あたらしい東洋哲学はどこにあるのか──安藤礼二×中島隆博「井筒俊彦をこえて」イベントレポート|伊勢康平

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ゲンロンα 2020年10月30日配信

 昨年11月の対談「井筒俊彦と中国——あたらしい東洋哲学のために」では、20世紀日本の哲学者・井筒俊彦について語りあった安藤礼二と中島隆博。老荘思想やシャーマニズムを軸に井筒哲学の全体像にせまった議論は「ゲンロンセミナー」として『ゲンロン11』に掲載された。

 それから約1年——安藤は『群像』7月号に「井筒俊彦 ディオニュソス的人間の肖像」という渾身の井筒論を発表し、鈴木大拙を特集した『現代思想』11月臨時増刊号にも深く関与した。一方で中島は、筑摩書房の「世界哲学史」シリーズの編集委員として、巨大なプロジェクトを推し進めている。同シリーズはすでに予定された全8巻が刊行され、現在別巻の編集が行なわれているという。

 それぞれべつの角度から哲学の歩みを進めてきたふたりはいま、「東洋哲学」の未来についてなにを語るのか。イベントは前回よりいっそう広大で、充実した対話となった。

 



 ところで、この対談が収録された2020年10月23日にさきだち、同19日にゲンロンの手がける放送プラットフォーム「シラス」が正式にオープンした。ニコ生のタイムシフトとはちがい、「シラス」では各番組のアーカイブが半年のあいだ視聴できる。それにくわえて、今回はかなり高度な議論が展開されたので、このレポートではおおまかにイベントの模様を紹介するというよりも、むしろ対談の論点を整理しつつ、必要に応じてぼく自身の観点から補足し深掘りしていこうと思う。そうして、より長い期間にわたって番組視聴の参考資料にしていただけるようなものになれば幸いだ。

「近代一元論」の風景



 それぞれ寄稿者として『ゲンロン11』にかかわった安藤と中島だが、いざ完成した誌面をみたとき、ふたりはそこに井筒俊彦にもつうじるような、東方的・ユーラシア的な想像力を感じたという。つまり、ヨーロッパやアメリカの影響を受けつつも、あえて東洋の側からグローバルな思考を組み立てようとする姿勢が本誌にはあったということだ。

 たしかに、目次をざっとながめるだけでも、タイ・香港・韓国・ロシアなど多様な地域が織りまぜられているのがわかる。とはいえ、なかでも一種の意外性とともに「東方性」を色濃く演出したのは、石田英敬による西田幾多郎論だろう。「記号の場所」をめぐって、西田やハイデガーから、はてはスティーブ・ジョブズまでが俎上にあげられたこの論考に言及するなかで、安藤はとくに西田とチャールズ・パースの対比という論点に着目する。安藤によると、パースと西田のあいだにはちがいが際立つ一方で、西田と親交のあった鈴木大拙は、じつはパースとつながりをもっていたという。それだけでなく、大拙に注目することで、当時世界的に広がっていた「近代一元論」の風景が立ちあがってくるというのだ。

 


 1897年、20代後半で渡米した大拙は、編集者となってポール・ケーラスのもとで出版事業にかかわっている。ケーラスは、東洋思想に深い関心をもったドイツ出身の哲学者だ。とりわけ安藤が重視するのが、The Monist(『一元論者』)という雑誌である。大拙が著者や編集者としてかかわっていた当初、Monist 誌は非常に雑種的なものだったようで、生物学(進化論)や心理学(潜在意識論)、哲学などさまざまな分野から一元論的な、つまりひとの精神と物質のあいだに差異を設けないような考えにもとづく議論が集められていたという。当時の寄稿者のなかには、たとえば「純粋経験」の概念を導入したウィリアム・ジェイムズや、胚を観察し、個体発生(胚が成体へと変化する過程)が系統発生(進化によって多様な個体に枝わかれしていく過程)を反復すると説いたドイツのエルンスト・ヘッケルなどがいた。くわえて安藤によると、そこに毎号のように寄稿していたのが、ほかでもないパースだったというわけだ。
 つまりこういうことである。20世紀初頭のアメリカでは、「一元論」をキーワードとして、 Monist 誌がハブのように各国のさまざまな分野をつなぎあわせていた。そうしてある線は進化論的、発生論的な生物学へのびてゆき(そのさきでベルクソンの生気論にも接続し)、べつの線はジェイムズやパースの哲学へもつながっていた。そのなかにリアルタイムで参入したのが鈴木大拙であり、彼自身もまたそこから東洋思想の線をのばして、とおく西田や井筒をつないでいったというのだ。
 そこで安藤は、アメリカのプラグマティズムや日本の東洋思想というように、地域にしたがってジャンル分けするだけでなく、同時代的な関係性に着目して、いわば近代哲学のひとつの側面として、「近代一元論」のネットワークをとらえることが必要ではないかと主張した。

