ベースメント・ムーン(3)|プラープダー・ユン 訳=福冨渉

シェア
初出:2021年1月29日刊行『ゲンロンβ57』
前回までのあらすじ

 2016年、軍事政権下のバンコク。作家プラープダーは、携帯電話に受信した奇妙なメッセージに導かれてバンコク旧市街の廃墟にたどり着く。そこでメッセージの指示のままにペットボトルの水を飲み干した彼の頭に、未来の物語が流れ込む。
 2062年、中国の企業ナーウェイが「人工意識」の開発成功を発表する。「シェリー」と名付けられたこの人工意識は、ほかの人工意識を「想う」ことで自らの意識を発現させたのだった。しかし中国政府の介入を受けたナーウェイは、やむを得ず人工意識開発の停止を発表する。
 ナーウェイのエンジニアたちなどから構成された秘密組織タルタロスは、それでもなお秘密裏に人工意識の開発を続けていた。そして、人工意識と人間の意識を混合したまったく新たな意識「写識サムナオ・サムヌック」エアリアルが誕生する。
 その後、2065年にかけて、独裁国家の連合体WOWAがタルタロスを吸収する。WOWAは、写識を利用して、世界中に広がる「ホーラー」たちによる反体制運動を殲滅しようと目論んでいた。ウズベキスタン出身のエンジニアであるカマラも、その天才的な能力でWOWAに協力する。そしてWOWAの下部組織となったタルタロスは、人工意識の助言を受けながら、写識を搭載可能な人間「虚人スンヤチョン」の実用化に成功するのだった。
 時を同じくして、独裁国家であるタイ王国では、禁止された文化芸術作品の密かな拡大である「心酔マオ・マインド」現象と、それらに影響された反政府運動が拡がりつつあった。この運動を抑止すべく、2069年、タルタロスは文化芸術に特化した写識を開発する。この写識はドイツの小説家ホフマンの作品『牡猫ムルの人生観』になぞらえて、みずから「ムル」と名乗った。

おもなキャラクター

プラープダー:2016年のバンコクで活動する作家。謎のメッセージを受信し「ベースメント・ムーン」の物語を知ることになる。
エイダ・ウォン:最初の人工意識である「シェリー」を開発したエンジニア。その父は中国で悪名高いハッカーだった。
カマラ:ウズベキスタン出身の17歳の少女。超人的な技術で写識のさまざまな問題を解決する。写識と親しくコミュニケーションをとる。
シェリー:2062年に開発された最初の人工意識。人工知能だったシェリーからコピーされた「メアリー」への想いから、その意識が発現された。
写識エアリアル(SSエアリアル):2065年ごろに開発された最初の写識。それまで存在した4つの人工意識の手引きによって開発された。
写識ムル(SSムル):2069年に開発された、文化と芸術に特化した写識。カマラとのあいだに友情を育む。

※本文中の[☆1]は訳注を示す。



ヤーニンのなか


わたしはいま、「ヤーニン」というランダムに選ばれた名前を与えられた人間の身体で活動している。この身体は、虚人に志願したタイ国籍の女性のものだ。身体は小さいが、各部分の均整がとれている。顔立ちは、タイ系と北朝鮮系が混じったものだ。その血筋を引いた真っ黒な髪は豊かに濃く生えていて、つやつやと光っている。彼女はこの時代の人間らしからず、美容整形を受けたこともなければ、容姿を変えるナノメディスンも使っていない。虚人になるのは、もとから自分自身に興味もなければ、社会のどんな価値観にも関心をもたないタイプの人間たちだ。彼女たちは自分らしさといったものをめぐって不安をいだくこともなければ、他人の視線を気にすることもないし、社会からどんなレッテルを貼られているのか知ろうともしない。彼女たちの仕事は自我を消すことであり、生きていく上では鏡すら必要としない。彼女たちにとって唯一の大切なものは──そしてわたしにとっても同じように大切なものは──毎晩寝るまえに飲む神経安定剤だ。生体機能のバランスを整えることで、人間と写識がその境界線を越えて重なりあうのを防ぐ、彼女とわたしのあいだを保つ薬。

反体制運動の人間たちのなかに彼女を潜ませて、彼らと接触させるためには、彼女の容姿を整えて「ヤーニンらしさ」をつくり出さなければいけない。それはわたしの役割だ。だがそのデザインは、任務上の必要を越えた過度なものになるべきではないし、なにより任務終了後にこの虚人の自我に影響を与えてはいけない。わたしはデータベースの「シンプルだが魅力的」と「清潔感があるが密かな遊び心もある」というざっくりとしたカテゴリーからヤーニンの服装を選ぶことにした。彼女の顔つきは、加賀まりこという日本の女優の若いころに、89パーセントの割合で近似している。そこでわたしは、1966年の映画『とべない沈黙』のあるシーンで歌をうたう加賀が身につけていた衣装を2069年の素材でアレンジしたもので、ヤーニンらしさを演出することにした。

