イスラームななめ読み(4) アッラーのほか、仏なし|松山洋平
初出:2021年7月26日刊行『ゲンロンβ63』
イエズス会のフランシスコ・ザビエルは、日本でキリスト教の宣教を開始した当初、真言密教の大日如来をデウスと同一視し、ひとびとに「大日を拝みあれ」と説いたといわれる。しかしその後、「大日」が不適切な訳語であると気づいたザビエルは、一転して「大日な拝みあっそ」(大日を拝むな)と呼びかけたという[★1]。
一方で、デウスと大日を同一視したのはザビエルではなく、真言宗の僧侶たちであったとの記録も存在する[★2]。
どちらが史実であるかは、ここでは問題ではない。いずれにしろ、最終的にザビエルらは、「デウス」を日本語に翻訳することを諦め、ラテン語のまま「でうす」と呼び、日本での布教を進めた。
はたして、ザビエルらは「デウス」を日本語に翻訳することをさほど重要視していなかったのだろうか。決してそうではない。カトリックの宣教師たちは、翻訳の如何が、新しい土地における宣教の成否に大きく関わることを理解し、宣教先で話される言語の研究に力を注いでいた。日本でもそれは変わらなかった。にもかかわらず、来日した宣教師たちは、「デウス」を日本語に翻訳することを諦めたのである。
この事実は、天地の創造主を名指し得る言葉が、日本語──少なくとも当時のそれ──の中には見出せなかったことを示している[★3]。ジョアン・ロドリーゲスは、「日本人は今日までその御方のことを知らなかったために、日本語で、その御方をお呼びする名前を持たなかったのである」とのザビエルの言葉を書き残している[★4]。
「デウス」の翻訳問題は、中国でも起こった。
17・18世紀の中国では、「デウス」の訳語をめぐり、清朝で布教に携わったカトリックの司祭たちの間に大きな論争が生じた。
19世紀には、イギリスとアメリカのプロテスタントの宣教師たちが、今度は英語の「ゴッド」の訳語をめぐり、「神」と訳すべきだとする陣営と、「上帝」と訳すべきだとする陣営とに分かれ、意見を対立させている[★5]。結局この対立は解消されず、「ゴッド」を「神」と訳した中国語訳聖書と、「上帝」と訳した中国語訳聖書の両方が印刷された。
この論争は、日本語における「ゴッド」の訳語を方向付けることになる、一大事件でもあった。
19世紀末の日本でキリスト教の布教に携わった者の中には、「ゴッド」の中国語訳として「神」を支持した宣教師たちの流れをくむアメリカ人が多かった。その結果、特にヘボン訳聖書(1872年)の出版以降、中国語訳聖書から──さほどの学術的検証もないままに──転用された「神」という言葉が、英語(キリスト教)の「ゴッド」の日本語訳として採用され、そのまま定着するに至る[★6]。
今でこそ私たちは、ゴッドの訳語としての「神」を、何の違和感もなく受け入れている。しかし、そもそも中国語の「神」(shén)は、日本語の「カミ」とは異なる意味を持っていた。近代日本語においては更に、この中国語の「神」が、キリスト教の「ゴッド」の意味が付与された上で、「カミ」という日本語と結合しているのである。
柳父章が指摘するように、近代日本語の「神」という言葉はこのような経緯で二重に意味がねじれてしまっている[★7]。近現代の日本人は、このようなねじれを持つ「神」という言葉を用いて、日本古来のカミや、天皇、キリスト教その他の宗教の「神」をも、理解してきたことになる。津田左右吉がその可能性を示唆するように、「ゴッド」を「神」と訳したことに付随する言語干渉が、日本における戦中・戦後の国家づくりにも影響を与えたのだとすれば、「カミ」=「神」=「ゴッド」との認識を形成した一連の翻訳は、近代日本にとっての世紀の大翻訳(世紀の大誤訳?)だったと言うこともできる[★8]。
一方で、デウスと大日を同一視したのはザビエルではなく、真言宗の僧侶たちであったとの記録も存在する[★2]。
どちらが史実であるかは、ここでは問題ではない。いずれにしろ、最終的にザビエルらは、「デウス」を日本語に翻訳することを諦め、ラテン語のまま「でうす」と呼び、日本での布教を進めた。
はたして、ザビエルらは「デウス」を日本語に翻訳することをさほど重要視していなかったのだろうか。決してそうではない。カトリックの宣教師たちは、翻訳の如何が、新しい土地における宣教の成否に大きく関わることを理解し、宣教先で話される言語の研究に力を注いでいた。日本でもそれは変わらなかった。にもかかわらず、来日した宣教師たちは、「デウス」を日本語に翻訳することを諦めたのである。
この事実は、天地の創造主を名指し得る言葉が、日本語──少なくとも当時のそれ──の中には見出せなかったことを示している[★3]。ジョアン・ロドリーゲスは、「日本人は今日までその御方のことを知らなかったために、日本語で、その御方をお呼びする名前を持たなかったのである」とのザビエルの言葉を書き残している[★4]。
「デウス」の翻訳問題は、中国でも起こった。
17・18世紀の中国では、「デウス」の訳語をめぐり、清朝で布教に携わったカトリックの司祭たちの間に大きな論争が生じた。
