近代の謎としての「美的なもの」に迫る──小田部胤久×宮﨑裕助「カント『判断力批判』からみる美学史と現代思想」イベントレポート(関西弁)
今回のイベントは、小田部胤久さんが今年9月に出した『美学』の刊行記念イベントや。この本は480頁の大著で、『判断力批判』の注釈本でもあり(A)、そこに出てくるトピックに沿って古代からカントまで(B)とカントから現代まで(C)の美学史を辿るっていう三重構造が全10章を貫いてるえらい本やねん(つまりぜんぶで3×10=30の話題があるってことになるな)。
対談相手を務めたんは宮﨑裕助さん。近著『ジャック・デリダ――死後の生を与える』やその刊行記念イベントもめっちゃ評判やったけど、博論をもとにして2009年に出した『判断と崇高――カント美学のポリティクス』では現代思想の視点から『判断力批判』を扱ってて、カントのことにも詳しいひとや。小田部さんとはその博論本だしたときくらいからの知り合いらしい。
イベントは、カント入門も兼ねた宮﨑さんのていねいなプレゼンにそのつど小田部さんが応答して議論が展開していくスタイルで進んだ。充実の回やったから全部の話は拾えんけど、自分がとくにおもろいと思ったところを中心に紹介していくわ。(ゲンロン編集部関西弁担当)
近代を捉える特権的指標としての『判断力批判』
まずは、なんで『判断力批判』が大事なんかって話からや。
『判断力批判』はカントの有名な三つの批判書の最後にあたる本で、めっちゃかんたんに言うたらその前半で「美」とか「芸術」のことを論じてる。せやからそういう問題をあつかう美学っていう学問の古典として有名なんやけど、それだけやなくて戦後のフランス現代思想やドイツ系哲学でもめっちゃ取り上げられてる人気の本やねん(詳しくは下図参照)。なかには政治哲学の話としてこの本を読み込んだアーレントみたいなひともおる。ただ宮﨑さんが指摘するには、それとは対照的に英米系の分析哲学ではカントの三批判書のなかで唯一不人気っていうのもこの本の特徴らしい。『判断力批判』は論理の流れが独特で、よくいえば思考を挑発するタイプの本やから、そのへんがウケるとこにはウケてウケへんとこにはウケへん理由かもなってことやった。
『判断力批判』の論証構造の独特さについては小田部さんも触れてた。カントのおもろさは話の本筋とちゃうところでめっちゃ重要なことぽろっと言うたりするところにあって、『判断力批判』も内容の要約だけしてもしゃあないような本らしい。せやから『美学』では、『判断力批判』で言われてる命題(「美とは○○である」的なやつ)をたんに並べるんやなくて、むしろ命題同士の関係を提示していくような書きかたを目指したということや。
それから『判断力批判』の重要性について、小田部さんは「近代」っていう時代の問題と絡めて説明してた。たとえば「芸術」いうたらいまではみんなが当たり前に使ってる概念やけど、これは18世紀中ごろになってはじめて成立した近代の所産なんやって。あとで説明する「美的なもの」っていうのもおなじや。
1790年に公刊された『判断力批判』は、その「美的なもの」や「芸術」の問題に最初に正面から切り込んだ書物で、近代のはじめにあって近代のありかたについて考えた書物とも言えるらしい。つまり、むずかしいことばで言うたら「近代を捉えるときの指標」として特権的な地位にある。そういう本やから、20世紀後半に近代が行きづまってきたとき、「近代とはなんなんかをもう一回はじめに戻って考えたい」って感じたひとたちがこぞって取り上げたんちゃうかって小田部さんは言うてた。
宮﨑さんも、『判断力批判』の「読めば読むほどわからなくなる」感じは、まだ模索されてる途上にあった「近代」の謎を凝縮してるって言いかえることもできるかもって言うてたわ。
「美的なもの」をめぐる謎
『判断力批判』に含まれてる謎としてまず宮﨑さんが挙げてたのが、「美的なästhetisch」っていうことばや、それと語源的に結びついてる名詞「Ästhetik」をめぐる話や(ここは正直ちょっと専門的な箇所やから、「むずいな」と思ったら次の見出しまで読み飛ばしてもらってもいいかもしれん)。