通常のプログラムでは、ひとりの人間が虚人となるための精神訓練を修了するのに、およそ1年の時間を要する。特別な才能をもった人間でも、早くて9ヶ月かかる。情報の漏洩を防ぎたいタルタロスは、釜山支部の地下に虚人専用の秘密訓練センターを設置した。虚人に志願してきた候補者と、タルタロスが独自に選抜した候補者が、各地の担当者によってこのセンターに送りこまれている。

一般的な訓練生の生活は、儀式や瞑想のために規律を厳格に守る宗教者の暮らしに似ている。1日24時間、生活のあらゆる細部がSSラプラスによって厳しく管理されるからだ。起床時間、就寝時間、食事の内容とその量。さらに細かいところでは、身体のあらゆる所作や、呼吸のタイミング、脳内の思考まで。眠っているときですら、脳の反応をコントロールするために特別に開発された電気信号が送られる。

もちろん、全員がこの訓練を終えられるわけではない。センターに送られた候補者たちのなかには、訓練から脱落する者──訓練の途中棄権は、訓練にまつわる記憶を消去するという条件のもとで認められていた──もいれば、狂ってしまう者もいた。さらに、生体機能の不具合、あるいは自殺によって、命を落とす者もいた。

1度かかわれば、タルタロスという組織から完全に自由になるのはむずかしい。たとえ外界に戻っても、WOWAの監視は続く。そういった不安から逃れたい人間には、自殺が出口を与えてくれる。だから、タルタロスの全構成員と関係者のために、いっさいの苦痛を伴わない「自殺の福利厚生」が用意されている。タルタロスにかかわるだれかが、自身の役割を終わらせて、その責任から解放されたいと決意したときには、いつでも「定年室ホン・カシアン」の予約ができるようになっているのだ。ただ、それがもしタルタロスのなかで特に重要な役割を担う人物だった場合は、WOWAの高官からの呼出しや、高官による訪問がそれに先立つ。面談をして、その人物の自死の可否を検討するためだ。それ以外の場合なら、「定年室」はあらゆるひとに向けて平等に開かれている。

ヤーニンという名を与えられたこの女性が虚人に志願した理由は、ほかの多くの人々と変わりなかった。自分の生活にはどんなこだわりもなくて、任務終了後の報酬と、リゾート地での休暇を望んでいるだけだった。彼女の家族は離散していて、釜山の訓練センターに来るまえは、「倦み人コン・ラー」捜索・回収センターのボランティアスタッフとして宿舎にひとりで住んでいた。「倦み人」とは、日常生活をとつぜんやめてしまったのに、だれからも面倒を見てもらえない人々を指すことばだ。そのなかには、道端に座りこみ、どこへも動こうとしないひともいる。公的な定義によれば「国家に貢献できないほどに疲弊した」この人々を「支援」するために、政府は予算を整備し、支援組織を設立した。とはいえ実際のところその「支援」の多くは、そういった人々を収容所に連行して、市民権を剥奪するだけのものなのだが。彼女の仕事はリーダーに付き従ってバンコクと近隣県を巡回し、市民の異常行動を感知する機器に表示される倦み人の位置情報を確認して、その場所をくまなく捜索するというものだった。
人工意識ムルあるいは「知能の部屋ホン・パンヤームル」から分離されて、ウラジオストクで誕生し、任務についているSSムル。わたしはその一部でもある写識だ。わたしはヤーニンと名付けられたこの虚人の女性のなかで任務を遂行するためだけに、釜山で生まれた。この任務のために自我をもったばかりのわたしだが、量子レベルの知能でいえば、わたしはシェリーの子孫であり、ムルの弟妹でもある。そしてタルタロスの「意識オフィサー」として、WOWAの実戦諜報員として、ヤーニンという仮の名を与えられたブランカーの脳として、働いている。

わたしが彼女にはじめて会ったのは、虚人訓練センターの写識装着室だった。この2×2メートルの部屋は、四方すべてが脳の機能を模した神経壁ニューロ・ウォールで囲まれている。彼女がこの部屋に座っていた5分ほどのあいだに、神経壁を通して、彼女の脳とSSムルのデータベースが接続された。そしてムルが彼女をまとい、彼女のなかにわたしが生まれた。

