フロイト的AIとグラマトロジーの夢──石田英敬×三宅陽一郎×東浩紀「人工知能は一般文字学の夢を見るか」イベントレポート
ゲンロンα 2021年6月3日配信
4月20日、ゲンロンカフェではゲームAI開発者の三宅陽一郎と、『新記号論』の共著者である石田英敬と東浩紀のトークイベントが行なわれた。三宅が新著『人工知能が「生命」になるとき』(PLANETS)の刊行フェア(ブックファースト新宿店にて開催)で、『新記号論』を取りあげたことがきっかけで実現したものである。
鼎談では、演算という概念の再定義やAIの汎用性とはなにかという問い、人間的なAIの開発をめざすことの是非など刺激的な議論が展開されたが、それと同時に、エンジニアリングの観点から哲学に切り込む三宅と、哲学者としてテクノロジーと向きあう石田や東の対比が際立つ場面もみられた。議論の前半部分である『新記号論』を起点とする三宅のプレゼンと、それに対する石田と東の応答を中心にお伝えする。(ゲンロン編集部)
鼎談では、演算という概念の再定義やAIの汎用性とはなにかという問い、人間的なAIの開発をめざすことの是非など刺激的な議論が展開されたが、それと同時に、エンジニアリングの観点から哲学に切り込む三宅と、哲学者としてテクノロジーと向きあう石田や東の対比が際立つ場面もみられた。議論の前半部分である『新記号論』を起点とする三宅のプレゼンと、それに対する石田と東の応答を中心にお伝えする。(ゲンロン編集部)
夢を演算する
三宅陽一郎は、ゲーム開発の実績だけでなく、哲学をAI開発に取り込む異色のアプローチでも知られている。そこには「知能とはなにか」を哲学的につきつめるだけでなく、工学的に実装することが必要だという問題意識がある。イベントはそんな三宅のプレゼンから始まったのだが、そこで彼が語ったのは、一言でいえばフロイトの思想をいかにエンジニアリングするかという問題だった。
三宅はまず、「無意識はシネマトグラフィーのように構造化されている」[★1]という石田英敬のテーゼに着目する。これは『新記号論』の第2章で石田が提唱するものだ。
石田によると、フロイトの「第一局所論」においては、感覚刺激はシネマ(映画)のような視覚イメージにまとめられて無意識へ送られ、前意識をつうじて言語と結びつけられる。意識とは、知覚から前意識にいたるこのプロセスを能動的にとらえ返す心のはたらきのことである。けれども、睡眠時にはその再帰的な運動が停止し、前意識の言語機能も低下することで、無意識の視覚的な次元が前景化する。夢とはこのときに得られる視覚体験のことだ。
三宅はこのフロイトの議論をいわゆる「記号接地問題」につなげる。記号接地問題とは、AIの知的過程のなかで、どのようにして記号と事物の意味を結びつけるか、つまりいかに記号を生きたものにするかという問題のことである。そのうえで三宅は、フロイト的に考えるならば、それぞれの記号の裏には無意識の視覚的イメージのまとまりがあることになると指摘する。記号に生をあたえるのはこの無意識のシネマ的イメージであり、言語活動とは記号に付随したさまざまなイメージを操作することでもあるといえないだろうか。
このような記号観は、三宅によれば、ニューラルネットをつうじて画像ベースでの概念の獲得をめざす昨今の試みとも共鳴している。とはいえ、フロイト的な記号の理解をもとにAIの記号接地を考えるなら、無意識に属する視覚イメージ(あるいは夢)の処理を、演算をつうじて実装しなければならない。それはいわば、夢=無意識の「シネマ」を演算できるフロイト的なAIを構想することだ。
このようなエンジニアならではの観点を提示したうえで、三宅はふたつの問題を提起した。「無意識はシネマトグラフィーのように構造化されている」として、無意識のなかでシネマ的イメージはどのように存在し、または整理されているのか? そして、記号は無意識のシネマとどのように接しているのか?
