ベースメント・ムーン(最終回)|プラープダー・ユン 訳=福冨渉
2016年、軍事政権下のバンコク。携帯電話に掛かってきた奇妙なメッセージに導かれ、旧市街の廃墟にたどり着いた作家プラープダー(「ぼく」)の頭に、未来の物語が流れ込む。それは他者を想う力を持つ「人工意識」をめぐる、独裁国家と反体制派勢力の争いの歴史だった。2060年代を舞台に、人工意識「ムル」を語り手にするその物語は、特殊な技術によってムルを脳内に搭載した女性「ヤーニン」の身に危機が迫ったことで唐突に中断される。そしてプラープダーは、2016年の廃墟の空き部屋で目を覚ます。
※本文中の[★]は原注を示す。
あとがき(2018)
ぼくはあの夜のことをたびたび思い出している。そしてあの夜が、ぼくの脳内のなにかを、永遠に変化させ、変質させ、あるいはもぎ取っていってしまったと感じている。空き部屋でのできごと。目を開けたままで見た夢のように頭の中で進んだ物語、それとも精神のスクリーンに投影された映画? すべてがあっという間に始まって終わっていったが、何年も経ったみたいに長く感じた。すでに過ぎ去ったことなのに、フックが引っ掛けられているみたいに、記憶の中に留まっている。そしてそれを思い起こすときには、どの言葉もはっきりと、何度も何度もぼくに語りかけていた。少なくともしばらくのあいだはそうだった。
ぼくが空き部屋で過ごしていた時間は、全部で10分とちょっとだと腕時計が教えてくれた。ピッタヤサティアン橋のたもと、路地の街灯の下にどうやって戻ってきたのかは覚えていない。ただ、それを不思議に思うほどでもなかった。過ぎていたその10分とちょっとのあいだ、ぼくは自身をコントロールする力を完全に失っていたからだ。周囲の気温が下がったようで、風が首元をビュッと吹き抜けて、身体を震わせるほどだった。驚いたというよりも、寒かった。
我に返ると、ぼくはパンツのポケットから携帯電話を取り出して、スクリーンを見た。すべてが正常で、タッチパネルも他の機能も滞りなく働いている。奇妙な交信の痕跡はまったく残されていない。夢から目覚めてしまったのに近いような状態で、ぼくは少し残念がった。奇怪で疑わしいものとはいえ、今のこの社会の醜悪さと比べれば、はるかに希望の持てる状況を見ていたからだ。清潔な鉄の匂いはまだ鼻腔にこびりついていたが、それもやがて慣れ親しんだ不潔な運河の水と一酸化炭素の臭いに取って代わった。
ぼくは振り返って白い建物を見る。意味はよくわかっていないが、受け取った物語によって、間接的にこの場所とのつながりが生まれたみたいに感じている。ぼくはあの空き部屋にもう一度降りてきたいと思った。さながら感動とともに、あるいは疑念とともに読み終えたばかりの本の1ページ目を、もう一度開いてみたいような気分だ。けれどもあの部屋になにもないこともわかっている。初めから、あそこにはなにもなかった。
ぼくは身体の向きを変えて、答えの代わりにうなずいた。後部座席の女性は、短く切られた金髪に、光を反射するオレンジのヘアクリップを留めている、さっき水を買うときにほんの何秒かだけ顔を合わせた店員だった。彼女は親しげな微笑みを見せていて、レジの後ろでぼくに冷たい態度を向けていたのとは別人みたいだ。車内で彼女の隣に座っている青年は、髪がボサボサに立っていて、クタクタの黒いTシャツと、膝に穴が空いたジーンズを身に着けている。目のまわりには化粧品で描いたみたいな輪があり、膝の上でラップトップのパソコンを使っていた。モニターからのまばゆい光が肌と服を包んで、彼を、暗闇の中に浮かぶ光の球みたいに見せている。窓のそばに立ったぼくがかがんで中を見ると視線が合って、彼はこちらに合掌をした。ぼくも自動的にうなずいて、その挨拶を受ける。彼はエロサイトを見ているのがバレるのを怖がるみたいなようすで、慌ててラップトップを半分ほど閉じた。