 


近代東洋の一元論:井筒俊彦の場合



 では、このネットワークの末端につながれている近代東洋の一元論にはどのような傾向があるのだろうか。まじめに考えるとたいへん大きな問題だが、ここでは井筒俊彦を例に、ぼくなりにすこしだけ掘りさげておきたい。

 



 イベントのなかで中島と安藤は、鈴木大拙がアメリカで行なった『大乗起信論』の英訳という仕事に注目している。一般的には禅の大家として知られる大拙だが、ふたりによると、近代一元論のネットワークをつなぐ人物として大拙をとらえたとき、彼の思想のなかで重要になってくるのは、むしろ『大乗起信論』で説かれた「如来蔵」の思想だという。単純にいうと、如来蔵の思想とは、万物が生まれてくる根源となる「真如」がひとびとの心(衆生心)に宿っているという考えのことだが、これがいわば大拙の一元論的な想像力のみなもとになっているというわけだ。

 井筒もまた、自身の一元論的な思想のなかに如来蔵の思想を組み込んでいる。最晩年の著書である『意識の形而上学——「大乗起信論」の哲学』のなかで、井筒は「真如」についてこのようにいっている。


全現象界のゼロ・ポイントとしての「真如」は、文字どおり、表面的は、ただ一物の影すらない存在の「無」の極処であるが、それはまた、反面[…]一切万物をうちに包蔵し、それ自体に内在する根源的・全一的意味によって、あらゆる存在者を現出させる可能性を秘めている。この意味で、それ[真如]は存在と意識のゼロ・ポイントであるとともに、同時に、存在分節と意味分節の現象的自己顕現の原点、つまり世界現出の窮極の原点でもあるのだ★1


 井筒の論点をきわめて単純にいうと、まず彼は、ひとつの絶対的な根源である「真如」が「自己分節」する、つまりひとりでに分裂することで世界が形成されていくと考える。さらに人間もまた、言語や意識で事物を分節することによって、ひとつの「真如」が分かれていくプロセスをたどることができるという。そして、井筒によれば、ある種の相関性をもつこれらふたつの分節プロセスをさかのぼっていくと、あらゆる分節が取りのぞかれる一点、つまり「ゼロ・ポイント」で両者が統合される——つまりそこで意識と存在が統一されるのだ(ちなみに、このような相関と統合を可能にするのが、言語をふくむ分節作用一般を意味する「コトバ」という概念である)。
 井筒にとってこうした性質をもつのは「真如」だけではない。井筒は、老荘思想の「ダオ」やプロティノスの「一者」、イランのイスラームでいう「存在ウジュード」など各地域のさまざまな思想がもつ根源的なもののなかに、分節と統合の反復によって規定される共通の構造をみいだしていく。「存在と意識のゼロ・ポイント」というのは、井筒が各地域の「東洋哲学」を語る際にとてもよく用いる表現だ。

 ところで、この「ゼロ・ポイント」は、「ただ一物の影すらない」絶対的な「無」であるにもかかわらず、「一切万物をうちに包蔵し」「あらゆる存在者を現出させる可能性を秘めている」という。つまり、なにもないのにすべてを包み込んでいるというわけだ。これはいっけん矛盾しているようにも思えるが、いったいどういうことなのだろうか。


「真如」は[…]第一義的には、無限宇宙に充溢する存在エネルギー、存在発現力、の無分割・不可分の全一態であって、本源的には絶対の「無」であり「空」(非顕現)である★2(強調は伊勢)