グラマトロジーから考える
三宅の問いにたいして、石田と東はいかに応答したのだろうか。
まず東は、フロイトの用語でいえば、これは「物表象」(または対象表象)と「語表象」とのつながりの問題であると整理した。『新記号論』でも語られているように、フロイトにおいては、知覚や筋運動の雑多な経験のイメージである物表象が語表象とむすびつくことで言葉が意味をもつとされる。
物表象は身体性に由来する。記号に生をあたえる無意識の「シネマ」(あるいは物表象)は、身体の運動や感覚の記憶として格納されている。その意味で、言語活動のなかでは、身体感覚の連合が記号に先立っている[★2]。けれども、東によれば、身体性にもとづく物表象のありかたは、哲学の歴史上あまり解明されてこなかった。いいかえれば、記号を哲学的に考察するとき、非言語的なものから考えられることはあまりなかったのだ。
東によると、近代哲学のおおきな問題は、「思惟するもの」と「延長するもの」を区別したデカルトのように、身体性を捨象した状態で記号や言語を、ひいては考えることを定義したことだった。そう考えると、三宅が構想するフロイト的AIのエンジニアリング、つまり非言語的な運動や知覚のイメージの演算をつうじてAIの記号処理に取り組むことは、考えることそのものの再定義につながるのかもしれない。
いっぽうの石田は、三宅の問いかけに対して「フロイト的回答」と「石田自身の回答」の二種類を用意する。
「フロイト的回答」とは、シネマ的イメージのあつかいにかんするものだ。石田によると、フロイトは物表象と語表象のプロセスを「一次過程」と「二次過程」という言葉で整理している。一次過程は、物表象としての多様なシネマ的イメージが、たくさんのショットを撮るようにつぎつぎと記憶されていく段階を示している。それをのちに物表象を想起し、言語とつなぎあわせる段階が二次過程とよばれる。
ここで重要なのは、二次過程においてシネマ的イメージの編集・加工が行なわれることだ。これをエンジニアリングにあてはめるなら、シネマ的イメージの演算は、データを記録するときにではなく、データが引きだされるときに生じるといえる。
石田はここまでを押さえたうえで「石田自身の回答」を述べた。それは、三宅の提起する諸問題はシネマではなくグラマトロジーから考えるべきだというものだ。『新記号論』のなかで、石田は「無意識はシネマトグラフィーのように構造化されている」と同時に、「無意識は、グラマトロジック・テクノロジックなものである」とも書いている。記号と視覚イメージのつながりを思考し実装するためには、シネマの比喩よりも文字学に立脚するほうが、より具体性もあって有効かもしれない。
その手がかりとして、石田が着目するのが漢字である。ジョン・サールの有名な「中国語の部屋」という思考実験に独自の解釈をくわえつつ、石田は、表語文字である漢字のなかには、絵画と意味と音声が同居していることを強調した。
東もこれに同意して、漢字がもつ思想的な可能性について述べた。漢字はサンプルとして利用できる膨大な歴史的蓄積をもつだけでなく、(異体字を考えればわかるように)アルファベットとは異なる文字の同一性の原理をもつ。グラマトロジーの問いを定式化した当のデリダ本人は、漢字をあつかわなかったのだが、人工知能の哲学のグラマトロジックな基礎を立ち上げる可能性はむしろ漢字論にあるのではないか[★3]。
エンジニアリングと概念の共同性
そのほか、筆者(伊勢)の印象に残ったのが、概念の共同性という論点である。
三宅のプレゼンを受けて、東はある根本的な問いを投げかけた。というのは、人工知能の文脈で概念の獲得といわれるが、それはじつは人間ほんらいの概念獲得のプロセスとは隔たりがあるのではないか。
ヴィトゲンシュタインやクリプキ(あるいは「クリプケンシュタイン」)の「私的言語」にかんする議論を紹介しながら、東はそもそも、概念なるものは他者がいないと成立しないはずだと語る。ひとは、ある概念をどういう意味でもちいているかということを、たったひとりで確定させることはできない。それはむしろ、おなじ規則や用法を共有している共同体によって判断されるのである[★4]。