「まだ近くにいてくれてラッキー。お兄さんのおつりがあるの」。女性はそう言いながら身体を動かして、右手でパンツのポケットをまさぐる。
「いらないよ。取っておいて」。ぼくは言った。しかし何枚かの赤と緑の紙幣をつかんだ彼女の手が、こちらに差し出されていた。
「ここでお兄さんが歩いてるのを偶然見かけなかったら、わたしも絶対もらってたよ。というか、もらうんじゃなくて、もしお兄さんを見かけなかったら、友だちたちがタダ酒を飲めてたって感じかな」。彼女が軽く笑う。手を窓枠に置いて、釣り銭を渡すことを諦めようとしない。
ぼくは視線を運転手のほうにやる。長い黒髪の女性で、麦わらの中折れ帽をかぶっている。彼女はハンドルをしっかり握っていて、身体を硬くしてみじろぎもせず前を見つめている。まるで、いつでもアクセルを踏んで、この場所からすぐに逃げられるようにしているみたいだ。助手席、つまり金髪の女性の前には、痩せ型、白い肌で短髪の男性が座っている。外見から判断すると、車内の他の人間よりも少し年上のようだ。その雰囲気も、一緒に行動している男女たちとは異なる。落ち着いていて、メガネをかけていて、服装に派手さがない。ぼくの経験的にきっと標準中国語だろうと推測できる言葉で、彼が小さく言った。「我们不应该待在这里很长时间」 とか、そのような感じのことを。
ぼくはまだ躊躇していて、女性の差し出す紙幣を受け取らずにいた。彼女はもとよりもさらに少し、ある意味こちらにプレッシャーをかけるみたいに、窓の外に手を突き出した。だが急にその眉根が少し寄せられる。額のしわで、相手がなにかを考え込んでいることがわかる。「お兄さん、作家?」彼女が聞いて、ぼくがうなずいて応えた。
「好きなわけじゃないけど、よく罵倒されてるっていうのは、そうだね」。ぼくはそう言って、気まずい笑みを向けた。
「急いだほうがいい」。ハンドルを握る女性が、振り返らずに言う。その声の出し方にいらだちが混じっている。
ラップトップの画面を少し開いてのぞいた後部座席の青年が、慌てたようすで叫ぶ。「クソッ、あいつらハッキングに気づいたみたいだぞ!」
「走吧」 。助手席のメガネの男が、司令官の役割を演じているみたいに、厳しい声を出す。ハンドルを握る女性は肩を震わせて、左手をギアに置き、発車の準備をした。
「友だちに酒をおごってあげて」。ぼくは女性に言う。そのとき、運転席の女性の声のせいで、ぼくは白昼夢を見ているような気分になっていた。空き部屋で得られたありとあらゆる情報が、頭の中で暴れて混じり合っている。けれどもどうにか正気を保ち、できる限りふつうに振る舞っていた。心臓は激しく動き出し、耳鳴りが聞こえ始め、目はかすんでいたけれども。
「こうしようか。じゃあこのお金を取っておいて、お兄さんの新しい本を買うね」。そう言うと女性は手を引いて、紙幣の束をパンツのポケットに押し込んでいく。「お兄さんの新刊はなんてタイトルなの?」
「ヤーニン!」助手席の男が、大きすぎない程度にコントロールされた声量で、強く言う。彼はその名前をはっきりと言った。外国人めいたなまりもなく。後部座席の青年が、それに続いて焦りながら言う。「状況があんまりよくねえな。一旦ここでやめといて、次を考えたほうがいい。行こうぜ!」
ぼくは少しのあいだ黙り込んでから、答えた。「ベースメント・ムーン」
「オッケー」。車の窓ガラスが少しずつ上がっていくときに、彼女がはっきりと答えた。「ベースメント・ムーンね。そしたら買って読むから」。もう一度、花咲くような笑みを向けながら、彼女はそう約束した。仲間たちから急かされているようなようすは一切見せていない。ポケットに金をしまい直すと、彼女はその手を上げて、ぼくに3本指のサインを見せた。それから車は急速にUターンして反対側の車線に行き、あっという間に走り出して消えていった。
