革命と住宅(4)第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(中)|本田晃子

初出:2021年5月21日刊行『ゲンロンβ61』
3 相互監視の空間
硬軟さまざまな方法によって推進された住宅の「圧縮」政策だが、少なくとも都市部の住宅不足を解消するには焼け石に水だった。革命後の内戦期間中こそ、食糧難や水道などのインフラの停止によって都市から脱出する人びとが増えたものの、ソ連全体の都市人口は1926年までの間に2000万から2600万へと上昇した[★1]。それに反比例して、1923年時には6.4平方メートルだった住人あたりの居住面積は、1926年には5.8平方メートルまで下落し、労働者階級に限ってみると4.8平方メートルにまで減少している[★2]。新経済政策(ネップ)期には、このような住宅難の解消や、国有化した住宅の管理負担を軽減するために、都市の不動産に対しても市場原理が導入された。これによって一部の住宅の私的所有の許可や、接収された住宅の元の持ち主への返還、不動産の売買や賃貸契約の部分的な自由化などが実施された。
しかしネップの終焉とともに不動産の自由な取引は再び禁じられ、住宅に対する管理の再強化がはじまった。党は住宅不足への対策として、1927年には「自己圧縮 самоуплотнение」政策を導入する。それまでの「圧縮」政策は、部屋数に余裕のある住宅から余剰分の部屋を拠出させるというものだったが、「自己圧縮」は一人あたりの最低居住面積(9平方メートル)以上の部屋に住んでいる住人に、他人を同居させるというものだった。住宅管理委員は担当地域内の「自己圧縮」できそうな住人を探しだし、余剰スペースの拠出を強要した。もし住人が抵抗するようであれば、当局に通報することもあった。こうして一室内に赤の他人同士が同居する状況が生まれたのである。
同時に住宅と労働の紐づけも強化された。1929年には年金受給者など労働に従事していない人びとに対して、国有化された住宅からの強制立ち退きが開始された。相手が歩行すら困難な老人であろうと、容赦はなかった。1932年には、仕事を不当欠勤した者など、勤務態度不良者に対する住宅からの追放も開始された[★3]。勤務上の過失や失職は、住む場所を失うことに直結するようになったのである。しかも住宅の支給は原則的に男性世帯主を基軸にしていたため、たとえば夫が職を失うと、その妻や子どもたちまで住まいからの退去を迫られた(たとえ妻がフルタイムで働いていても、既婚女性には住宅はめったに支給されなかった)。
またコムナルカ内にはしばしば独自のルールが存在した。大声での会話や楽器の演奏、大音量でのラジオの使用の禁止、ダンスの禁止、深夜の電話の禁止、鳥類(カナリアなどの観賞用ではなく、鶏やアヒルなどの家禽を指す)の飼育の禁止など、場合によっては非常に細かい規則が設けられており、これらの規則を破った際にも、コムナルカの代表や住宅管理委員から注意を受けた。特に深刻な場合は、勤務先や当局へ通報されることもあった。自分の住むコムナルカから逮捕者が出れば、その分人口密度は減り、共同生活のストレスも減る。そんな環境で何が起きるかは、火を見るよりも明らかだろう。1934年にセルゲイ・キーロフが暗殺されると、これを引き金にいわゆる大粛清がはじまるが、翌年のレニングラードおよびその近郊では、2カ月足らずの間に1万‐1万2000人が逮捕・追放された。同市のキーロフ大通り(現カメンノオストロフスキー大通り)にある集合住宅では、全123戸のうち55戸から逮捕者が出たという[★4]。大粛正の魔女狩り的な熱狂の中で、コムナルカはまさしく住民の相互監視の空間と化したのである[★5]。
前回論じたブルガーコフの著作には、『犬の心臓』以外にも個性的な住宅管理人が登場する作品が存在する。たとえば1934年から36年にかけて執筆された戯曲『イワン・ワシーリエヴィチ』のブンシャがそれだ[★6]。ブンシャの正式な名前は、イワン・ワシーリエヴィチ・ブンシャ゠コレツキー。イワン・ワシーリエヴィチという名と父称は、誰あろうイワン4世ことイワン雷帝と共通している。これはもちろん伏線になっていて、彼は自身の管理するコムナルカに住む科学者チモフィエフの発明したタイムマシンの作動に巻き込まれ、本物のイワン雷帝と入れ替わってしまうのだ。どうやらブンシャは見た目も雷帝そっくりなようで、イワンの廷臣たちは彼の正体に気づかず、ブンシャをツァーリとして扱う。
