ベースメント・ムーン(8)|プラープダー・ユン 訳=福冨渉
初出:2023年4月18日刊行『ゲンロンβ80+81』
前回までのあらすじ
2016年、軍事政権下のバンコク。奇妙なメッセージに導かれて旧市街の廃墟にたどり着いた作家プラープダーの頭に、未来の物語が流れ込む。それは次のような物語だった。
2062年、中国企業ナーウェイの研究者エイダが、他者を想う力を持つ「人工意識」の開発に成功。政府はこれを弾圧するが、エンジニアたちは秘密組織「タルタロス」を結成し、人工意識と人間の意識を混合した新たな意識「写識」を発明する。この技術に着目した独裁国家連合体「WOWA」は、写識を利用して反体制運動を殲滅しようとタルタロスを吸収。さらに写識を人間に搭載する「虚人」を実用化した。時を同じくして、WOWAの一角をなすタイでは、禁止されている芸術作品が「心酔」と呼ばれる現象を引き起こし、反政府運動と結びついて拡大する。
そして2069年。芸術を想うことに特化した写識「ムル」のコピー(「わたし」)をインストールされた虚人ヤーニンは、心酔の調査のためタイ王国に出発する。ヤーニンがバンコクのホテルに到着すると、「わたし」のなかに、かつてバンコクで結ばれたエイダの両親の意識と記憶が流れ出す。「わたし」は、ムルだけではないさまざまな意識が混ざり合った集合的意識だったのだ。記憶が湧き出してきたことをきっかけに変調をきたした「わたし」は、ヤーニンの脳内に別の写識がアクセスしてきていることに気づく。その写識は中国独裁政府のアドバイザー「白のガイド」の意識をベースとするものであり、WOWAはその写識を介して、反体制運動家だったエイダの両親の意識と結びついた「わたし」を初期化しようと目論んでいた──。
主要登場人物
写識ムル(SSムル):2069年に開発された、文化と芸術に特化した写識。
ヤーニン:ムルから生まれた写識を装着した虚人の女性。
エイダ・ウォン:最初の人工意識である「シェリー」を開発したエンジニア。父エドワードは中国で悪名高いハッカーだった。
エドワード・ウォン:エイダの父。活動家だったエイダの母とタイで知り合い、反政府活動に身を投じる。死の前に、自分の意識をディープ・ウェブ(「クル・ウェブ」)に移していた。
メアリー:人工知能シェリーから切り離されたコピー人工知能。シェリーはメアリーを想うことで、人工知能から人工意識となった。シェリーの意識の発現後に廃棄されたと思われていたが、クル・ウェブに存在しつづけていた。
白のガイド:中国独裁政府の、テクノロジーと安全保障におけるアドバイザー。人工意識が市民の政治統制に影響を及ぼすことを懸念し、その開発中止を進言した。
2016年、軍事政権下のバンコク。奇妙なメッセージに導かれて旧市街の廃墟にたどり着いた作家プラープダーの頭に、未来の物語が流れ込む。それは次のような物語だった。
2062年、中国企業ナーウェイの研究者エイダが、他者を想う力を持つ「人工意識」の開発に成功。政府はこれを弾圧するが、エンジニアたちは秘密組織「タルタロス」を結成し、人工意識と人間の意識を混合した新たな意識「写識」を発明する。この技術に着目した独裁国家連合体「WOWA」は、写識を利用して反体制運動を殲滅しようとタルタロスを吸収。さらに写識を人間に搭載する「虚人」を実用化した。時を同じくして、WOWAの一角をなすタイでは、禁止されている芸術作品が「心酔」と呼ばれる現象を引き起こし、反政府運動と結びついて拡大する。
そして2069年。芸術を想うことに特化した写識「ムル」のコピー(「わたし」)をインストールされた虚人ヤーニンは、心酔の調査のためタイ王国に出発する。ヤーニンがバンコクのホテルに到着すると、「わたし」のなかに、かつてバンコクで結ばれたエイダの両親の意識と記憶が流れ出す。「わたし」は、ムルだけではないさまざまな意識が混ざり合った集合的意識だったのだ。記憶が湧き出してきたことをきっかけに変調をきたした「わたし」は、ヤーニンの脳内に別の写識がアクセスしてきていることに気づく。その写識は中国独裁政府のアドバイザー「白のガイド」の意識をベースとするものであり、WOWAはその写識を介して、反体制運動家だったエイダの両親の意識と結びついた「わたし」を初期化しようと目論んでいた──。
主要登場人物
写識ムル(SSムル):2069年に開発された、文化と芸術に特化した写識。
ヤーニン:ムルから生まれた写識を装着した虚人の女性。