ぼくは快楽主義者に分類されるだろう性向で、おまけに相手が友だろうが敵だろうが、厭人的な人間だ。だから、ある点においては、自分自身の信念や思想と対立する政治体制への反対運動に参加したりするよりも、社会から逃れられる空間をすすんで探してしまう傾向がある。それは認めないといけない。空き部屋の物語が、抽象的で、身近ではないいろいろな情報を調べるのに時間を使ってしまうことの言い訳を与えてくれた。日々ぼくは、自らの思考を、物語から収集してきたものの調査のための牢獄──記憶の牢獄なのかもしれない──に閉じ込めた。カマラの言葉から、人工意識たちから、そしてもちろん、ヤーニンという名の虚人の女性を通じて学んだことから、集めてきたものも。
ぼくは自らを律して、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』を読んだ。シェイクスピアの戯曲『テンペスト』の理解に努めた。電子音楽黎明期の女性音楽家たちの作品について学んだ。デンマークのエリゼ・マリー・ペイ以外にも、アメリカのベベ・バロンとポーリン・オリヴェロス[★1]、イギリスのダフネ・オラムとデリア・ダービーシャー、それからフランスのエリアン・ラディゲなどを。ぼくは我慢強くウォルト・ホイットマンの詩を読み、G・K・チェスタトン作のイギリスの古典的小説『木曜日だった男』を読み[★2]、ジャック・ロンドンが書いた、前世を記憶する罪人についての奇妙な小説『星を駆ける者』を、ムルという名の牡猫の視点から描かれたE・T・A・ホフマンの小説を、サイバーパンクの先駆け的小説ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』を、そして一年あまりの時間で可能な限りの他のいろいろなものを読んだ。さらに、認知科学、神経科学、人工知能、自己認識に関する理論、心理学の理論、世界大戦の歴史、サイバネティクスの歴史、情報理論、量子物理学から枝分かれしたさまざまな理論、言語学、そしてそれらから終わりなく絡み合って伸びていく色々についての基本的な知識を身に着けようとした。けれども、あの空き部屋の物語の謎を解く助けには、まったくなってくれなかった。
日によっては、あの夜のできごとを思い出すことがあっても、さながら空き部屋で聞いたもののすべてが娯楽映画や娯楽小説だったかのように、表面的なことにばかり気を向けている自分がいた。ネットサーフィンをしながら、1960年代に数多くのインディペンデント映画で名を馳せた日本の女優、加賀まりこの画像を検索したりした。2069年のヤーニンがどんな容姿なのか想像するためだ。エリゼ・マリー・ペイの音楽をかけながら、空想を巡らせたりもした。眠りの中でヤーニンの姿を見る夜もあった。夢ではなくて、どんな物語や動きもないまま、彼女の顔や身体だけが見えていた(あれはヤーニンだったのか、加賀まりこだったのか、それとも虚人の女性だったのか?)。長い時間、動きもせず、静かに、意識の暗闇に浮かんでいた。
とにかく、特に理由もないまま、ぼくはかなりの確信を持っている。あのできごとと、ぼくの脳に刻まれたあらゆる情報には、携帯電話の女性の声が伝えたみたいに、ぼくを「権力に逆らう運動の血脈を広げることに加担」させ、「戦場に赴くことなく戦いの一部」にさせている、なんらかの目的がある。抵抗と戦いこそが、すべてに意味を持たせている、たったひとつの理由だ。そうでないとしたら、ぼくたちの人生が、信頼に足る自然の法則によって決定づけられることもなくなってしまうだろう。そして、論理にどれだけの誤謬があろうとも厚顔無恥に正しさを主張したがる権力が適当に選んで作り上げた状況や、そのとんちんかんな言い訳によって書き上げられることになる。
