タイ現代文学ノート(4) タイ文学の<ruby>新世代<rt>ルン・マイ</rt></ruby>|福冨渉
初出:2017年9月15日刊行『ゲンロン6』
2016年7月17日、バンコクの現代美術館、バンコク・アート&カルチャー・センター(BACC)において、「タイ現代文学における新世代作家の声色」と題されたセミナーが開催された。登壇者は4人。作家チラーポーン・ウィワー[★1]、チラット・プラスートサップ[★2]、カナートーン・カーオサニット[★3]、そして司会を務める作家、コメディアンのカタンユー・サワーンシー[★4]だ。みな1980年代生まれの作家で、これまで本コラムで紹介してきた作家たちよりも1世代若い[★5]。
セミナーでは、カタンユーが投げかける質問を出発点に、彼ら「新世代」の作家たちがその活動を始めるに至った経緯や動機、創作と批評の関係、文学賞の意義などが語られた。それぞれの作家の個人的なエピソードを聞くという点では興味深かったが、それ以外の回答は、当たり障りのないものが多い印象だった。だが彼らの回答には、この世代の若手作家たちが共有する心情のようなものが見え隠れしていた。
そもそも、タイ文学の中で「新世代 รุ่นใหม่」という言葉が象徴的に用いられるのは、現代が初めてではない。文学史においてその潮流に変化が起きるたびに、そのつど「新世代」という言葉が作家たちに冠されてきたからだ。その中でも特筆すべきは、1970年代と、2000年代の初頭に現れた、2つの「新世代」作家たちだろう[★6]。
1950年代、プレーク・ピブーンソンクラーム政権下のタイ政府はアメリカ政府に賛同し、反共政策を取る。また同政権によって施行された印刷法などの影響で、表現の自由が制限された[★7]。一方、戦後のタイは開発と発展の時代を迎えており、社会的格差の広がりが顕著になっていた。
この時代にスパー・シリマーノン[★8]を主幹にもつ評論誌『アックソーンサーン อักษรสาส์น』や、そこに論考を掲載していたアッサニー・ポンラチャン[★9]、チット・プーミサック[★10]らが「生きるための芸術 ศิลปะเพื่อชีวิต」の思想を主張した。やがてその思想は「生きるための文学 วรรณกรรมเพื่อชีวิต」に形を変え、文学者たちのあいだにも浸透していった。その思想とは、すなわち、作家たちは虐げられた弱き人々の声を代弁し、政治的・社会的課題を作中に反映させ、批評をおこない、さらには理想的な政治と社会のあり方を提示する存在として作品を生み出し、時にそういった人々を導く知識人としての役割を担うべきだ、というものであった。
その後のサリット・タナラット首相による独裁時代(1958‐1963)とその直後の時代は「暗黒時代 ยุคมืด」とも「静寂の時代 ยุคสมัยแห่งความเงียบ/ยุคของความเงียบ」とも呼ばれ、厳しい弾圧と言論統制により、作家たちの自由な活動が制限された。
だが1970年代にかけて民主化運動の波がうねると、「生きるための文学」は再び力をもつようになる。大学生を中心とする若者たちがグループを結成し、文芸誌や評論誌を出版するようになった。学生活動家・民主化運動家たちの行動が先鋭化し、共産主義運動と結びつくにつれて、「生きるための文学」作品が再版・再読されるようになり、そのスタイルを踏襲した作品が新たに生み出された。そのような作品を発表する作家たちは、タイ文学における「新世代」と呼ばれるようになった。これが最初の「新世代」といえる。
セミナーでは、カタンユーが投げかける質問を出発点に、彼ら「新世代」の作家たちがその活動を始めるに至った経緯や動機、創作と批評の関係、文学賞の意義などが語られた。それぞれの作家の個人的なエピソードを聞くという点では興味深かったが、それ以外の回答は、当たり障りのないものが多い印象だった。だが彼らの回答には、この世代の若手作家たちが共有する心情のようなものが見え隠れしていた。
そもそも、タイ文学の中で「新世代 รุ่นใหม่」という言葉が象徴的に用いられるのは、現代が初めてではない。文学史においてその潮流に変化が起きるたびに、そのつど「新世代」という言葉が作家たちに冠されてきたからだ。その中でも特筆すべきは、1970年代と、2000年代の初頭に現れた、2つの「新世代」作家たちだろう[★6]。