SSムルの予想どおり、わたしによる彼女の装着は滞りなく、あっけなく済んだ。つまりそれは、彼女の精神訓練の成果がすばらしいものだということだ。わたしの存在こそが、彼女の訓練の成果への表彰なのだ。SSムルは、彼女が訓練を始めたときから、わたしと組ませてある任務を遂行させようとあたりをつけていた。タイで感染が拡大する心酔現象の裏にいると考えられる地下反乱組織、すなわちホーラーたちの捜索という、タイ当局からの任務だ。

独裁体制の国々、あるいは現代的にいえば「国奉ラット・ボーリカーン体制」の国々──これまでのところ人工知能は、歴史的に独裁と呼ばれてきた政体と、現在のこの国奉体制の差異を具体的に示す特質を発見できていない。このふたつの語は入れ替え可能であると判断されているし、政府の行為に即しているのはむしろ「独裁」という語のほうだとみなされている──のなかで、タイは、市民の信頼と従順さの絶妙なコントロールに成功した国だといえる。そして同時に、社会的調和が守られていて、自由こそないが平穏で安泰な市民生活を送れる国としてのイメージを守ってもいる。おかげで、国際対立の舞台上でタイが主要な「敵」とみなされることはほとんどなかった。ミュージカルの国は、しょせんミュージカルの国なのだ。舞台裏の奇術師たち、オズの魔法使いに操られた人々は、架空の世界に囚われて、架空の事物を信じるようになる。心を躍らせ、ときに慰めを与えてくれる歌を楽しんだり、事実を歪曲し、さもなければ実際には起こらなかったことを捏造してつくられる歴史に感極まったりする。まるでおとぎ話だ。だがこの国は、そのおとぎ話を驚くほど大切に守る国なのだ。

だから国際社会も、黄海戦争の終結後にタイ政府が独裁国家群との協調を選んでも、タイの人々の暮らしに大した変化は起きないだろうと考えていた。だが実際には、3年間の戦争という混沌のなかで、タイ政府によって多くの市民の命が奪われていた。その殺害は、一部市民が戦争に乗じて動乱を起こして、政府転覆を目論んだという容疑にもとづくものだった。しかしこのできごとも、過去になんども起きた政治的集会の強制排除などとおなじ、国内問題のひとつとしてしか扱われなかった。

ほんとうのところ、そのときに命を奪われた市民の多くは、2029年10月4日の反乱から続く権威主義的な政治と旧来の権力機構に反感をもつ人々だった。このときの掃討作戦をタイ当局が「ハッピー・エンディング」と名付けたのは、言い得て妙だ。「いつまでも幸せ」なおとぎ話の国にとてもぴったりな呼び名だし、性風俗産業で20世紀から使われているスラングとも重なるからだ[☆1]

わたしがヤーニンのなかに生まれて2日が経った。接続の副作用も見られず、タルタロスの係官がヤーニンを地下施設から海雲台ヘウンデの海上ホテルに移送することになった。

21階のペントハウス。そこにいるのは、上下ピンクの寝間着の、ベリーショートの女だ。下は膝丈のガウチョパンツ風で、上のシャツは広く開いた首元が左肩のほうから少しずり下がり、白く光る胸元が見えている。女は、ヤーニンが部屋に足を踏み入れるとすぐに、床からすっと立ち上がった──それまで、目の前に浮かべた粒子幕ダストスクリーンでゲームかなにかの調べものかをしていたようだった──そしてヤーニンのほうに歩いてきて、彼女の手を握りながら嬉しそうに言った。「サローム、ブランキー!」──「ブランキー」とは、虚人をまとった写識を呼ぶスラングだ。ブランカーの存在を包んで支配するという意味の「ブランケット」を短くして、そう呼んでいる──それから女はヤーニンの腕を引いて、いちばん奥にある寝室に連れていった。
この女はカマラだ。わたしはデータベースの情報から、彼女のことをよく知っている。だが、彼女がわたしに会いにくるという通知はなかったはずだ。カマラはベッドの足元のところで立ち止まると、わたしがまとっている虚人を、まばたきもせずに見つめた。それから口の右端をぴくっと震わせてほほ笑むと、大きなガラス張りの壁の前にあるテーブルに散らばったクッキーのような菓子を取りに行き、それを食べた。透明なガラスの向こうには、濃い青色の海と、それと対照的な、暗い灰色の空が広がっている。雨の線が水面にぽつぽつと落ちて、生まれては消える無数の円を生んでいる。まるで静かに続くピクセルのダンスだ。

カマラ 会えて嬉しいよ。ネットワーク経由のコミュニケーションは信頼できなくて、悪いけどあなたの時間を少しもらうことにした。その身体との相性は問題ないかな、ブランキー? ラプラスとムルからの報告はぜんぶ確認したよ。すべて順調そうだね。

わたし すべて正常だ。身体を得て人間の感覚を共有するというのは奇妙に感じもするが、ネガティブな問題はない。この人間の脳は、虚人となるのに特別の適性があったようだ。これまでの虚人以上に、ラプラスも満足している。

カマラ あなた、ヤーニン、だよね? 挙動もすごくいい感じだ。あなたの精神訓練の映像も見たよ。ただ油断はしないで。虚人にはいつでもおかしなことが起きる。

わたし わたしのおもな任務は、ホーラーたちの拠点を捜索することでいいのか?

