革命と住宅(3) 第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(前)|本田晃子

初出:2021年4月21日刊行『ゲンロンβ60』
社会主義は家族制度を否定し、家族を基本単位とした住宅も否定した。前回の連載では、十月革命後に既存の家に対するアンチテーゼとして生まれた、社会主義の理想の住宅ドム・コムーナを紹介した。これらの「社会主義的住宅」では、人びとは婚姻や血縁に基づいてではなく、同志愛によって構成されたコミューンを基盤に、共同生活をおくった。住人たちはキッチンや浴室、トイレなどの水回りを共同で利用するだけでなく、それぞれの給与を集めて共同基金を設け、生活に必用な費用はこの基金から支出された。私的財産の所有は否定され、家具から衣服に至るまであらゆるものが共有化された。また、それまで女性の無償労働とみなされてきた家事や育児などの家庭内の私的な労働は、ドム・コムーナに付属する食堂や保育園などの公共サービスによって代替されることになった(もっとも、実際にはこれらの施設はしばしば割愛されるか、不完全なかたちでしか実現されなかったが)。1920年代末には、このようなドム・コムーナの理念は都市のレベルまで拡大された。五カ年計画の開始とともにソ連各地に新しい都市の建設が決定され、これを受けて社会主義都市のあるべき姿を問う論争が巻き起こったのである。
革命の理想に燃えるボリシェヴィキやコムソモール(青年共産党員)、一部の前衛建築家たちは、ドム・コムーナや社会主義都市を建設し、生活環境を物理的に共同化・集団化することで、社会主義的な心身をもった「新しい人間」を生み出せると信じていた。しかし彼らの壮大な実験は、まもなく他でもない党によって有害なユートピア主義と断じられた。社会主義住宅や社会主義都市をめぐる議論は、これをきっかけに急速に萎んでいった。一方、そのようなエリートたちの論争の傍らで、この時代の大多数の都市労働者は、すでに共同化・集団化された住宅に住んでいた。ただしそれはドム・コムーナの輝かしい理念の皮肉な反転像というべき、「コムナルカ」と呼ばれた空間だった。幼少期から20年以上の年月をコムナルカで過ごした詩人のヨシフ・ブロツキーは、そこでの生活について次のように述べている。
極限まで人びとが互いに近接し、剥き出しの生を生きることを強いられた、社会主義住宅コムナルカ。これらの住宅はどのような経緯で誕生し、どのような住人を生み出し、どのようなイメージを与えられ、そしてどのような終焉を迎えたのだろうか。ここからは、全3回にわたってコムナルカの歴史をとりあげていきたい。
革命の理想に燃えるボリシェヴィキやコムソモール(青年共産党員)、一部の前衛建築家たちは、ドム・コムーナや社会主義都市を建設し、生活環境を物理的に共同化・集団化することで、社会主義的な心身をもった「新しい人間」を生み出せると信じていた。しかし彼らの壮大な実験は、まもなく他でもない党によって有害なユートピア主義と断じられた。社会主義住宅や社会主義都市をめぐる議論は、これをきっかけに急速に萎んでいった。一方、そのようなエリートたちの論争の傍らで、この時代の大多数の都市労働者は、すでに共同化・集団化された住宅に住んでいた。ただしそれはドム・コムーナの輝かしい理念の皮肉な反転像というべき、「コムナルカ」と呼ばれた空間だった。幼少期から20年以上の年月をコムナルカで過ごした詩人のヨシフ・ブロツキーは、そこでの生活について次のように述べている。
それ[コムナルカ:本田]は、人間の性質についてのあらゆる幻想を剥ぎとり、生活をその基礎まで剥き出しにする。君はおならの音量で誰がトイレに入っているのか判別できるようになるし、彼ないし彼女が朝食や夕食に何を食べたのかもわかるようになる。人びとがベッドで立てる音も、女たちにいつ生理が来るのかもわかるようになる。隣人はしばしば君に悲しみを打ち明けるし、急な痛みやあるいはもっと悪い何かが君に起きたときには、彼や彼女が救急車を呼んでくれる。君が一人暮らしの場合、いつか君が椅子の上で死んでいるのを見つけるのも彼や彼女だし、あるいはその逆も起こりうるだろう。[★1]
極限まで人びとが互いに近接し、剥き出しの生を生きることを強いられた、社会主義住宅コムナルカ。これらの住宅はどのような経緯で誕生し、どのような住人を生み出し、どのようなイメージを与えられ、そしてどのような終焉を迎えたのだろうか。ここからは、全3回にわたってコムナルカの歴史をとりあげていきたい。
1.住宅の接収と再分配