 井筒のいっていることは(壮大ではあるが)それほど複雑ではない。要するに、ここでいう「無」や「空」というのは、どんな意識も存在者も(分けられてい)ないという意味で「無」だが、それでもエネルギーだけはある、しかもそれは、あらゆるものになる可能性をもった限のエネルギーであるということだ。とすると、見方を変えれば、彼のいう「無」のなかには(まだ分かれていないだけで)すでにすべてがあると考えることもできるだろう。

 ここに引用した議論にかぎらず、井筒俊彦が「ゼロ」や「無」というとき、じつはかならずなにかが動きつづけている。いいかえれば、彼は議論のもっとも抽象的なレベルで無限の力動性や流動性を前提し、それによってさまざまな意識の流れや存在者の有機的なシステムを維持しようとしているのだ。おそらくこれは、いわゆる唯心論や唯物論といったものではない。物質も観念も「ゼロ・ポイント」という絶対的な(あるいは純粋な)力動性から生みだされるからだ。つまり、それは唯動論とでもいうべきエネルギー一元論なのである。

 



 今回は井筒についてざっと触れるだけにしておくが、ぼくの理解では、中国の熊十力シォンシィリィや、井筒と同世代の牟宗三モウゾンサンら中国の新儒家もまた、中国哲学の再構築を試みる際に、しばしば(井筒とはまたちがった)エネルギー一元論的な語りを取りいれている。ぼくたちは、イベントのなかで安藤礼二が描いた近代一元論のネットワークが、かたや大拙をつうじて東洋へのびていきつつ、かたやベルクソンまでつながっていたことの意味を真剣に考えなければならないのだろう。

 なおぼくの見立てでは、こうしたエネルギー一元論は、いわば「近代東洋哲学」がもつひとつの傾向として東アジア(あるいは西洋の東洋学者らのあいだ)で同時並行的に展開されつつ、台湾の哲学者・吳汝鈞ウールゥジュンが、京都学派や新儒家、ベルクソンなどを総合しつつ提唱した「純粋力動」の哲学によって完成(と同時に袋小路・・・)をむかえるのだが、これについてはいずれべつの機会に論じられたらと思う★3

空海、未完の曼荼羅



 寄り道が長くなってしまったが、イベントの議論に戻ろう。安藤があざやかに描きだした近代一元論のネットワークは、世界的な禅の大家としてではない、一元論者としての鈴木大拙像を示していた。これを受けて中島が問いかけたのが、では大拙はなぜ『大乗起信論』にかんする仕事から禅へ移ったのか、という問題だ。つまり大拙は、のちに禅や浄土系の鎌倉新仏教をつうじて、精神と物質の対比をこえた「日本的霊性」の概念を提唱するのだが、中島は、一元論的な思想を説くのであれば、『大乗起信論』や空海の真言密教などを推し進めるほうが理にかなっており、筋も通っているはずだというのである。

 これに対して安藤は、大拙と禅の関係を、井筒俊彦とイスラームのそれになぞらえる。イスラームの研究者として知られる井筒だが、かつて彼は、自分がイスラームを探究する理由こそが最大の謎だと語ったという。そのように、大拙の禅へのこだわりは、大拙自身にとっても説明しがたいものだったのかもしれない。

 さらに安藤は、おなじような関係が中島と空海のあいだにあるのではないかと指摘する。小林康夫との共著『日本を解き放つ』(東京大学出版会)や、マルクス・ガブリエルとの対談本『全体主義の克服』(集英社)など、中島は近年の仕事のなかで繰り返し空海に言及しており、とくに近著『思想としての言語』(岩波書店)では、空海論から議論をはじめ、井筒の空海論で結んでいるのである。そして興味深いことに、中島もまた、なぜ自分が空海を語りつづけているのかがわからないのだという。空海から距離をおこうと思っても、いつのまにか言及してしまっているのだそうだ。ただ中島からみれば、井筒の空海論と空海自身の議論とのあいだにはへだたりがあるらしい。

 