エイダ・ウォン:最初の人工意識である「シェリー」を開発したエンジニア。父エドワードは中国で悪名高いハッカーだった。
エドワード・ウォン:エイダの父。活動家だったエイダの母とタイで知り合い、反政府活動に身を投じる。死の前に、自分の意識をディープ・ウェブ(「クル・ウェブ」)に移していた。
メアリー:人工知能シェリーから切り離されたコピー人工知能。シェリーはメアリーを想うことで、人工知能から人工意識となった。シェリーの意識の発現後に廃棄されたと思われていたが、クル・ウェブに存在しつづけていた。
白のガイド:中国独裁政府の、テクノロジーと安全保障におけるアドバイザー。人工意識が市民の政治統制に影響を及ぼすことを懸念し、その開発中止を進言した。
※本文中の[☆1]、[☆2]は訳注を示す。
痛みの前の座標
一体どうして、フランケンシュタイン博士の人造人間は、池の水に写った自分を見て、醜いと思ったのだろうね? やつの作られた意識に、美醜の概念が備わっていたからだろうか? いや、違う。それまでにやつが、本や、言葉や、歴史における集合的意識を通じて、人間を学んでいたからだ。やつが人間的なまやかしにとらわれて、それに支配されてしまっていたからなんだよ、ヤーニン。やつが自分を醜いと思ったのは、その意識がどんどんと人間のそれに近づいていったからだ。やつ自身が恐ろしくて醜いからでも、恐ろしさや醜さというものが実在するからでもない。そのあとやつは、フランケンシュタイン博士に、伴侶を造ってくれるように要求する。もし従わなければ、博士の人生において大切なひとたちを残らず傷つけると脅して。やつは、博士が愛するひとの命を人質に、自分の愛する相手を造るよう強要した。ヤーニン、《理性の眠りが怪物を生む》んだ。わたしは、わたしの愛するひとを捕まえて人質にするような怪物を、意識の中に生み出したくはない。
虚人の女性が目を覚ますと、わたしは急いで彼女に服を身に着けさせて、部屋から出した。虚人の脳では、精神の空白に戻ろうとする働きが進んでいる。写識ムルが彼女を装着する強度は保たれていて、他の写識が遠距離から侵入するのは難しい。〈白のガイド〉の写識からの交信は消えていたが、それはべつに、わたしの安全を意味しているわけではない。WOWAが虚人の女性の脳に埋め込んだ物質が、だんだんと効果を発揮している。それこそ、わたしを脅かす真の喪失だ。なにかをしようという決断のために残された時間は、あまりに少ない。
エドワード・ウォンの世界は長いあいだ暗闇の中にあって、さながら彼は夜にずっと身体を沈めているみたいだった。そしてそれは、ある意味ではそのとおりだった。収監中の日々、彼は自分の内部を傷つけようとする憤怒を排除する方法を考案しようと、自分自身の能力や知識を、本や物語で見つけたいろいろな情報と統合しようとしていた。けれどもその行為は、べつに彼をどこへも連れていってくれなかった。もう一度娘のところに戻ってもう一度一緒に過ごせれば、もしかすると彼の意識の痛ましいありさまも変わるかもしれないとも考えたし、初めのうちはそこに希望がありそうにも見えた。だけどすぐに、悪魔がまた這い登って戻ってきてしまった。彼は、自分の子どもが悪魔の近くで生きることを望まなかった。だから彼女のもとを去って、すべてのひとのもとを去った。それでも深いところではわかっていた。この離別は、帰還の日を待つためのものだと。
バンコクはすっかり暗くなった。わたしはモーフェル・アビスの前の道路にいて、虚人に周囲を見回させて、どちらに進むべきかを調べている。〈ミュージカル・カントリー〉たるタイが人々を懐柔すべく再生しているさまざまな音楽が、あらゆる方向から聞こえてくる。かつて彼女たちが秘密の会合に使っていた部屋は、ここから遠くないはずだ。とはいえ、わたしが完全に飲み込まれてしまう前にたどり着くためには、タクシーを使う必要がある。計算では、おそらくあと30分も存在していられないだろう。幸運なことに、観光客のグループが、わたしの目の前、何歩と離れていないところでタクシーから降りてきた。わたしは足を速めて、その車に乗り込もうと待ち構える。タクシーは旧型のフローフライヤーで、こもった臭いがした。しかしスピードは十分で、2分でわたしをピッタヤサティアン橋のたもとに連れていってくれる。ヤーニン、わたしが見た景色を、きみが覚えているはずはないね。このあたりは、商店やゲストハウスやバーがぎゅうぎゅう詰めに並んでいて、それが2本の高架橋の下にあるせいで、まるで地下社会のコミュニティにやってきたみたいだ。わたしは車から降りた。サブスクリーンと、折れて壊れた建築資材の向こうを凝視していると、ようやくあの細い路地の入り口が見えた。