つい最近、未来の暗号を解くなにかしらの助けになるんじゃないかと考えて、思い出せるようにしておこうと内容をコピーして保存したニュースがあった。フランスとカナダの研究者が、意識は脳におけるエントロピー増大の副作用である可能性があると発表したのだ。
ぼくのほんのわずかな理解に基づいて書くと、人間的なイメージで捉えるならば、エントロピーとは自然現象であり、秩序から無秩序へ、あるいは静寂から混沌への状態変化を示す熱力学第2法則のことだ。物理学者はあらゆるものをだんだんと無秩序の方へと運んでいく時間の一方向性を、あるいは時間の「矢」としての特性を、エントロピーの原理を用いて説明している。宇宙学者は、宇宙の由来と未来の推論にエントロピーを用いる。つまり、低度な無秩序に始まり、高度な無秩序へと向かっていくというものだ。人間の脳の働きにも似たところがあるのかもしれず、意識とは、エントロピーが駆動するプロセスの中で生まれる「感情」なのかもしれない。無秩序さの値が脳の中で増大することで、人間は自己の存在を認識する。あるいは少なくとも、自分が周辺の環境から独立した存在であると考えさせるような、まやかしを生み出してくれる。
もしかすると、人工意識は人間の意識と同じ原理に統御されているわけではないのかもしれない。もしかすると、新しい形の意識であるということは、人間の意識が持たず、持つこともできず、理解もできない物理学的な特性を持つのかもしれない。もしかすると、こんなことにのめり込むことでぼくの脳内のエントロピー増大が加速し、混乱が生まれ、まもなく精神に異常をきたすのかもしれない。
半分冗談で計算をしてみる。物語では、2029年10月4日にバンコクで反乱事件が起こるとされていた。それが本当なら、ぼくはそのときまだ生きているはずだ(そしてエントロピーの量もまだ正常なはずだ)。他のいくつもの重要なできごとのきっかけとなっているのは明らかなはずなのに、物語においては、その事件の詳細も、なにが起こったのかさえも解説されなかった。その意味では疑わしい話ではある。ただとにかく、この数字は、ぼくにとっては最も「近い未来」を示すものだ。ぼくが手を伸ばせば届く可能性のある未来。なにが起こるか特定できているのに謎めいてもいる未来のできごとをこんなふうに待っているなんて、今までなかったような気持ちになる。でもその一方で思う。なにを待つのかわからないままなにかを待ち望むというのは、人間のふつうの暮らしと変わらないんじゃないだろうか?
ずっとぼくの心に引っかかっている小さなこともある。ぼくが勝手に解釈しただけの些細なことかもしれない。だけどもしあの物語が本当に暗号を隠そうとしたものだとして、ぼくがそれを解くことができているのなら、なかなかに誇らしい成功ともいえる。物語の終わりのほうのある段落の言葉を見たぼくは、ポール・エリュアールの作品を思い出していた[★3]。フランスのシュルレアリスム草創期の詩人だ。学生のころにシュルレアリストたちの作品が好きで割と熱心に勉強もしていたので、エリュアールの詩もいくつか読んだことがあった。
静寂よりも高いところで、わたしがきみの名前を書こう。わたしはきみと知り合うために生まれてきたんだ、きみに、名前を与えるために。
エリュアールの「自由」という詩から借りてきたように見える言葉だった。きっとそのはずだと、かなり確信が持てた。
Bien au-dessus du silence j’écris ton nom. Je suis né pour te connaître, pour te nommer.