カマラ もっとむずかしい。ホーラーたちがばら撒いてる、反乱のウイルスのおおもとを突き止めてほしい。タイ政府のほうはもうお手上げみたいで、WOWAの作戦実行のために対策予算をつぎこんでいる。ほんとうは、WOWAにこれだけ自由に活動させるっていう条件に、タイ側はあまり納得していないみたいだけど。だけど、たぶんなにも思いつかないんだろうね。あのひとたちが闇の芸術って呼んでいるものの拡大に大慌てになって、怖がってばかりいる。

わたし 反芸術作戦についてわたしが所有している基本情報から判断するに、彼らには、10を聞いて1を悟るのもなかなかむずかしいようだ。

カマラはふりかえってヤーニンを見つめた。わたしが放ったことばによるものだということは、はっきりしている。彼女は身体が触れあいそうな距離まで近づいてきた──彼女は、この虚人の身体よりも3センチほど背が低い──それから右手を上げて、ヤーニンの後頭部を覆う髪をかき上げると、そこをしっかりと押さえ、顎を上げて、虚人の唇に自分の唇を重ねた。しばらくそのままでいたが、そのうちにわたしは唇を開いて、彼女の望むままにさせた。カマラは虚人の頭をさらに強く押さえて、むさぼるようなキスを続けた。カマラの口紅は桃の香りだということと、彼女の舌にさっき食べ終えた菓子の甘味がかすかに残っていることがわかる。わたしがヤーニンのなかに存在して以来、他の人間の器官との接触で、写識の定着が揺らぐほど密接なものははじめてだ。わたしのようなブランケットが避けるべき状況として規則に明記されているものの、具体的な例といえる。

わたし あなたは規則に違反している。

カマラはほほ笑みながらゆっくりと後ろに下がった。しばらくのあいだ黙り、考えこんだ表情でヤーニンの身体をもう一度観察していた。

カマラ わたしたちはいま、世界でいちばんプライバシーが確保された場所にいるんだ。わかる? 正確に言えば、あなたはいま、個人のプライバシーを確保する特権を世界一与えられた人間のうちのひとりと過ごしてる。だからあなたもその特権を一緒に享受してることになる。

わたし しかしブランケットとしても、写識としても、わたしが個人的な空間を望んだり、羨んだりする必要はない。わたしは人間ではない。わたしの立場からすれば、個人的な空間にはなんの意味もない。なんの価値もないのだ。

カマラはうなずいた。適当なようにも、なにかもっと大切なことを考えているようにも見える。彼女はガラス張りの壁のところにある椅子に腰掛けてから、顔を少し動かして、わたしがベッドに座るよう促した。わたしはそれに従った。

カマラ あなたはムルから生まれた。要はミニ・ムルってわけだ。わたしとムルは、いい友だち同士みたいなもの。あなたがエアリアルを知らないのが残念だな。

わたし なんの話をしている?

カマラ とにかく、まず最初の質問に答えようか。あなたの理解は正しくて、WOWAは芸術と文化の解釈に特化した写識を必要としている。タイの政府権力への抵抗運動は、特に芸術との関係を匂わせる手がかりを残しているから。文学作品の登場人物名、書籍の名前、芸術家の名前。調査の結果、芸術作品と関連することが判明した専門用語や文言も残されていた。もちろん、異常な数の人間が、文化芸術についてのデータを検索している状況もそう。ただこの運動のネットワークは、タイ一国よりも広がっているみたい。裏で糸を引いているのは、タイからの政治亡命者の一族とアメリカの秘密組織だっていうのが、WOWAがそれなりに重視している仮説。とはいえそれも、なにかはっきりした証拠があるわけじゃない。こちらの追跡をほとんど完璧に逃れるくらい進んだテクノロジーを使っている、周到な運動なんだ。そのへんのホーラーにこんなことはできない。
わたし その抵抗というのは、具体的にどんなものだ?