タイムトラベル以前のブンシャは、まさに四角四面な管理人だった。彼は住人たちを啓蒙するためにコムナルカにラジオを導入し、誰がいつ在宅しているかだけでなく、住人たちがどのような思想を有しているか、彼らの会話までチェックしている。ブンシャの存在をコムナルカの他の住人たちは煙たく思っており、実際家賃の請求にやってきたブンシャに対して、チモフィエフは「また、こいつか……」と内心では辟易している[★7]。二人はチモフィエフの部屋の巨大な機械装置、すなわちタイムマシンをめぐって口論になるが、「こう見えても管理人という責任ある地位を占めている人間だから、監視するのは私の義務です」と主張するブンシャに対して、チモフィエフは慌てて謝罪する[★8]。管理人に対して反感をもちながらも、ブンシャに面と向かって逆らって警察に密告されてはたまらないというわけだ。
前回論じたブルガーコフの著作には、『犬の心臓』以外にも個性的な住宅管理人が登場する作品が存在する。たとえば1934年から36年にかけて執筆された戯曲『イワン・ワシーリエヴィチ』のブンシャがそれだ[★6]。ブンシャの正式な名前は、イワン・ワシーリエヴィチ・ブンシャ゠コレツキー。イワン・ワシーリエヴィチという名と父称は、誰あろうイワン4世ことイワン雷帝と共通している。これはもちろん伏線になっていて、彼は自身の管理するコムナルカに住む科学者チモフィエフの発明したタイムマシンの作動に巻き込まれ、本物のイワン雷帝と入れ替わってしまうのだ。どうやらブンシャは見た目も雷帝そっくりなようで、イワンの廷臣たちは彼の正体に気づかず、ブンシャをツァーリとして扱う。
タイムトラベル以前のブンシャは、まさに四角四面な管理人だった。彼は住人たちを啓蒙するためにコムナルカにラジオを導入し、誰がいつ在宅しているかだけでなく、住人たちがどのような思想を有しているか、彼らの会話までチェックしている。ブンシャの存在をコムナルカの他の住人たちは煙たく思っており、実際家賃の請求にやってきたブンシャに対して、チモフィエフは「また、こいつか……」と内心では辟易している[★7]。二人はチモフィエフの部屋の巨大な機械装置、すなわちタイムマシンをめぐって口論になるが、「こう見えても管理人という責任ある地位を占めている人間だから、監視するのは私の義務です」と主張するブンシャに対して、チモフィエフは慌てて謝罪する[★8]。管理人に対して反感をもちながらも、ブンシャに面と向かって逆らって警察に密告されてはたまらないというわけだ。
ブンシャは頭の固い共産主義者なので、タイムトラベル後に16世紀の宮廷でツァーリを演じる羽目になっても、皇帝の衣装を身につけたり、皇帝のサインの偽造をしたり、聖職者と会見したりすることには抵抗を示す。しかし、彼の本性なのか、それともあまりに巨大な権力のせいか、ブンシャは徐々に本物の雷帝のように周囲を恫喝しはじめ、権威的に振る舞うようになっていく。同作では、住人たちを監視しその生殺与奪の権を握る住宅管理人は、イワン雷帝のような強権的な絶対君主と地続きの存在として示されるのである。
強制的な生活の共同化と集団化によって、雑多な階級の出身者が同一の住宅で文字通り肩を接しながら生活するコムナルカは、ある意味では、社会主義住宅の実現と言えなくもない。しかしそれは、革命家たちが夢想した住宅像からはかけ離れていた。もちろん、住人の相互扶助や共同体意識が全く存在しなかったわけではない。コムナルカの同居人や隣人たちは、シングルマザーが働きに出ている間その子どもを世話したり、一人暮らしの老人を見守ったり、妻や子に暴力を振るう夫を制止したり、政府による公的支援の欠如を埋める存在でもあった。だが元からの階級対立や相互不信に加えて、住宅管理委員会と秘密警察(GPU)との結びつきや密告の制度化は、コムナルカを住民が互いに互いを監視し合う空間へと変えたのである。