 イベントではあまり深入りされなかったので、この点についてもぼくなりに補足しておこう。読者のなかには覚えているかたもいるだろうが、井筒の空海論は『ゲンロン11』に掲載された安藤と中島の対談でも問題になっていた。そこで中島は、空海の言語的な宇宙論は「コンパウンド」(複合語)というサンスクリットの文法事項と深くかかわっているのだが、井筒の空海論にはその観点がないと指摘している。そもそもコンパウンドとは、名詞や形容詞など複数の語を自在に結びつけてあらたな語を生みだす用法のことで、中島によると、空海は世界のあらゆるものがコンパウンドのように相互につながりあい、あらたなものをつぎつぎと派生的に産出していくと考えたのである★4
 ところが、「意味分節理論と空海」と名づけられた井筒の空海論は、基本的にさきほど説明した存在/言語分節の議論とおなじ構図をとっており、やはり「一」なるもの(「絶対無分節の状態にある」「宇宙的存在エネルギーとしてのコトバ」)の自己分節によって世界が成りたつと考える。


真言密教の、あるいは空海の、構想する言語・存在論的世界展開のプロセスにおいては、未だなんらのシニフィエにも伴われない無辺無際の宇宙的ア音という絶対シニフィアンからすべてが始まる。この絶対シニフィアンの出現とともにコトバが始まり、コトバが始まるまさにそのところに、意識と存在の原点が置かれる。そして、この世界現出の末端的領域をなす人間の日常的言語意識は、それと同じプロセスを、人間的規模において繰り返す★5


 ここでいわれているのは、要するに「阿字」つまりサンスクリットの「ア」の音が、「存在と意識のゼロ・ポイント」に原初的な分節をもたらす力として機能しているということだ。このように分節をもとに空海を読み解いていくかぎり、やはり中島がいったようなコンパウンド的な想像力からは離れていかざるをえないだろう。

 空海をめぐる中島の井筒批判には、じつはもうひとつの論点がある。それは「秘密」のありかにかんするものだ。井筒によると、真言密教は「コトバの『深秘じんぴ』」に長年思いをはせていたという。ただその「深秘」(深奥な秘密の教え)は、ひとびとが日常的に用いる言語とは本質的に無縁な「異次元のコトバ」のはたらきのなかに隠されている。それは人間が通常用いる言語の機能というよりは、むしろ「ゼロ・ポイント」からの自己分節を可能にする「宇宙的存在エネルギー」の作用にほかならない。とすると、自己分節のプロセスが完了したあとに残るのはくまなく区分けされ切った現象世界であり、深秘はこの次元にはあらわれないことになる。

 他方中島は、『思想としての言語』のなかで、空海はより日常的な次元で秘密を考えたのではないかと主張する。中島によると、「吽字義うんじぎ」のなかで空海は、画師が描いた夜叉の絵に恐怖をおぼえた体験(あるいは寓話)を語りながら、「『甚深秘蔵じんじんひぞう(深遠なる秘密の教え)』は、衆生が秘密にしているということであって、仏が隠しているわけではない。以上が、阿字の実義(本当の意味)である」と述べたという。つまり「異次元のコトバ」などにではなく、ひとびと(衆生)の日常をとりまくなにげない言葉や表現にこそ秘密があるというわけだ。中島によると、そのうえで空海は、如来が描く「大悲の曼荼羅」によって、秘密に翻弄される衆生を救済しようとしたのである★6

 



 このように井筒の考える空海と、空海そのものとのあいだにはへだたりがある。イベントのなかで中島は、その原因は空海のテクストが、井筒の用いた近代的な思考や用語法からあまりにかけ離れているからではないかと推察している。安藤もこれに同意しつつ、空海のテクストには、近代一元論の用語ではとらえきれない部分があると語る。

 大拙は触れることすらできず、井筒も課題を残した空海の思想をいかに読みなおし、再構築するか——そこに「あたらしい東洋哲学」の可能性がある。この点を強調したうえで、安藤はつぎの仕事では空海を正面から論じたいのだと明かした。一方の中島は、今度はあえて空海から一度距離をおき、あらためて専門の中国哲学と向きあいたいのだという。今後もふたりの仕事から目がはなせない。

 

