イスラームななめ読み(6) 日本・イスラーム・文学──中田考『俺の妹がカリフなわけがない!』について|松山洋平
初出:2022年1月26日刊行『ゲンロンβ69』
野蛮な物質主義の西洋による植民地支配からアジアの諸民族を解放しなければならない。そして日本民族の指導の下に、アジアの全ての民族が、東洋の深遠な精神文明、民族と宗教の自治を認める多元的イスラーム法に基づいて共存共栄する王道楽土。それが真人祖父さんが夢見た大日本カリフ帝国だった。[★1]──中田考『俺の妹がカリフなわけがない!』より
筆者は、本コラムの第3回「大日本帝国の汎イスラム主義者」において、戦前・戦中に日本とイスラームの間に存在した浅からぬ関係に触れた[★2]。日本はかつて、世界のイスラーム教徒に対してジハードを称揚し、彼らに、日本の戦う「聖戦」に加わるよう呼びかけた。西方のイスラーム教徒の多い植民地では、彼らのための福利厚生施設を建設し、学校では「イスラーム教育」と呼んでも差し支えないような内容の教育も施している[★3]。日本内地では、イスラーム諸国についての知識を国民に普及させる政策も実施され、官・民・軍の協力により、東京にモスクが建てられもした。かつて日本では、「回教徒」という、宗教的な紐帯によって成立する(と想像された)勢力との共闘が、大東亜の秩序を確立するために必要であると喧伝されていたのである。
しかし、今日の日本においてこれらの事実は忘れ去られている。
臼杵陽(日本女子大学教授、1956年生まれ)は、日本でときおり現れるイスラームへの(わずかながらの)関心が常に一過性のものとして過ぎ去っていくことを、以下のように指摘している。
「イスラームとは何か」という問いが国民的な関心の的になったのは「九・一一」事件が最初ではない。一九七三年の石油ショック、一九九〇-九一年の湾岸危機及び湾岸戦争など日本を揺るがす事件が起るたびに、「忘れ去られたイスラーム」を救い上げようとする動きが起こった。にもかかわらず、その都度イスラームが「問題」としてしか設定されず、突然思い出したかのように、短期的に解決されるべき一過性の事態として認識されてきたのは何故なのかを改めて問い直す必要がある。[★4]
鈴木規夫(愛知大学教授、1957年生まれ)もまた次のように言う。
ここで鈴木は、戦中日本でイスラーム研究が盛んになり、終戦によってその熱が冷めたのは社会的要請の有無によることに理解を示しつつも、戦後の社会でそうした事実があたかも存在しなかったかのように「忘却」されていることを問題視している。
さて、この「忘却」を成立させるさまざまな要因のひとつが、日本とイスラームをつなぐ文学的表象の不在であると考えることは、おそらく不可能ではない。
柳瀬善治(広島大学大学院准教授、1969年生まれ)は、戦前期の日本とアジアの関係が想起される際に、〈回教〉という問題群が忘却される事実を指摘し、まさに、この忘却についての日本文学および日本文学研究の責任を難じている[★6]。
柳瀬によれば、日本には戦前より、「〈回教〉をめぐる膨大な言説、ジャーナリズム・交通・技術・歴史・政治・資源などあらゆる分野にいたる広がり」[★7]が存在した。にもかかわらず、日本文学者はイスラームをまともな形で表象しなかった。
同時に、日本文学研究者は、日本文学におけるイスラームの表象のありかた──あるいはその奇妙な不在──の問題に「徹底的に無関心」[★8]であり続けた。日本の「複数の戦後」あるいは「複数の戦前」の中に確かに存在した〈回教〉という問題群を無視する態度を、「アクチュアリティからの逃避」[★9]として柳瀬は批判する。
一九三〇年代に組織化されたイスラーム研究自体は、あきらかに時流に乗ったのであり、敗戦後はそれに乗らなかっただけなのだ。ただ、それがあたかもなかったことのようにされてきた、つまりは「忘却」を導いてきたような、敗戦後の日本社会の心性には、何かイスラームとの関わりを否認せざるをえないような病理があると疑ってかかってもよいのではないだろうか。[★5]
ここで鈴木は、戦中日本でイスラーム研究が盛んになり、終戦によってその熱が冷めたのは社会的要請の有無によることに理解を示しつつも、戦後の社会でそうした事実があたかも存在しなかったかのように「忘却」されていることを問題視している。
さて、この「忘却」を成立させるさまざまな要因のひとつが、日本とイスラームをつなぐ文学的表象の不在であると考えることは、おそらく不可能ではない。
柳瀬善治(広島大学大学院准教授、1969年生まれ)は、戦前期の日本とアジアの関係が想起される際に、〈回教〉という問題群が忘却される事実を指摘し、まさに、この忘却についての日本文学および日本文学研究の責任を難じている[★6]。
柳瀬によれば、日本には戦前より、「〈回教〉をめぐる膨大な言説、ジャーナリズム・交通・技術・歴史・政治・資源などあらゆる分野にいたる広がり」[★7]が存在した。にもかかわらず、日本文学者はイスラームをまともな形で表象しなかった。
同時に、日本文学研究者は、日本文学におけるイスラームの表象のありかた──あるいはその奇妙な不在──の問題に「徹底的に無関心」[★8]であり続けた。日本の「複数の戦後」あるいは「複数の戦前」の中に確かに存在した〈回教〉という問題群を無視する態度を、「アクチュアリティからの逃避」[★9]として柳瀬は批判する。
明治・大正のムハンマド伝