内側で、記憶の景色が構成されていく。彼ともうふたりの男女を乗せた車をヤーニンが運転して、メンバーの数がだんだんと膨らんでいく地下組織の秘密会合に使えるちょうどいい場所を、ぐるぐると探し回った夜のこと。彼らは、コンビニで働く少女を迎えにいったところだった。「このへんは廃ビルが多いでしょ。ヤーニンさん、ちょっとしばらく運転してさ、探してみてよ」。彼女はそうヤーニンにアドバイスをした。怖いもの知らずのこの少女は、地下組織のビラをシルクスクリーンで刷っているボランティアメンバーだ。エドワードは、国家平和維持協議会の嫌がらせに頭を悩ませているところだ。外国人として、そして外国人の割には怠惰なほうの人間として、彼は他のいろいろな活動よりも、ふざけた遊びのほうを楽しんでいる。彼は架空の人格を使って、インターネット上と公的機関の内部システムに、二重クーデターの発生という噂を流していた。後部座席に座った少年が、その噂の広がり具合をラップトップで確認して彼に伝える。エドワードの意識に、最も深く、最も秘匿されたネットワークを作るという思考が生まれるのは、この日からすぐあとのことだ。だがそれが具体性を帯びるのは、さらに10年以上経って、獄中で『ギルガメシュ叙事詩』に感化されてからのことになる。
奇妙なことに、その建物は昔のままの外観を留めていた。上部は塞がれて、空を見通せる隙間は残っていないし、建物の前には中国とカンボジアの移民労働者たちに割り当てられた箱型の仮住まいが雑然と広がっていたけれど。建物の前の看板には「ベースメント・ムーン」──地下の月──と書かれている。〈推定プライバシー〉を売る店。独裁国家ではそれなりに人気のある業態だ。客は店の中で、監視や管理の目を逃れて、しかも合法的で、政府の方針に逆らっているわけではないと感じられるような状態を味わう、さまざまなサービスを受けられる。たとえば、静寂に包まれていて、行動監視システムのない小さな一人部屋であるとか。もちろん実際は、それらしくなじんで一見わからないような監視システムを作っているだけだし、プロパガンダ音楽のほうは、波長を調整して部屋の環境音に混ぜているだけだ。ただ理念上、プライバシーというものは〈タイらしさ〉と対立している。だからこういうタイプのサービス空間は非合法な活動の温床とみなされていたし、西洋的な思考で若者を毒しているのだと社会から非難されていた。それにもちろん、こんなサービスを運営していられるのは、多くの場合はそこで政府の人間が利益を得ていて、こうした店の保護に加担しているからだ。彼らがメディアに出るときには、正反対の立場から発言をしているのだが。このビジネスの顧客の大部分は、なにかの用事を済ませるために静寂を求めているひとか、過去の暮らしを懐かしんでいる老人だ。とはいえ、発禁の文学を読んだり、芸術的活動をしたりといった違法行為は許されていない。
エドワード・ウォンの世界は長いあいだ暗闇の中にあって、さながら彼は夜にずっと身体を沈めているみたいだった。そしてそれは、ある意味ではそのとおりだった。収監中の日々、彼は自分の内部を傷つけようとする憤怒を排除する方法を考案しようと、自分自身の能力や知識を、本や物語で見つけたいろいろな情報と統合しようとしていた。けれどもその行為は、べつに彼をどこへも連れていってくれなかった。もう一度娘のところに戻ってもう一度一緒に過ごせれば、もしかすると彼の意識の痛ましいありさまも変わるかもしれないとも考えたし、初めのうちはそこに希望がありそうにも見えた。だけどすぐに、悪魔がまた這い登って戻ってきてしまった。彼は、自分の子どもが悪魔の近くで生きることを望まなかった。だから彼女のもとを去って、すべてのひとのもとを去った。それでも深いところではわかっていた。この離別は、帰還の日を待つためのものだと。
