楽器や歌を媒介とし、韻などのリズムを反復する言語表現技法によって遂行されるのだ。
さらに、島村は既存のシャーマニズム研究に対し、ひとつの問題を提起した。それは、心理学でいう変性意識状態、いわゆるトランス状態の分析概念をシャーマニズムの憑依に適用することは果たして妥当なのかというものだ。島村によれば、現地語には「トランス」に相当する言葉はない。にもかかわらず、シャーマニズム研究者は「トランス」という概念で呪術実践を叙述しようとする。このことによって、憑依のもつ「意識的に操作できない言語を自動的に語らしめるテクノロジー」、つまり韻の技法と効果は見えなくなってしまうのだ。
これまでの研究では、トランス状態を生み出す主なものとして打楽器のリズムが挙げられてきた。しかし、島村によると西モンゴルやウズベキスタンでは擦弦楽器で精霊が憑依するシャーマンや口承文芸の語り手がいる。モンゴルなどの内陸アジアの遊牧社会のシャーマニックな実践において共通するのは、ドラムのような特有の楽器ではなく、むしろ韻踏みの実践なのである。音や意味を反復し、関連づける韻は、一種の記憶術としても機能する。メッセージやリズムそのものを際立たせる韻は、言葉や儀礼が備える力を発露するメカニズムの一端といえる[★1]。こうして、韻こそが憑依の核にあると捉え直してみると、シャーマニズムの問題は島村のもうひとつの著書『ヒップホップ・モンゴリア』と結びついていることがよくわかる。モンゴルではシャーマニズムと時を同じくして、ヒップホップ音楽が隆盛であるという。韻を用いたふたつの営みは、ともに社会のなかである種の治癒的な役割を担っているのだ。
モンゴル社会における精神医学と自己観
島村のプレゼンに続いて、東畑からは、モンゴル・シャーマニズムをめぐる3つの質問が投げかけられた。
1.モンゴルの専門職セクター、つまり精神医学・心理学はどうなっているのか
2.外在化モデルとしての社会主義と呪術の異同について
3.モンゴルにおいて個人とは何か
東畑の質問に通底するのは、心をかたどる社会的な力への関心である。とくに1つ目と2つ目の質問には、治療と教育と宗教が未分化なシャーマン実践に宿る人間の原初的な振る舞いへの関心が表れている。詳細は動画をご覧いただくとして、ここでは主な論点のみを紹介しよう。 「モンゴルの専門職セクター、つまり精神医学・心理学はどうなっているのか」という質問の裏にある東畑の問題意識は、科学的・物質的に根拠づけられない精神的な病を捉えることの難しさであった。精神的な病をもたらす複合的な状況や要因に対処するやり方には、必然的に個々人の生き方が映し出される。人の不幸に対処することこそが臨床心理士の仕事だと東畑は言う。彼がシャーマンの儀礼的実践とモンゴル社会の精神医学・心理学の両方に関心を向けるのは、彼が臨床心理士だからなのだ。東畑の問いかけに、「それはシャーマンですねぇ」と応答する島村との対話は、2人の専門と関心の領域が重なる見どころだ。なお、モンゴルには国立の大きな精神病院はひとつしかないという。 「外在化モデルとしての社会主義と呪術の異同」には、社会主義体制下で個人の内面的心理を対象とする精神医学が発展してこなかった、という歴史的背景が関わっている。社会主義体制を経たモンゴル社会とその呪術実践に関して、東畑は、その両者に外在化モデルと内在化モデルという説明概念をあてはめる[★2]。病をはじめとする問題の根拠を人間の内側に求めるのが内在化モデル、外側に求めるのが外在化モデルである。社会主義の理念のように、社会構造の組み替えによって社会問題の解消を目指すものは外在化モデルだ。シャーマンによる霊的治療も外在化モデルといえる。いっぽう、近代科学に基づいた心理学は内在化モデルである。
この質問の背後には、人が精神疾患からどのように回復するのかによって、その人の生き方が変わるという東畑の自論がある。外在化・内在化という説明モデルは、単に臨床医療として治療を行うことだけではなく、人間が生きる原動力やそのメカニズムを観察的に見出す視座にもつながるのだという。人間の生き方への東畑の強い関心がここにもうかがえる[★3]。
3つ目の「モンゴルにおいて個人とは何か」という質問には、人類学における文化的な自己観の形成の問題が関係している。そこには、自然環境・生活様式・対人関係などの状況と実践とが複合的に影響を及ぼす。たとえば、モンゴルの遊牧民が暮らす移動式住居であるゲルには、プライベート空間がない。日本社会では、引きこもりが問題視されることもあるが、そもそもゲルの生活では引きこもることができない。モンゴルでは、都市のマンションでも、寝室などの機能特化した部屋は少なく、単に「大きい部屋」と「小さい部屋」と呼び分けられているという。もちろん、プライベートが全くないわけではなく、人間同士の喧嘩も起きる。嫌なら外に出ていく。だから家出が多い。このように、遊牧民が人口の9パーセントにまで減って都市化した現代モンゴルにおいても、遊牧社会という文化が、居住空間・対人関係・振る舞いに継承されている。