さて、実際のコムナルカでの暮らしは、どのようなものだったのだろうか。現在でもモスクワなどの大都市では少なくない人びと、とりわけ年金生活者や移民などの経済的弱者は、好むと好まざるとにかかわらず、コムナルカでの生活を余儀なくされている。これらの人びとの多くは自宅に客を呼びたがらないので、現実のコムナルカに招かれる機会はあまりないだろう。なのでここでは、一般的なコムナルカの空間や生活を具体的に見てみたい。ちなみにソ連時代のコムナルカの雰囲気を日本語で手っ取り早く体験するには、ゲオルギー・コヴェンチュークの『8号室──コムナルカ住民図鑑』(片山ふえ訳、群像社、2016年)がおすすめだ。また現代のコムナルカの状況や住人たちについては、フランスのフランソワーズ・ユギエーによるドキュメンタリー映画『コムナルカ』(2008年)が詳しい。ユギエーはサンクト・ペテルブルグに今も残るコムナルカを訪れ、複数の住人の生活に密着して同作を撮影した。
現在はコロナ禍で海外旅行もままならないが、モスクワやサンクト・ペテルブルグなどの都市を訪れるなら、元コムナルカでユースホステルにコンヴァージョンされた物件に宿泊してみるのもいいかもしれない。玄関や水回りを住民全員で共有するコムナルカの間取りはホステルと相性がよいようで、都市部では元コムナルカの物件に行き当たることがままある(筆者もそのようなホステルをよく利用していた)。ただし快適性や安全・安眠は保証できない。
さて、それではソ連時代のコムナルカに招かれてみよう。
強制的な生活の共同化と集団化によって、雑多な階級の出身者が同一の住宅で文字通り肩を接しながら生活するコムナルカは、ある意味では、社会主義住宅の実現と言えなくもない。しかしそれは、革命家たちが夢想した住宅像からはかけ離れていた。もちろん、住人の相互扶助や共同体意識が全く存在しなかったわけではない。コムナルカの同居人や隣人たちは、シングルマザーが働きに出ている間その子どもを世話したり、一人暮らしの老人を見守ったり、妻や子に暴力を振るう夫を制止したり、政府による公的支援の欠如を埋める存在でもあった。だが元からの階級対立や相互不信に加えて、住宅管理委員会と秘密警察(GPU)との結びつきや密告の制度化は、コムナルカを住民が互いに互いを監視し合う空間へと変えたのである。
4 コムナルカの日常
さて、実際のコムナルカでの暮らしは、どのようなものだったのだろうか。現在でもモスクワなどの大都市では少なくない人びと、とりわけ年金生活者や移民などの経済的弱者は、好むと好まざるとにかかわらず、コムナルカでの生活を余儀なくされている。これらの人びとの多くは自宅に客を呼びたがらないので、現実のコムナルカに招かれる機会はあまりないだろう。なのでここでは、一般的なコムナルカの空間や生活を具体的に見てみたい。ちなみにソ連時代のコムナルカの雰囲気を日本語で手っ取り早く体験するには、ゲオルギー・コヴェンチュークの『8号室──コムナルカ住民図鑑』(片山ふえ訳、群像社、2016年)がおすすめだ。また現代のコムナルカの状況や住人たちについては、フランスのフランソワーズ・ユギエーによるドキュメンタリー映画『コムナルカ』(2008年)が詳しい。ユギエーはサンクト・ペテルブルグに今も残るコムナルカを訪れ、複数の住人の生活に密着して同作を撮影した。
現在はコロナ禍で海外旅行もままならないが、モスクワやサンクト・ペテルブルグなどの都市を訪れるなら、元コムナルカでユースホステルにコンヴァージョンされた物件に宿泊してみるのもいいかもしれない。玄関や水回りを住民全員で共有するコムナルカの間取りはホステルと相性がよいようで、都市部では元コムナルカの物件に行き当たることがままある(筆者もそのようなホステルをよく利用していた)。ただし快適性や安全・安眠は保証できない。
さて、それではソ連時代のコムナルカに招かれてみよう。
目的のコムナルカのあるフロアに到着したとして、まず問題となるのは、ドアベルの押し方である。多くの場合、呼び鈴はコムナルカ共通の玄関の脇にひとつしかない。よって「何回ベルを鳴らすか」によって、来訪者はコムナルカ内の誰を呼び出したいのか、表明しないといけないのである。行き届いたコムナルカの場合には、呼び鈴の横にそれぞれの住人の名前と押すべきベルの回数が書いてある。そうでない場合は、訪問先の住人に何回ベルを押す必要があるのか、あらかじめ聞いておく必要がある。そしてもちろん回数を押し間違えたときは、訪問相手も含めて面倒ごとに巻き込まれることになる。