空き部屋で頭の中に情報を入れ込まれてからまもなく、ぼくは物語の記録を始めた。混乱や当惑がある程度落ち着いてきた、二日後か三日後だったと思う。コンピューターの前に座る以外にはほとんどなにもする必要はなく、すべての言葉がとめどなく文章となって、スクリーンに現れていった。さながら指先からキーボードに向かって物語が流れていくように。まるで電子音楽を言葉として再生しているみたいに。ただそれは、ぼくがしっかりと座って、きちんと頭の中の情報を移し替えることができているときだけだった。すべての記録が完全に終わるのには、ほとんど一年くらいの時間を使ってしまった。時々、白昼夢のような状態に陥ってしまって、作業が止まったからだ。何週間も続いて起こることもあった。
翌日までそこから目覚められないこともあったし、ひどいときには、国内や国外を旅している途中で、自分がどこにいるのかを忘れてしまうときもあった。ぼくの脳の働きがおかしなものになっていて、それが生理的な働きにも影響を与えていたのは疑いない。けれども執筆が終わると──ぼく自身はいつ終わるのか予測もできていなかったが、自然と指の動きが止まった──いくつかのおかしな症状も一緒に消えていったようだった。
脳の働きが不安定になって、記憶を文字として書き起こすことができないときには、ピッタヤサティアン橋のたもとの小路にある空き部屋に戻れば、この停滞を解消する助けになるのではと考えたこともあった。だけどそれは、完全に間違いだった。
ある日、ぼくはあの白い建物に再び侵入した。けれどもなにも得るものはなく、さながら窃盗犯めいたふるまいをしている自分がただ情けなくなった。空き部屋は部屋でしかなく、水のペットボトルは捨て置かれたもとの位置に転がったままで、分厚い埃をかぶっている。それでも懲りることなく、ぼくはわざわざ二度目の再訪を果たした。今度は建物の入り口の扉が、太い鎖と大きな鍵によって、以前よりも厳重に閉じられていた。ぼくはそれをただ絶望的な気分で見つめて、踵を返した。
書き起こした情報をウェブサイトでダウンロードできる公共の財産にするか、本として販売するのか、そしてぼくの体験とあとがきまでを記して個人的な感情を述べて、ぼくの経験として完全なものにするべきなのかどうか、長い時間考えあぐねていた。ぼくがどういう形で公表する決断をしたのか、これを読んでいるあなたにはよくわかっているはずだ。
この「戦争」でなにかぼくに役割があるのだとすれば、その任務は配達人みたいなものに近いだろう。情報を受け取り、運ぶ。一体誰から情報を受け取り、誰に届ければいいのか明確に指示はされていないけれど。配達人だって、他の仕事と同じように作業の対価を得るべきだ。
2016年10月3日のできごとは、ナーン県に住む友人とぼくとの、フアランポーン駅での別れの言葉に続いて起こった。情報を書き起こしてきちんとファイルとして保存して、まえがきに取りかかろうかという準備ができてから2、3週間ののちのある日の夕方、都内のコーヒー屋でその同じ友人と話す機会を持ったぼくは、自分の奇妙な体験を語って聞かせることにした。友人は黙ったまま視線を下に落とし、自分のコーヒーカップをほとんどずっと見つめていた。ぼくの口から、最後まで物語が流れ切るまで。そして喉の奥のほうで笑い声を立てて、言う。「セックスシーンはないのかよ? 未来の人間は全員不感症なのか?」少しはあるけどいまは飛ばしたんだ、とぼくは答える。「じゃあとにかく買って読まないとならないな。いつ出すんだ?」もうしばらくしてからだ、できあがったら谷間の田んぼに送ってやるよと、ぼくが言う。「郵便がうちまで来てねえんだよ。バンコクまで取りに来るさ。作品のタイトルはどうするんだ?」
嘘偽りなく言うけれど、友人に聞かれるまで、本のタイトルを考えすらしていなかった。だけど、答えるのに時間はかからなかった。
「ベースメント・ムーン」。
「物語のキーワードか?」友人がそうぼくに聞いて、それからコーヒーをすする。
ぼくは答えられない。その言葉が物語から来ていて、あの少女にぼくの新刊のタイトルだと伝えてしまっているということだけは覚えていた。
ปราบดา หยุ่น. เบสเมนต์ มูน. สำนักหนังสือไต้ฝุ่น, 2018, pp.174-190.