19世紀には、イギリスとアメリカのプロテスタントの宣教師たちが、今度は英語の「ゴッド」の訳語をめぐり、「神」と訳すべきだとする陣営と、「上帝」と訳すべきだとする陣営とに分かれ、意見を対立させている[★5]。結局この対立は解消されず、「ゴッド」を「神」と訳した中国語訳聖書と、「上帝」と訳した中国語訳聖書の両方が印刷された。
この論争は、日本語における「ゴッド」の訳語を方向付けることになる、一大事件でもあった。
19世紀末の日本でキリスト教の布教に携わった者の中には、「ゴッド」の中国語訳として「神」を支持した宣教師たちの流れをくむアメリカ人が多かった。その結果、特にヘボン訳聖書(1872年)の出版以降、中国語訳聖書から──さほどの学術的検証もないままに──転用された「神」という言葉が、英語(キリスト教)の「ゴッド」の日本語訳として採用され、そのまま定着するに至る[★6]。
今でこそ私たちは、ゴッドの訳語としての「神」を、何の違和感もなく受け入れている。しかし、そもそも中国語の「神」(shén)は、日本語の「カミ」とは異なる意味を持っていた。近代日本語においては更に、この中国語の「神」が、キリスト教の「ゴッド」の意味が付与された上で、「カミ」という日本語と結合しているのである。
柳父章が指摘するように、近代日本語の「神」という言葉はこのような経緯で二重に意味がねじれてしまっている[★7]。近現代の日本人は、このようなねじれを持つ「神」という言葉を用いて、日本古来のカミや、天皇、キリスト教その他の宗教の「神」をも、理解してきたことになる。津田左右吉がその可能性を示唆するように、「ゴッド」を「神」と訳したことに付随する言語干渉が、日本における戦中・戦後の国家づくりにも影響を与えたのだとすれば、「カミ」=「神」=「ゴッド」との認識を形成した一連の翻訳は、近代日本にとっての世紀の大翻訳(世紀の大誤訳?)だったと言うこともできる[★8]。
イスラーム教(アラビア語)における「神」
さて、この「神」の翻訳の問題は、キリスト教の専売特許というわけではない。同じ問題は、イスラーム教についても当然考えることができる。
「デウス」や「ゴッド」に相当するイスラーム教の言葉は、日本語でどのように翻訳することができるだろうか。あるいは、これまで実際に、どのような言葉があてがわれてきたのだろうか。
論点を簡単に整理しておきたい。
イスラーム教(アラビア語)において、「神」と訳され得る言葉は主に二つ存在する。一つは、創造主の名である「アッラー」(الله)、もう一つは、「崇拝されるもの」を意味する一般名詞「イラーフ」(إله)である。
「アッラー」という言葉は、創造主の固有名とされ、複数形や女性形を持たない。一方の「イラーフ」は一般名詞であり、アッラーに対して用いられることもあれば、他宗教における崇拝対象に用いられることもある。なお、一説によれば、「アッラー」という単語は、「イラーフ」の頭に定冠詞「アル」をつけたものが縮まったものだとも言われる。この説に依拠すれば、「アッラー」は「The イラーフ」との意になる。
「アッラー」と「イラーフ」という二つの単語は、イスラーム教の根本信条を表す信仰告白(シャハーダ)の言葉「アッラーのほか、イラーフは無い」(لا إله إلا الله)の中にも含まれている。なお、今日この言葉は、「アッラーのほかに神はない」と訳されることが多い。つまり、「アッラー」は「アッラー」とカタカナ転写され、「イラーフ」は「神」と翻訳されている。
アッラーのみを「イラーフ」とみなし、それ以外の存在を「イラーフ」とみなさないことが、イスラーム教の根本信条である。アッラーは「真のイラーフ」(إله حق)、アッラー以外の崇拝される存在は「虚偽のイラーフ」(إله باطل)とされる。「イラーフ」は、アッラーという固有名の性質を直接説明する言葉である。「アッラー」の訳語の問題の背面には、「イラーフ」という言葉の訳語の問題も、同様の重要性をもってぶらさがっている。
「アッラー=天之御中主神」論
日本では、明治以降にイスラーム教徒との接触が増え、イスラーム教に入信する日本人も出てくるようになる。とはいえ、「アッラー」や「イラーフ」の翻訳について問題提起を行う人物は少なく、大多数の論者は、極めて安直な議論──議論と呼んでもよいのであれば──に甘んじていた。田中逸平(1882年生まれ、1934年没)は、この問題において最も楽観的な立場をとった日本人イスラーム教徒の一人である。「アッラー」の訳語について特段の問題意識を持っていなかった田中は、アッラーを「神」(あるいはときに「真主」)と呼んだ上で、特に保留もなく、日本の「神」と比較している。
そして田中は、アッラーが99の「正名」──今日では「99の美名」と言われることが多い──を持つとするイスラーム教の教説と、天之御中主神の下に八百万の神を有する日本の神々の階層構造とのメンタリティ的な類似性を指摘するなど、やや強引な意見を示しながら、イスラーム教と「かみながらの道」(日本主義)の理想が、一致するものであることを説いた[★9]。