無事コムナルカ内に入ると、まず玄関ホールがあり、ここに共有の電話や伝言板が置かれていることが多い。ソ連時代にはコムナルカの主要な規則の一覧表が張り出されていることもあった。特に意識の高いコムナルカでは、新聞や雑誌、共産主義に関する本を読むための「赤い一隅(コーナー)」が設けられていた。客はこの玄関ホールと廊下を抜けて、目当ての住人の部屋を訪れることになる。ちなみに在宅中の部屋はだいたいドアが半開きにされていて、玄関ホールや廊下での会話は(場合によっては個室での会話も)、他の住人には筒抜けになる。
狭い空間に雑多な人びとが詰め込まれたコムナルカ、とりわけその共有空間では、もちろんトラブルが絶えなかった。なかでも熾烈を極めたのが、共同キッチンをめぐる戦いである。ロシア文化研究者でレニングラードのコムナルカ出身のスヴェトラーナ・ボイムによれば、ソ連時代、キッチンはしばしば「ナゴルノ・カラバフ」(旧ソ連を形成していたアルメニアとアゼルバイジャンの係争地)に例えられたという。
コムナルカのキッチンは、しばしば住人数に対して狭すぎ、作業台やガスコンロの数は足らず、特に混み合う朝夕の調理の時間は、口論や怒声が絶えなかった。ひどい場合には、他の住人の調理中の鍋に汚水や下剤(!)を混ぜるといった嫌がらせも横行したという(よって住人がキッチンに調理中の鍋を放置しているかどうかで、コムナルカ内の治安の善し悪しを見分けることができるとされた)。社会主義住宅の推進者たちは、住戸別にキッチンを設置することの非合理性やイデオロギー的誤謬を説いたが[★9]、現実にキッチンを使用し調理を担当する女性たちはこのような過密状態の共同キッチンを嫌い、可能であれば持ち運び可能なPrimusのガス・ストーブを用いてそれぞれの部屋で調理することを好んだ[★10]。またほとんどのコムナルカには洗濯室は設置されておらず、洗濯もキッチンで行われた。それゆえキッチンには常に誰かの衣服や下着、シーツなどが所狭しと干されていた。戦前のコムナルカには浴室は存在しないかあっても使用できなかったので、身体を洗うのにもしばしばキッチンが利用された。共同キッチンはまさにコムナルカの生活の要だったのである。
共同キッチンと並ぶ戦場が、トイレだった。コムナルカを舞台とする小説や映画では、かならず朝のトイレ待ちの列が描かれる。トイレ内で新聞や本を読んだり、使用後に電気を消さなかったり、清潔に使用しなかったりした場合は、「人民の敵」と呼ばれても仕方がなかった。トイレは単に用を足すためだけの空間ではない。コムナルカにおいては、トイレは住人が唯一完全に一人きりになれる神聖な空間だったのだ。ちなみに便座はついていないので、みな「マイ便座」をもってトイレに向かった(今でもロシアの公衆トイレには便座がないことが多い)。一方浴室は、たとえコムナルカ内にあったとしても、浴室として使用されるケースはまれだった[★11]。多くの場合、そこは居室か物置、あるいは洗濯物干し場として利用された。身体を洗いたい場合は、住人たちはバーニャと呼ばれる公共の浴場に通うか、先述のように台所を利用するのが一般的だった。
無事コムナルカ内に入ると、まず玄関ホールがあり、ここに共有の電話や伝言板が置かれていることが多い。ソ連時代にはコムナルカの主要な規則の一覧表が張り出されていることもあった。特に意識の高いコムナルカでは、新聞や雑誌、共産主義に関する本を読むための「赤い一隅(コーナー)」が設けられていた。客はこの玄関ホールと廊下を抜けて、目当ての住人の部屋を訪れることになる。ちなみに在宅中の部屋はだいたいドアが半開きにされていて、玄関ホールや廊下での会話は(場合によっては個室での会話も)、他の住人には筒抜けになる。
狭い空間に雑多な人びとが詰め込まれたコムナルカ、とりわけその共有空間では、もちろんトラブルが絶えなかった。なかでも熾烈を極めたのが、共同キッチンをめぐる戦いである。ロシア文化研究者でレニングラードのコムナルカ出身のスヴェトラーナ・ボイムによれば、ソ連時代、キッチンはしばしば「ナゴルノ・カラバフ」(旧ソ連を形成していたアルメニアとアゼルバイジャンの係争地)に例えられたという。