1950年代、プレーク・ピブーンソンクラーム政権下のタイ政府はアメリカ政府に賛同し、反共政策を取る。また同政権によって施行された印刷法などの影響で、表現の自由が制限された[★7]。一方、戦後のタイは開発と発展の時代を迎えており、社会的格差の広がりが顕著になっていた。
この時代にスパー・シリマーノン[★8]を主幹にもつ評論誌『アックソーンサーン อักษรสาส์น』や、そこに論考を掲載していたアッサニー・ポンラチャン[★9]、チット・プーミサック[★10]らが「生きるための芸術 ศิลปะเพื่อชีวิต」の思想を主張した。やがてその思想は「生きるための文学 วรรณกรรมเพื่อชีวิต」に形を変え、文学者たちのあいだにも浸透していった。その思想とは、すなわち、作家たちは虐げられた弱き人々の声を代弁し、政治的・社会的課題を作中に反映させ、批評をおこない、さらには理想的な政治と社会のあり方を提示する存在として作品を生み出し、時にそういった人々を導く知識人としての役割を担うべきだ、というものであった。
その後のサリット・タナラット首相による独裁時代(1958‐1963)とその直後の時代は「暗黒時代 ยุคมืด」とも「静寂の時代 ยุคสมัยแห่งความเงียบ/ยุคของความเงียบ」とも呼ばれ、厳しい弾圧と言論統制により、作家たちの自由な活動が制限された。
だが1970年代にかけて民主化運動の波がうねると、「生きるための文学」は再び力をもつようになる。大学生を中心とする若者たちがグループを結成し、文芸誌や評論誌を出版するようになった。学生活動家・民主化運動家たちの行動が先鋭化し、共産主義運動と結びつくにつれて、「生きるための文学」作品が再版・再読されるようになり、そのスタイルを踏襲した作品が新たに生み出された。そのような作品を発表する作家たちは、タイ文学における「新世代」と呼ばれるようになった。これが最初の「新世代」といえる。
とはいえ、多くの作品の基本的なテーマ、プロット、形式は、それまでの世代のものとの差が見られなかった。タイにおける社会主義リアリズムとも呼ばれた旧世代からの表現形式を援用し、その中で語られるのは農村あるいはそれ以外に暮らす、虐げられた貧しい人々の苦難と、権力者たちの横暴であった。十分な形式的発展が見られないまま思想・内容が先行することで、不完全とみなされる作品も多く発表された。その後、1976年の10月6日事件[★11]を経てタイにおける共産主義運動が瓦解に向かうと、「生きるための文学」もその力を失うことになる。
1970年代の後半にかけて「生きるための文学」の影響力が弱まるのに前後して、作家たちのあいだで文学を再定義しようという試みが見られるようになった。先の「新世代」の一人とみなされていた作家・編集者のスチャート・サワッシー[★12]らを中心に、文学を「創造的な著作 งานเขียนสร้างสรรค์」として定義する動きが生まれた。ここでスチャートが試みたのは、「創造者」としての作家を独立した「個人」である主体としてあらゆる社会的責務から切り離し、芸術的価値をもった文学作品を「創造」するための存在として定義することだった。
この「創造的」という言葉がさらに存在感を増すのは、1979年の「東南アジア文学賞」の創設によってだ。そのタイ語名を「アセアン最高の創造的な文学賞 รางวัลวรรณกรรมสร้างสรรค์ยอดเยี่ยมแห่งอาเซียน」というこの文学賞の功罪については稿を改めて記すことにするが、この「創造的な文学」という曖昧で開かれた言葉は、その後のタイ文学に大きな影響を与えた。
「生きるための文学」から「創造的な文学」へのパラダイムの転換は、文学における思想の「社会主義」から「個人主義」あるいは「実存主義」への変化だとして語られることも多い。形式的には、これまでリアリズム一辺倒だったタイ文学の中に、象徴と実験、あるいは「意識の流れ」が導入され、文学的な多様性が生まれることになる。この変化を象徴する作家チャート・コープチッティ[★13]が1981年に発表した長編小説『裁き คำพิพากษา』に描いたのは、単なる社会的苦境や階級闘争ではなく、共同体の中で孤立する主人公の、内面的な意識の動きやその葛藤だった。だがこの段階ではいまだ、多くの作家が「生きるための文学」の桎梏から逃れきれずにいた[★14]。
