タイ現代文学ノート(2) バンコクの独立系書店|福冨渉

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初出:2016年11月15日刊行『ゲンロン4』

 2016年7月16日、前日から開催されていたバンコク・ブックフェスティバル2016(BBF2016)★1の2日目。この日の目玉は太宰治『人間失格』タイ語版の出版イベントだ。登壇者は3名。評論家・翻訳者で、同書の版元である出版社JLITのアット・ブンナーク★2、翻訳者のポーンピルン・キッチャソムチェート★3、司会の作家ウティット・ヘーマムーンだ。紀伊國屋など大手書店への納品分が即座に売り切れ、追加注文が入っている驚きを、アットは「タイの社会で太宰が受け入れられるのは、食い扶持を稼げるようになった中間層が増えた証左だ」との指摘とともに表明していた。

 会場はバンコクの現代美術館バンコク・アート&カルチャー・センター(BACC)の4階、独立系書店ブックモービー・リーダーズ・カフェ。アットによると、出版社JLITのフェイスブックページに「いいね!」を押しているアカウントの多くは「アニメ画像をプロフィール写真に使っているオタク」だそうだ。イベント中のブックモービーの店内を見渡してみる。狭い店内に用意された20かそこらの座席数ではまったく足りず、聴衆が店の外の通路まで溢れている。彼ら彼女らが実際に「オタク」なのかどうかは置いておくとしても、その若さに目が行く。多くが10代か20代の若者で、それ以上の年代の人々も散見されるが、決して多くはない。

 同日の同会場、少し早い時間に開催されていたミラン・クンデラ『生は彼方に』タイ語版の出版イベントも同様であった。店内から溢れる聴衆。こちらは10代とまでは行かないが、20代、30代に見える客層。イベントの様子に耳を傾けていると、決してクンデラのファンが集っているわけではないことがわかる。同書の版元である出版社ガンマイー★4には、固定ファンも多い。だがそれよりも、「面白そうな本が出たそうだから、ちょっと読んでみよう、話を聞いてみよう」という好奇心や熱意を持った読者が集まっている様子がうかがえる。

 「タイ人の読書量は年間7行だ、8行だ」という絶望的な言説が飛び交いもするタイの出版界であるが★5、これらのイベントの様子は、少なくともバンコクにおける潜在的読者層の存在を示している。『人間失格』にしろ、クンデラにしろ(もちろんタイの書籍にしろ)、コンテンツの質と多様性が読者を惹きつけていることに疑いの余地はない。また、今回のブックフェスティバルで開催されたイベントのほとんどが独立系書店ブックモービーで開催され、そこに読者が集まっていたという事実を勘案すると、これらのイベントは、現代タイにおける知的交流のプラットフォームとしての独立系書店の意義を考える好機でもあった。

 



 タイ近代文学の黎明期は、1932年に起きた立憲革命の前後であるとされる。シーブーラパー★6らが作家集団を結成して文芸誌を発行したような、知識人としての作家の活動は、現代まで受け継がれている★7。だが、この時代を語る際に言及されるのは、作品そのものや、作家たち自身の活動や、メディアとしての文芸誌が主で、「場」としての書店が注目されることは少ない。タイの文学史において書店の存在が意義を増すのは、そこからおよそ30年以上経った1970年前後のことだ。
 筆頭として挙げられるのは、1967年に開業した書店スックシット・サヤーム ศึกษิตสยามだ。「教養あるシャム(タイ)」とでも訳せる店名を持つこの書店は、当時のタイを代表する在野の知識人スラック・シワラック★8によって開かれた。1963年に創刊した評論誌『社会科学評論サンコマサート・パリタット สังคมศาสตร์ปริทัศน์』の編集長を務めていたスラックは、右と左、保守と急進の垣根を飛び越え、この時代のタイの言論空間において大きなプレゼンスを発揮していた。またスックシット・サヤームは、タイ最古の国立大学チュラーロンコーン大学に隣接する土地に建てられていた。さらにこの時代は、軍部による開発独裁と、ベトナム戦争における米軍の補給基地として使用されたことによる「アメリカ化」、そして70年代の民主化運動へと至る時代のうねりの中にあった。強い中心人物と環境、そして時代背景の整ったこの書店では「スックシット・セミナー」が定期的に開催され、学生や知識人、学者、作家たちの集う拠点として重要な役割を担っていた★9