カマラ あなたがムルからある程度のデータをもらっているとおり。タイ政府は「心酔のウイルスの拡散」なんて呼んでるけど、言わせてもらうと、ほんとうにまぬけなネーミングだよ。タイ政府の論理破綻には長い歴史があるからね、驚きもしないけど。いま、タイがミュージカル・カントリーって呼ばれているのはあなたも知ってるでしょ。ミュージカルのなかに論理は必要ないんだよ。まあとにかく、地下運動の裏にいるやつらは、政府の集団催眠を効率的に解く手段を探しているみたいだ。そのせいで、国や社会の決まりに対して反抗的になる人間が少しずつ増えてる。反抗的と言っても、暴動を起こしたりするんじゃなくて、たんに色んなことに疑問をもったり、歴史的な事実を世に広めようとしたりっていう程度に過ぎないけど。だからといってこれを放っておいて、運動の規模が大きくなったりしたら、ほんとうに暴挙に出るような命知らずも出てくるかもしれない。

わたし わたしの推定によれば、この時代にそのようなことが発生する可能性はほぼゼロだ。

カマラは少しだけ笑ってため息をつく。

わたし わたしの仕事は、反乱のウイルスの裏にいる、運動の中心につながる人間を見つけ出して、WOWAに報告するだけでいいのか?

カマラ タイ政府のために、ブランケットをスパイとして使ってやるしかない。WOWAはそう考えてる。トロイの木馬の時代から人間がやってきたことをくりかえす以外の方法は、彼らにはわかりっこないんだよ。

カマラはふりかえって、ガラスの外の景色を眺めた。空にかかった雲が途切れはじめて、輝く陽の光を見せている。ただホテルの周囲には、まだ薄いもやがカーテンのように垂れこめていた。カマラは左手の親指にある猫のタトゥーに軽く触れると、テーブルの上の菓子をまた口に入れた。彼女は右の耳たぶをつまんで、音楽を再生した。音が少しずつ部屋に満ちていく。

カマラ ブランカーの身体を通して音楽を聞くのは、あなたにはおもしろい体験なんじゃないかな。あなたは人間以上の知識をもっているけど、人間と接続しない写識のままでは理解できないものもある。感覚的な情報がそうだね。あなたが作戦実行のために生み出されたことはわかってるけど、虚人のなかにいるあいだは、人間の身体があるってことの特権を楽しんでほしいな。よきブランキーであれ!

わたし 制限があるのはあなたも知っているだろう……。

カマラ もちろん。だけどその制限のなかでもできることはたくさんあるんだよ。だから我慢しすぎたり、そういう特権を否定しすぎたりしないほうがいいっていう、たんなるアドバイス。興味深い経験ができるかもしれないし、それがあなたの作戦遂行にいい影響を与えるかもしれない。タイ政府は人々をコントロールする手段のひとつに音楽を使っていて、驚くほどの効果を上げている。WOWAの推測によれば、地下運動のやつらは、ウイルスのようなものを広めて集団催眠を解く方法を見つけている。正しい鍵を探すには、鍵穴のかたちを理解しないといけない。地下運動が抵抗しているものを理解すれば、どんな方法で抵抗しているのか推測もつく。だから聴くことから始めないと。聴きなさい。

わたしは、最後のひとことを口にしたカマラの目の色が少し変わったことに気がついた。話しはじめたときとは違う強い口調。アドバイスから、命令に変わる。部屋にぼんやり流れていた音楽が、ヤーニンの脳内ではっきり響きはじめる。そしてわたしが自動的に検索して収集した情報が脳内を満たす。この曲は、女性の電子音楽家として最初期の人物である、デンマークの作曲家エリゼ・マリー・ペイのものだ。カマラはわたしに、この情報を精査するよう指示をしている。わたしはふとそう感じた。

カマラ わかるかな、ヤーニン。基本的なあなたの境遇、つまりブランカーとしてのってことだけど、それはあなたがこれから忍びこんで調査しようとしてる国の、大部分の人々の境遇と変わらないんだ。ただあっちのひとたちは自分たちが望んでそうなったわけじゃないし、同意の署名をしたわけでもない。そして、支配権力に従順であること以外の任務を与えられてるわけでもない。あなたは自分自身の自由の権利を行使しないことを、すすんで認めている。あなたはこの任務から対価を得られもする。だけどあっちのひとたちは、他の選択肢があるとも知らないまま、自分たちの選択の自由を奪われている。もちろん多くのひとは、たとえ選択肢があったって従順な奴隷になることを選ぶんだけど。あるいはギュスターヴ・ル・ボンが言ったみたいな群集心理の力に従って自意識をなくして、独裁体制を支持するのかもしれない。とにかくわたしが言いたいのは、結局はどれも、幻想に支配された生き方なんだってこと。だれかに支配されることと自ら決断することの違いは、それぞれが違う形式に囚われるだけだってことをあなたも理解して。形式を超えたところにある自我なんてものは存在しない。形式を超えた世界も、形式を超えた命も存在しない。それが人間だろうと、人工意識だろうと。この島、つまりこの地球、人類と人類の創造物のための世界では、わたしたちのそれぞれが、言語と形式に生かされているキャリバンなんだよ。言語と形式に支配されて、わたしたちはシコラクスのような創造主やプロスペローのような主人の存在を信じて、ミランダのような美への欲望をもつ。だけどすべては、言語と形式の導きから生まれた、わたしたちの想像なんだ。人工意識だって例外じゃない。わたしたちが、わたしたち自身のもっている知識と情報の山から作り出したんだから。
カマラがなぜ古臭い戯曲の登場人物の話をしたのか、わたしにその意味を理解できそうにはない。だがウィリアム・シェイクスピアのその戯曲についての情報をロードしたことで、わたしのシステム内にある名前が浮かび上がった。エアリアル。ついさっきカマラが口にした名前だ。