大地性と精神性:危うさとどう向きあうか



 「あたらしい東洋哲学」のひとつの可能性は、空海の読みなおしにある。これがふたりの結論だった。だがそれとはべつに、西田や大拙、井筒らを読み解き、その遺産を継承していこうと考えたときに考慮すべき問題がある。それは彼らの政治的な危うさといかに向きあうかというものだ。

 京都学派が「近代の超克」や「世界史の哲学」をかかげて戦争に加担したのは有名だが、安藤と中島は、大拙や井筒もまたべつの危うさを抱えているのだという。たとえば大拙の有名な「日本的霊性」は、ほんらい霊性という普遍的な概念と、日本という地域の特殊性の境界に生じる微妙な概念であり、すぐさま日本の特殊性を肯定するものではない(『思想としての言語』では、これが「地上的普遍性」と呼ばれている)。だが中島は、日本という大地に根差した思考を必要とするかぎり、それが大地の力に引き込まれる——つまり単なる土着的なものの肯定に陥ってしまう危険性は排除できないと警鐘を鳴らしている★7。また安藤は、若いころの井筒が大川周明と仕事をしており、密接な交友関係をもっていたことを紹介しながら、井筒の思想にも「大東亜共栄圏」的な発想につながるものがあると指摘した。

 



 とはいえ、それは具体的にはどのようなものだろうか。井筒には京都学派のような決定的な政治問題がない以上、その根拠を歴史的事実だけに求めるのはすこしむずかしいようにも思われる。イベント中では、井筒と「大東亜共栄圏」的な想像力のつながりについては説明されなかったのだが、おそらくそれは井筒のテクストを多少読んでいればほとんど自明だからなのかもしれない。というわけで、この点についてもすこし補足しておこう。

 ぼくの考えをいうと、「大東亜共栄圏」のような発想に直結しうるという井筒の危うさについては、かつて大川周明と仕事をしていたという事実もさることながら、やはり彼のいう「東洋」の概念にこそ最大の原因がある。

 井筒の主著『意識と本質』の副題が「精神的東洋をもとめて」となっていることからもわかるように、井筒にとって東洋とは精神的なものであって、地理的な領域とは関係がない。すこし長くなるが、井筒はつぎのように語っている。


徹底的に訓練して[…]深い意識の層の鏡に映ってくるような実在の形態、そのあり方を探究していく[…]むしろ主体的にそれのなかにとけ込んで、それのなかで生きていく、そういうことを許すような哲学的伝統[…]それがぼくにとっての「東洋」なんです。そうなると結局、西はスペインのグラナダまで行ってしまうんですね。それどころか、グラナダから、悪くすればジブラルタル海峡をこえてもっと向こうへもいきかねない。それからいわゆるアラブ国家、アラブ文化圏とインド、トルコ、ユダヤ、それからペルシャ、そして中国、チベット、日本などが全部一つになって、それが精神の黎明の場所みたいな感じにぼくの心には映ってくる[…]だからあくまで私の東洋・・・・であってふつうの地理的な東洋ということじゃないんですね★8(強調は原文)


 すでに説明したような、意識と存在の展開をそれぞれの分節プロセスとしてとらえつつ、無限の力動性によって規定される「ゼロ・ポイント」においてふたつのプロセスが統合されるという形而上学的な思考のパターン(つまり「東洋哲学の共時的構造」)を、ときに実践をつうじて形成すること。端的にいえば、これが彼にとっての「東洋」の条件である。そして引用箇所からはもちろん、『意識と本質』のなかでもフランスの詩人・マラルメの「修道」と宋学の実践を類似の構図で語っていることからもわかるように、彼のいう「東洋」はあきらかにヨーロッパへ入り込んでいる。
 とすると、身も蓋もないことをいえば、このような思考の形式をもつすぐれた思想家が誕生しさえすれば、たとえアジアだろうが中東だろうがヨーロッパだろうが、どこでも「精神的東洋」になる資格を得てしまうのである。つまり井筒のいう「精神」的な立場をつきつめると、地球上の、いやもしかすると全宇宙のあらゆる場所が「東洋」になる可能性を秘めてしまうのだ。