田中のように、アッラーを「神」と呼び、日本で「神」と呼ばれる存在をその比較対象とするのは、今日に至るまでの日本における一般的な態度と言えるだろう。たとえば、「イスラム教はアッラーを唯一の神と考える。この点は、あまたの神を信じる日本の宗教観とは異なる」という説明を、私たちは極めてひんぱんに目にすることができる。アッラーという存在が、イスラーム教徒にとっての「神」であるとの認識は、極めて自然なものとして受け入れられている。
他方、ザビエルが一時期「デウス」を「大日」と呼んだのと同じように、アッラーを、日本における特定の神的存在と結びつける見方もあった。
たとえば、日本人イスラーム教徒の山岡光太郎(1880年生まれ、1959年没)は、「アッローハ、アクバル」(الله أكبر:「アッラーは偉大なり」)の意味を「天照大御神の意にして、唯一真神アルラアの敬語的代名詞なり」と説明している[★10]。また、嶋野三郎(1893年生まれ、1982年没)によれば、山岡はアッラーを「阿弥陀仏」にもなぞらえていたという[★11]。
同じく日本人イスラーム教徒で、日本での宣教に熱心に取り組んだことで知られる有賀文八郎(1868年生まれ、1946年没)は、アッラーを、「唯一神」(と有賀が考える)天之御中主神と同一の存在とみなした[★12]。
有賀は、やはり田中と同じように、日本精神とイスラーム教の関係について極めて楽観的な見通しを持っており、イスラーム教こそは、「最も日本国民に合致する宗教」、「我が国、建国以来の精神に合致する」宗教であると説いた[★13]。
彼はまた、アッラーを天之御中主神と同定するのみならず、天皇・皇室への態度について積極的に言及し、イスラーム教を奉じることと、日本の国体を奉じることの矛盾しないことを論じている。有賀は、日本の皇祖たる天照大神・天皇・皇族一同に対する「尊敬」と、「唯一真主」(=アッラー)に対する「崇敬」とを区別した上で、イスラーム教徒であっても、天照大神・天皇・皇族一同を「尊敬」するのは当然のことである、と説いたのである[★14]。
ところで、「日本精神(神道)=多神教」との通俗的理解が広まっている現代日本の感覚からは、神道の神(天之御中主神)をイスラーム教の神(アッラー)と同一視する発想は、極めてアクロバティックに感じられるかもしれない。しかし、平田篤胤以来の復古神道においては、天之御中主神に対して、一神教的・創造神的な性格が付与されていたと言われている。戦前・戦中には、日本人キリスト教徒の間でも、天之御中主神をキリスト教の神と同一視する議論が展開されていた[★15]。イスラーム教徒である有賀らがアッラーを天之御中主神と同定したのも、オリジナルな思想ではなかった。
同じく日本人イスラーム教徒で、日本での宣教に熱心に取り組んだことで知られる有賀文八郎(1868年生まれ、1946年没)は、アッラーを、「唯一神」(と有賀が考える)天之御中主神と同一の存在とみなした[★12]。
有賀は、やはり田中と同じように、日本精神とイスラーム教の関係について極めて楽観的な見通しを持っており、イスラーム教こそは、「最も日本国民に合致する宗教」、「我が国、建国以来の精神に合致する」宗教であると説いた[★13]。
彼はまた、アッラーを天之御中主神と同定するのみならず、天皇・皇室への態度について積極的に言及し、イスラーム教を奉じることと、日本の国体を奉じることの矛盾しないことを論じている。有賀は、日本の皇祖たる天照大神・天皇・皇族一同に対する「尊敬」と、「唯一真主」(=アッラー)に対する「崇敬」とを区別した上で、イスラーム教徒であっても、天照大神・天皇・皇族一同を「尊敬」するのは当然のことである、と説いたのである[★14]。
ところで、「日本精神(神道)=多神教」との通俗的理解が広まっている現代日本の感覚からは、神道の神(天之御中主神)をイスラーム教の神(アッラー)と同一視する発想は、極めてアクロバティックに感じられるかもしれない。しかし、平田篤胤以来の復古神道においては、天之御中主神に対して、一神教的・創造神的な性格が付与されていたと言われている。戦前・戦中には、日本人キリスト教徒の間でも、天之御中主神をキリスト教の神と同一視する議論が展開されていた[★15]。イスラーム教徒である有賀らがアッラーを天之御中主神と同定したのも、オリジナルな思想ではなかった。
松山洋平
1984年静岡県生まれ。名古屋外国語大学世界教養学部准教授。専門はイスラーム教思想史、イスラーム教神学。東京外国語大学外国語学部(アラビア語専攻)卒業、同大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了。博士(学術)。著書に『イスラーム神学』(作品社)、『イスラーム思想を読みとく』(ちくま新書)など、編著に『クルアーン入門』(作品社)がある。
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