革命と住宅(5)第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(後)|本田晃子

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初出:2021年6月25日刊行『ゲンロンβ62』
後篇

5.ノスタルジーの対象としてのコムナルカ


 スターリンが死去し、フルシチョフがソ連の指導者の座につくと、労働者住宅をめぐる状況は大きく変化した。フルシチョフは労働者住宅の充足を国策として掲げた。その結果、1950年代後半から家族単位の集合住宅、通称「フルシチョーフカ」が、ソ連全土に急ピッチで建設された。人びとはコムナルカからフルシチョーフカへと、先を争って引っ越した。1959年から62年のわずか4年の間に、約900万人が新居へと移り住んだとされている。それはまさに民族大移動というべき現象だった[★1]。こうしてブレジネフ時代の末期には、コムナルカはすでに過去の遺物となりはじめていた。その一方で、この時期にはコムナルカを舞台とするフィクションが次々に制作され人気を博した。これらのコンテンツでは、コムナルカはもはや日々直面せねばならない過酷な現実ではなく、過ぎ去った過去として、しばしばノスタルジックな色調でもって描かれた。

 なかでもコムナルカ映画の傑作として知られるのが、ミハイル・カザコフ監督の『ポクロフスキエ門 Покровские ворота』(1982年)である。物語は、大規模な再開発が進みつつある1980年代のモスクワの中心部からはじまる。自動車の車窓から移りゆくモスクワの街並みが映し出された後、今まさに取り壊されようとしている古い集合住宅と、それを眺める中年男性が画面に現れる。実はこの建物は、この男性コースチャが1950年代に住んでいたコムナルカだった。破壊されていく古い建物を眺めながら、コースチャは彼の青春の日々と、コムナルカでの個性的な隣人たちとの共同生活を回想していく。

 かつてモスクワ大の大学院生だったコースチャは、このコムナルカに叔母のアリーサ・ヴィタリエヴナ、歌手のベリュロフ、中年の女性マルガリータ・パヴロヴナとその婚約者サッヴァのカップル、マルガリータの前夫ホーボトフらとともに住んでいた。マルガリータとホーボトフはすでに離婚していたが、先に述べたような住宅難によって引っ越すことができず、マルガリータに新しい恋人サッヴァができた後も、両者は隣り合う部屋で暮らしていた。

 マルガリータの性格を一言で表すならば、典型的なファリック・マザーといえるだろう。彼女は新しいボーイフレンドのサッヴァを愛しながらも、一方で不器用で世間知らずのホーボトフに対しても母親的な支配欲を発揮する。マルガリータはことあるごとにホーボトフの生活に介入するだけでなく、彼が若い看護師のリュードチカに惹かれはじめると、二人の間を無理矢理引き裂こうとする。ホーボトフの部屋はマルガリータが住む部屋の控えの間のような空間で、両部屋の間にあるドアは、貼りつけた地図によって塞がれている。しかしリュードチカがホーボトフの部屋にやってくると、マルガリータは両部屋を隔てるドアを地図ごと蹴破って、彼の部屋に乱入する。両部屋の間のかりそめの境界が破壊され、二つの空間が統合されることによって、マルガリータがホーボトフを再び心理的な支配下に置いたことが象徴的に示されるのである。ホーボトフが前妻の支配を逃れ、一人前の成人男性として生きるためには、このコムナルカから脱出するしか道はないのだ。
 コムナルカという空間ゆえに、マルガリータとホーボトフの愛憎渦巻くドタバタ劇は、コースチャ含むコムナルカの他の住人たちも巻き込んでいく。しかしそんなドラマも、現在=1980年代の、中年に差し掛かったコースチャの視点からは、過ぎ去った青春の懐かしき日々として、一抹の郷愁とともに回想されるのである。