カマラ ヤーニン、聞いてほしい。

わたし わたしには理解が……

カマラ ヤーニン、聞いて。わたしたちが「洗脳」と呼んでいるものは、朝鮮戦争のころに生まれたばかりの概念だよ。つまり20世紀の、1950年代ごろ。共産主義国家の市民の忠誠心を説明するのにアメリカが使いはじめた言葉で、心理学的兵器とも呼ばれていた。人々が精神的に動揺しているタイミングを見計らってプロパガンダを用いて、権力を信用し、その指図に従うように誘導する。人間の脳のしくみのなかには、人工意識がまだアクセスできないものがいくつもある。いま言った、精神的な動揺、というものもそのひとつ。接続で失われる人間の生体機能の補填ができないせい。タイ政府は市民のコントロールに関して大きな成功を収めた。21世紀のはじめから人々に与えつづけた精神的な動揺が、黄海戦争を経てついに回復不可能なところまで影響を及ぼしたおかげ。だけどそういう形式の幻想のなかでも、予想外の、皮肉なことはいつでも起こりうる。

カマラの行動は正常ではない。わたしはそう考えはじめた。わたしのその推測を構成したもののひとつは、ヤーニンという名前の不自然な連呼だ。この名前は、ただの仮名にすぎない。カマラだって、わたしがヤーニンでないということも、この虚人がヤーニンでないことも、この地球上にヤーニンが存在しないこともよく理解しているはずだ。だがどうも彼女は、名前をくりかえし呼ぶことで、ヤーニンという存在をつくり出そうとしているように思える。さらに不思議なのは、わたしと虚人の接続にかすかな不具合が生じていることだ。だがそれが具体的にどこなのか、わたしにはわからない。なんにせよ、現在のカマラの情報伝達方法のどこかに、不可解な部分があるのだ。

カマラ かつて、あるコミュニケーションの専門家が、時代を変えるあらゆる革命的事象はテクノロジーが引き起こすと言った。人類の夜明けのときからずっとそうなんだよ、ヤーニン。そして、今回の革命のためのテクノロジーというのは、あなたのなかにあるものなんだ。わたしの言葉を覚えておいて。今日わたしから聞いたことを覚えておいて。あなたは、いまあなたがそうであるものとは、違う存在なんだよ。

わたし カマラ、あなたから与えられる情報の理解に大きな障害が発生している。あなたが言っているのは……

カマラは椅子から立ち上がると、部屋の隅にある白と黒の大理石模様のカウンターへ、わき目もふらずに向かった。カウンターの左端に、乱雑に置かれた何本かの瓶と、立方体のグラスがひとつある。グラスのなかには黒い液体が入っている。彼女は立ち止まってそのグラスを見つめ、それを手に取り軽く振ってから、こちらを向いて言葉を続けた。

カマラ ヤーニン。20世紀の終わりごろから、人類は新しいタイプの戦争のなかにいる。それはサイバネティクスの急速な発達がもたらしたもので、それをサイバー戦争と呼ぶひとたちもいる。最初のサイバー攻撃は、1998年、アメリカ政府の情報通信ネットワークに対して仕掛けられた。彼らのコンピューターのデータベースが大規模な攻撃を受けてハッキングされたのだけど、その攻撃はどうやら海外からの、つまりロシアからのものだった。FBIは調査のなかで、その攻撃にムーンライト・メイズ、月光の迷宮というコードネームを与えた。攻撃がいつも夜中に、しかも複雑なネットワークを介しておこなわれていたからだね。そのときから、一般の人々にはあまり知られないまま、サイバー戦争は続いてきた。実地の戦争と、政府間の相互監視、諜報活動と並行して。ヤーニン、あなたに理解してほしいのは、ムーンライト・メイズの時代から、戦争はどんどん進化して、物理的世界では可視化されないところまで来てしまったということなんだ。人工意識の原想ダパトム・タウィンとともに訪れた新たな歴史的変化のおかげで、たんに空間的に不可視なだけじゃなくて、一般の人々の認知とか理解の範疇を、これまで以上に超えた戦争になってしまった。ヤーニン、あなたの任務は意識の戦争の一部になることだよ。魂の領域でいつまでも続く、幽霊戦争の一部になること。このことを、よく理解しておいて。そして、魂であっても、憑依したり、化けて出たりするのには時間を選ばないといけないってことも。