とすると、ひとつのAIの内部に大量のデータを投与し、(ニューラルネットワークにおける誤差逆伝播法のような)トライアンドエラーのサイクルをまわしつづけるだけでは、結局は概念を獲得することはできないのかもしれない。必要なのはむしろ、獲得された(仮の)概念をアウトプットさせ、複数のエージェントのあいだでコミュニケーションを繰り返すことなのではないか。そして、各エージェント間で物表象がいかに共有されるかをこそ分析しなければならないのではないか。筆者なりにこれをいいかえると、人工知能は「教師なし」でも学習を進められるけれども、概念獲得にかんしては「学友」が不可欠なのだ、ということになるだろうか。
***
冒頭でもことわったように、ここまでの内容は議論の前半部をまとめたものにすぎない。そのほかの議論の詳細は、番組のアーカイブでみていただければと思う。ここではさいごに、概念の共同性に関連して、筆者の関心からいくつか論点をつけくわえたい。
『人工知能が「生命」になるとき』や『人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇』(ビー・エヌ・エヌ新社)のなかで、三宅は東洋的なAIの構想を語っている。それは非常にユニークで刺激的なものだが、筆者の理解では、彼のいう東洋的なもののエッセンスは、晩年の井筒俊彦が提唱した「東洋哲学」の枠組みによってすくなからず規定されている(あとはいわゆる「八百万の神」的なアニミズムに依拠するキャラクター論など)。東洋哲学にかんする井筒の読解はかなり個性的なので、ひょっとすると、彼の構図を念頭において東洋思想を語ることになにか物申したくなるひともいるかもしれない。
けれども 、筆者はそこにはたいへんな意義があると確信している。というのも、三宅の仕事が示しているのは、しばしば神秘主義的だといわれる井筒の哲学が、じつは工学的に実装可能であるかもしれず、場合によっては人工知能のありかたを書き換える可能性すらあるということだからだ。フロイトにかんしても同じことがいえるが、東洋思想をAIにしてしまおうというのは、井筒論として決定的に斬新な視点である。
ここで三宅の東洋的AIの構想と井筒俊彦の関係に注目するのは、筆者の井筒への個人的関心のためでもあるが、それ以上に、概念が成立するために共同性が必要とされるという議論が、おそらく井筒の「東洋哲学」からも引きだせるとも考えるからである。といっても、もちろんクリプキ(ヴィトゲンシュタイン)と井筒の議論はまったくのべつものなので、両者の議論を安易につなげることはできないし、つなげるべきでもない。だがすくなくとも、概念の共同性という問題をべつのアプローチで考えるものだということはできる。
井筒の「東洋哲学」のねらいは、「東洋」のさまざまな思想がもつひとつの思考パターン(「東洋哲学の共時的構造」)を描くことである。それは、ざっくりいうと、言語や概念、諸存在が分節化された「表層」と、分節がまったくない「意識と存在のゼロ・ポイント」(これは文字通りの虚無ではなく、無限のエネルギーとされる)の二点を定め、修行や座禅によってそのあいだを行ったり来たりするという発想のことだ。なので、非常に単純化すれば、晩年の井筒は基本的になにを読んでもおなじような議論をしている。いやむしろ、なにを読んでもおなじようなことがいえるという点にこそ、彼の「発見」があった。東洋哲学に共時的構造があるというのは、つまりそういうことである。
とはいえ、歴史的な事実として、東洋の各思想には用語や教説のうえでちがいがある。なぜそのようなちがいが生じるのだろうか。井筒は、表層とゼロ・ポイントの中間領域である「深層」(あるいは「M領域」)にその根拠を求める。つまり、単一の構造を共有しつつも、中間領域の表現に具体的な文化の差があらわれるというわけだ。
筆者の理解では、この中間領域=深層は共同性をもった概念である。じっさい、深層について説明するとき、井筒はよくユングの「集合的無意識」という言葉をつかう[★5]。つまり非言語的な、あるいは言語以前の「元型」的なイメージが生みだされ、集合的無意識として個体をこえて共有されることにより、各人の表層における言語や概念の分節の傾向があらかじめ規定される。井筒によると、このような元型的なイメージの一例が易の「八卦」である(ちなみに八卦のもつ象徴作用は、「言意之辨」と呼ばれる中国の伝統的な言語論の枠組みでは、「言」と「意」の中間にある「象」として位置づけられる)。