 詩人ヨシフ・ブロツキーのエッセイ「1と2分の1の部屋で In a Room and a Half」をもとに映像作家アンドレイ・フルジャノフスキー[★2]がブロツキーの半生を描いた映画『1と2分の1の部屋、あるいは祖国への感傷旅行 Полторы комнаты, или сентиментальное путешествие на Родину』(2008年)では、ブロツキーが少年時代–青年時代に住んでいたコムナルカが、時間的隔たりだけでなく、空間的隔たり──ブロツキーは1972年に国外追放となり、亡命を余儀なくされた──によって、より一層幻想的かつノスタルジックに描き出される。

 ブロツキーは1940年に、レニングラードのユダヤ系の家庭に生まれた。レニングラードは彼の生後まもなく、ドイツ軍による900日に及ぶ過酷な包囲戦に巻き込まれる。戦災と飢餓を生き延びた後も、彼らユダヤ系住人を取り巻く環境は困難を極めた。とりわけ1948年から1953年にかけての反ユダヤ・キャンペーンは苛烈で、ユダヤ系の知識人や専門家は次々に逮捕され、ブロツキーの父親も海軍の軍籍を剥奪され、勤務先の海軍博物館を解雇されている。そのような背景もあってか、ブロツキーは学校になじめず転校を繰り返し、その後は詩を発表しながらさまざまな職を転々とした。そして1964年、彼は「徒食者」、つまり社会に役立っていないニートであるという罪状(!)によって逮捕され、5年の強制労働の判決を言い渡される。さすがにこれには国内外から非難が集まり、1年半の流刑ののち、ブロツキーは釈放された。皮肉にも、それまで全く無名の詩人であった彼は、この「不条理裁判」によって世界的に知られるようになる。だが1972年、今度は突如国外退去を命じられる。こうしてブロツキーはアメリカへと去ることになった。以降彼は生活の拠点をアメリカに移し、1996年、この異国の地で没する。

 映画『1と2分の1の部屋、あるいは祖国への感傷旅行』では、アメリカで市民権を得、ノーベル文学賞を獲得したのちの詩人の視点から、レニングラード時代が回想される。ブロツキーと彼の両親が暮らしていたコムナルカは、かつてはアレクサンドル・ブロークやジナイーダ・ギッピウス、ドミトリー・メレシコフスキーなど、19世紀の銀の時代を代表する詩人たちが住んでいた由緒ある邸宅だった。だがそれゆえに革命後に接収され、コムナルカへと転用される。雑多な住人たちで混み合うコムナルカには、在りし日の文化の名残はないが、高い天井や巨大なドア、暖炉、装飾的な壁や柱などからは、元の邸宅の格調高さが見て取れる【図1】。なお、タイトルの「1と2分の1の部屋」は、このコムナルカの一角を占めるブロツキー一家の住まいのことを指している。彼らは大きな一室を本棚やカーテンで仕切って、食堂兼居間兼夫婦の寝室とブロツキーの子ども部屋(「2分の1」の部分)に分けて暮らしていた。したがって、もちろん親子の間のプライヴァシーはあってなきがごとしだ。年頃になったブロツキーがガールフレンドを自室へ連れこみ、性急にことに及ぼうとして次々に振られていくさまから、なんとかこぎ着けた初体験まで、両親にはすべてが筒抜け状態となる。
 

【図1】『1と2分の1の部屋 、あるいは祖国への感傷旅行』より、ブロツキー一家の暮らす部屋。ところどころにかつて邸宅だった頃の風格が感じられる 掲載許諾=アンドレイ・フルジャノフスキー
 
 コムナルカの共同キッチンの描写も興味深い。アメリカという遥か彼方から回想される少年時代の共同キッチンは、調理や洗濯の雑音、女たちの愚痴や罵声など、さまざまな音とリズムに満ちたエキゾティックな空間として現出する。共同キッチンに干された巨大なシーツに映し出される彼女たちの影は、鍋やフライパンを叩きながら未開の蛮族のように輪を描いて踊りだす【図2】。ブロツキーの記憶とイマジネーションは、共同キッチンで働く女たちを他の住人を捕まえて調理する、恐ろしくも奇妙な食人族へと変容させるのである。
 

【図2】『1と2分の1の部屋 、あるいは祖国への感傷旅行』より、シーツに映った共同キッチンの女たちの影。踊る彼女たちの手には調理器具が握られている 掲載許諾=アンドレイ・フルジャノフスキー
 

