タイ現代文学ノート(5) 南部へ向かう旅路|福冨渉

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初出:2017年12月15日刊行『ゲンロン7』
ゲンロン5』で、タイ東北部の独立系書店とそこに集う作家たちの活動を紹介した。今回はそこから一気に南に下り、マレーシア国境にも近い、タイ深南部について紹介する。

 タイの映画監督ピムパカー・トーウィラ★1が2015年に発表した『孤島の葬列 มหาสมุทรและสุสาน』という長編映画がある。バンコクで育ったムスリムの女性ライラーが、タイ深南部パッターニー県に住む叔母のサイナップに会うために、1000キロの道程を自動車で旅する。ライラーの弟スークートと、その友人であるトイが旅の友だ。

 ムスリムが多くテロの頻発する深南部について、バンコク出身のトイを通じて、中央バンコクの人間が抱く「恐怖」のステレオタイプが描かれる。イスラーム過激派によるテロのニュースを耳にして、極端に怯えるトイ。一方、ムスリムであるライラーとスークートは、そのニュースを気にも留めない。道中で出会う現地の男性に対しても、トイだけは不信感を隠そうとしない。

 だが彼らの旅が進むにつれ、深南部が孕む(と思われている)暴力性は相対化される。3人は、パッターニー県にあるクルーセ・モスク(มัสยิดกรือเซะ)を訪れる。2004年4月28日、このモスクの近辺でムスリムと警察・軍の衝突が起きた。モスク内に立てこもった32人が死亡し、周囲で発生した衝突も含めると、双方合わせて100人を超える死者が出ている。けれどもバンコクからやってくる人々は、その場所でかつて起きた出来事を知らない。遠くに潜む「加害者」であったはずの深南部の人々が中央権力から受けた暴力の記憶が喚起され、深南部=加害者/バンコク=被害者という単純な構図が解消されていく。

 さらに、ライラーたちの乗る車のラジオから、バンコクにおける政治的混乱のニュースが流れる。民主党アピシット・ウェーチャーチーワ首相の退陣を求めて活動する赤服デモ隊と、治安部隊が衝突したのだ。これは劇中でライラーたちが旅を続けていた2010年4月から5月にかけて、バンコクで実際に起きた出来事だ。衝突の混乱の中で巨大ショッピングモールのセントラルワールドが焼失し、デモ隊は治安部隊によって制圧され、多数の死傷者が出る。暴力は深南部に固有のものではなく、「どの場所であっても起こりえるのだ」★2ということが示される。だがここでもバンコクの人々は、眼前に迫る深南部への恐怖に気をとられ、バンコクで起きている暴力を認識できない。
 

クルーセ・モスク
 
 バンコクの人々が抱く恐怖は、決してフィクションの中だけのものではない。「パッターニーに行く」と言う筆者に対して、バンコク出身の友人が発した第一声は「危ないよ!」であったし、もう少し状況を深く理解している文芸誌の編集者であっても、その反応は「気をつけてね」というものであった。

 とはいえ、これらの反応が大げさなわけでもない。日本の外務省「海外安全ホームページ」によれば、タイ深南部(ナラーティワート県、ヤラー県、パッターニー県、およびそこにソンクラー県の一部を加える)において発生した、イスラーム武装勢力による襲撃・爆破事件における死者の数は、2004年から2016年のあいだだけで6000人を超える(負傷者数は1万2000人超)★3。危険度はレベル3の「渡航は止めてください(渡航中止勧告)」に設定されており、海外の人間にとってだろうが、タイ国内の人間にとってだろうが、そこには現実的な危険が存在するとも言える。

 タイ深南部は、現在のタイ・マレーシア国境に近い地域だ。14世紀頃にこの地域に成立したとされるマレー系のイスラーム国家パタニ王国は、海洋交易を中継する貿易港によって繁栄した。だが20世紀初頭にタイとイギリスのあいだで締結された条約により国境線が引かれ、同地域はタイとイギリス領マラヤとに分割される。この場所では、元来マレー系ムスリムが人口の多数を占めていた。言語的にも、タイ語ではなく、マレー語の方言が話されていた。だがタイ政府は、自国の領土として統合したこの地域に対して、「タイ」への同化を求めてさまざまな政策を実施する。その結果、タイ深南部国境地帯の3県(前述のナラーティワート県、ヤラー県、パッターニー県)および隣接するソンクラー県を中心に、武力を伴った反政府・分離独立運動が発生した。第二次大戦後に激化した対立は、1980年代に一度鎮静化する。しかし2001年にタクシン・チナワットが首相に就任すると、政府による強権的な弾圧がおこなわれるようになり、その結果、再び武力衝突やテロが頻発するようになった★4

