ライプツィヒから〈世界〉を見る(1) 自分をorientするということ|河野至恩

初出:2012年08月20日刊行『ゲンロンエトセトラ #4』
今年4月から1年間の予定で、在外研究のためドイツ・ライプツィヒに来ている。定住者でも旅行者でもない「滞在者」の視点に立って、専門である比較文学・海外の日本学の話題からヨーロッパの日常生活で考えたことまで、「世界を見る」ことをテーマにエッセイをお送りする。
住む場所を変えるということは、世界を見るための座標軸の原点を定め直すということでもある。〈世界〉は誰から見ても同じものではなく、それぞれの立つ位置・認識能力・所属する共同体など、様々な要素によって異なる姿をあらわす。私はアメリカで大学・大学院時代を過ごしたが、ヨーロッパでの長期滞在は初めてだ。パリやロンドンのような大都会ではなく、ライプツィヒという街から世界はどう見えるのか。
この「座標軸の原点を定め直す」という行為は、実際に住む場所を変えるとき、抽象的な脳内の作業ではなく身体的な感覚として訪れる。旅人なら、iPhoneのマップや、レンタカーのカーナビを開ければGPS(Global Positioning System)で、自分が世界のどこにいるのかをあっという間に定めることができる。しかし、一時的な旅行ではなく日常生活の場所を変える場合、座標軸の調整が必要になり、それにはもう少し時間が必要だ。長いフライトの後で最初の目的地に到着すると、しばらくは「自分がどこにいるのか」という土地勘が不確かな感覚がつきまとう。時差ボケがあったり、言葉が不自由な環境だったりするとさらにそうだ。しかしやがて、地図を買ったり、駅やスーパーなどの場所を覚えたりしていくうちに、次第に自分の住む街での生活感覚ができあがってくる。その後、旅行などを通して自分の住む街と外の世界との関係がはっきりし、ようやく世界のなかの自分の位置を示す座標軸が決まってくる。
座標軸を決めるうえで決め手となるのが、東西南北の方角だ。「自分のいる場所を認識する」という意味のorientという英語の動詞(ドイツ語ならorientieren)は、オックスフォード英語辞典によると「東に向けて置く」という意味のフランス語から来ているという(例えば、教会の建物の長辺を東西に揃えて建てるなど)。太陽が昇る方角を基準に、世界のなかの自分の位置を定位すること。最古のGPSは「東に向ける」ことだったといえよう。生活していて東西南北の方角の勘がつかめてきたら、座標軸の再設定プロセスも完了に近づいてきたことになる。
住む場所を変えるということは、世界を見るための座標軸の原点を定め直すということでもある。〈世界〉は誰から見ても同じものではなく、それぞれの立つ位置・認識能力・所属する共同体など、様々な要素によって異なる姿をあらわす。私はアメリカで大学・大学院時代を過ごしたが、ヨーロッパでの長期滞在は初めてだ。パリやロンドンのような大都会ではなく、ライプツィヒという街から世界はどう見えるのか。
この「座標軸の原点を定め直す」という行為は、実際に住む場所を変えるとき、抽象的な脳内の作業ではなく身体的な感覚として訪れる。旅人なら、iPhoneのマップや、レンタカーのカーナビを開ければGPS(Global Positioning System)で、自分が世界のどこにいるのかをあっという間に定めることができる。しかし、一時的な旅行ではなく日常生活の場所を変える場合、座標軸の調整が必要になり、それにはもう少し時間が必要だ。長いフライトの後で最初の目的地に到着すると、しばらくは「自分がどこにいるのか」という土地勘が不確かな感覚がつきまとう。時差ボケがあったり、言葉が不自由な環境だったりするとさらにそうだ。しかしやがて、地図を買ったり、駅やスーパーなどの場所を覚えたりしていくうちに、次第に自分の住む街での生活感覚ができあがってくる。その後、旅行などを通して自分の住む街と外の世界との関係がはっきりし、ようやく世界のなかの自分の位置を示す座標軸が決まってくる。
座標軸を決めるうえで決め手となるのが、東西南北の方角だ。「自分のいる場所を認識する」という意味のorientという英語の動詞(ドイツ語ならorientieren)は、オックスフォード英語辞典によると「東に向けて置く」という意味のフランス語から来ているという(例えば、教会の建物の長辺を東西に揃えて建てるなど)。太陽が昇る方角を基準に、世界のなかの自分の位置を定位すること。最古のGPSは「東に向ける」ことだったといえよう。生活していて東西南北の方角の勘がつかめてきたら、座標軸の再設定プロセスも完了に近づいてきたことになる。
ライプツィヒで生活するなかで気がついたのは、ライプツィヒという場所において「東方」という言葉が多様な意味を持っていることだ。ライプツィヒはスラブ系の入植地として開拓され、初めて史料に現れるのは11世紀という長い歴史を持つ街である。その歴史の中で「東方」という言葉も様々な変遷を経て、単なる地理的な概念にとどまらず多様な意味を帯びている。例えば、ヨーロッパを「西欧/中欧/東欧」に分類することは昔から行われてきたが、地理的な条件に加え、歴史的な境界、政治体制、宗教、社会構造など、様々な境界線の引き方が考えられる。雑誌『思想』2012年第4号(岩波書店)の「中欧」とは何か?―新しいヨーロッパ像を探る―」という特集では、「中欧」の地理的・歴史的な定義に加え、「中欧」という概念が政治的・思想的な課題として議論されたことが、多様な角度から浮き彫りにされている。
ライプツィヒの市街地を歩いていると、歴史上の「東方」の様々なイメージに出くわす。そのひとつとして、ヨーロッパで2番目に古いカフェ「カフェ・バウム」がある。作曲家のシューマンが常連だったこともあり観光客にも人気なこのカフェだが、入り口では天使とオスマン・トルコ風の男性の彫刻が出迎えてくれる。カフェに付属するヨーロッパのコーヒー文化を紹介する博物館では、コーヒーを飲む習慣がアラビアから伝来し受容されていた、カフェ・バウム開店(1720年)以来の店の様子を窺うことができる。博物館には過去のカフェの部屋として「アラビア・ルーム」が再現されているが、その室内装飾の「東洋(中東)趣味」は、サイードの『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリー)そのままだ。