 ブロツキーのレニングラードでの生活は、決して楽なものではなかったはずだ。だが詩人の記憶の中のコムナルカは、しばしば幻想的で多幸感に満ちた空間として描出される。ただし同作では、双眼鏡越しの視界や鏡の反映、影絵やプロジェクターによる投影など、イメージの人為性が繰り返し強調されることにも注意せねばならない。このような演出は、これらのイメージがブロツキーの祖国へのノスタルジーと少年時代へのノスタルジーという二重のフィルターによって詩的に変容されたヴィジョンであることを示唆しているのである。

6.トータル・インスタレーションの空間としてのコムナルカ


 コムナルカでの生活は、ブロツキーよりもやや早い1933年にやはりユダヤ系の家庭に生まれたイリヤ・カバコフの作品にも、大きな影響を与えることになった。

 カバコフはウクライナ出身だが、1945年にモスクワの美術学校で学ぶために、母親とともに首都へと移り住む。美術学校卒業後は、生活のために絵本の挿絵画家として働く一方で、ソ連の公式芸術界の外部でひそかに創作を行った。彼のような非公式芸術家たちは、ソ連芸術の規範から自由であることと引き換えに、美術館やギャラリーなど公的な展示空間から閉め出されていた。それゆえカバコフらにとって、住まいは制作の現場であるだけでなく、親しい友人たち──同じような立場の芸術家たちや批評家たち──を招いて作品を見せ合う、展示空間でもあった。

 当初は内輪向けに制作していたカバコフだが、ゴルバチョフによるソ連体制のペレストロイカはアート市場にも波及し、彼の作品は祖国ソ連よりも先に、西側の美術館やギャラリーで展示されるようになっていった。たとえば1988年には、ニューヨークのロナルド・フェルドマン・ギャラリーで初の大規模インスタレーション《10人の登場人物》が展示されている。同作ではタイトルの通り、コムナルカに住む10人の住人の部屋が再現された。「他人の意見を集める男」の部屋、「部屋から宇宙へ飛び出した男」の部屋、「小さな男」の部屋、「作曲家」の部屋、「なにも捨てなかった男」の部屋等々と名づけれた各室には、その場に不在の部屋の主を想起させるオブジェとキャプションが設置された。コムナルカはカバコフら非公式芸術家たちの主要な制作と展示の場だったわけだが、アメリカにはもちろんコムナルカは存在しない。そこでカバコフは、コムナルカという文脈ごと、このインスタレーションを作り出したのである。観客も含め展示空間すべてを展示物とみなすこのようなタイプの作品を、カバコフ自身は「トータル・インスタレーション」[★3]と呼んでいる。

 この作品=展示空間では、観客はコムナルカの10の部屋を一つ一つ見て回ることになる。たとえば「部屋から宇宙へ飛び出した男」【図3】の部屋の壁面は、宇宙開発や航空工学に関する多種多様な記事、ポスター、住人の手によると思われる設計図などによって埋め尽くされていた。簡易ベッドの上にはこの設計図に基づいて組み立てられたとおぼしきカタパルトが設置されており、その真上の天井には大きな穴。ベッドの周囲には脱ぎっぱなしの靴や、天井から剥落した漆喰などが散乱する。作品に添えられた短い文章によれば、この部屋の住人は常に自らを異邦人と感じ、地上からの脱出を願っていたという。そして彼はついにその方法を発見した。彼はコムナルカの隣人たちに気づかれぬよう爆薬を部屋に運び込み、ある夜天井を爆破し、カタパルトでもって自身を空へと射出したのである。
 この部屋の孤独な住人は、隣人の証言によって明らかになったのだが、宇宙への単独飛行にとりつかれており、おそらく彼はこの夢を、つまり彼の「偉大な事業」を成し遂げたのだろう。
 この部屋の住人の考えによれば、全世界は空の彼方へと向かうエネルギーの流れによって貫かれている。彼の計画は、この流れに乗って上空へ飛び去るというものだったようだ。
 […]
 すべてはコムナルカの他の住人たちが寝静まった夜に起きた。彼らの恐怖、驚き、当惑は想像できるだろう。地域の警察が呼ばれ、捜査がはじまり、住人たちは裏庭も、道路も、あらゆる場所を探し回った。だが彼は、どこにもいなかった。[★4]