 これは、筆者が『ゲンロン5』のコラムに記した、タイ東北部における地政学的・歴史的状況に類似しているようにも見える。だが、東北部の人々に対する「中央」の視線が、ある種の「同族」に対する嫌悪や蔑視に近いものであるとすれば、人口の7割から8割をムスリムが占める深南部に対するそれは、「異質な他者」への感情とも言えるだろう。
 この「異質な他者」あるいは「内なる他者」への視線は、タイ文学にも投影されている。むろん、ここでいう「タイ文学」とは、基本的に「バンコク」の「仏教徒」である作家たちによって書かれているものだ。
 

地図制作=LABORATORIES
 

 タイ深南部が文学に表象されるようになったのは、1940年代だと言われている。そこに現れるのは、危険と野蛮に満ちた神秘の土地としての深南部の姿だ。「外の人間」たるバンコクの人々がジャングルの奥深くに分け入り、自然災害、熱病、凶暴な動物と戦い、深南部を踏破する冒険譚が書かれていた。その「危険・野蛮・神秘」は土地そのものだけではなく、そこに暮らすムスリムの人々とも結び付けられていた。経済発展を経て「タイらしさ」を備えたバンコクの人間が、全知の観察者として、「タイらしさ」をもたない未開の深南部の上に立って権力を行使するこのさまを、男性性による女性性の支配と蹂躙に比較する論者もいる★5。この傾向は1970年代頃まで続くが、時代が進むにつれ、深南部で起きるさまざまな暴力的事件がバンコクでも認知されるようになると、それは深南部の別の「危険・野蛮」を強調することになった。

 一方、深南部を含む「地方」の作家たち自身による作品もこの時代に執筆されるようになった。1970年代後半に、それまでのタイ文学の本流を占めていた「生きるための文学」と呼ばれる政治的・社会的なテーマを扱う文学の影響力が弱まると、バンコク以外の地方においては、文学における「地域主義」の潮流が見られるようになっていく★6。以前のコラムで扱った東北部の作家たちであれ、(深)南部の作家たちであれ、自らの文化的・民俗学的なルーツを創作の基盤とするようになる。それは、地方が「整っておらず、発展しておらず、〔中央に〕追いついていない」という言説★7に対抗すべく採用された方法でもあった。1978年に発表されたニッパーン★8の長編小説『蝶と花』などは、その好例だろう。深南部国境地帯で、荷運び稼業に従事して家計を支える少年の日常が、細やかな筆致で描かれた作品だ。

 

 21世紀になって、バンコクを中心とした政治的混乱が深まるにつれ、深南部の作家たちもその状況を反映した作品を発表するようになる。しかし、かつて紹介した東北部の作家たちが採用しているアプローチと、深南部の作家のそれは、異なるものだ。東北部の作家たちは、政治動乱におけるある種の「当事者」でもある。一方、旧来の政治的混乱を眼前に見ている深南部の作家たちは、むしろバンコクでの混乱から距離をとって、透徹した視線を投げかけている。

 たとえば深南部ナラーティワート県出身の詩人サカーリーヤー・アマタヤー★9の作品には、現代に生きる作家としての役割を自らに問うような、俯瞰的な視点をもつものが目立つ。

 もちろん、深南部出身のムスリムであるこの詩人の作品には、紛争の続く自らの生まれ故郷に対する愛着や悲しみを描くものもある。「ぼくの遊び場に地雷はあるのかな สนามเด็กเล่นของหนูจะมีกับระเบิดไหมหนอ」と題された詩篇の一節を引用する。

ああ お母さん 聖典クルアーンで読んだんだ
かみさまは教えてくれた 神は耐えるもののそばにおわす
じゃあぼくたちは愛するこの土地を 踏みにじる人々を受け入れなければいけないの
母なる大地を侵す人々に耐えなければいけないの★10