 その後、80年代から2000年代にかけて状況が変わる★10。タイの経済成長と1997年のアジア通貨危機に前後して、書店経営は「ビジネス」としての側面を強く持ちはじめ、読者は「消費者」として認識されるようになる。小中規模書店や出版社は、経済危機のあおりを受けて倒産や規模の縮小を余儀なくされた。それと対照的に、大手出版社が経営する書店チェーンはその規模を拡大していった。代表的なものとしてはシーエット・ブックセンター★11や、ナーイ・イン★12が挙げられる。これらの書店は、タイ全土に拡大していくデパートやショッピングモールのテナントとして支店の数を増やしていった。デパートのテナントという限られたスペースの中に、自社の発行物ばかりを店頭に並べるチェーンストアの台頭により、文芸書や小規模出版社の書籍は、書店の陰、倉庫の隅に追いやられることとなった。

 2000年以降、その閉塞した状況から抜け出すべく、作家たちや小規模出版社の活動が盛んになる★13。例えば作家ニワット・プッタプラサート★14らを中心に発行された文芸誌『草地サナーム・ヤー สนามหญ้า』『aw(オルタナティヴ・ライターズ)』と、そこから派生した出版社ポーキュパイン・ブック、あるいは出版社地下本ナンスー・タイディン หนังสือใต้ดินと、同社が発行した批評誌『Underground Buleteen』などが、若手作家や知識人コミュニティの中心として機能するようになった。

 彼らの出版する書籍の販売経路はふたつあった。ひとつは、年に数度、タイの各地で開催されるブックフェアでのブース出展★15。もうひとつが「独立系書店」とも呼ばれる小規模書店だ。時期を同じくして、チェーンストア傘下ではないこれらの書店は数を増していった。独立系書店では、店主の嗜好がそのまま店のアイデンティティになる。そこに、新世代の作家たちの著作物などが並ぶ。その多様性が、画一化されたチェーンストアの品揃えに飽きを覚えた読者層の欲求に応えることになった。

 初めは単にチェーンストアに対するもうひとつの選択肢、という位置づけだった独立系書店は、2000年代後半にやって来る政治と社会変動の季節を経て、人々が実際に集まる知的交流の場としての意味合いも持つようになる。2013年からは年に1度「独立系書店週間」というイベントが全国の独立系書店で開催されるようになり、その存在感は大きくなる一方だ。

 だが、すべての書店がかつてのスックシット・サヤームのような役割を担っているわけではない。ブームに乗って雨後の筍のように現れる独立系書店の中には、その品揃えの面でも、活動の面でも特に他店と差異化が図られているわけでもない、単なるオシャレなブックカフェとなっているところも少なくない(無論それが悪い、というわけではないが)。特に書店の数が多いバンコクとその近郊では、その状況が顕著だ。
 最後に、書店として、また知的交流の拠点として注目に値する、バンコクの独立系書店をいくつか紹介する。


1 Bookmoby Readers’ Café(บุ๊คโมบี้ รีดเดอร์ส คาเฟ่)


冒頭にも紹介した独立系書店。作家のプラープダー・ユンが共同経営者のひとり。元々は2012年に同名のウェブサイトがオープンしたのが始まりで、書店は2013年に開店。バンコク都心の現代美術館BACCの中にあり、BACCと共同でイベントを開催することも多い。前述のBBF以外にも、毎年数多くの作家を講師に迎えて開催される作家志望者のためのワークショップなどが興味深い。品揃えは文学(タイ・海外)および、哲学・歴史などの人文系が主。

BBF会期中に、Bookmoby Readers’ Caféでは多くのトークイベントが開催された 撮影=筆者



2 Candide Books(ร้านหนังสือก็องดิด)


出版社の編集長でもあるドゥアンルタイ・エーサナーチャータンが経営する書店。元はバンコク旧市街にあったが、2011年のバンコク大洪水で休業。2014年にチャオプラヤー川沿いの複合スペース、ジャムファクトリーの中に移転。河川舟運用の倉庫を再利用しているため、非常に広い。品揃えはジャムファクトリーの幅広い客層に合わせて、文学から写真集、料理、デザイン、建築、ライフスタイルなど多岐にわたる。一見オシャレで可愛いブックカフェだが、2014年のクーデター前までは、政治関連のイベントなども頻繁に開催されていた(前号で触れた作家集団セーン・サムヌックのセミナーもここで開催された)。