島村によれば、水草などを求めて自由に移動する遊牧社会であったモンゴルは、かつても現在も個人主義的であるという。個人主義のなかで、島村が身近に経験したものとして、大学講義のゼミ化が挙げられた。具体的には、講義中、学生はしばしば内容に対して疑義を呈する。そうすると講義を擁護する学生もあらわれる。講義は自然と議論にとって代わられ、ゼミのような双方向のコミュニケーションの場になるという。こうした個の強さは、集団における「いじめ」に相当する概念がないというようなおどろくべき美点とともに、組織的・協働的な実践が不得手になるという二面性としてあらわれる。モンゴル社会における個人主義的な自己観のありように東畑も上田も感嘆し、また集団・組織を前提とした個人観が強い日本社会と対比された。
スピリチュアルでプラクティカルな見どころ
イベントでは、憑依と韻、精神医療とシャーマニズム、社会主義と呪術などについて、多岐にわたる事例と示唆に富んだ議論が展開された。島村と東畑の霊的体験やシャーマン的なものに対する好奇心には、独特の奇妙さと面白みがある。島村と東畑の著作の共通点として、宗教的教条といった大きな制度ではなく、「個人」のよりどころとしてのシャーマニズムの実践を捉えている、という上田のまとめも興味深い。否が応でも個人化が進む現代日本社会において、オルタナティブな実践や関係をゆるやかに紡ぐ知恵を、われわれはシャーマニズムから学べるのかもしれない。
今回の刊行記念イベントは、島村による丁寧なプレゼンによって、未読の観客にもやさしい仕立てとなっている。『憑依と抵抗』は、Webゲンロンにて安藤礼二による書評も掲載中だ[★4]。この書評では、島村の前著『ヒップホップ・モンゴリア 韻がつむぐ人類学』と通底する問題意識がまとめられており、さらに安藤による独自の読みと問題提起が記されている。『憑依と抵抗』から入っても良し、書評から入っても良し、イベントのアーカイブ視聴から入っても良し、現代モンゴルにおける呪術と臨床、そこから発展する議論をぜひ堪能していただきたい。(青山俊之)
シラスでは、2022年12月23日までアーカイブ動画を公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。
(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20220625/)
★1 島村は、「韻」が生成する律動や記憶に刻む強調的な力に関しては議論の余地があると述べている。実は、筆者が専門とする詩学を基調とした言語人類学では、「韻」など記号の「反復」に関する文法構造の生成や、儀礼論をはじめとした理論的位置づけと分析の事例が数多く挙げられる。言語人類学はアメリカの4大人類学のひとつでもあるのだが、日本やヨーロッパの人類学史で積極的に議論に取り入れられてこなかった。言語人類学的な詩学の入門書としては、小山亘『コミュニケーション論のまなざし』(三元社、2012年)、日本の人類学の軌跡とも絡めた専門書としては、小山亘『記号の系譜 社会記号論系言語人類学の射程』(三元社、2008年)が参考になる。
★2 アーサー・クラインマン『臨床人類学 文化のなかの病者と治療者』、大橋英寿ほか訳、弘文堂、1992年、114頁。
★3 2つ目は、この質問とも関連するモンゴルにおけるプライベートの議論に展開した。この説明モデルの議論をまとめながら、批評家の黒嵜想が患った鬱に対し、周囲の人間にはその原因を社会的状況や言論空間の問題に置き換えられたものの、実際は日々の生活を丁寧に過ごしながら「今」できることの気分を整えることで回復した、という経験談を想起した。一般化はできない「精神的な病」だからこそ、こうした事例や知識から観察の感度を高めておくといいのかもしれない。 ひるにおきるさる「いてもいなくてもよくなることについて:中森弘樹・福尾匠・黒嵜想鼎談」、note、2020年8月。URL=https://note.com/kurosoo/n/n25f57e2346e5(2022年7月20日参照)
★4 安藤礼二「【書評】シャーマニズム、連帯にして抵抗の原理──島村一平『憑依と抵抗』評|安藤礼二」、Webゲンロン、2022年6月。URL=https://webgenron.com/articles/bookreview_011/(2022年7月20日参照)