 

【図3】《10人の登場人物》より「宇宙へ飛び出した男」の部屋 D.James Dee 1988, New York
 

 ここでは詳しくは論じないが、ロシアには独自のコスミズム(宇宙論)が存在する。その始祖となったのが、作家のフョードル・ドストエフスキーや哲学者のウラジーミル・ソロヴィヨフらにも大きな影響を与えたとされる伝説的な司書、ニコライ・フョードロフだった。フョードロフの唱えるコスミズムの究極的な目的のひとつに、重力の克服=死の克服がある。重力は人を大地へと縛りつける。死んで大地に横たわるとき、人間は完全に重力の支配下に置かれる。ゆえにフョードロフは、重力を統御しその支配を克服することは、人類の死すべき運命からの解放につながると考えた。そして彼は、人類の復活と不死化および宇宙への植民というSF的なスケールの(誇大妄想ともいえる)計画を練り上げ、「共同事業 общее дело」と名づけた。このコムナルカの住人が自らの計画を「事業」と呼んでいる点からも、カバコフがフョードロフを参照していることは明らかだ[★5]。常に隣人に監視されている独房のような狭い室内から自由で広大無辺な宇宙へと、あるいはコムナルカの生活という形而下の世界から形而上の世界へと、男は自らを射出したのである。
 だがカバコフの場合、このような脱出や救済の表現は、リリカルだが常にどこか醒めたアイロニーの感覚も伴っている。《10人の登場人物》は観客を物理的に作品空間に参入させるが、虚構に没入させたり、現実と虚構を取り違えさせたりはしない。ソ連の公式芸術であった社会主義リアリズムが、描かれた対象こそがあるべき「現実」なのだと主張したのとは対照的である。天井に空いた穴も、漆喰の破片が飛び散った部屋も、舞台装置のような虚構性を隠そうとはしない。それにこの男の部屋を通り過ぎれば、すぐに次の部屋、次の住人の物語が展開されるのだ。カバコフは虚構の力によってコムナルカの息苦しい生活からの、ひいてはソ連体制からの脱出の可能性を指し示す。しかし同時にその虚構性を明示することによって、そこに無批判に耽溺することを許さないのである。

 カバコフのコムナルカ・シリーズにはコムナルカの台所を舞台としたものもある。1992年に長野のセゾン美術館に展示されたインスタレーション《共同キッチン》【図4】では、6メートルの高さの八角形の空間が建設され、壁や天井から大小の鍋やフライパン、食器、カトラリー、布巾、ガラクタなどが小さな紙片とともに吊り下げられた。紙片には、コムナルカのキッチンで交わされている二人の男と二人の女の会話の断片──「アンナ・グリゴリエヴナ、煮立ってますよ!」から「このくそったれ女!」まで[★6]──が書かれていた。見上げるような高さの天井と無言で作品を眺める観客からなる空間は教会の礼拝堂を思わせるが[★7]、実はこの空間は『1と2分の1の部屋』の共同キッチン同様、騒音と下世話な会話に満たされた、非常に「騒々しい」空間なのだ。展示空間にはこれらのオブジェの他にテーブルと椅子が設置され、テーブル上には次のようなテクストが載せられていた。