その変化がより顕著なものになるのは、20世紀も末のことだ。海外資本の大規模な流入が起きて、タイ国全体の金融・経済システムが変化する。市場経済が出版界の動向に大きく影響を与えるようになり、出版における「冒険」が難しくなる。さらに1997年のアジア通貨危機によって、文学を含むタイの出版業界は大きな打撃を受けることになった。
本コラムの第2回でも触れたように、この時代的状況は作家たちがそれまでとは異なる思想・方法を用いて活動していくための基礎となった。少部数印刷の「手作り本 หนังสือทำมือ」が出版されるようになったり、若い作家たちが集って同人・ミニコミ的な文芸誌や評論誌を出版するようになったり、新たな作家コミュニティ・作家集団が形成されるようになる。
たとえば、前述のスチャート・サワッシーが主宰していた文芸誌『花環 ช่อการะเกด』が通貨危機のあおりを受け閉刊すると、『花環』に作品を発表していた若手作家たちが、オムニバス短編集『草地 สนามหญ้า』を発行した[★15]。それが2000年のことだ。
1970年代の後半にかけて「生きるための文学」の影響力が弱まるのに前後して、作家たちのあいだで文学を再定義しようという試みが見られるようになった。先の「新世代」の一人とみなされていた作家・編集者のスチャート・サワッシー[★12]らを中心に、文学を「創造的な著作 งานเขียนสร้างสรรค์」として定義する動きが生まれた。ここでスチャートが試みたのは、「創造者」としての作家を独立した「個人」である主体としてあらゆる社会的責務から切り離し、芸術的価値をもった文学作品を「創造」するための存在として定義することだった。
この「創造的」という言葉がさらに存在感を増すのは、1979年の「東南アジア文学賞」の創設によってだ。そのタイ語名を「アセアン最高の創造的な文学賞 รางวัลวรรณกรรมสร้างสรรค์ยอดเยี่ยมแห่งอาเซียน」というこの文学賞の功罪については稿を改めて記すことにするが、この「創造的な文学」という曖昧で開かれた言葉は、その後のタイ文学に大きな影響を与えた。
「生きるための文学」から「創造的な文学」へのパラダイムの転換は、文学における思想の「社会主義」から「個人主義」あるいは「実存主義」への変化だとして語られることも多い。形式的には、これまでリアリズム一辺倒だったタイ文学の中に、象徴と実験、あるいは「意識の流れ」が導入され、文学的な多様性が生まれることになる。この変化を象徴する作家チャート・コープチッティ[★13]が1981年に発表した長編小説『裁き คำพิพากษา』に描いたのは、単なる社会的苦境や階級闘争ではなく、共同体の中で孤立する主人公の、内面的な意識の動きやその葛藤だった。だがこの段階ではいまだ、多くの作家が「生きるための文学」の桎梏から逃れきれずにいた[★14]。
その変化がより顕著なものになるのは、20世紀も末のことだ。海外資本の大規模な流入が起きて、タイ国全体の金融・経済システムが変化する。市場経済が出版界の動向に大きく影響を与えるようになり、出版における「冒険」が難しくなる。さらに1997年のアジア通貨危機によって、文学を含むタイの出版業界は大きな打撃を受けることになった。
本コラムの第2回でも触れたように、この時代的状況は作家たちがそれまでとは異なる思想・方法を用いて活動していくための基礎となった。少部数印刷の「手作り本 หนังสือทำมือ」が出版されるようになったり、若い作家たちが集って同人・ミニコミ的な文芸誌や評論誌を出版するようになったり、新たな作家コミュニティ・作家集団が形成されるようになる。
たとえば、前述のスチャート・サワッシーが主宰していた文芸誌『花環 ช่อการะเกด』が通貨危機のあおりを受け閉刊すると、『花環』に作品を発表していた若手作家たちが、オムニバス短編集『草地 สนามหญ้า』を発行した[★15]。それが2000年のことだ。
先述のように、1970年代の「新世代」の時代にも作家集団や文芸グループ、それらの集団が発行する文芸誌などは存在していた。だが、先の時代の作家たちの活動と、1990年代末から2000年代初頭にかけての作家たちの活動を分けるのは、共有された大きな理念や理想の有無だ。前者が「民主主義」を旗印として活動したり、社会を導く知識人としての役割を担って評論活動をおこなったりしたのとは対照的に、後者の作家たちの活動には、集団としての確固たる目的などは存在しなかった。彼らは自らを、あくまでひとりひとりの個人が集まった姿であるととらえていた。前述の『草地』創刊号の巻頭言に、その特徴が表れている。