一方、コーヒーに欠かせない陶磁器のカップには、また別の「東方」への憧れが刻まれている。ライプツィヒから南東に電車で2時間ほど行ったところに、陶磁器の産地として日本でも有名なマイセンという街がある。東洋の陶磁器は早くからヨーロッパにも届いていたが、ヨーロッパでは貴重品とされていた。それが、18世紀の初め、錬金術に取り組んでいたという一人の技師が偶然、白く透明感のある陶磁器の焼き方を編み出し、後に広く知られるマイセンの陶磁器となったのだという。
ライプツィヒの市街地を歩いていると、歴史上の「東方」の様々なイメージに出くわす。そのひとつとして、ヨーロッパで2番目に古いカフェ「カフェ・バウム」がある。作曲家のシューマンが常連だったこともあり観光客にも人気なこのカフェだが、入り口では天使とオスマン・トルコ風の男性の彫刻が出迎えてくれる。カフェに付属するヨーロッパのコーヒー文化を紹介する博物館では、コーヒーを飲む習慣がアラビアから伝来し受容されていた、カフェ・バウム開店(1720年)以来の店の様子を窺うことができる。博物館には過去のカフェの部屋として「アラビア・ルーム」が再現されているが、その室内装飾の「東洋(中東)趣味」は、サイードの『オリエンタリズム』(平凡社ライブラリー)そのままだ。

一方、コーヒーに欠かせない陶磁器のカップには、また別の「東方」への憧れが刻まれている。ライプツィヒから南東に電車で2時間ほど行ったところに、陶磁器の産地として日本でも有名なマイセンという街がある。東洋の陶磁器は早くからヨーロッパにも届いていたが、ヨーロッパでは貴重品とされていた。それが、18世紀の初め、錬金術に取り組んでいたという一人の技師が偶然、白く透明感のある陶磁器の焼き方を編み出し、後に広く知られるマイセンの陶磁器となったのだという。
ライプツィヒと「東」といって忘れてはならないのは「東ドイツ」としての歴史だ。ライプツィヒのあるザクセン州は旧東ドイツに属する。その歴史は、例えば歩行者信号の特有のデザインにも見ることができる。また、この街は1989年のベルリンの壁崩壊にいたる過程で民主化運動の拠点となったことでも知られており、市民の多くもそのことを誇りに感じているようだ。市内には当時を記憶するために東ドイツ時代の歴史を記録・展示する博物館がいくつかある。例えば、私が1か月前にドイツ歴史博物館を訪れたときには、東ドイツ時代のコミック雑誌『Mosaik』の特別展示があり、アーティストや編集者らが政府の方針に反してアメリカや世界の様子を子ども達に伝えようとして努力した様子が紹介されていた。