気候の厳しいロシアにおいて、住宅の有無は人間の生死に直結する。労働者住宅の絶対的不足という問題の解決なしにプロレタリアートの支持の獲得が不可能であることは、ボリシェヴィキの指導者たちもよく理解していた。実際にレーニンは1917年11月の時点で、住人の数より部屋数が多い住宅は、貧しい人びとのために余剰の部屋を拠出すべきだと主張していた。こうして1918年8月20日には法令「都市における不動産の私的所有権の廃止について」が制定され、ロシアの主要都市の住宅は国有化の対象となった。そしてわずか2年足らずの間に、モスクワやペトログラード(現サンクトペテルブルク)では都市のおよそ4分の3の住宅が強制的に接収され[★2]、1919年3月に行われた第8回党大会の際に、徴用の完了が宣言された[★3]。接収された住宅はそれぞれの自治体(都市ソヴィエト)の管理下に置かれ、都市近郊に暮らす労働者に再分配された。このような経緯で誕生したのが、共同住宅(коммунальная квартира)通称コムナルカ(коммуналка)である。
多くのメディアは、ボリシェヴィキの強力な指導体制による住宅の接収と再配分を称賛した[★4]。実際コムナルカの設立は、労働者向け住宅の不足という極めて現実的かつ物理的な問題と、生活の社会主義化というイデオロギー的問題を、一挙に解決したかのように見えた。しかし実際のコムナルカの運営は、どのようなものだったのだろうか。
国有化の対象となったのは、モスクワなどの都市部に位置する貴族やブルジョワの邸宅ないし大規模な集合住宅だった。これらの住宅では、以前の主人一家は(逮捕されたり亡命したりしていない場合は)主寝室にまとめて押し込まれ、引っ越してきた新しい住人たちは、他の寝室やダイニングや客間、書斎、召使室などに、多くの場合一室一家族単位で居住した。大きな部屋はベニヤ板などで仕切られ、複数の家族が入居した[★5]。なお、これらの住宅の分配はかなり官僚的かつ機械的に行われていたようで、職場から遠い住宅を割り当てられたり、居住に適さない部屋(廊下、キッチン、バスルームなど)を割り当てられたりといったケースが後を絶たなかった。よって実際には、住まいを獲得したからといって、必ずしも労働者たちが諸手を挙げてボリシェヴィキの住宅政策を歓迎したわけではなかった[★6]。キッチンや浴室、トイレなどの水回りは、コムナルカ内で共有された。このような環境なので、冒頭のブロツキーの引用にもあるように、コムナルカでは同室の人びとの間はもちろん、隣人同士の間にもプライヴァシーは存在しなかった。
当然ながら、住人間の対立も熾烈を極めた。そもそもコミューンを基盤としたドム・コムーナの住人たちとは異なり、コムナルカの住人たちは必ずしも生活の共同化や集団化を支持していたわけではなかった。彼らの多くは、ただ生きるためにコムナルカを選んだに過ぎない。当初からコムナルカの隣人たちに不信や敵愾心を剥き出しにする者もいた。住宅の元の所有者は、社会階層の異なる無教養で無作法な新しい隣人たちを軽蔑し、移住者たちもこれらかつての特権階級をあからさまに敵視した。
コムナルカの家賃は出身階級によって異なっており、労働者階級の入居者たちは優遇された。基本的に家賃は部屋のサイズに連動していたが、労働者の場合は全生活費の14パーセント程度にとどまるよう設定された[★7]。家賃の徴収は、当初はコムナルカの管理人(当該住宅のかつての所有者であることが多かった)によって行われたが、まもなく住人によって構成される住民委員会に移管されていった。モスクワでは1924年にコムナルカの全権代表(квартуполномоченный)を選出することが義務化され、このシステムはすぐに全国へと広められた。代表は家賃や光熱費の支払いの督促だけでなく、生活ルールの監督や住民委員会の招集なども行うことになっており、やがてそこには住民の密告という仕事もつけ加わった。
もちろん、ボリシェヴィキ側も決して暴力的な接収だけを行っていたわけではない。たとえば1918年当時推進されていたのが、住宅に余裕のある人びとが「自主的に」「善意によって」余っている居室を提供する「圧縮 уплотнение」だった。なお「圧縮」の場合、賃貸人・賃借人の関係は生じず、新たな入居者は元の住人と同じ立場で、家賃は住宅管理人に支払うことになっていた。部屋を差し出しても利益はないわけだから、進んで「圧縮」を行おうとする者などいない。そこで「圧縮」の道義的重要性を訴える、さまざまなプロパガンダが行われた。ソ連で最初に製作された映画のうちの一本、その名もずばり『圧縮 Уплотнение』(1918年)も、この住宅政策の宣伝を目的としている。なお同作の脚本は、映画監督アレクサンドル・パンテレーエフと、当時の教育人民委員(文科大臣)のアナトーリー・ルナチャルスキーによって共同執筆された。
『圧縮』では二人の初老の男たちと彼らが暮らす二つの住まいが、対照的に描かれる。最初に登場する裕福な大学教授は、子どもたちや召使とともに豪邸に暮らしている【図1】。それに対して、次に登場する貧しい錠前屋は、ドストエフスキーの小説でもおなじみの半地下のワンルームに、娘と二人で暮らしている(ちなみにこの部屋にはベッドはひとつしかないので、親子のどちらかは床で寝ているものと思われる)【図2】。そんなあるとき、錠前屋の娘が脚を負傷する。これがきっかけとなって、鍵屋とその娘は教授の厚意により、彼の邸宅に移り住むことになる。ここでやっと判明するのだが、教授たちの一家と錠前屋の親子は、実は同じ建物の上階と下階に住んでいたのだった。彼らは同じ場所に住みながら、それまでは互いの姿が「見えなかった」。ここにきて、両者はようやく互いの存在を認識するに至ったのである。