 もちろん、これはかなりおおげさな物言いであって、じっさいにはそのようなことはなかった。とはいえ、もはや「東洋」のなかにヨーロッパまで取りこみつつあった井筒が、そこから「東洋」をより拡大しようとしなかったのは、結局のところ、歴史的な偶然としてほかの地域に同様の傾向をもつ有力な思想家をみいだせなかったからでしかないように思われる。

 



 安藤や中島が警戒していたのは、おそらくこのような想像力である。しかし、ふたりはそれでもこのような政治的な危うさからけっして目を背けてはならないという。というのは、やはり西田であれ大拙や井筒であれ、こうした危うさは彼らの思想の核心と一体になっているからだ。

 


地域性を思弁する



 後半の質疑応答では、今回と前回の2度の対談の企画者として、ぼくもいくつか質問をさせていただき、議論に参加することになった。そこでは、西田や大拙、井筒などの仕事のなかで実践(あるいは修行)や文体がもつ意味をめぐって興味深い論点がいくつもでてきたのだが、その詳細については動画のアーカイブをみていただくとしよう。ここでは、『ゲンロン』読者にはおなじみ香港の哲学者ユク・ホイの翻訳者として、さきほどの大地性と精神性の問題にかるく応答して終わりにしたい。

 大拙をつうじて中島が語ったのは、大地に根差した思考を普遍化しつつ考えることである。ぼくには、これはユク・ホイの「地域性を思弁する speculating the locality」という言葉とかなり近いことをいっているように思われる。これはユク・ホイがロシアのアレクサンドル・ドゥーギンとの対談のなかで用いた言葉で、地域性や特殊性をパワフルに肯定していたドゥーギンをかわすようなかたちで提示されたものだ★9

 テクノロジーによって加速度的に均質化する現代世界のなかで、あえて技術多様性をめざすユク・ホイにとって、それぞれの地域がもっていた自然論や宇宙論の差異はきわめて重要である。というのも、あらゆる技術は、つねにその背後で自然観や宇宙論にささえられているからだ。このような技術のありかたをとくに強調する概念が宇宙技芸 cosmotechnics である。

 そのため、技術多様性をめざす試みは、つねに宇宙論の多様性の探究と並行して進められる。それが中国の伝統的な宇宙論や技術的思考を例に展開されたのが『中国における技術への問い』だ(邦訳は仲山ひふみと伊勢の共訳でゲンロンより刊行予定)。とはいえ、地域性とその伝統について考えることは、つねに安易な伝統回帰や特殊性の肯定に傾くリスクがある。


いま一度地域性について語りたいのなら、それがもはや隔離された地域性——自主的に鎖国し、グローバルな時間軸から分断され、あるいは遠くはなれていた日本や中国のような——ではないことを認めなければならない[…]ローカルなものは、グローバルなものの対極に位置づけられてはいけないのである。さもないと、ローカルなものはある種の「保守革命」に敗れるか、〔京都学派のような〕形而上学的ファシズムを促進してしまうおそれがあるのだ★10


 地域性への問いは、あるいは大地に根差した思考は、たえず「思弁」によって大地の力から適切な距離を保ちつづけなければならない。ところが、「思弁」がつよすぎると今度は地域性から遊離した「精神的東洋」へと飛翔してしまう。井筒が各地域にきわめて精通していたのはまちがいないとしても、やはり「精神的東洋」という考えが地域性を無効に(すくなくともかなり希薄に)してしまっているのは事実である。そのためぼくたちは、大地性と精神性のあいだを往復しつづけなければならないのだ。
 そうするには、伝統的なものに目を向けながら、しかもただそれを肯定するのではなく再構築することが必要だ。ユク・ホイはつぎのようにいう。


伝統を再解釈し、それをあらたなエピステーメー・・・・・・・に変させなければ、それ〔あらたな複数の宇宙技芸を発展させ、均質化する世界を変えること〕は不可能である。くわえて、それはまたべつの形式の翻訳を必要とするだろう。つまり、たとえばメタフィジックスを形而上学シンアルシャンシュェと訳したり、テクネーを技術ジィシュと訳したりするような、同義・・にもとづく翻訳ではなく、むしろ差異・・にもとづく翻訳であり、ある転導・・ transduction を引きおこすような翻訳・・である★11(強調は原文)