ドイツ語ではふつう美学のことを「Ästhetik」って言う。せやけど、この名詞はカント哲学のなかでは「感性論」=「人間の認識がどういう感覚の原理で成立してるかについての学問」を指すことばで、『判断力批判』では基本的に使われてないねん。それどころか、カントは『判断力批判』のなかで、「美しいものの学問は存在しない。美しいものについてはただ批判が存在するのみである」って言うてる(第44節)。ふつうに考えたら、「美学の古典やのに美学のこと否定してるやん」って突っ込みたくなるわな。このことは『判断力批判』を読むうえで最初の壁になるんちゃうかって宮﨑さんは言うてた。
この突っ込みに対する小田部さんの答えはこうや。まず、カントは『判断力批判』のなかで「美的なästhetisch」ってことばを基本的には「判断」(あるいは「判断力」)ってことばとつなげて、「美的判断」の問題を論じてる。「美的判断」っていうのは、「あるものが美しいか否か(あるいは快適か否か/崇高か否か)を判別すること」なんやけど、重要なんはこれが「快不快の感情にもとづくもの」とされてることや。
つまり、なにかを美しいと感じたりするのはあくまで感情にもとづいてて、その根拠はだれにでも伝わる客観的な概念では説明できんっちゅうことになる。カントにとって「学問」いうたら客観的になにかを説明するもののことやったから、「美しいものの学問は存在しない」ってことになるねん。でもカントは、美的判断の仕組みを認識の成立の原理と関係づけて説明することはできると考えた。これはつまりカントの批判哲学の枠組みで説明できるってことやから、「美しいものについてはただ批判が存在するのみである」って言うてるんやな。
これは細かい専門用語をめぐるマニアックな議論に聞こえるかもしれんけど、ここで言われてるんはもっと広い話や。カントは人間の認識が成立する原理を『純粋理性批判』で説明したわけやけど、『判断力批判』ではその原理の働きかたを主観の側から記述しようとした。なにかを認識するときにひとはふたつのものを感じる。つまり、認識が捉える対象のデータと、それ以上の「+α」にあたる部分(=快不快の感情)や。『判断力批判』ではその後者に焦点があてられたんやっていうのが小田部さんの説明やな。
この「美的判断」の話を宮﨑さん流に言いかえたらこんな感じや。カントがそこで考えてたんは、たんなる「美しいとはなにか」だけの話やない。カントはよりラディカルに「認識の起源における快」みたいなものを考えようとしてて、それが「美的なもの」についての探求とどこかでつながってた。ほかにもこれらと関係しそうなものとして、なにか問題にぶち当たってたひとがその解決法を発見したときに感じる「ひらめき」みたいなものも挙げられる。このへんの深い理解は、じつはカント研究者のあいだでも共有されきってへん部分かもしれんと宮﨑さんは言うてたわ。
趣味判断の普遍妥当性と近代
ここから話は各論に入って、カントが「美しいもの」や「崇高なもの」をどういうふうに捉えてたかっていう話になった。多岐にわたった論点のなかから、ここでは「美しいもの」についての判断の「普遍妥当性」の話を取り上げるで。
カントによれば、それぞれのひとの「美しいもの」についての判断(=趣味判断)は「普遍妥当性」をもつ。かんたんに言うたら、「○○は美しい」「××は美しくない」っていうひとつひとつの判定はぜんぶ、世界中のすべてのひとのあいだで一致するはずやという説や。
ってさらっと言うてみたけど、一聴して「いやそんなわけないやろ」って言いたくなる説やんな。ふつうに考えたら、世のなかのひとの好みは十人十色で、そういうことにはなってない。
せやけど、そういう突っ込みに対して小田部さんはこんなふうに注意を促してた。カントは決して「じっさいにそういうことになっとる」っていう「事実問題」の話をしとるわけやなくて、「認識の原理を考えたらそういうことになるはずや」っていう「権利問題」の話をしとる。趣味判断の普遍妥当性っていうのは、もとをただせば〈美の無関心性説〉=「あるものが美しいか否かの判断は個々人の利害関心や概念的な先入観に左右されへんものや」っていう話から導き出されてる。でも、ふつうに生きとったらそれぞれのひとの立場とかものの捉え方にはちがいが出てくるのが当たり前やん? それはカントにとっても当然のことやった。ただカントは、ひとはそういう好みのちがいをぶつけあって知りあうことで自分のバイアスについて学ぶことができるっていう「趣味の陶冶」の話もしとる。カントにとっての「普遍性」っていうのは最初からぽんとそこにあるもんやなくて、人びとが対話をとおして模索していけばたどり着けるはずの理論的な可能性みたいなもんとしてあった。そのことを小田部さんは強調してたな。