さらにいうと、井筒はこのような集合的無意識をよく文化的無意識といいかえる。というのも、「全人類に共通する普遍性をもった『元型』というようなものは存在しない」[★6]ので、中間領域の無意識の集合性は、かならず特定の共同体に範囲が限定されるからだ。こうしたわけで、井筒にとっては、分節化によって概念が概念として成立するためには、「意識と存在のゼロ・ポイント」から流出するエネルギーが、元型的なイメージの集まりを形成しつつ、各共同体に固有の無意識の層を通過していかなければならないことになる。
修行や座禅といった言葉をやたらに強調するせいで、井筒の「東洋哲学」はまるで個人の内部で完結しているようにみえるかもしれない。けれども、じつは修行のさきには共同性の次元が用意されており、それがひるがえって概念や言語の成立条件を規定しているのだ。
むろん、井筒のこうした側面を手放しに肯定するのは危険ではある。『新記号論』の読者ならご存じのように、石田と東は、ユング的な集合的無意識にはオカルト的な魔力があるとくりかえし警鐘をならしている[★7]。そのうえで石田は、この魔力に抵抗しつつ、無意識の集合性や身体性をべつの角度から語りなおそうとしていた。くわしくは同書の第3講義をみていただきたいが、たとえばフロイトとスピノザのあいだにアントニオ・ダマシオの脳科学をはさんだり、SNS以後の情報技術をつうじて無意識の集合性をメディア論的に語るのがそれだ。
であれば、井筒の共同性の次元についてもやはり同様の(「唯物論的」な?)読み解きが必要となるだろう。この意味でも、哲学をエンジニアリングするという三宅の方法論の重要性は際立っているのである。
ただ、三宅によると、東洋的AIは基本的にはまだ構想の段階にとどまっているという。その実装にむけては、技術的な問題がいくつもクリアされなければならないのだろう(この点はおそらくフロイト的AIも同様である)。
けれども、漢字のグラマトロジーや概念の共同性、そして物表象のありかたの考察など、いわゆる人文系の側からそこに貢献できる余地はきっとある。当日、会場でみていた筆者にとって、三人の対話はそのような刺激やはげましをあたえてくれるものだった。(伊勢康平)
★1 石田英敬、東浩紀『新記号論 脳とメディアが出会うとき』、ゲンロン、2019年、97頁。
★2 三宅は、プレゼンのなかで「記号創発システム論」を紹介している。三宅によると、これはロボットに「環世界」をあたえることで、「身体的」な知覚データの累積をつうじてみずから概念を獲得させようとする試みであるという。おそらくここには、フロイトのいう物表象的な側面との関連性がみられるだろう。
★3 グラマトロジーの観点から漢字を考える研究はいくつかある。たとえば Zhong, Yurou. Chinese Grammatology: Script Revolution and Literary Modernity, 1916-1958 (New York: Columbia University Press, 2019). は、近代中国における言文一致の運動を、漢字が「音声中心化」するプロセスとみなすものだが、そこからひるがえって、前近代の漢字の使用を音声中心主義の外部として分析する議論もなされている。
★4 ソール・A・クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス——規則・私的言語・他人の心』、黒崎宏訳、産業図書、1983年、215頁を参照。
★5 井筒の「深層」と集合的無意識(あるいは文化的無意識)については、井筒俊彦『意識と本質——精神的東洋を索めて』(岩波文庫、1991年)、205-215頁を参照。なお、井筒は中間領域をさらにM・B・Cの三層に細分化することもあるが、はなしを単純にするため、ここでは細かい議論を省略している。
★6 同書、247頁。
★7 石田、東、前掲書、220頁。
シラスでは、2021年10月20日までアーカイブを公開中。ニコニコ生放送では、再放送の機会をお待ちください。 ※好評につき、視聴期限を2023年12月16日まで延長し再公開しました。(2023.6.16更新)
石田英敬×三宅陽一郎×東浩紀「人工知能は一般文字学の夢を見るか」【『新記号論』刊行2周年記念】
(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20210420/)
(番組URL=https://genron-cafe.jp/event/20210420/)