Candide Books外観 撮影=筆者



3 The Writer’s Secret(เดอะไรท์เตอร์ซีเคร็ท)


出版社WRITERが経営する書店。バンコク旧市街のタウンハウスの1棟を借りており、2階が出版社のオフィス、1階が書店になっている。文芸誌『WRITER』はクーデター後に休刊となったが、出版社は営業を続けている。品揃えはほぼ100パーセント純文学。かなり狭い店内で、イベントやセミナーのたびに人が外に溢れる。クーデター後のバンコクで、文学や政治にまつわるシリアスな(すなわち、身の危険がありうる)議論が交わされるほぼ唯一の書店。普通の日でも、作家がフラッとビールを飲みに来たりする。

The Writer’s Secretで開催されたセミナー「The New Editorshop」の様子 写真提供=The Writer's Secret



4 Books & Belongings(ร้านหนังสือและสิ่งของ)


若手作家キッティポン・サッカーノンがオーナーを務める、最近開業した独立系書店。この書店の特異な点は、タイ語の書籍をほとんど置いていないところだ。販売されている書籍はほぼすべて、欧米の近現代思想書や海外文学の原著や英語版。屋台の食事がおよそ150円、タイ語の書籍は高くとも1000円程度が相場だが、ここでは特別に製本されたベンヤミンの『1900年頃のベルリンの幼年時代』英語版が3000円を超えている。売れるのだろうかとの疑問もあるが、冒頭に引いたアットの発言が示すような実態がそこにあるのかもしれない。また、翻訳文化が十分に成熟せず、タイ語世界の教養だけを使い古し硬直化していくタイの知的空間の問題点もここに見える。

Books & Belongingsの店内 撮影=筆者
 
 ここに示した書店は、数多ある書店のうちのほんの一部だ。だが、品揃えの面でも、開催されるイベントの面でも、これらの書店の個性は強く、傑出している。数が多い分だけ、競争も激しいだろうという邪推もできるが、概観する限りは絶妙に棲み分けがなされている。それは、現代タイの出版界における、コンテンツと知的好奇心の多様性を示す証左だ。強力な磁場を持ったたったひとつのプラットフォームにすべてが集中するのではなく、沢山の小さな「場」が有機的に共存している。人々は自らの興味関心に合わせてそれらの場を自由に行き来して、新しい知を創造していく。

 新しい書籍が出版されるたびに、人々が望むたびに、どこかの書店でイベントが開催され、そこに人が集まる。こう書くと、活気に満ちた状況に見えるかもしれない。だが、現実を見れば、ほとんどすべての書店は書籍の売り上げではなく「コーヒー」と「フリーWi-Fi」で店を回している(独立系書店で開催されるイベントは、基本的にすべて無料だ)。新しくできる書店もある一方で、消えていく書店もある。現在ではチェーンストアですらその数を減らしている。さらに、暗い影を落とす軍事クーデターの影響。あまり楽観はできないのかもしれない。それでも、筆者がブックフェスティバルで見たように、独立系書店に集う人々の瞳には、これからに期待を持たせる輝きが溢れている。

