イスラームななめ読み(8) ニッポンのムスリムが自爆するとき|松山洋平

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初出:2022年9月12日刊行『ゲンロンβ76+77』
「イスラーム」と「テロ」は、その本質的な結びつきを認めるにせよ、否定するにせよ、セットで言及されることが多い。本稿ではこの「イスラームとテロ」という問題を、「ムスリムは日本でテロを起こすか?」「どのように防ぐべきか?」という治安の問題としてではなく、起こり得る〈テロ〉後、あるいは〈テロ〉前における、日本におけるムスリムとの共生の問題、あるいは、日本社会におけるムスリムへの差別の問題を考える切り口として捉えてみたい。

 本題に入る前に、2つのことをあらかじめ確認しておく。1つ目は、筆者である私のポジションについてである。私は日本人であり、同時にイスラームを信仰している。したがって、テロ・イスラーム・共生の問題系においては、一人の当事者として──日本社会の一員としても、ムスリムの一人としても──日本社会がムスリムとの共生を許容する方向に変化することを願う立場にある。

 しかし、後述するように、しばしば見聞きする「大多数のムスリムは穏健で、テロなど起こさない。だから共生が可能である」という主張には危うさも感じている。なぜなら、イスラーム・テロは日本でも十分に起こり得るからである。「テロは起きないから共生は可能だ」という共生論は、テロがひとたび起きれば吹き飛んでしまう。

 それ故、テロが起きる可能性を認めた上での共生論、つまり、ある種の悲観論に依拠した共生論が必要になる。仮に日本でイスラーム・テロが起きたとしても、それでもなお共生が志向されるためには何が求められるのか。本コラムの中心的な関心はそこにある★1

 確認しておきたい2つ目のことは、本コラムの性質についてである。以下では、私が重要であると感じる2、3の問題を取り上げている。しかし、本コラムは差別論や共生学の専門的見地から書かれたものでもなければ、在日ムスリムの総意が反映されているわけでもない。私の個人的経験に基づいて述べている箇所もあり、必ずしも読者が事実を確認できるわけではない部分もある。何らかの有効な答えを提示しているわけではなく、論点を提示しているだけだと言ってもよい。本稿で素描しようとした問題を、いつかどなたかが、より適切な形で発展的な議論に昇華させてくれることを願っている。

1 日本におけるイスラーモフォビアの可能性


「日本社会におけるムスリムへの差別」などと書くと、「ムスリムへの差別など日本にはない。今後も起こらない」と感じる人も多いかもしれない。たしかに、日本ではムスリムの存在自体が可視的でないため、必然的に、彼らへの差別も見づらくなる。「イスラームと聞くと、テロや戦争などのマイナスなイメージを想起しがちである」「暴力的な宗教だという印象を持ってしまいがちである」という決まり文句はよく使われるが、常日頃からイスラームに対して差別的・否定的な感情を抱いて生活している人は珍しいだろう。大多数の日本国民は、イスラームに関して、全く、いかなる関心も持っていないのが普通だ。「イスラーム」と聞いても、「テロ」の連想を除けば、「イスラム……豚が神様でしたっけ」「インドの宗教ですよね」くらいの言葉が返ってきてもおかしくはない。

 しかし、マイクロアグレッションのレベルに留まっているとはいえ、ムスリムに対する差別や排除を指向する力は日本にも存在する。

 第1に、日本の公的なレベルにおいて、「イスラーム」は、治安維持のために監視すべき対象として認知されている。日本にあるモスクなどの宗教施設、場合によっては特定の個人は、警視庁公安部や公安調査庁などの監視対象となっている。2010年には、警視庁外事第3課が保有していた「内部資料」がネット上に流出し、国内のムスリムがテロリスト予備軍として捜査対象とされていたことが明らかとなった★2。この「内部資料」から読み取れる公安の捜査方法には、尾行による個人の行動の監視や、イスラーム団体への潜入調査も含まれていた。

 ムスリムに警戒するこうした公安の姿勢については、佐藤優のような影響力のある識者がこれを高く評価し、公安の取り締まりがなければ日本からテロリストが生まれてもおかしくない、と述べている★3。イスラーム研究者の飯山陽──氏は現在、日本のイスラーム研究者の中で最も著作が読まれているであろう気鋭の論者である──は、「イスラームにはテロリズムを生みだす内在的な要因がある」、「日本社会に対する脅威として、ムスリムに警戒せよ」というメッセージを発信している★4

 日常生活のレベルでも、日本に暮らすムスリムはマイクロアグレッションを受けている。警察から頻繁に職務質問を受けた経験や、職場や学校で、あるいは見知らぬ他人から軽度の嫌がらせを受けた経験を持つ人は多い(もちろんそれらの嫌がらせは、必ずしもムスリムであるために向けられたものではなく、外国人一般に対するヘイトに基づく場合も、「宗教」の信者一般に対するヘイトに基づく場合もあるだろう)★5。モスクやムスリム墓地などの施設を建設する際には、必ずと言っていいほど地元住民との間に施設コンフリクトが生じる。「自分はイスラームに偏見を持っていない」と考えている人であっても、実際に自分の隣人としてムスリムの集団を快く受け入れるかどうかはわからない★6

 以上のことを一言でまとめれば、「日本の公権力はムスリムをテロリスト予備軍とみなしレイシャル・プロファイリングを行っており、そうした方針を肯定的に評価する影響力を持つ知識人がいる。多くの国民は、〈テロ〉が発生していない段階ではイスラームとテロの問題に無関心であるが、潜在的にはムスリムの存在を好ましく思ってはいない」ということになる。

 ムスリムによるテロがいったん国内で発生すれば、それは、テロと無関係の者を含むムスリム一般への差別と暴力を発生させるトリガーとなるだろう。イスラーム研究者の塩尻和子は、「日本のイスラーモフォビア(イスラームに対する嫌悪感)も西洋に負けず、深刻な問題を含んでいる」と断言し★7、日本においても、ムスリムに対する差別や暴力が活発化する高い蓋然性があることに警鐘を鳴らしている。もっとも、本邦でもこれまで──「イスラーモフォビア」という言葉を用いるかどうかは別として──イスラームへの偏見・差別感情を解消することに繫がるような、様々な研究・提言がなされてきた★8。しかし、こうした誠実な試みの成果が波及する範囲は未だ限定的である。実際に日本でテロが起きれば、その成果は吹き飛んでしまうだろう。

松山洋平

1984年静岡県生まれ。名古屋外国語大学世界教養学部准教授。専門はイスラーム教思想史、イスラーム教神学。東京外国語大学外国語学部(アラビア語専攻)卒業、同大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了。博士(学術)。著書に『イスラーム神学』(作品社)、『イスラーム思想を読みとく』(ちくま新書)など、編著に『クルアーン入門』(作品社)がある。
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