ライプツィヒから〈世界〉を見る(4) ルターからジョブズへ――出版メディアと美意識|河野至恩

初出:2013年3月31日刊行『ゲンロンエトセトラ #7』
ライプツィヒには様々な愛称が付いている。バッハやシューマン、メンデルスゾーンなど多くの音楽家が住んだ「音楽の街」、古くから商業の要衝として栄え、見本市が開催されてきた「見本市の街」など。そうした愛称のなかでも最もよく知られるのが「本の街」(Buchstadt)だろう。岩波文庫が手本としたとされるレクラム文庫のレクラム社、楽譜出版のペータース社、百科事典のブロックハウス社など、かつてライプツィヒに本社を置いた出版社は数多く、19世紀から20世紀の前半にかけてはドイツ語、ひいては世界の出版・印刷・書物流通の中心地としてその名声は広く知られていた。ライプツィヒでの生活ではそうした「本の街」としての歴史の断片に触れる機会が多く、出版というメディアの来し方・行く末について考えさせられる。
ライプツィヒから70キロほど離れたところに、マルティン・ルターの宗教改革の舞台となった街ヴィッテンベルクがある。ルターが家族で住んでいたところでもあり、大学でもあった建物を改築した「マルティン・ルター記念館」の展示を見ていると、ルターの生涯と印刷・出版のかかわりの深さに驚かされる。マインツのグーテンベルクが活版印刷を発明したのは15世紀中頃で、その後、現在のドイツなどの都市に広がった。この活版印刷の技術を身につけたライプツィヒの印刷業者メルヒオール・ロッターが、ルターの著作を印刷・出版し、彼の言論活動を支えることとなる。ルターの議論は、ロッターが出版した薄いパンフレットという形でヨーロッパ全土に広まり、影響を与えた。ルター博物館の展示によると、ルターの「95箇条の論題」論争の前後(1517年から24年)でパンフレットの出版点数は10倍に増加し、当時ヴィッテンベルクでドイツ全土の15%の書物が出版されていたという。また、ルターは、アイゼナハのヴァルトブルク城にかくまわれていたときにわずか11週間で新約聖書の全体をギリシャ語からドイツ語に訳しているが、この本は翻訳が完成した1522年のうちに活版印刷で印刷・出版されている。ルターの翻訳原稿は、画家でルターの支援者でもあったルーカス・クラナッハのヴィッテンベルクの工房で、ロッターにより印刷された。3000部刷られた聖書はすぐに完売、増刷となったという。ルター博物館の展示の題名にもあるように、宗教改革は「メディア革命」でもあったのだ。
ルター記念館には当時の聖書が何点か展示されているが、その印刷だけでなく、挿絵や装丁も含めた本の美しさに目を奪われる。500年近く前の読者はこの本をどのように読んだのだろうかと考えさせられる。ライプツィヒにあるドイツ国立図書館へ、世界の書物の歴史の展示を訪れたときにも、文字の繊細さ、その時代の文化を反映した装飾の様式美、紙やカバーなどの素材へのこだわりなど、ものとしての書物の多様な美しさに感銘を受けた。
ライプツィヒから70キロほど離れたところに、マルティン・ルターの宗教改革の舞台となった街ヴィッテンベルクがある。ルターが家族で住んでいたところでもあり、大学でもあった建物を改築した「マルティン・ルター記念館」の展示を見ていると、ルターの生涯と印刷・出版のかかわりの深さに驚かされる。マインツのグーテンベルクが活版印刷を発明したのは15世紀中頃で、その後、現在のドイツなどの都市に広がった。この活版印刷の技術を身につけたライプツィヒの印刷業者メルヒオール・ロッターが、ルターの著作を印刷・出版し、彼の言論活動を支えることとなる。ルターの議論は、ロッターが出版した薄いパンフレットという形でヨーロッパ全土に広まり、影響を与えた。ルター博物館の展示によると、ルターの「95箇条の論題」論争の前後(1517年から24年)でパンフレットの出版点数は10倍に増加し、当時ヴィッテンベルクでドイツ全土の15%の書物が出版されていたという。また、ルターは、アイゼナハのヴァルトブルク城にかくまわれていたときにわずか11週間で新約聖書の全体をギリシャ語からドイツ語に訳しているが、この本は翻訳が完成した1522年のうちに活版印刷で印刷・出版されている。ルターの翻訳原稿は、画家でルターの支援者でもあったルーカス・クラナッハのヴィッテンベルクの工房で、ロッターにより印刷された。3000部刷られた聖書はすぐに完売、増刷となったという。ルター博物館の展示の題名にもあるように、宗教改革は「メディア革命」でもあったのだ。
ルター記念館には当時の聖書が何点か展示されているが、その印刷だけでなく、挿絵や装丁も含めた本の美しさに目を奪われる。500年近く前の読者はこの本をどのように読んだのだろうかと考えさせられる。ライプツィヒにあるドイツ国立図書館へ、世界の書物の歴史の展示を訪れたときにも、文字の繊細さ、その時代の文化を反映した装飾の様式美、紙やカバーなどの素材へのこだわりなど、ものとしての書物の多様な美しさに感銘を受けた。