宮﨑さんもこれに応じて、「いまこの時点でみんなの意見がバラバラなんやから、カントが言う普遍性なんか存在せん」っていう短絡的な誤解に陥らんことが大事やって言うてた。宮﨑さんが言うには、この普遍性の話は民主主義の問題ともかかわってる。つまり、民主主義をバラバラな世界におけるたんなる多数決として捉えるんやなくて、意見のすり合わせのなかでいかに普遍性の地平を探っていくかで考えていかなあかんという話やな。このへんがイベント冒頭に出てきた「近代を模索する書」としての『判断力批判』っていう観点につながってくるはずやって宮﨑さんは言うてたわ。
「権利問題」と「事実問題」の峻別っていう話は、趣味判断の話だけやなくて道徳の問題を論じるときにも大事やって小田部さんも言うてた。道徳といえば、カントは普遍的に成り立つ「定言命法」をもとに行動せなあかんって言うたことで有名や。イベントでは、カントは『判断力批判』でその手前の「道徳の素地」としての感情やそこに至るための道徳教育のことも論じてるっていう話が最後のほうで出てきて、その流れでもう一回「権利問題」「事実問題」の話が出てきたんや。宮﨑さんも、分断が強まったいまの世界で『判断力批判』を読む意義はそのへんの「感情の共有」の話(=共通感覚論)にあるんちゃうかって言うてた。近代的な人間主義がいまの世界にも通用するのか、そのさきの「ポスト・ヒューマン」みたいなものを考えなあかんのかを検討するにあたっても、『判断力批判』はひとつの試金石になるんちゃうんかということや。
カントいうたら堅苦しい哲学の代表みたいなイメージもあるかもしれんけど、こういう話を聞くとなかなか捨てたもんじゃないと思うよな。
イベントではほかにもハイライトはたくさんあった。カントの〈美の無関心性説〉について、ふたつの無関心の契機を組み合わせることでよくある疑問を解消する小田部さんの解説も鮮やかやったし、「崇高」の話は現代思想とも親和性が高くて宮﨑さんの本領が発揮されたところやった。カントの芸術論や天才論をどう考えるかって話もおもろかったな。ほんまはそのへんもぜひ紹介したいとこなんやけど、それは動画で確認してや。おふたりは、質疑応答コーナーでもひとつひとつの質問にていねいに答えてた。なかには『判断力批判』のおすすめの翻訳とか具体的な読み進めかたについての実践的なアドバイスもあったから、これから勉強をはじめていきたいってひとにもおすすめやで。(住本賢一)
★1 國分さんイベントの関西弁レポートの注でもちょろっと書いたことやけど、この試みは大げさに言うたら「言文一致」の新しいかたちを模索してやってるみたいなところがある。せやから、べつにたんにふざけてやってるわけやない。哲学や思想の話をなるべくふつうのことばで伝えたいって気持ちでやってるんや。関西人の自分にしてみたら、こっちのほうがのびのび言いたいこと言えてるっていう実感もあるしな。
そういえば、世のなかには「古典的名著を関西弁に訳してみました」みたいな本もいくつか出てる。哲学・思想系でぱっと見つけられたんは、『ソクラテスの弁明』と孔子の『論語』や(あとは聖書とか仏教の経典みたいな宗教関係のやつ)。これってけっこう示唆的なことやと思うねん。なんでか言うたら、ソクラテスも孔子も本を書かへんかったことで有名な思想家やからや。書きことばやなくて話しことばで自分の思ってることを伝えようとしたひとらの言行録は関西弁にしやすいってことやな。逆にいえば、書きことばになじんでない関西弁やからこそ、「じっさいに話されたことをまとめる」っていう文章の形式にマッチする部分があるんかもしれん。
東浩紀は『新対話篇』の「はじめに」で、ソクラテスが体現してた対話のライブ感みたいなものにこそ哲学の原点があるはずやって言うてる。せやったら、自分は関西弁って道具つこて哲学の原点を目指してみる。それくらいの気持ちでやっていくで。
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(番組URL= https://genron-cafe.jp/event/20201127/)