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    ベースメント・ムーン(7)|プラープダー・ユン 訳=福冨渉

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    初出:2022年11月10日刊行『ゲンロンβ78』
    前回までのあらすじ

     2016年、軍事政権下のバンコク。奇妙なメッセージに導かれて旧市街の廃墟にたどり着いた作家プラープダーの頭に、未来の物語が流れ込む。それは次のような物語だった。
     2062年、中国企業ナーウェイの研究者エイダ・ウォンが、人工意識の開発に成功。人工意識には人工知能と異なり、他者を「想う」力があった。その危険性を察知した政府の介入によって開発は禁止されるが、エンジニアは秘密組織「タルタロス」を結成し、人工意識と人間の意識を混合した新たな意識「写識サムナオ・サムヌック」の発明に成功する。この技術に着目した独裁国家連合体「WOWA」はタルタロスを吸収、写識を利用して世界に広がる反体制運動を殲滅しようと目論む。タルタロスのエンジニア・カマラは、ついに写識そのものを人間に搭載する技術「虚人スンヤチョン」を実用化した。
     時を同じくして、WOWAの一角をなすタイ王国では、禁止された芸術作品が引き起こす「心酔マオ・マインド」現象が、反政府運動と結びついて拡大。この運動に対抗するため、タルタロスは芸術を「想う」ことに特化した写識ムルを開発する。
     あらためて時は2069年。写識ムルのコピーをインストールされた虚人ヤーニンは、心酔現象の調査のためタイに出発する。その直前、彼女の前にカマラがあらわれ、謎めいた言葉を遺して命を絶つ。
     カマラの言動の意味を図りかねつつ、バンコクに到着したヤーニン。彼女がシャワーを浴びると、脳にインストールされた写識(わたし)の中に、かつてバンコクで結ばれたエイダの両親の、意識と記憶が流れ出す。それをきっかけに、虚人と写識に変調が生じはじめる──。

    主要登場人物

    プラープダー:2016年のバンコクで活動する作家。謎のメッセージを受信し「ベースメント・ムーン」の物語を知ることになる。
    エイダ・ウォン:最初の人工意識である「シェリー」を開発したエンジニア。その父は中国で悪名高いハッカーだった。
    カマラ:ウズベキスタン出身の17歳の少女。超人的な技術で写識のさまざまな問題を解決する。写識と親しくコミュニケーションをとる。
    シェリー:2062年に開発された最初の人工意識。人工知能だったシェリーからコピーされた「メアリー」への想いから、その意識が発現した。
    メアリー:人工知能シェリーから切り離されたコピー人工知能。シェリーの意識の発現後に廃棄されたと思われていた。
    写識エアリアル(SSエアリアル):2065年ごろに開発された最初の写識。それまで存在した4つの人工意識の手引きによって開発された。
    写識ムル(SSムル):2069年に開発された、文化と芸術に特化した写識。カマラとのあいだに友情を育む。
    ヤーニン:ムルから生まれた写識を装着した虚人の女性。任務でタイに向かう直前に、カマラが自死する現場に居合わせる。
    エドワード・ウォン:エイダ・ウォンの父。タイでエイダの母と知り合い、反政府活動に身を投じる。死の前に、自分の意識をディープ・ウェブ(「クル・ウェブ」)に移していた。
    白のガイド:中国独裁政府の、テクノロジーと安全保障におけるアドバイザー。人工意識が市民の政治統制に影響を及ぼすことを懸念し、その開発中止を進言した。

    ※本文中の[☆1]は訳注を示す。

    わたしとその他の夢見るひと(承前)


    湯気のせいで曇った鏡が、インスタント・ノーマライザーのおかげで、一瞬のうちに明るく輝く。シャワールームから出て10秒も経たないうちに、わたしの肌の水滴もすっかり乾いた。裸のままでベッドに戻る。下着と服を取って、虚人の女性に着せてやる前に、わたしは、全方位の壁を鏡に変えるよう部屋に指示を出した。立ったまま、反射するこの姿をためつすがめつする。肌、身体の曲線、胸のふくらみ、臀部、虚人のルールに則ってすっかり毛を剃ってある性器の部分の盛り上がり。わたしは「自己への没入」の時間に入りたいという要望を、客室に伝えた。宿泊客が性的な行為をおこなうために、壁に埋め込まれた人工筋細胞の映像記録の解像度を下げて、ぼやけさせることができるのだ。わたしにも許可が下りた。