コムナルカのキッチンは、しばしば住人数に対して狭すぎ、作業台やガスコンロの数は足らず、特に混み合う朝夕の調理の時間は、口論や怒声が絶えなかった。ひどい場合には、他の住人の調理中の鍋に汚水や下剤(!)を混ぜるといった嫌がらせも横行したという(よって住人がキッチンに調理中の鍋を放置しているかどうかで、コムナルカ内の治安の善し悪しを見分けることができるとされた)。社会主義住宅の推進者たちは、住戸別にキッチンを設置することの非合理性やイデオロギー的誤謬を説いたが[★9]、現実にキッチンを使用し調理を担当する女性たちはこのような過密状態の共同キッチンを嫌い、可能であれば持ち運び可能なPrimusのガス・ストーブを用いてそれぞれの部屋で調理することを好んだ[★10]。またほとんどのコムナルカには洗濯室は設置されておらず、洗濯もキッチンで行われた。それゆえキッチンには常に誰かの衣服や下着、シーツなどが所狭しと干されていた。戦前のコムナルカには浴室は存在しないかあっても使用できなかったので、身体を洗うのにもしばしばキッチンが利用された。共同キッチンはまさにコムナルカの生活の要だったのである。
共同キッチンと並ぶ戦場が、トイレだった。コムナルカを舞台とする小説や映画では、かならず朝のトイレ待ちの列が描かれる。トイレ内で新聞や本を読んだり、使用後に電気を消さなかったり、清潔に使用しなかったりした場合は、「人民の敵」と呼ばれても仕方がなかった。トイレは単に用を足すためだけの空間ではない。コムナルカにおいては、トイレは住人が唯一完全に一人きりになれる神聖な空間だったのだ。ちなみに便座はついていないので、みな「マイ便座」をもってトイレに向かった(今でもロシアの公衆トイレには便座がないことが多い)。一方浴室は、たとえコムナルカ内にあったとしても、浴室として使用されるケースはまれだった[★11]。多くの場合、そこは居室か物置、あるいは洗濯物干し場として利用された。身体を洗いたい場合は、住人たちはバーニャと呼ばれる公共の浴場に通うか、先述のように台所を利用するのが一般的だった。
コムナルカは、現実生活だけでなくフィクションの世界においても、悲喜こもごものドラマの舞台となった。ただしコムナルカが都市住宅の主流だったスターリン時代=社会主義リアリズムの時代には、コムナルカを主たる舞台とした作品は実はあまり制作されていない。住宅を背景にそこに住む人びとの人間関係を描こうとすると、いわゆるホーム・ドラマと呼ばれるジャンルになるわけだが、模範的労働者を主人に社会的偉業のような「大きな物語」を扱う社会主義リアリズムは、ホーム・ドラマと明らかに相性が悪かった。それに加えて、そもそもコムナルカという建築空間自体が、社会主義リアリズムの求める壮麗さやモニュメンタリティの規範──モスクワの地下鉄駅やスターリン様式の高層建築に体現されたような──とは縁遠い存在だったからだろう。
しかしフルシチョフ時代に入ると、コムナルカの生活とそこで暮らす等身大の人びとの日常を主題とした作品が次第に出現しはじめる。たとえばアレクサンドル・ヴォロディンの戯曲『五夜 Пять вечеров』(1958年)では、主人公のイリインが生まれ育ったレニングラードのコムナルカに戻ることから物語がはじまる。イリインは模範的労働者にはほど遠いいわば「負け犬」で、しばしば劣等感に苛まれる。そのような人物を主人公の座に据えたことによって、発表当時『五夜』は議論を巻き起こした。なお同作は、1978年にニキータ・ミハルコフによって映画化もされている。
レフ・クリジャーノフ、ヤコフ・セーゲリ監督の映画『僕が住む家 Дом, в котором я живу』(1957年)では、1930年代に新たに建設された(接収されたものではない)コムナルカを舞台に、ひとつのフラットに暮らすことになった二つの家族の人間模様が描かれた。
1935年、竣工したばかりのコムナルカにダヴィドフ一家とカッシーリン夫妻が引っ越してくる。ダヴィドフ一家は中年のダヴィドフ夫妻、赤軍に所属している長男コンスタンチンとまだ学校に通っている次男のセリョージャ、長女カーチャの5人暮らしだが、まもなくカーチャは結婚して娘も生まれ、にぎやかな大家族となる。一方カッシーリン夫妻はまだ新婚で、夫のドミトリーは地質学者として働いていた。両家族が住むのは、玄関とキッチンを共有するタイプのコムナルカで、ダヴィドフ家には、食堂兼居間兼夫妻の寝室兼兄弟の寝室である大きめの一室と、長女夫妻のための小さめの一室の二部屋が、カッシーリン夫妻には一部屋が割り当てられていた。