そうしたライプツィヒの東ドイツ関係の博物館で圧巻は、ルンデ・エッケ博物館、別名シュタージ博物館だ。東ドイツ時代には実際に秘密警察(シュタージ)が拠点としていた建物にあり、東ドイツの警察組織、盗聴や盗撮、変装(!)の方法、また壁崩壊(と同時に行われた証拠隠滅)を紹介している。市民の多くを「非公式協力者」として雇い、個人のプライベートな生活に分け入って情報収集した様子は、当時の抑圧的な状況を生々しく伝えている。シュタージが収集した個人情報を含む資料で、証拠隠滅を逃れたものはすべて閲覧可能だという。
壁崩壊からまだ20年余り。1972年生まれの私の世代の人々は、高校生まで東ドイツ政権下で過ごしたこととなる。東ドイツ時代の記憶は「近すぎる過去」だといえよう。
このようにライプツィヒにおける「東方」を見ると、様々なイメージ、様々な意味が何重もの層をなしていることがわかる。「東方」がここまで多様な意味を持つのは「西洋」との対比があるのだろう。サイードが『オリエンタリズム』で論じたように、ヨーロッパの「東洋(Orient)」表象は、「西洋」の自己像の陰画としての側面がある。ただ、長い歴史を持ちながらも、「西洋」の中心から少し距離のあるライプツィヒという場所では、「東方」のイメージも微妙に屈折・乱反射しているように感じられる。
ライプツィヒ滞在中に取り組みたいテーマの一つとして、「ヨーロッパの日本学」がある。これまで北米の日本文学研究・日本学に関わってきたが、ヨーロッパの大学における日本文学・日本文化の研究の歴史、そして大きく変わりつつあるその現状に関心を持っている。ライプツィヒから極東の島国、日本はどう見えているのか。そのことも、こうした歴史の層の上に立って考えなければならないのだろう。自分の立ち位置をorientすることができたいま、このような問題にも取りかかっていきたいと思う。

そうしたライプツィヒの東ドイツ関係の博物館で圧巻は、ルンデ・エッケ博物館、別名シュタージ博物館だ。東ドイツ時代には実際に秘密警察(シュタージ)が拠点としていた建物にあり、東ドイツの警察組織、盗聴や盗撮、変装(!)の方法、また壁崩壊(と同時に行われた証拠隠滅)を紹介している。市民の多くを「非公式協力者」として雇い、個人のプライベートな生活に分け入って情報収集した様子は、当時の抑圧的な状況を生々しく伝えている。シュタージが収集した個人情報を含む資料で、証拠隠滅を逃れたものはすべて閲覧可能だという。
壁崩壊からまだ20年余り。1972年生まれの私の世代の人々は、高校生まで東ドイツ政権下で過ごしたこととなる。東ドイツ時代の記憶は「近すぎる過去」だといえよう。
このようにライプツィヒにおける「東方」を見ると、様々なイメージ、様々な意味が何重もの層をなしていることがわかる。「東方」がここまで多様な意味を持つのは「西洋」との対比があるのだろう。サイードが『オリエンタリズム』で論じたように、ヨーロッパの「東洋(Orient)」表象は、「西洋」の自己像の陰画としての側面がある。ただ、長い歴史を持ちながらも、「西洋」の中心から少し距離のあるライプツィヒという場所では、「東方」のイメージも微妙に屈折・乱反射しているように感じられる。
ライプツィヒ滞在中に取り組みたいテーマの一つとして、「ヨーロッパの日本学」がある。これまで北米の日本文学研究・日本学に関わってきたが、ヨーロッパの大学における日本文学・日本文化の研究の歴史、そして大きく変わりつつあるその現状に関心を持っている。ライプツィヒから極東の島国、日本はどう見えているのか。そのことも、こうした歴史の層の上に立って考えなければならないのだろう。自分の立ち位置をorientすることができたいま、このような問題にも取りかかっていきたいと思う。
写真提供=河野至恩


河野至恩
1972年生まれ。上智大学国際教養学部国際教養学科教授。専門は比較文学・日本近代文学。著書に『世界の読者に伝えるということ』(講談社現代新書、2014年)、共編著に『日本文学の翻訳と流通』(勉誠出版、2018年)。
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