 東洋の伝統的なものを再構築するためには、ただ単に西洋由来の似た言葉におきかえればよいというわけではない。とはいえ、同義ではなく差異にもとづく翻訳とはどのようなものだろうか。ユク・ホイの仕事はその大きな手がかりをあたえてくれているのだが、まだぼく自身には十分に明白なイメージがない。すくなくとも、今回のイベントで話題になった空海でいえば、彼の言語的な宇宙論を「分節アティキュレーション」や「宇宙的存在エネルギー」、あるいは「シニフィエなきシニフィアン」といった用語におきかえていくのは(一時的な理解と再解釈には役立つだろうが)、やはり根本的には不十分だということになるのだろう。

 繰り返しになるが、ではどうすればよいのか、というのはぼくにはまだわからない。じっさい、だれも信じないかもしれないが、じつはぼくの中華料理エッセイ「料理と宇宙技芸」もまたこのような目標を立てており、ゆくゆくは中華料理という宇宙技芸をささえる思想に「転導」を引きおこさねばと考えているのだ——とはいえそんなことが可能なのか? 課題は尽きない。

 ※こちらの番組はVimeoにて公開中。レンタル(7日間)600円、購入(無期限)1200円でご視聴いただけます。
 URL=https://vimeo.com/ondemand/genron20201023



★1 井筒俊彦『意識の形而上学——「大乗起信論」の哲学』、中央公論社、1993年、47-49頁。

★2 同上、15頁。

★3 吳汝鈞の「純粋力動」については、以下を参照。吳汝鈞《純粹力動現象學》,台灣商務印書館,2005年。および《純粹力動現象學 續篇》,台灣商務印書館,2008年。

★4 安藤礼二、中島隆博「井筒俊彦を読みなおす——新しい東洋哲学のために」、東浩紀編『ゲンロン11』、ゲンロン、2020年、222頁。

★5 井筒「意味分節理論と空海——真言密教の言語哲学的可能性を探る——」、『意味の深みへ』、岩波文庫、2019年、305頁。

★6 中島隆博『思想としての言語』、岩波書店、2017年、209−215頁。

★7 中島は、『思想としての言語』の第5章などでも「大地性」にかんする議論を展開している。なお、この大地性について考えるにあたって、『ゲンロン』の読者は「第四の政治理論」にかんするアレクサンドル・ドゥーギンの論考と、東浩紀によるオレグ・アロンソンとエレーナ・ペトロフスカヤへのインタビューを見返すとよいだろう。そこでドゥーギンは「エトノス」の概念を導入し、ペトロフスカヤはジジェクを評しながら「クトン的なもの」というキーワードを語っている。これは大地の力にしばられているものを意味しているという。ドゥーギン「第四の政治理論の構築にむけて」、乗松享平訳、東浩紀編『ゲンロン6 ロシア現代思想Ⅰ』、ゲンロン、2017年、104頁および、アロンソン、ペトロフスカヤ「レーニン、収容所、ポストモダニズム」、上田洋子訳、東編『ゲンロン8 ゲームの時代』、ゲンロン、2018年、233-234頁。

★8 井筒『叡知の台座』、岩波書店、1986年、77-78頁。

★9 ドゥーギンとユク・ホイの対談の音声(英語)は、以下から聴取できる。"Technical Issues with Yuk Hui and Aleksandr Dugin," Sreda, June 24, 2020. URL=https://podcastaddict.com/episode/109100697 (2020年10月25日聴取)

★10 Yuk Hui, The Question Concerning Technology in China: An Essay in Cosmotechnics, Urbanomic, 2016, p. 307.

★11 Ibid., 310.

伊勢康平

1995年生。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。専門は中国近現代の思想など。著作に「ユク・ホイと地域性の問題——ホー・ツーニェンの『虎』から考える」(『ゲンロン13』)ほか、翻訳にユク・ホイ『中国における技術への問い』(ゲンロン)、王暁明「ふたつの『改革』とその文化的含意」(『現代中国』2019年号所収)ほか。
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