物語の実質的な主人公を務めるのは、ダィヴィドフ家の次男セリョージャ。彼にとって隣人で地質学者のドミトリー・カッシーリンはあこがれの人だった。しかしドミトリーは調査旅行のためにしばしば家を留守にしており、新婚の妻リーダはそれに不満と寂しさを感じていた。引っ越しから数年が過ぎ、ダヴィドフ家の長男で軍務についていたコンスタンチンが新居に帰宅する。彼は初めて会うリーダに惹かれ、彼女が既婚者であると知りながら、ちょうどドミトリーが調査で留守にしているのをいいことに、強引に彼女に迫る。
しかしフルシチョフ時代に入ると、コムナルカの生活とそこで暮らす等身大の人びとの日常を主題とした作品が次第に出現しはじめる。たとえばアレクサンドル・ヴォロディンの戯曲『五夜 Пять вечеров』(1958年)では、主人公のイリインが生まれ育ったレニングラードのコムナルカに戻ることから物語がはじまる。イリインは模範的労働者にはほど遠いいわば「負け犬」で、しばしば劣等感に苛まれる。そのような人物を主人公の座に据えたことによって、発表当時『五夜』は議論を巻き起こした。なお同作は、1978年にニキータ・ミハルコフによって映画化もされている。
レフ・クリジャーノフ、ヤコフ・セーゲリ監督の映画『僕が住む家 Дом, в котором я живу』(1957年)では、1930年代に新たに建設された(接収されたものではない)コムナルカを舞台に、ひとつのフラットに暮らすことになった二つの家族の人間模様が描かれた。
1935年、竣工したばかりのコムナルカにダヴィドフ一家とカッシーリン夫妻が引っ越してくる。ダヴィドフ一家は中年のダヴィドフ夫妻、赤軍に所属している長男コンスタンチンとまだ学校に通っている次男のセリョージャ、長女カーチャの5人暮らしだが、まもなくカーチャは結婚して娘も生まれ、にぎやかな大家族となる。一方カッシーリン夫妻はまだ新婚で、夫のドミトリーは地質学者として働いていた。両家族が住むのは、玄関とキッチンを共有するタイプのコムナルカで、ダヴィドフ家には、食堂兼居間兼夫妻の寝室兼兄弟の寝室である大きめの一室と、長女夫妻のための小さめの一室の二部屋が、カッシーリン夫妻には一部屋が割り当てられていた。
物語の実質的な主人公を務めるのは、ダィヴィドフ家の次男セリョージャ。彼にとって隣人で地質学者のドミトリー・カッシーリンはあこがれの人だった。しかしドミトリーは調査旅行のためにしばしば家を留守にしており、新婚の妻リーダはそれに不満と寂しさを感じていた。引っ越しから数年が過ぎ、ダヴィドフ家の長男で軍務についていたコンスタンチンが新居に帰宅する。彼は初めて会うリーダに惹かれ、彼女が既婚者であると知りながら、ちょうどドミトリーが調査で留守にしているのをいいことに、強引に彼女に迫る。
ここでポイントとなるのが、コムナルカの鍵事情だ。もちろん共通の玄関の扉には錠をかけることができる(基本的に夜間は施錠される)が、コムナルカ内の各室には内側から鍵をかけることができない。戦後になってから鍵付きの部屋も普及しはじめたが、この時代のコムナルカの住人は、実は他の住人の部屋に出入りし放題なのである。コンスタンチンはノックもそこそこにカッシーリン夫妻の部屋に入り込み、リーダを口説いて肉体関係をもつことになる。劇中では、二人の不倫はあくまでコンスタンチンのエゴイズムやリーダの孤独に起因するものとして描かれるが、そもそもこのような事件は人と人の距離が異常に近いコムナルカでなければ起きなかったはずだ。ちなみに翌朝リーダと顔を合わせたダヴィドフ夫人は、すでに何が起きたのかを察しており、それまでの愛想のよい態度とは打って変わってリーダに冷たく接する。コムナルカではいかなる秘密も秘密として保つことはできないのである。