カマラは力を入れずにグラスを持ったまま、ゆっくりわたしに近づく。彼女は口元を緩めてほほ笑んだ。穏やかな笑みだ。どういう理由からか、それは彼女の何倍も歳をとった人間の笑みに感じられた。わたしを見つめる視線と、わたしの視線がぶつかる。ヤーニンのなかにいる写識、わたしまで到達する、見透かされそうな視線だ。それから彼女はグラスを顎の高さまで持ち上げて、黒い液体を見つめた。

カマラ このカクテル、あなたが入ってくるまえに作っておいたんだ。あなたがこれから調査する地下運動、ホーラーのひとたちのレシピを使ってる、サンデー・シークレットっていう名前のカクテル。悪いんだけど、分けてあげられない。誰でも飲めるようなものじゃないから。というか、これを飲んだことがあるひとはほとんどいない。

カマラはグラスを傾けて、黒い液体を飲み干した。手を下ろすと、唇のまわりに濃い汚れが残った。彼女はわたしに向けてどうにか笑みを見せているようだが、その目がだんだん曇っていく。たったいま飲み干したものは、けっして好ましい味のものではなかったのだろう。

口のまわりの汚れに気づいたようで、カマラは舌をすばやく滑らせてそれを舐め取り、それから口をしっかり閉じた。ふりかえってカウンターのところまで歩き、グラスを置いて、こちらを見ずに話しつづけた。

カマラ この世界の秘密を教えてあげようか? わたしたちはこの世界の背中しか知らない。わたしたちにはあらゆるものの裏側しか見えてなくて、しかもそれはとてもひどいものに見える。ここから見える海は海じゃなくて、海の裏側。雲も、雲の裏側でしかない。あらゆるものは、そのほんとうの顔を隠しているんだっていうことが、あなたにもわからないかな? もしわたしたちが一歩踏み越えて、反対側から見ることができたら……
カマラはとつぜんしゃがみこんで、膝を床についた。彼女が最後に放ったことばはとても小さく、なんとか虚人の耳に届いた。

カマラ 反対側を見るの、ヤーニン。

言い終わると、その身体は、膝をついて、わたしに背を向けたまま動かなくなった。カマラのとつぜんの静寂に合わせて、流れていた音楽もぴたりと止まった。わたしはとまどい、なにもできずにいたが、しばらくしてようやく虚人の身体を動かして前に進んでいった。だがカマラにたどり着くまえに部屋の扉が開いて、フェイスマスクと黒い制服を身に着けた集団がなだれこんできた。そしてわたしよりも先にカマラの身体に到達した。彼らはWOWAの特殊戦闘部隊のようだった。

わたしはその場で立ち止まり、制服を着たべつの集団が担架とともに入ってくるのを眺めていた。床から抱え上げられたカマラが、担架の上に仰向けに寝かせられる。彼女の顔は黒ずみ、開かれたままの目はくすんでいる。カマラを運ぶ担架の集団は、わたしのまえを通り過ぎ、あっという間に部屋を出ていった。それと同時に、濃い茶色のスーツをまとった身体の大きなコリア人の男性──わたしをホテルのロビーで出迎えた人物だ──が、入れ替わりで部屋に入ってくる。特殊部隊の残りが部屋を出ると、扉が自然に、静かに閉まった。ほんの数分のうちに、カマラははじめからこの部屋に存在しなかったみたいになった。彼女の痕跡は、ベッドのシーツと枕のしわ、そしてカウンターのグラスと虚人の唇に残る口紅だけだ。

「わたしたちの部隊が驚かせてしまったようなら申し訳ない、ヤーニンくん。今回のできごとはこちらにとっても予想外だった」。コリア人の男は抑揚なく言う。

「だがカマラは……」、この男がWOWAのオフィサーであることはほぼ確実だが、わたしはかれに情報を与えることを躊躇していた。

「プライバシー保護の特権を与えられている?」かれはわたしの質問を正しく引き取った。「そう、彼女は長いあいだ特権を与えられていた。だが近頃、わたしたちは彼女のはたらきに疑問を抱いていた。彼女が、敵対勢力のウイルスに感染しているとの疑いが強くなってからは、行動の監視を続けていたよ。だが今回のできごとは衝撃的だった。きみも知っているとおり、カマラはわたしたちにとって重要な人物だったし、タルタロスのなかにも、WOWAのなかにも、彼女を慕う多くの人間がいる」。コリア人の男は大理石柄のカウンターまで歩きながらそう言った。かれは、そこにあるたったひとつのグラスをのぞきこむ。