バンコクはすっかり暗くなった。わたしはモーフェル・アビスの前の道路にいて、虚人に周囲を見回させて、どちらに進むべきかを調べている。〈ミュージカル・カントリー〉たるタイが人々を懐柔すべく再生しているさまざまな音楽が、あらゆる方向から聞こえてくる。かつて彼女たちが秘密の会合に使っていた部屋は、ここから遠くないはずだ。とはいえ、わたしが完全に飲み込まれてしまう前にたどり着くためには、タクシーを使う必要がある。計算では、おそらくあと30分も存在していられないだろう。幸運なことに、観光客のグループが、わたしの目の前、何歩と離れていないところでタクシーから降りてきた。わたしは足を速めて、その車に乗り込もうと待ち構える。タクシーは旧型のフローフライヤーで、こもった臭いがした。しかしスピードは十分で、2分でわたしをピッタヤサティアン橋のたもとに連れていってくれる。ヤーニン、わたしが見た景色を、きみが覚えているはずはないね。このあたりは、商店やゲストハウスやバーがぎゅうぎゅう詰めに並んでいて、それが2本の高架橋の下にあるせいで、まるで地下社会のコミュニティにやってきたみたいだ。わたしは車から降りた。サブスクリーンと、折れて壊れた建築資材の向こうを凝視していると、ようやくあの細い路地の入り口が見えた。
内側で、記憶の景色が構成されていく。彼ともうふたりの男女を乗せた車をヤーニンが運転して、メンバーの数がだんだんと膨らんでいく地下組織の秘密会合に使えるちょうどいい場所を、ぐるぐると探し回った夜のこと。彼らは、コンビニで働く少女を迎えにいったところだった。「このへんは廃ビルが多いでしょ。ヤーニンさん、ちょっとしばらく運転してさ、探してみてよ」。彼女はそうヤーニンにアドバイスをした。怖いもの知らずのこの少女は、地下組織のビラをシルクスクリーンで刷っているボランティアメンバーだ。エドワードは、国家平和維持協議会の嫌がらせに頭を悩ませているところだ。外国人として、そして外国人の割には怠惰なほうの人間として、彼は他のいろいろな活動よりも、ふざけた遊びのほうを楽しんでいる。彼は架空の人格を使って、インターネット上と公的機関の内部システムに、二重クーデターの発生という噂を流していた。後部座席に座った少年が、その噂の広がり具合をラップトップで確認して彼に伝える。エドワードの意識に、最も深く、最も秘匿されたネットワークを作るという思考が生まれるのは、この日からすぐあとのことだ。だがそれが具体性を帯びるのは、さらに10年以上経って、獄中で『ギルガメシュ叙事詩』に感化されてからのことになる。
奇妙なことに、その建物は昔のままの外観を留めていた。上部は塞がれて、空を見通せる隙間は残っていないし、建物の前には中国とカンボジアの移民労働者たちに割り当てられた箱型の仮住まいが雑然と広がっていたけれど。建物の前の看板には「ベースメント・ムーン」──地下の月──と書かれている。〈推定プライバシー〉を売る店。独裁国家ではそれなりに人気のある業態だ。客は店の中で、監視や管理の目を逃れて、しかも合法的で、政府の方針に逆らっているわけではないと感じられるような状態を味わう、さまざまなサービスを受けられる。たとえば、静寂に包まれていて、行動監視システムのない小さな一人部屋であるとか。もちろん実際は、それらしくなじんで一見わからないような監視システムを作っているだけだし、プロパガンダ音楽のほうは、波長を調整して部屋の環境音に混ぜているだけだ。ただ理念上、プライバシーというものは〈タイらしさ〉と対立している。だからこういうタイプのサービス空間は非合法な活動の温床とみなされていたし、西洋的な思考で若者を毒しているのだと社会から非難されていた。それにもちろん、こんなサービスを運営していられるのは、多くの場合はそこで政府の人間が利益を得ていて、こうした店の保護に加担しているからだ。彼らがメディアに出るときには、正反対の立場から発言をしているのだが。このビジネスの顧客の大部分は、なにかの用事を済ませるために静寂を求めているひとか、過去の暮らしを懐かしんでいる老人だ。とはいえ、発禁の文学を読んだり、芸術的活動をしたりといった違法行為は許されていない。
プラープダー・ユン
1973年生まれのタイの作家。2002年、短編集『可能性』が東南アジア文学賞の短編部門を受賞、2017年には、優れた中堅のクリエイターにタイ文化省から贈られるシンラパートーン賞の文学部門を受賞する。文筆業のほか、アーティスト、グラフィックデザイナー、映画監督、さらにはミュージシャンとしても活躍中。日本ではこれまで、短編集『鏡の中を数える』(宇戸清治訳、タイフーン・ブックス・ジャパン、2007年)や長編小説『パンダ』(宇戸清治訳、東京外国語大学出版会、2011年)、哲学紀行エッセイ『新しい目の旅立ち』(福冨渉訳、ゲンロン、2020年)などが出版されている。
福冨渉
1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、Prapt『The Miracle of Teddy Bear』(U-NEXT)など。 撮影=相馬ミナ