もっとも、戦前および戦中の日本に、イスラームを取り上げる文学作品が全くなかったわけではない。むしろ、今日わたしたちが何気なく想像するよりも、その表象は豊かであったと言えるかもしれない。
たとえば、明治・大正の日本で、ムハンマドの伝記が何冊も出版されている──坂本健『麻謌末』(1899年)、池元半之助『マホメットの戦争主義』(1903年)、忽滑谷快天『怪傑マホメット』(1905年)、松本赳『マホメット言行録』(1908年)、口村佶郎『創作・野聖マホメツト』(1923年)、坂本健一『ムハメツド傳』(1923年)など[★10]。
筆者の手元に、仲小路彰(1901年生まれ、1984年没)の『砂漠の光』(新光社、1922年)という著作がある。この作品も、同時代に書かれたムハンマド伝のひとつだ。仲小路の処女作でもある。後にスメラ学塾を設立し各界に影響を与えた仲小路の原点の書は、このムハンマド伝だった。
『砂漠の光』は単なる伝記ではなく、長篇の戯曲形式で書かれている。作中では、ムハンマドと周囲の人々との間に、愛憎をからめた生々しい人間ドラマが展開する。
たとえば、ムハンマドの愛妻アエシヤ(今日の一般的表記ではアーイシャ)と、サフワン(サフワーン)という男の間に姦通疑惑が持ち上がるシーンがある。疑惑をめぐって、アエシヤ、サフワン、マホメツト(ムハンマド)、ムハンマドの側近アリ(アリー)の間で次のような会話が交わされる。
サフワン「それから、私は、非常に迷ひ、苦しんだので御座ます。善と悪は──盛んに私の心の中で争ひました。そして遂に私は善に敗けました。──私は、──遂に断念して又帰らうとする時、──此の一隊の人が──参つたので御座ます。」
マホメツト「サフワン、──それに決して偽りはないか──」
サフワン「私は、──生命を賭して真実なる事を申上ます。──」
アエシヤ「ああサフワン──」(泣く)
アリ(アエシヤとサフワンを見くらべつつ)「サフワン──貴様は、──嘘を云つた──嘘だぞ。──」
マホメツト「アリ、──お前はサフワンの告白を嘘と思ふのだな──。」(間)(アエシヤに向つて)「アエシヤ、では此度はお前に聞く。──今云つた、サフワンの言葉にお前は反対する所があるか。──若しあるならば言つて見よ。──」
アエシヤ「マホメツト様、──」(泣き伏す)
マホメツト「アエシヤ、どうした──さあ言へ、言はなくてはならぬぞ。──嘘か、──誠か──」(アエシヤ、泣くのみで答へず)
サフワン(決然と)「さあ、──私を私を死刑にでもなんでもして下さい。──私こそ──凶悪な罪人なのですから。──」
アエシヤ「ああ、サフワン──」[★11]
妻アエシヤを信じきれないマホメツト、泣きしきりのアエシヤ、アエシヤを疑い真相究明を急き立てるムハンマドの側近アリ、アエシヤを救うために決死の弁明を行うサフワンの間の緊迫した掛け合いは、さながらメロドラマのようだ。この掛け合いの後、結局サフワンは処刑されてしまう。
イスラーム勢力の拡大に成功しつつも、ときに孤独を感じ、周囲との関係に苦悩する「人間ムハンマド」の姿は、今日の読者には新鮮に映るかもしれない。
『砂漠の光』はそれなりの数の読者を得たのか、当時の新聞では本書をとりあげたインタヴュー記事が組まれている[★12]。出版から20年もあとのことだが、東京では実際に演劇が上演されたようだ[★13]。
ところで、作者の仲小路は、ムハンマドを自身のデビュー作の主人公として選んではいるものの、イスラームやアラビア文化に特に強い関心を持っていたわけではなかった。「砂漠」や「偶像の破壊」というキーワードが自身の人生観の中で大きな位置を占めていたことが、それらのキーワードを連想させるムハンマド伝の執筆に彼を向かわせたようである[★14]。
実際、『砂漠の光』は演義であり、史実とかけ離れた描写も多い──現代であれば、おそらく出版することはできなかっただろう。「アラビア」「ムハンマド」「イスラーム」は、あくまで、仲小路が自身の人生観を投影し、その想像力を具現化するための都合のよい素材にすぎなかったのかもしれない。
しかしだとしても、日本において、宗教的性格の強いイスラームの物語が文学のモチーフとして選ばれ得たという事実を、『砂漠の光』ほか、これらムハンマド伝の存在は示している。
在日イスラーム教徒を描く
昭和になると、はるかアラビアの地を夢想するのではなく、日本国内に生活するイスラーム教徒に言及する文学者が散見されるようになる。この時期の文学者による在日イスラーム教徒への言及については福田義昭(大阪大学大学院准教授、1969年生まれ)による一連の紹介があるので、仔細に興味がある方はそちらをお読み頂きたい[★15]。
ここでは、宮内寒彌(1912年生まれ、1983年没)の作品に着目したい。
松山洋平
1984年静岡県生まれ。名古屋外国語大学世界教養学部准教授。専門はイスラーム教思想史、イスラーム教神学。東京外国語大学外国語学部(アラビア語専攻)卒業、同大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了。博士(学術)。著書に『イスラーム神学』(作品社)、『イスラーム思想を読みとく』(ちくま新書)など、編著に『クルアーン入門』(作品社)がある。
イスラームななめ読み
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