この巻頭言では、『草地』に参加した作家たちが、自らを「新世代」の作家であるとみなしている。この時代になってようやく、タイ文学は「生きるための文学」の影響を脱したといえるのかもしれない。
それに呼応するかのように(新しい)「新世代」作家の登場が宣言されたのが、2002年の東南アジア文学賞における、プラープダー・ユンの短編集『可能性 ความน่าจะเป็น』の受賞告知文だった。当該作品は「新世代の思想を代弁するもの」[★17]と称され、彼の作品はポストモダンのタイ文学であり、新世代の個人を描くタイ文学であるとしたプラープダー・ブームが起きたことは、筆者が本誌でかつて述べた通りだ[★18]。
新世代の作家たちもまた「個人」性をもっていると見られている。それぞれの作家がそれぞれに活動し、集おうとしないと。[……]彼らが集ったのはただ一つの「本当の」理由からだ。それは、話が通じるということだ! それ以上はなにもない……[……]今後「なにが――どのような」現象が起きるかということに関して、彼らは考えたこともなく――考えることに興味もないということは、確実だ。[★16]
この巻頭言では、『草地』に参加した作家たちが、自らを「新世代」の作家であるとみなしている。この時代になってようやく、タイ文学は「生きるための文学」の影響を脱したといえるのかもしれない。
それに呼応するかのように(新しい)「新世代」作家の登場が宣言されたのが、2002年の東南アジア文学賞における、プラープダー・ユンの短編集『可能性 ความน่าจะเป็น』の受賞告知文だった。当該作品は「新世代の思想を代弁するもの」[★17]と称され、彼の作品はポストモダンのタイ文学であり、新世代の個人を描くタイ文学であるとしたプラープダー・ブームが起きたことは、筆者が本誌でかつて述べた通りだ[★18]。
こうして見てみると、タイ文学における主題が「政治」と「個人」のあいだで変化するのに従って、それぞれの時代に「新世代」と呼ばれる作家が現れていることがわかる。それでは、21世紀の政治動乱の中で、タイ文学が再び「政治」を描くことを余儀なくされている中、冒頭に挙げた「新世代」の作家たちは、どのような思想をもっているのだろうか。
これはあくまでセミナーで彼らが質問に対して返す回答を聞いた上での推察に過ぎないが、彼ら「新世代」の作家たちは、自らの人生やそれを取り巻く社会に対して、無関心で無気力、ある種の「諦念」ともいえる境地に達してしまっているかのように見えた。それはもしかすると、多感な年齢の、作家としての歩を踏み出すか踏み出さないかの時期に、激しい政治の季節を経験してしまった反動なのかもしれない。だがその一方で、内面的には強い「野心」をもっているようにも見えた。それは単なる個人主義というよりも、自らの文学という仕事に対する自尊心に近い。その「諦念」と「野心」の衝突、二項対立が、この世代の作家たちの特色と呼べるのかもしれない。
これはあくまでセミナーで彼らが質問に対して返す回答を聞いた上での推察に過ぎないが、彼ら「新世代」の作家たちは、自らの人生やそれを取り巻く社会に対して、無関心で無気力、ある種の「諦念」ともいえる境地に達してしまっているかのように見えた。それはもしかすると、多感な年齢の、作家としての歩を踏み出すか踏み出さないかの時期に、激しい政治の季節を経験してしまった反動なのかもしれない。だがその一方で、内面的には強い「野心」をもっているようにも見えた。それは単なる個人主義というよりも、自らの文学という仕事に対する自尊心に近い。その「諦念」と「野心」の衝突、二項対立が、この世代の作家たちの特色と呼べるのかもしれない。
彼らの作品を読んでみれば、たとえば「猫」の女性作家と、「フラミンゴ」の青年実業家が、とある「秘密」をめぐって契約を交わす、チラーポーンの長編小説『フラミンゴ条約 สนธิสัญญาฟลามิงโก』[★19]や、大学院の修了制作で「音の博物館」を作ろうとする若者たちの青春群像である、チラットの『音の博物館 พิพิธภัณฑ์เสียง』[★20]などにも、そういった特色をうかがうことができる。
登場人物たちは、一見、自身に降りかかるさまざまな問題を解決しようと積極的に立ち向かっていくように見える。そこには自分自身の「プライド」が存在するからだ。だが、ひとたびその問題が予想外の展開を見せると、途端にその積極性は失われ、彼らはその問題と向き合うことをやめる。二項対立が昇華されずに、「諦念」がその「野心」に打ち勝ってしまうのだ。そこに残されるのは、無力感や、単なる現状肯定の感情だ。