 コムナルカとは、偉大な、無尽蔵のテーマである。その中にいると、魔法の鏡の中にいるように、われわれの生活のあらゆる断片がきらめき、端と端で互いに交錯するのであり、それ自体が宇宙の中心に立つのと等しい意味を持つ。そこには病もあれば、問題も、希望もある。下劣なものも偉大なものも、散文的なものもロマンティックなものも、愛も割れたガラスをめぐる戦いも、無条件の寛容も電気代の支払いについてのとるに足らないいさかいも、焼き立てのピローグのおすそ分けもゴミ出しの問題も、あらゆるものがそこに自らの場所を見出すのだ。そこは中世の広場や劇場のような場所であり、そこでは観客と俳優の立場はつぎつぎに入れ替わり、退屈なほど長い場面もあれば、雪崩のような勢いで変化する場面もある。登場人物は二人きりのこともあれば、数えきれないほどたくさんのこともある。しかしどのような場合であれ、行為の行われる場所は同一だ。望むと望まざるとにかかわらず傍観者でいることは誰にも不可能で、すべての出来事に対して常に参加者であることが定められている。そしてそこではあらゆることが──静かで思慮深い会話から取り乱した叫び声や喚き声までが、コンポートをかき回すスプーンの静かな響きから、棚を壁から叩き落とし、皿も鍋も食ベものも瓶もすべてをごちゃごちゃにしてリノリウムの床の上に不定形の塊を作り出す台風のような格闘までが──あらゆるタイミングで生じうるのである。[★8]
 

【図4】《共同キッチン》写真は2018年にトレチャコフ・ギャラリーで再現されたもの 撮影=上田洋子
 

 カバコフにとって、共同キッチンはコムナルカ的矛盾が最も先鋭に表出する場だった。そこではあらゆる高尚なものと最も低俗なもの、最良のものと最悪のものが併存していた。しかもこの空間をコムナルカの住人は──そしてこのインスタレーションを見に来た観客も──客観的に突き放して鑑賞することはできないのだ。共同キッチンはそこに踏み入れた人間を否応なく相互監視の制度の中に取り込んでしまう。そこでは監視する=鑑賞する主体は、瞬時のうちに監視される=鑑賞される客体へと裏返るのである。

 本来の用途には使われなくなった調理器具や食器、過去のキッチンで交わされていた会話の残響──それらにはすでに不在となった人びとの痕跡が刻印されている。この喪失の感覚は、コムナルカを経験したことのない観客にも、ある種の郷愁を呼び起こす。しかしカバコフはコムナルカ空間を、決して単なるノスタルジーの対象としては描かない。カバコフはこれら共同キッチンの痕跡を採取し、トータル・インスタレーション《共同キッチン》として再構成する。そしてこの寓意的空間を通して、望むと望まざるとにかかわらずすべてが監視の対象ないしスペクタクルの対象として他者の視線の前にさらけ出されてしまうコムナルカの生を、そこで作動していた権力構造を批判的に可視化するのである。

おわりに


 コムナルカとは、最もソ連的な住宅であったといっても過言ではないだろう。大多数の都市労働者がそこで暮らしていたというだけでなく、社会主義の理想と現実、敵意と友愛、排除と団結がこのように端的に現出した空間は他には存在しないからだ。しかしコムナルカの人口は、フルシチョフ時代からブレジネフ時代にかけて大きく減少し、それはソ連型住宅の主流の座を家族単位の集合住宅へと譲ることになった[★9]。この住宅政策の転換は、単にソ連の住宅のモードの変化を示しているだけではない。それは資本主義社会とは異なる、所有やプライヴァシーを前提としない社会主義住宅、あるいは男女の婚姻や性愛、血縁関係をベースとしない社会主義的な住様式の探求が断念されたことを意味していた。

 そしてソ連末期の1988年、ゴルバチョフはペレストロイカの一環として、住宅の私有化を宣言する。これによって、希望者は現在居住している住宅を所有することが可能になった。当初の私有化の対象は、フルシチョーフカ型の家族単位の住宅に限られていたが、その後私有化の範囲はコムナルカにまで及んだ。こうしてすでに死に体だった社会主義住宅の理念は、完全に葬り去られたのである。若い世代は私有化した部屋を売り払ってより快適な新しい住宅に移り住み、コムナルカには年金生活者や移民労働者、さまざまな問題を抱えた低所得者ら、社会的・経済的弱者が残されることになった。