★1 ベベ・バロン(Bebe Barron、1925-2008年)の電子音楽を見つけたことには、なにかしらの大きな意味がありそうだ。少なくとも、いくつかのものを取り混ぜて、空き部屋の物語の謎を解く道筋を示すための方法を教えてくれるのではないかと感じられた。カマラが、彼女について言及することはなかったにせよ。ぼくが調べた情報によれば、ベベ・バロンと夫のルイスは磁気テープのテープレコーダーを電子音楽の制作に用いた最初のふたりだ。彼女たちは特に、ハリウッドのSF映画『禁断の惑星』(Forbidden Planet、1956年)の劇伴音楽制作チームとして記憶されている。この高額製作費の作品は、本格的なSF映画としては最初期のものだったし(人工知能とも呼べるロボットのキャラクターが登場している)、バロン夫妻による劇伴音楽によって、現在まで続く電子音楽制作の礎が築かれもした。興味深いのは『禁断の惑星』のメインプロットが、戯曲『テンペスト』のプロットをもとに書かれていることだ。テクノロジーの発展によって意識の移植を可能とする装置が開発されるというストーリーが登場し、ジークムント・フロイトの精神分析の理論を拡張しているようにも見える。バロンが用いた磁気テープのレコーダーは、世界でも草創期のモデルで、ドイツで製造されており、ヒトラーの演説を記録するのにナチスが使用したのと同じものでもあった。ナチスはヒトラーの体調不良や不在時に録音済みの演説を再生することで、さながら本人が欠かすことなく、疲れも知らずに語りかけてきていると市民を欺こうとしていた。それはもしかすると、音楽と録音というものが、意識の統制の歴史において重要な役割を持つテクノロジーだということを示しているのかもしれない。人々の想像力を刺激するという点においても、陶酔によって広範囲の人々の行動をコントロールするという点においても。『禁断の惑星』の音楽制作において、バロン夫妻は「音楽家」としてクレジットされていない。これは、楽器を使わずに、だれも音楽の演奏をせずに作品を制作したからだ。それはつまり、もしかすると、電子音楽というのは、人間による「人工物」とは分離した、サイバネティクスによる自我や独立の可能性を示す最初期の事例なのかもしれない。 ポーリン・オリヴェロス(Pauline Oliveros、1932-2016年)の興味深いところは、彼女が実験的な電子音楽の黎明期の制作者のひとりだったことだけではなく、「ディープ・リスニング」(deep listening)が「音の意識」(sonic awareness)と呼ばれる状態を通じて、意識に影響を及ぼすことができると信じていたことにある。個人がこの方法論によって訓練をすると、社会において聞こえてくる音がもたらす洗脳状態を脱して、聞こえるものをコントロールする力を自らに取り戻すことができると、彼女は考えていた。オリヴェロスはフェミニストでもあり、女性は長いあいだ、音楽において大きな役割を担ってきたにもかかわらず、男性中心的な価値観による偏見を通して歴史に刻まれてしまっていると主張していた。この論点によってぼくはさらに、哲学や科学の世界においても、信じられないほど多くの重要な女性たちが忘れ去られて、言及されずにいるということを知った。なによりも特に、コンピューターや人工知能の発達と開発の過程において。世界初のプログラマーとも呼ばれるエイダ・ラブレス(Ada Lovelace、1815-1852年)や、発明を趣味として、のちに Wi-Fi や Bluetooth に応用される技術を友人と共同で考案したハリウッド俳優ヘディ・ラマー(Hedy Lamarr、1914-2000年)のような女性がかつていたし、芸術の世界においても、コンピューターによる芸術作品の制作を行なった黎明期のアーティスト、ヴェラ・モルナール(Vera Molnár、1924年-)がいる。アインシュタインがかつて世界でもっとも重要な数学者だと評したドイツのエミー・ネーター(Emmy Noether、1882-1935年)については、言うまでもない。
★2 この小説の終わりもおもしろい。主人公のガブリエル・サイムが「悪夢」から目覚めると、こう叙述される。「本の登場人物が夢から醒める時は、たいてい、どこかそこで眠ったと思われる場所にいるものだ[……]サイムの体験はそんな夢よりもずっと心理的に奇妙なものだった[……]いつ正気に返ったかは記憶にないのだった」〔引用は邦訳より。チェスタトン『木曜日だった男』、南條竹則訳、光文社古典新訳文庫、2008年、316-317頁。〕
★3 Paul Éluard(1895-1952年)。
プラープダー・ユン
福冨渉