コンスタンチンは以後もリーダにつきまとうが、リーダは後悔に苛まされ、彼を拒絶し続ける。しかしコンスタンチンやダヴィドフ夫妻と否応なく毎日顔を合わせる生活、そしていつコンスタンチンが再び侵入してくるか知れない鍵のない部屋では、安心して暮らすことはできない。調査から戻ってきた夫に事情を言い出せないまま、彼女は一人でコムナルカを出て行く。しかし彼女がコムナルカを去ったその日、ナチス・ドイツによるソ連侵攻が開始された。鉄道駅でニュースを聞いたリーダは慌ててコムナルカに戻るが、まもなく夫のドミトリーも、コンスタンチンやダヴィドフ氏、果てはセリョージャまで、コムナルカの男たちはみな軍に召集されていくのだった。
ちなみに物語内では、リーダが比較的簡単にコムナルカを捨てて出て行こうとしているが、現実の1930年代当時のモスクワでは、たとえ人間関係が破綻したとしても、住宅を住み替えるのは容易ではなかった。住宅ストックの絶対的な不足に加え、住宅の斡旋システムも恐ろしく非効率的だったからだ。結婚したカップルが同じ部屋に住めなかったり、離婚したカップルが同じ部屋に住み続けたりといった事例は珍しくなかった[★12]。
このようなコムナルカの日常生活の多岐にわたる問題は、しかし少なくとも1930年代初頭までは、『アガニョーク』や『女性労働者』などのメジャーな雑誌でも頻繁に記事としてとりあげられていた。だが30年代後半に入ると、まるで住宅問題は存在しなくなったかのように、メディア上から姿を消した。ソ連文化研究者のエフゲニー・ドブレンコは、社会主義リアリズムのいわば副作用として、理想化不可能な現実の「非現実化 дереализация」[★13]を挙げている。社会主義リアリズムがソ連の唯一の公式の芸術様式となった時代、他の多くのみすぼらしく貧弱な日常空間と同じように、コムナルカも自らにまつわる言説や表象を次々に奪われていった。コムナルカは多くのソ連人にとって確かに眼前に存在していたにもかかわらず、メディア上ではあたかも存在しない空間であるかのように、不可視化されたのである。こうして、ソ連の住宅政策をめぐるさまざまな問題や矛盾が凝縮されたコムナルカは、これらの問題ごと非現実化されたのだった。
コンスタンチンは以後もリーダにつきまとうが、リーダは後悔に苛まされ、彼を拒絶し続ける。しかしコンスタンチンやダヴィドフ夫妻と否応なく毎日顔を合わせる生活、そしていつコンスタンチンが再び侵入してくるか知れない鍵のない部屋では、安心して暮らすことはできない。調査から戻ってきた夫に事情を言い出せないまま、彼女は一人でコムナルカを出て行く。しかし彼女がコムナルカを去ったその日、ナチス・ドイツによるソ連侵攻が開始された。鉄道駅でニュースを聞いたリーダは慌ててコムナルカに戻るが、まもなく夫のドミトリーも、コンスタンチンやダヴィドフ氏、果てはセリョージャまで、コムナルカの男たちはみな軍に召集されていくのだった。
ちなみに物語内では、リーダが比較的簡単にコムナルカを捨てて出て行こうとしているが、現実の1930年代当時のモスクワでは、たとえ人間関係が破綻したとしても、住宅を住み替えるのは容易ではなかった。住宅ストックの絶対的な不足に加え、住宅の斡旋システムも恐ろしく非効率的だったからだ。結婚したカップルが同じ部屋に住めなかったり、離婚したカップルが同じ部屋に住み続けたりといった事例は珍しくなかった[★12]。
このようなコムナルカの日常生活の多岐にわたる問題は、しかし少なくとも1930年代初頭までは、『アガニョーク』や『女性労働者』などのメジャーな雑誌でも頻繁に記事としてとりあげられていた。だが30年代後半に入ると、まるで住宅問題は存在しなくなったかのように、メディア上から姿を消した。ソ連文化研究者のエフゲニー・ドブレンコは、社会主義リアリズムのいわば副作用として、理想化不可能な現実の「非現実化 дереализация」[★13]を挙げている。社会主義リアリズムがソ連の唯一の公式の芸術様式となった時代、他の多くのみすぼらしく貧弱な日常空間と同じように、コムナルカも自らにまつわる言説や表象を次々に奪われていった。コムナルカは多くのソ連人にとって確かに眼前に存在していたにもかかわらず、メディア上ではあたかも存在しない空間であるかのように、不可視化されたのである。こうして、ソ連の住宅政策をめぐるさまざまな問題や矛盾が凝縮されたコムナルカは、これらの問題ごと非現実化されたのだった。
次回は2021年6月配信の『ゲンロンβ62』に掲載予定です。