 だがその一方で、現代タイの政治状況をふまえて詠まれた詩には、そこに生きる一人の作家が、自らの信じる普遍的価値を提示しようとする意志が見え隠れする。あるいは2014四年の軍事クーデターを受けて詠まれた詩篇「暗闇の中の光 แสงสว่างในความมืดมิด」では、表現・言論の自由が制限されたタイ社会の状況を嘆く言葉が並ぶ。

最後の炬火は あなたたちがわたしたちから盗んでいった
暗闇の道を照らす灯し火は まだ瞳の中にある
誰にもわからない あとどれだけ どれだけの長さ
わたしたちはこの道を歩かなければいけないのか★11


 引用からもわかる通り、彼の詩には単純明快な言葉が並び、外連味がないともシンプルだともいえるものが多い。書物、読書行為、知識・思考の伝承について詠まれた「禁 ต้องห้าม」の一節には、こうある。

錬金術 一語一語の語合成が
架け橋に 一歩一歩の道に変わり
過去と未来に向けて延びていく★12


 ここにはもはや、「危険・野蛮・神秘」といった「南」のイメージはもちろん、「地方」の作家である、ムスリムであるといった「地域主義」的な価値観の提示も見られない。それはひとえに、作家・詩人として「言葉」を後世に伝えようとする決意の表れなのかもしれない。

 

 この地域の独立系書店もまた、サカーリーヤーのように普遍的価値を探求している。書店ブク(บูคู)は、タイ深南部パッターニー県の中心部に立つ書店だ。店名のブク=Bukuはマレー語で「本」を意味している。書店は2011年にオープンし、2014年に一度移転した★13。書店を経営するのはソンクラーナカリン大学パッターニー校で哲学を教えるアンティチャー・セーンチャイ(อันธิฌา แสงชัย)と、ダーラーニー・トーンシリ(ดาราณี ทองศิริ)という二人の女性だ。興味深いのは、この二人が地元パッターニーでも、南部の出身でもないということだ。アンティチャーは北部チェンマイ県の出身で、ダーラーニーはバンコクの書店に長く勤めていた。アンティチャーが同大学で教鞭をとるにあたり、二人で同地に書店を開いた。
 

書店ブク外観(2014年9月撮影)
 

 この二人はどちらも「外の人間」だし、ムスリムではないが、来店する客の7割から8割は地元のムスリムである。その環境の中で店頭に並ぶ書籍は、文学、政治、宗教、そして深南部の問題に関するものが多い。また、彼女たちは「Buku's Gender, Sexuality and Human Rights Classroom」と名乗る小規模なNPOを設立し、「Buku Classroom」と題されたセミナーを度々開催している。ここで取り扱われるテーマは、その名称にもあるように、ジェンダー、セクシュアリティ、人権の問題だが、それらの問題の当事者が、タイ深南部のムスリム社会の中でどう共存しうるのかという点に主眼が置かれている★14

 かつての文学作品は、観察者・仲介者としての「バンコク=外の人間」によって、読者をつないでいた。ブクの二人もまた外の人間だが、彼女たちが目指すのは「外」と「内」をつなぐことではない。自分たちの書店を中心として、深南部に一つの生きた議論の場所を生み出すことだ。ダーラーニーの淹れたコーヒーを店のテラスで飲みながらそんな話をしていると、遠くにアザーンの声が聞こえた。

 

 最後に再び『孤島の葬列』に戻る。深南部パッターニー県にたどり着いた主人公のライラー一行は、小舟に乗ってマングローブの海漂林を進み、さらに深い森に分け入っていく。そこで出会うのは、静寂とともに歩を進める、地元の人々の奇妙な葬列だ。その先で、彼女は叔母のサイナップと出会う。ここまではさながら、紋切り型の深南部冒険譚だ。

 だが、その叔母との会話の中でライラーは、自らのルーツが中国大陸にあることを知る。混淆に混淆を重ねた彼らのアイデンティティは、中央と南部、タイとマレー、仏教とムスリムといった差異を無効化していく。そして、物語を終える、叔母と姪のダイアローグ。あらゆる多様性を包含した理想郷、ユートピアを求める会話が、静かに続く。

 南への旅は、われわれをもっと遠い場所に連れていく。
 

パッターニー県ヤリン郡タロカーポー・ビーチ
 

写真提供=福冨渉



 