これは、「政治」の時代に、その上の世代の作家たちが試みている文学的模索や、「新世代」という言葉がもつ希望に満ちたニュアンスと比較しても、いささか勢いがないように見える。それを単なる世代論に収斂させたくはないが、軍事独裁政権下の閉塞状況においては、避けがたいことなのかもしれない。
『自由という名の悪魔 ปีศาจที่ชื่อว่าเสรีภาพ』という、タイの作家たちへのインタビュー動画集がある。タイの出版社WRITERが2017年2月からフェイスブックにアップを続けているもので、言論弾圧が続き「自由」を失ったタイの状況下における作家たちの考えが提示されている。そこに登場するのは、ほとんどが40〜50代の作家たちだが、前出のチラットへのインタビュー動画もある。そこで彼は、次のようなことを述べている。
21世紀の「新世代」作家たちが、この言葉通りの作品を生み出すには、もう少し時間がかかりそうだ。
これは、「政治」の時代に、その上の世代の作家たちが試みている文学的模索や、「新世代」という言葉がもつ希望に満ちたニュアンスと比較しても、いささか勢いがないように見える。それを単なる世代論に収斂させたくはないが、軍事独裁政権下の閉塞状況においては、避けがたいことなのかもしれない。
『自由という名の悪魔 ปีศาจที่ชื่อว่าเสรีภาพ』という、タイの作家たちへのインタビュー動画集がある。タイの出版社WRITERが2017年2月からフェイスブックにアップを続けているもので、言論弾圧が続き「自由」を失ったタイの状況下における作家たちの考えが提示されている。そこに登場するのは、ほとんどが40〜50代の作家たちだが、前出のチラットへのインタビュー動画もある。そこで彼は、次のようなことを述べている。
芸術的営為に従事する人々、政治活動家たち、学者たち。彼らは自分たちのために活動しているのではない。彼らは道の草刈りをするために、自分たちの子孫のために活動しているのだ。[★21]
21世紀の「新世代」作家たちが、この言葉通りの作品を生み出すには、もう少し時間がかかりそうだ。
写真・書影提供=筆者
新しい目で世界を見るため、内的な旅へ。
ゲンロン叢書|004
『新しい目の旅立ち』プラープダー・ユン 著|福冨渉 訳
¥2,420(税込)|四六判変形・上製|本体256頁|2020/2/5刊行
★1 チラーポーン・ウィワー จิราภรณ์ วิหวา(1982‐)カルチャー誌『a day』の編集部や出版社polkadotで働いた後、フリーの編集者、作家となる。創作作品のほかに、料理に関するエッセイなどを発表している。
★2 チラット・プラスートサップ จิรัฏฐ์ ประเสริฐทรัพย์(1985‐)フリーの翻訳者として生計を立てながら、執筆活動を続けている。2013年の長編『音の博物館』が、2015年の東南アジア文学賞最終候補となり、話題を呼んだ。
★3 カナートーン・カーオサニット ฆนาธร ขาวสนิท(1988‐)カルチャー系のフリーペーパー『ジラフ Giraffe』のチーフ編集者を務めながら執筆を続け、これまでに短編集と長編を1冊ずつ発表している。
★4 カタンユー・サワーンシー กตัญญู สว่างศรี(1986‐)広告代理店などで働きながら短編集を発表していたが、近年は創作から離れ「A Katanyu」と名乗るスタンドアップ・コメディアンとして活動している。
★5 司会のカタンユーを除く3人は、その作品の多くを出版社サーモンブックス Salmonbooks から発行している。サーモンは2011年に設立された出版社で、ライフスタイル、観光、エッセイなど、20代を中心とした若者をターゲットにした書籍を出版している。2014年のタイ・ナショナル・ブックフェアでは、写真家のタナチャート・シリパットラーチャイのニューヨーク滞在記『NEW YORK 1ST TIME』と、ユーチューブにアップされたオリジナルのプロモーション動画がバズり、出版社のブースに若者が殺到した。当該書籍はブックフェアの11日間で15000冊を売り上げ、「サーモン現象」と呼ばれるまでに至った。