    こんなおこないは規律違反だし、危険すぎる。さっきシャワーを浴びているときに形成された記憶が、この虚人の女性と、そのほかの意識からの刺激と混じって、こんな反応を起こしたのではないかと思う。けれども、確かなことは言えない。わたしは鏡に映る彼女を見つめて、腹に手を置くと、撫でるように少しずつ下げていく。左の膝を曲げて上げた足をベッドの縁に置き、股を広げる。すぐに、性器の深いところに湿ったものを感じた。わたしは下げていった中指を恥丘のあたりで止めて、ゆっくりとさすった。部屋の中でずっとかすかに聞こえているタイの国威発揚歌をかき消すべく、虚人の脳に、エリザ・マリー・ペイの音楽を流した。指先の振動を強く、速くしていく。虚人は乾き始めた唇を舐めて、まるで痛みの中にいるような、長いうめき声を上げた。初めは小さく嗄れていたものがぴくぴくと昂ぶっていき、震える叫び声で終わりを告げる。同じタイミングで尻が大きく跳ねて、粘つく液体が染み出してくる。
    絶頂を迎えた虚人の身体から力が抜けて、ベッドの服の上に倒れ込んだ。まだぜいぜいと喘いでいる。彼女が虚人からもとに戻り始めていることに、わたしは気がついた。それはもちろん、わたしの任務と意識に取り返しのつかないほどの強い影響を与えるはずだ。しかし崩壊が訪れるまでもなく、わたしと、わたしの中のさまざまな意識と、虚人の彼女のすべてが、夢にすべり落ちていった。なんらかの、謎めいた理由によって。わたしは夢を見ることがないし、虚人も、虚人としての務めを果たしているうちは、夢を見ることなどできないはずなのに。

    「わたしは夢の中でその他の夢見るひと全員のすべての夢を見る、そしてわたしはその他の夢見るひとに姿を変える」☆1。くぐもった響きの、ウォルト・ホイットマンの詩が聞こえる。

    通常、眠っている虚人が写識の存在を認識することはほとんどない。少なくとも、これまでの任務でこの点が問題になったことはなかった。とはいえ、人工意識がそのシステムから夢の謎を完全に排除できているかといえば、そうでもない。この問題の完全な解決はいまだ遠い。任務に従事する虚人の脳の働きを安定させるためにタルタロスが開発した薬は、レム睡眠時の夢の発生を抑制する効果があった。しかし組織の科学者たちのあいだでも、長期的な夢の抑制は、虚人や、ひいては写識に悪影響を与えるのではないかという議論が続いている。夢というのは、記憶や非論理的な想像からランダムに生成されているように見えるが、実際は人間の精神状態の安定や感情のコントロールと関係している。人間を用いた複数回の実験結果の分析から、そう考えられていた。もしかすると、そこに、人間の言語のまやかしを超越した、真の次元や時間軸が反映されているかもしれない。ひとは毎晩夢に触れることで、目覚めているときの、偽物の世界に束縛されているという閉塞感を癒やしているのかもしれない。

    プラープダー・ユン

    1973年生まれのタイの作家。2002年、短編集『可能性』が東南アジア文学賞の短編部門を受賞、2017年には、優れた中堅のクリエイターにタイ文化省から贈られるシンラパートーン賞の文学部門を受賞する。文筆業のほか、アーティスト、グラフィックデザイナー、映画監督、さらにはミュージシャンとしても活躍中。日本ではこれまで、短編集『鏡の中を数える』(宇戸清治訳、タイフーン・ブックス・ジャパン、2007年)や長編小説『パンダ』(宇戸清治訳、東京外国語大学出版会、2011年)、哲学紀行エッセイ『新しい目の旅立ち』(福冨渉訳、ゲンロン、2020年)などが出版されている。

    福冨渉

    1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、Prapt『The Miracle of Teddy Bear』(U-NEXT)など。 撮影=相馬ミナ
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