★1 พิมพกา โตวิระ(1967-)。映画監督。映画雑誌のコラムニストなどとして活動していたほか、バンコク国際映画祭のプログラムディレクターを務めた。2003年の長編監督デビュー作『ワン・ナイト・ハズバンド』は、プラープダー・ユンとの共同脚本。長編2作目の『孤島の葬列』は、2015年の東京国際映画祭でワールドプレミア上映され、「アジアの未来」部門の作品賞を受賞した。
★2 2015年10月30日、『孤島の葬列』上映後のアフタートークにおける、ピムパカー監督の言葉。
★3 外務省「海外安全ホームページ」。URL=http://www.anzen.mofa.go.jp/info/pcinfectionspothazardinfo_007.html(2017年10月25日アクセス)
★4 タイ深南部問題については、以下の文献などを参照。真辺祐子「南部国境地域問題概説」、『バンコク日本人商工会議所所報』651号、2016年、27‐34頁。
★5 พิเชฐ แสงทอง. “‘ผจญภัยในแดนมหัศจรรย์' ภารกิจของ ‘ความเป็นไทย' ในวรรณกรรมว่าด้วยมลายูมุสลิม.” เจน สงสมพันธุ์ บรรณาธิการ, แขกในบ้านตัวเอง. ปทุมธานี : นาคร, 2007, pp. 244-249.
★6 タイにおいて、文学ジャンルとしてのマジックリアリズムが成立したのもこの時期のことである。そこには、この地域主義的傾向が影響していたとの指摘がある。ชูศักดิ์ ภัทรกุลวณิชย์. “ความเป็นมาของสัจนิยมมหัศจรรย์ในวรรณกรรมไทย.” สัจนิยมมหัศจรรย์ : ในงานของกาเบรียล การ์เซีย มาร์เกซ โทนี มอร์ริสัน และวรรณกรรมไทย. กรุงเทพฯ : อ่าน, 2016, pp. 117-138.
★7 พิเชฐ แสงทอง. “ประวัติศาสตร์และพัฒนาการของนักเขียนใต้.” ธีระ จันทิปะ บรรณาธิการ, คลื่นทะเลใต้. ปทุมธานี : นาคร, 2005, p. 260.
★8 นิพพานฯ(1950‐)。本名マクット・オーンルディー(มกุฏ อรฤดี)。タイの南部ソンクラー県生まれの作家・編集者。彼の設立した出版社ピースア(ผีเสื้อ 蝶)は、タイにおける中堅の文芸出版社の代表格。長編『蝶と花』は映画化もされ、大ヒットとなった。邦訳あり。ニッパーン『蝶と花』、星野龍夫訳、井村文化事業社、1981年。
★9 ซะการีย์ยา อมตยา(1975‐)。2000年代中頃から詩を発表している。1冊目の詩集『詩篇の中に女はいない ไม่มีหญิงสาวในบทกวี』が2010年の東南アジア文学賞を受賞した。細かい韻律の決まった定型詩が圧倒的多数を占めるタイ文学において、自由詩だけを書くサカーリーヤーが受賞したことで、大きな話題と議論を呼んだ。
★10 ซะการีย์ยา อมตยา. “สนามเด็กเล่นของหนูจะมีกับระเบิดไหมหนอ.” ไม่มีหญิงสาวในบทกวี. กรุงเทพฯ : ๑๐๐๑ ราตรี, [2010?], p. 83.
★11 ซะการีย์ยา อมตยา. “แสงสว่างในความมืดมิด.” URL=https://prachatai.com/journal/2014/06/54219、2017年10月26日アクセス。(邦訳あり。サカーリーヤー・アマタヤー「暗闇の中の光」福冨渉訳、『東南アジア文学』13号、50-51頁)
★12 ซะการีย์ยา อมตยา. “ต้องห้าม.” ปรากฏ 1, 2014, p. 8.(邦訳あり。サカーリーヤー・アマタヤー「禁」福冨渉訳、『東南アジア文学』13号、52‐54頁)
★13 2017年10月現在、再移転の準備中である。
★14 彼女たちの問題意識は「Buku FC」という女性だけのサッカーチームの結成にまで発展している。Buku Classroom の活動については、アンティチャーが自身のフェイスブックに公開した論考が参考になる。อันธิฌา แสงชัย. “ห้องเรียนเพศวิถี “สอน” อะไร.” URL=https://www.facebook.com/notes/1224042914299223/(2017年10月26日アクセス)
 

福冨渉

1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、Prapt『The Miracle of Teddy Bear』(U-NEXT)など。 撮影=相馬ミナ
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