 ソ連解体とその後の経済混乱を経た現在、コムナルカは多くのロシア人にとって、もはや郷愁の対象というよりはエキゾティックな空間になりつつあるようだ。コムナルカに対する現代ロシア人の距離感がよく表現されているのが、2015年に放送が開始されたTVドラマ『コムナルカ Коммуналка』(全4話)である。物語は、裕福な大学教授の妻だったアーニャが、突然の夫の死をきっかけに、それまで住んでいた屋敷を不動産会社に巻き上げられ、コムナルカへの引っ越しを余儀なくされるところからはじまる。アーニャはすでに中年に差し掛かっているが、ブロツキーにとってコムナルカが故郷とほぼ同義であったのに対し、彼女にとってそこは全くの無縁の世界、まさしく異郷だった。ゆえにコムナルカへの移住は、彼女にとっては社会的転落を意味するだけでなく、未知の空間へ足を踏み入れることをも意味していた。実際アーニャはコムナルカの習慣(朝のバスルーム前の行列)やルール(台所では他人のものに手を触れない)を知らず、最初は他の住人たちから敵意を向けられる。
 彼女の隣人たちも、「普通ではない」人びととしてエキセントリックに描かれる。ソ連時代から抜け出してきたかのような年金生活者の老夫婦、フランス人、夜な夜な部屋をクラブ化している奇妙な画家、中央アジアからの移民労働者たちなど、彼らはアーニャにとって(そして多くの現代の視聴者にとっても)、完全なる他者ではないが少しばかり異質な人びとだ。そして彼らはコムナルカの住人らしく、アーニャの生活にも容赦なく踏み込んでくる。だが世間知らずではあるものの、その分先入観や偏見にとらわれないアーニャは、懸命に彼らに働きかけ、やがてコムナルカに受け入れられていく。そしてわれわれ視聴者も、彼女の視点を通じて、現代ロシアの一部でありながら異郷のように感じられるコムナルカの空間に徐々になじみ、愛着を抱くようになっていく。

 ただこのようなコンテンツを通じて再発見されたコムナルカが、今後どのような位置を占めていくのかは不透明なままである。貧困層やアウトローの吹き溜まりにとどまるのか、それとも福祉政策や住宅政策の中でセーフティーネットのようなかたちで活用されることになるのか。そして何より、コムナルカの家族でもなければ他人でもないコミュニティは、今後どのように評価されていくのか。イデオロギーが先行した1920年代のソ連よりも、家族単位のフルシチョフ的住宅の限界が指摘される現在こそ、あるいはコムナルカ的な住宅の再検証が必要とされているのかもしれない。
 
次回は2021年9月配信の『ゲンロンβ65』に掲載予定です。

 





★1 Mark B. Smith, Property of Communists: The Urban Housing Program from Stalin to Khrushchev (DeKalb: Northern Illinois University Press, 2010), p. 102.

★2 アンドレイ・フルジャノフスキーはユーリ・ノルシュテインらと並ぶ著名なアニメーターであり、最近本邦でも公開された映画『DAU.ナターシャ』(2021年)の監督を務めるイリヤ・フルジャノフスキーの父親にあたる。

★3 Boris Groys, David A. Ross, Iwona Blazwick, Ilya Kabakov (London: Phaidon, 1998), p. 54. トータル・インスタレーションについては、沼野充義編著『イリヤ・カバコフの芸術』五柳書院、1999年、30‐33頁を参照。

★4 Amei Wallach, Ilya Kabakov: The Man Who Never Threw Anything Away (New York: Harry N. Abrams, 1996), pp. 196-197.

★5 ちなみにカバコフには、実現されなかったプロジェクトを一堂に集めた《プロジェクト宮殿》(1998年)など、よりダイレクトにフョードロフを参照した作品もある。

★6 Wallach, Ilya Kabakov, p. 225.

★7 Ibid., p. 224.

★8 Ibid., pp. 224-225.

★9 とはいっても、1989年の段階で未だ17パーセントの人口がコムナルカで暮らしていた。Lynne Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia: Private Life in a Public Space (Manchester and New York: Manchester University Press, 2010), p. 200.

本田晃子

1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
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