★1 2015年からバンコク・アート&カルチャー・センターで開催されるようになったブックフェア。他のブックフェアの多くが「書籍の販売」を目的にしているのと異なり、BBFではトークイベントやワークショップ、展示がその中心になっている。
★2 อรรถ บุนนาค 評論家、編集者、司会者、翻訳者。日本のポップカルチャーに精通した専門家としてあらゆる場所に登場する一方、舌鋒鋭い文化批評家としても有名。2000年代初頭には出版社BLISSとそのレーベルJBOOKから日本のライトノベル、エンタメ、ホラー、サスペンス小説のタイ語版を大量に世に送り出した、タイにおける日本文学ブームの仕掛け人。
★3 พรพิรุณ กิจสมเจตน์ 日本文学翻訳者。乙一、綾辻行人、道尾秀介などの翻訳を手掛ける。
★4 สำนักพิมพ์กำมะหยี่(Gamme Magie Editions) 2007年設立の出版社。主に海外文学のタイ語訳書を出版している。2008年から村上春樹の作品を出版するようになり、人気を博している。それまで英語からの重訳が一般的だった村上作品だが、ガンマイーでは日本語から翻訳して出版している。
★5 2001年に国立統計局が実施した調査で、タイ人の「1日」の平均読書時間が2.99分だという結果が出た(らしい。この数字そのものもどこを当たっても孫引きばかりで、元のデータを見つけられずにいる)。それがどういうわけか「1年」で2.99分だ、という風説になって流布したようだ。なお2008年の統計では1日39分、2015年の統計では1日66分という結果が出ているので、長くなってはいるようだ。
★6 ศรีบูรพา 本名クラープ・サーイプラディット(กุหลาบ สายประดิษฐ์)、1905-74。作家、新聞編集者。タイ近代文学を代表する作家の1人。タイにおける近代的価値観、社会的公正、言論の自由、人道主義の根付きを目指し活動を続けた。主な邦訳に『未来を見つめて』(安藤浩訳、井村文化事業社、1981年)や、『絵の裏』(小野沢正喜・小野沢ニッタヤー共訳、九州大学出版会、1982年)など。
★7 シーブーラパーと、彼を中心とした作家集団「スパープ・ブルット」の活動については、日本語で読める論考が存在する。宇戸優美子「タイ人作家シーブーラパーの初期言論活動──1929年から1932年立憲革命前まで」、『アジア地域文化研究』11号、東京大学大学院総合文化研究科・教養学部アジア地域文化研究会、2014年、170-194頁。
★8 สุลักษณ์ ศิวรักษ์ 1933年-。思想家。タイを代表する知識人とも言われる。王党派、保守の知識人だが、派閥を選ばない率直で痛烈な批判により、過去に何度も王室不敬罪に問われている。近年では仏教関係の著作も目立つ。邦訳著書に『タイ知識人の苦悩──プオイを中心として』赤木攻訳著、井村文化事業社、1984年、など。
★9 なお、現在も場所を変えて営業中である。
★10 ここから三段落ほどの記述は、以下の書籍に情報の多くを拠っている。 วาด รวี, Fighting Publishers: ประวัติศาสตร์นักทำหนังสือกบฏ (ฉบับใต้ดิน), กรุงเทพฯ : openbooks, 2008.
★11 ซีเอ็ดบุ๊คเซ็นเตอร์ 教育系の出版社であるSE-EDUCATION(SE-ED)が経営する書店チェーン。2016年8月時点で、タイ全土の支店数はおよそ400。
★12 ร้านนายอินทร์ 大手出版社AMARINが経営する書店チェーン。2016年8月時点で、タイ全土の支店数はおよそ200。シーエットもナーイ・インも、現在は支店の数を減らす傾向にある。
★13 ここでは文学界の状況を主として取り上げているが、若者に絶大な人気を誇るカルチャー誌『a day』や、評論誌『open』、映画誌『Bioscope』などが創刊したのもこの時期である。これらの雑誌は、広告とファッション情報が誌面の大部分を占める当時の雑誌文化に対するカウンターとして生まれ、サブカルチャーを求める若者たちの受け皿となった。
★14 นิวัต พุทธประสาท 1972年-。作家。タイ現代文学の前線にいる同世代の作家と比較して活動の期間が長いため、著作も多い。都市に住む若者の埋められない孤独を描く作品が多く、若い読者に人気がある。自身の出版社ポーキュパイン・ブックから同系統の作品を書く若手を次々輩出しており、現代文学において「ポーキュパイン的」とも呼べるジャンルの一潮流を形成している。まったくの私見だが、現在のタイで最も「ムラカミ」っぽいのはニワットである。
★15 現在、タイで開催される主要なブックフェアはふたつある。ひとつが毎年3月から4月に開催されるタイ・ナショナル・ブックフェア。もうひとつが毎年10月に開催されるブック・エキスポ・タイランドだ。どちらもバンコクで開催され、主催はタイ国出版社・書籍販売業者協会(PUBAT)。およそ1週間のイベントで、来場者数は100万人をゆうに超える。そのため、ほとんどの出版社がこのタイミングで新刊を出版し、それぞれのブースで割引販売する。結果としてブックフェアの前後で書店が閑散とし、まったく本が売れなくなるという現象が発生するため、その意義に疑問を投げかける書店主もいる。
 

福冨渉

1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、Prapt『The Miracle of Teddy Bear』(U-NEXT)など。 撮影=相馬ミナ
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