サーモンはフリーペーパー『ジラフ』の発行や、ウェブマガジン『ザ・マター The MATTER』の運営も手がけるほか、文学作品の発行点数もだんだんと増やしていて、現代タイの若者を惹きつけている。 なお、そのプロモーション動画「BKK 1st Time:タイ人に初めて罵られるの巻 ตอนโดนคนไทยด่าครั้งแรก」のURLは以下。URL= https://www.youtube.com/watch?v=ve0WYVb-4po (2017年6月10日アクセス)。2014年3月に公開され、2017年6月頭時点での再生回数はおよそ400万回。著者のタナチャートが、ニューヨーク出身のアメリカ人大学教員にインタビューし、バンコクでの体験談を語ってもらう、という形式を採っている。英語で話す外国人が、ときおりそこにタイ語の罵倒語を混ぜるという、タイ語と英語を両方理解していないとあまり意味が伝わらない動画ではあるが、興味のある方はご覧いただきたい。
★6 この後に続く記述においてはいくつかの文献を参照したが、中心となったのは以下の5点である。วาด รวี. Fighting Publishers : ประวัติศาสตร์นักทำหนังสือกบฏ (ฉบับใต้ดิน). กรุงเทพฯ : openbooks, 2008. ; เสถียร จันทิมาธร. สายธารวรรณกรรมเพื่อชีวิตของไทย. กรุงเทพฯ : เจ้าพระยา, 1982. ; สรณัฐ ไตลังคะ. เรื่องสั้นไทยแนวคตินิยมสมัยใหม่ พ.ศ. 2507-2516. กรุงเทพฯ : จุฬาลงกรณ์มหาวิทยาลัย, 2007, Ph. D Thesis. ; สายทิพย์ นุกูลกิจ. วรรณกรรมไทยปัจจุบัน. กรุงเทพฯ : เอส. อาร์. พริ้นติ้ง, 2000. ; สุชาติ สวัสดิ์ศรี. “ความเป็นมาและกลุ่มความคิดของเรื่องสั้นไทยสมัยใหม่.” สุชาติ สวัสดิ์ศรี บรรณาธิการ. ถนนสายที่นำไปสู่ความตาย : รวมเรื่องสั้นร่วมสมัยของไทย. กรุงเทพมหานคร : ดวงกมล, 1975, pp. (19)-(47).
★7 同政権下で施行された1941年印刷法では、警察に対して、新聞等の印刷物の内容を検閲し、国家秩序に照らして不適切と判断した場合には、印刷の停止や免許の剥奪を命ずる権限が付与されていた。1952年には作家や知識人を含む人々の一斉取り締まりが実施された。同年には共産主義活動防止法が施行され、共産主義者、およびそれと疑わしき人間への弾圧と厳罰化が進んだ。
★8 スパー・シリマーノン สุภา ศิริมานนท์(1914‐1986)思想家、作家、新聞記者。日中戦争時には戦場記者として活動。第2次世界大戦中、枢軸国側であったタイにおいて「自由タイ運動」と呼ばれる地下抵抗運動に参加し、連合国側の支援をおこなった。自由タイ運動の存在は、大戦後のタイが主権を維持する上で、大きな意義をもった。戦後『資本論』のタイ語訳を発表し、タイにおけるマルクス主義、社会主義思想の伝播に大きな役割を果たした。多くの雑誌の編集者を務め、文芸評論も多数発表している。
★9 アッサニー・ポンラチャン อัศนี พลจันทร(1918‐1987)詩人、批評家。大学在学中からナーイ・ピー นายผี をはじめとするいくつかのペンネームで数多くの詩を発表し、さらにタイ古典文学における権威主義的傾向を批判する論考を多く記した。大学卒業後は検察官として官職に就いていたが、その後離職。タイ国共産党に参加していた彼は、タイ政府の反共政策が続く中、ベトナムや中国に亡命し、最終的にはラオスで客死した。岩城雄次郎編訳『タイ現代詩選』(大同生命国際文化基金、1994年)などに邦訳詩篇が収録されている。
★10 チット・プーミサック จิตร ภูมิศักดิ์(1930‐1966)文学者、思想家。チュラロンコーン大学在学中から詩や論文を発表し、体制批判をおこなう。タイの大学で初めて、国王からの卒業証書授与を拒否したといわれている。詩作にとどまらず、語源学、歴史学においても多くの業績を残し、当時のタイ政府による公的史観と真っ向から対立した。タイ東北部においてタイ国共産党のゲリラ活動に参加中、政府軍に射殺される。35歳という若さでの死はそのヒロイックなイメージを作り上げ、1970年代の学生運動の際には英雄として祭り上げられた。邦訳に荘司和子編訳『ジット・プミサク─戦闘的タイ詩人の肖像』(鹿砦社、1980年)など。