また、ライプツィヒには「印刷博物館」という博物館があり、19世紀以降の印刷技術の急速な発展の様子を間近に見ることができる。博物館の広い展示スペースには、印刷機や活字鋳造機など印刷のさまざまな役割を果たす機械が所狭しと並べられている。多くの機械は今でも入念な手入れにより現役で稼働している。職員の方が印刷を目の前で実演してくれ、刷り上がった印刷物はおみやげとして持ち帰ることができる。インクの匂いと、規則的に刻む輪転機の音。美しく刷り上がった印刷物を手渡してくれる職員の姿は、かつての印刷職人の仕事への誇りを感じさせてくれる。
博物館の展示に、植字(活字を組むこと)の100年の技術革新の歴史を振り返る「モノタイプからMacへ」というコーナーがあるのだが、その末尾にスティーブ・ジョブズの言葉が掲げられているのが目を引いた。タイプライターのようにして活字を並べ、1行分の活字を鋳造できる自動鋳造植字機(「モノタイプ」)から、パソコンによるDTP(Desktop Publishing)への変遷が綴られているのだが、その歴史の最後に、旧型Macintosh Classic からMac Proまで、歴代のMacが数台置かれ、ジョブズが2005年にスタンフォード大学で行った有名な講演の一節が引用されていた。大学を中退した後もカリグラフィ(装飾文字を描く技法)を学んでいたことが、のちにMacを開発するときに文字を美しく表示することにこだわることにつながった、という有名なエピソードだ。
この展示のMacに代表されるようなDTPの技術革新により、従来の活字を組み、それを美しく刷るという活版印刷技術の集積は、デジタルデータをつくること、そしてそのデータを忠実に印刷することという2つのプロセスに置き換えられ、長年の職人的な技術の多くは必要がなくなってしまったようにも見える。しかし、ジョブズのスタンフォードの講演が示しているのは、DTPの原点にあるのはカリグラフィという長年培われた技法であり、そこには活版印刷の美意識が生き続けている。活版印刷の歴史を伝える博物館に並んだMacを見ながら、そんなことを考えた。
ライプツィヒがヨーロッパの出版文化の中心都市として栄えたのは20世紀前半までである。ナチスによるユダヤ人出版人への迫害(ペータース社の社長はアウシュビッツでその生涯を終えた)、第2次大戦の空襲による破壊、冷戦時代の出版社の東西分裂、そしてドイツ統一後の、東ドイツ側の出版社の西側への合併などの変遷を経て、出版都市としてのライプツィヒは縮小の一途をたどった。一方、ドイツ統一後は、毎年3月のブックメッセなど、出版の拠点としての活動がふたたび活発になりつつある。かつて「グラフィック街」として出版社が多く集まっていたグーテンベルク・プラッツには、現在は「本の家」(Haus des Buches)というモダンなビルが立ち、朗読会などのイベントや、出版関係企業の事務所として活用されている。
しかし、そうした現在のライプツィヒだけではなく、初期の活版印刷で刷られたルターのドイツ語聖書や印刷博物館の輪転機を見ながらライプツィヒの出版文化を辿ると、ヨーロッパにおける出版メディアの歴史にこの小さな街が与えた影響を見ることができる。そして、DTPや電子出版など、出版メディアの状況が大きく変わりつつあるいま、その示唆するところは大きいと思う。
ここでは、ヨーロッパの活版印刷・出版の歴史と現代日本のメディアをつなぐひとつのキーワードとして「同人誌」を挙げてみたい。
現代日本のメディアと出版、特にサブカルチャーの受容・2次創作や批評の状況を考えるときに、同人誌の存在を無視することはできない。この20年ほど、印刷・出版のコストが低下し、個人でできる印刷の質が高まる一方、コミケやネット販売などの販売手段の整備も進むことにより、同人誌というメディアは質・量ともに急速に充実し、一般の雑誌と比較しても遜色のない存在になりつつある。マスメディアを大衆が消費するという戦後長く続いた状況から、ひとりひとりの消費者が書き手になり、また書き手が編集・出版も行ってメディアを所有するという状況が生まれている。
多くの人々が自分だけの発信メディアを持つことができるということは、その一人一人がメディアを「つくる」ことの苦心と喜びを追体験できるということでもある。DTPソフトで文字組みを工夫したり、Photoshopで写真を加工したり、カラーページの刷り上がりに一喜一憂する。出版のハードルが下がることは、そうした出版の作る喜びを多くの人々に体験させている。時を経て、21世紀のいま、ひとりひとりが再びルターやロッターの役割を果たしているのだ。
そして、ライプツィヒの出版の歴史に触れて思うのは、メディアを支えているのは、文字に込められたメッセージを美しく伝えたいという「美意識」だということだ。このことは、メディアが大きく変わりつつある21世紀も変わっていない。
参考文献
浅岡泰子『ライプツィヒ――あるドイツ市民都市の肖像』鳥影社、2006年
徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』岩波新書、2012年


河野至恩
1972年生まれ。上智大学国際教養学部国際教養学科教授。専門は比較文学・日本近代文学。著書に『世界の読者に伝えるということ』(講談社現代新書、2014年)、共編著に『日本文学の翻訳と流通』(勉誠出版、2018年)。
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