★1 Lynne Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia: Private Life in a Public Space (Manchester and New York: Manchester University Press, 2010), pp. 32-46.
★2 Gregory D. Andrusz, Housing and Urban Development in the USSR (Basingstoke: Macmillan, 1984), p. 17.
★3 Лебина Н. Cоветская повседневность: нормы и аномалии. От военного коммунизма к большому стилю. М., 2018. С. 106.
★4 Там же. С. 111.
★5 Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia, p. 47.
★6 同作は1973年にソ連コメディ映画の巨匠レオニード・ガイダイによって『イワン・ワシーリエヴィチの転職 Иван Васильевич меняет профессию』というタイトルで映画化される。ただ本論考としては残念なことに、舞台は1930年代のモスクワのコムナルカから1970年代のブレジネフ時代の集合住宅(通称「ブレジネフカ」)へと変更されている。
★7 ミハイル・ブルガーコフ「イヴァーン・ヴァシーリエヴィッチ――3幕の喜劇――」川上洸訳、『現代世界演劇15 風俗劇』、白水社、1971年、360頁。
★8 同書、362頁。
★9 Измайлов В. Проблема дома // Жилищное дело. 1928. №22. С. 8-10.
★10 Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia, p. 64.
★11 Svetlana Boym, Common Places: Mythologies of Everyday Life in Russia (Cambridge: Harvard University Press, 1994), p. 140.
★12 Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia, p. 130.
★13 Добренко Е.Политэкономия соцреализма. М., 2007. С. 38.


本田晃子
1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
革命と住宅
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- 革命と住宅(最終回) 第5章 ブレジネフカ──ソ連団地の成熟と、社会主義住宅最後の実験(後篇)|本田晃子
- 革命と住宅(9) 第5章 ブレジネフカ──ソ連団地の成熟と、社会主義住宅最後の実験(前篇)|本田晃子
- 革命と住宅(8) 第4章 フルシチョーフカ──ソ連型団地の登場(後篇)|本田晃子
- 革命と住宅(7) 第4章 フルシチョーフカ──ソ連型団地の登場(前篇)|本田晃子
- 革命と住宅(6) 第3章 スターリン住宅──新しい階級の出現とエリートのための家|本田晃子
- 革命と住宅(5)第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(後)|本田晃子
- 革命と住宅(4)第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(中)|本田晃子
- 革命と住宅(3) 第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(前)|本田晃子
- 革命と住宅(2) ドム・コムーナ──社会主義的住まいの実験(後篇)|本田晃子
- 革命と住宅(1) ドム・コムーナ──社会主義的住まいの実験(前篇)|本田晃子