★11 1976年10月6日、左派学生・活動家の団体と、右派団体・警察がタマサート大学構内で衝突した。学生・活動家の側に多くの死傷者が出て、同日には治安維持の名目で軍がクーデターに及んだ。その後、共産主義者への弾圧が強化されることになった。
★12 スチャート・サワッシー สุชาติ สวัสดิ์ศรี(1945‐)作家、評論家、編集者、画家。評論誌『社会科学評論 สังคมศาสตร์ปริทัศน์』や文芸誌『本の世界 โลกหนังสือ』など、数多くの雑誌の編集長を務めた。サルトルやカミュなどの作品をタイに紹介し、1970年代以降のタイ文学における実存主義思想の流行に影響を与えた。1970年代後半から2000年代初頭にかけて、自身の主宰する文芸誌『本の世界』や『花環』などで、「作品を募集し、賞と賞金を与え、雑誌に掲載する」という若手作家育成のプロセスを定着させた。現在でも、彼の関わった文芸誌出身の作家が、数多く活動している。
★13 チャート・コープチッティ ชาติ กอบจิตติ(1954‐)。作家。1970年代から精力的に活動を続け、多くの作品を発表しており、現在もファンが多い。父の死後、父が娶っていた白痴の女と同居することになった青年が、自身の属す共同体の中で孤立していく長編『裁き』(1981年発表。邦訳あり。チャート・コープチッティ『裁き』、星野龍夫訳、井村文化事業社、1987年)と、養老院の日常を描く「退屈」な学生演劇を鑑賞する映画監督の物語が、演劇的視点・映画的視点の混淆した独特の手法で描かれる長編『時 เวลา』(1993年発表。邦訳あり。チャート・コープチッティ『時』、岩城雄次郎訳、大同生命国際文化基金、2003年)で、2度の東南アジア文学賞を受賞した。
★14 この時代、作家たちにより「生きるための文学」の検証がなされるのと同時に、「生きるための文学」を旧時代に存在した一つの理想像とみなす作家たちも現れた。「読者の感情」や「文芸的価値」に重きを置く作品が増えた一方で「作品の主題は、いまだに抑圧者と被抑圧者の対立に置かれていた」と指摘する研究者もいる。พิเชฐ แสงทอง. “ประวัติศาสตร์และพัฒนาการของนักเขียนใต้.” คลื่นทะเลใต้. ปทุมธานี : นาคร, 2005, pp. 234-278.などを参照。
★15 ここには全部で23人の若手作家が短編を寄稿しているが、その発行費用は寄稿、あるいは賛同した作家たちからの寄付に頼っており、同人誌的性格が強かったといえよう。
★16 “กว่าจะมาเป็น “สนามหญ้า”.” สนามหญ้า. กรุงเทพฯ : ก่อการดี, 2000, pp. 12-13.
★17 “คำประกาศของคณะกรรมการตัดสินรางวัลซีไรต์ประจำปี 2545.” ปราบดา หยุ่น. ความน่าจะเป็น. กรุงเทพฯ : สุดสัปดาห์สำนักพิมพ์, 2005, p. (178).
★18 福冨渉「タイ現代文学ノート #1」、『ゲンロン3』、ゲンロン、2016年。
★19 จิราภรณ์ วิหวา. สนธิสัญญาฟลามิงโก. กรุงเทพฯ : Salmonbooks, 2016.
★20 จิรัฏฐ์ ประเสริฐทรัพย์. พิพิธภัณฑ์เสียง. กรุงเทพฯ : Salmonbooks, 2013.
★21 「自由という名の悪魔 第6章(パート2) ปีศาจที่ชื่อว่าเสรีภาพ ตอนที่ 6 (Part2)」 URL= https://www.facebook.com/writerthailand/videos/1312449752166572/(2017年6月11日アクセス)
福冨渉
1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、Prapt『The Miracle of Teddy Bear』(U-NEXT)など。 撮影=相馬ミナ