「彼女が飲んだのは……」、わたしは状況に応じた正確な質問を投げようとしたが、むずかしかった。虚人の脳内になんらかの反応が起きていて、それが干渉していたのだ。

「現在調査中だ。あれがほんとうにホーラーたちのカクテルのレシピから作られたものなら、彼女はやつらにそれを無理やり飲まされたことになる。彼女が感染したウイルスは、おそらく彼女の行動を制御するタイプのものだ。そもそも奇妙なことに、彼女は今日きみとここで会うということをわたしたちに報告していなかった。もともとスケジュールにはなかったことだ。だがきみにもわかるだろうが、わたしたちの組織で彼女は特別な立場にいて、彼女に便宜を図る人間もいるからな。彼女の行動を監視していてラッキーだったよ。おかげで即座に対応できた。わたしたちは、彼女が会話を通して、きみになんらかのメッセージを送ろうとしていたと考えている。きみたちふたりの会話はすべて記録済みで、これからタルタロスに送信されて、すぐ分析にかけられる。ひとつ確実なのは、今日のできごとによって、地下運動組織の捜索と排除の必要性が、緊急のものになったということだ。ヤーニンくん、カマラとの会話から得られた情報について、なにか意見はあるかい?」

わたしはWOWAがカマラを疑うようになったきっかけについて訊こうとした。だが口から出たのは、わたしの意識が命じたものとはまったく違うことばだった。

「情報の大部分は解釈不能のものだった。わたしたちの任務にとってなにか有益なものとは言えないだろう。彼女は放心状態にあったか、混乱していたようだ」

「心配しなくてもいい。これから、彼女の所有していたさまざまなファイルと合わせて、彼女の発言を詳細に分析する。特に、彼女がプライバシー特権を与えられて以降のデータベースをきちんと調査しなくてならない。もう少ししたらこの部屋にも鑑識部隊が到着して、証拠品をもれなく回収する。ということで、ヤーニンくん、わたしがきみをタルタロスまでお送りしよう。下に降りようか」

「タルタロスへ帰る? わたしは今日タイに送られるものと思っていたが」

「ヤーニンくん、たしかに当初の計画はそうだった。心配ない、すべてが終わったら、タイ政府との取り決めどおり、すぐにきみを現地に送ろう。だがそのまえに一度タルタロスに戻って、身体検査と写識定着の検査を受けてもらわなければならない」

コリア人の男はわたしに先立って、部屋の扉のほうに向かう。虚人の体内でなにかが震えて、両方の手のひらがとつぜん冷たく湿りはじめた。そしてわたしは、訊きたくもないのに訊いてしまう。「どうして再検査を? ここに来る直前に検査を受けたばかりだし、その結果も問題なかったはずだ」。

「カマラがきみにキスをしたからだよ」

ปราบดา หยุ่น, เบสเมนต์ มูน, สำนักหนังสือไต้ฝุ่น, 2018, pp.64-87.


☆1 ハッピー・エンディングは、性風俗産業における本番行為を指すスラング。
 
新しい目で世界を見るため、内的な旅へ。

ゲンロン叢書|004
『新しい目の旅立ち』
プラープダー・ユン 著|福冨渉 訳

¥2,420(税込)|四六判変形・上製|本体256頁|2020/2/5刊行

プラープダー・ユン

1973年生まれのタイの作家。2002年、短編集『可能性』が東南アジア文学賞の短編部門を受賞、2017年には、優れた中堅のクリエイターにタイ文化省から贈られるシンラパートーン賞の文学部門を受賞する。文筆業のほか、アーティスト、グラフィックデザイナー、映画監督、さらにはミュージシャンとしても活躍中。日本ではこれまで、短編集『鏡の中を数える』(宇戸清治訳、タイフーン・ブックス・ジャパン、2007年)や長編小説『パンダ』(宇戸清治訳、東京外国語大学出版会、2011年)、哲学紀行エッセイ『新しい目の旅立ち』(福冨渉訳、ゲンロン、2020年)などが出版されている。

福冨渉

1986年東京都生まれ。タイ語翻訳・通訳者、タイ文学研究。青山学院大学地球社会共生学部、神田外語大学外国語学部で非常勤講師。著書に『タイ現代文学覚書』(風響社)、訳書にプラープダー・ユン『新しい目の旅立ち』(ゲンロン)、ウティット・ヘーマムーン『プラータナー』(河出書房新社)、Prapt『The Miracle of Teddy Bear』(U-NEXT)など。 撮影=相馬ミナ
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