【図1】『圧縮』より教授宅の食事風景

【図2】『圧縮』より錠前屋親子の住むワンルーム
もちろん革命前からのエリートである教授一家と錠前屋親子の間には、階級に由来するさまざまな生活習慣の相違が存在する。たとえば鍵屋の老人は、紅茶をティーカップからではなくソーサーに注いで飲んで、教授一家の顰蹙を買う。にもかかわらず、教授と鍵屋は意気投合し、やがて教授宅には他の労働者たちも出入りするようになっていく。一方、教授の次男と鍵屋の娘は互いに好意を抱いており、結婚を考えはじめていた。それに対して新しい同居人たちをよく思わない長男は、彼らの仲を引き裂こうとする。こうして教授の長男と次男は、父親の目の前で取っ組み合いの喧嘩を繰り広げる。だが錠前屋の娘の通報によって、まもなく駆けつけた警察の手で長男は逮捕される。物語は第三インターナショナル結成を祝うペトログラードの人びとの姿と共に幕を閉じる。
このように『圧縮』では、当初は互いの存在を認識していなかった人びとがそれに気づき、共に生活しながらさまざまな軋轢を乗り越え、より強固に団結していくさまが描かれる。教授と錠前屋が住む建物は、ソ連社会の過去、現在、そして来るべき未来を象徴的に表しているのである[★8]。
2.「圧縮」
もちろん、ボリシェヴィキ側も決して暴力的な接収だけを行っていたわけではない。たとえば1918年当時推進されていたのが、住宅に余裕のある人びとが「自主的に」「善意によって」余っている居室を提供する「圧縮 уплотнение」だった。なお「圧縮」の場合、賃貸人・賃借人の関係は生じず、新たな入居者は元の住人と同じ立場で、家賃は住宅管理人に支払うことになっていた。部屋を差し出しても利益はないわけだから、進んで「圧縮」を行おうとする者などいない。そこで「圧縮」の道義的重要性を訴える、さまざまなプロパガンダが行われた。ソ連で最初に製作された映画のうちの一本、その名もずばり『圧縮 Уплотнение』(1918年)も、この住宅政策の宣伝を目的としている。なお同作の脚本は、映画監督アレクサンドル・パンテレーエフと、当時の教育人民委員(文科大臣)のアナトーリー・ルナチャルスキーによって共同執筆された。
『圧縮』では二人の初老の男たちと彼らが暮らす二つの住まいが、対照的に描かれる。最初に登場する裕福な大学教授は、子どもたちや召使とともに豪邸に暮らしている【図1】。それに対して、次に登場する貧しい錠前屋は、ドストエフスキーの小説でもおなじみの半地下のワンルームに、娘と二人で暮らしている(ちなみにこの部屋にはベッドはひとつしかないので、親子のどちらかは床で寝ているものと思われる)【図2】。そんなあるとき、錠前屋の娘が脚を負傷する。これがきっかけとなって、鍵屋とその娘は教授の厚意により、彼の邸宅に移り住むことになる。ここでやっと判明するのだが、教授たちの一家と錠前屋の親子は、実は同じ建物の上階と下階に住んでいたのだった。彼らは同じ場所に住みながら、それまでは互いの姿が「見えなかった」。ここにきて、両者はようやく互いの存在を認識するに至ったのである。


もちろん革命前からのエリートである教授一家と錠前屋親子の間には、階級に由来するさまざまな生活習慣の相違が存在する。たとえば鍵屋の老人は、紅茶をティーカップからではなくソーサーに注いで飲んで、教授一家の顰蹙を買う。にもかかわらず、教授と鍵屋は意気投合し、やがて教授宅には他の労働者たちも出入りするようになっていく。一方、教授の次男と鍵屋の娘は互いに好意を抱いており、結婚を考えはじめていた。それに対して新しい同居人たちをよく思わない長男は、彼らの仲を引き裂こうとする。こうして教授の長男と次男は、父親の目の前で取っ組み合いの喧嘩を繰り広げる。だが錠前屋の娘の通報によって、まもなく駆けつけた警察の手で長男は逮捕される。物語は第三インターナショナル結成を祝うペトログラードの人びとの姿と共に幕を閉じる。
このように『圧縮』では、当初は互いの存在を認識していなかった人びとがそれに気づき、共に生活しながらさまざまな軋轢を乗り越え、より強固に団結していくさまが描かれる。教授と錠前屋が住む建物は、ソ連社会の過去、現在、そして来るべき未来を象徴的に表しているのである[★8]。
自身もコムナルカを転々とすることになった作家のミハイル・ブルガーコフは、「圧縮」の状況をより幻想的に、かつより風刺的に描いている。ブルガーコフはウクライナのキエフ大学で医学の学位を取得するが、1921年、作家になるために着の身着のままでモスクワにやってきた。そんな彼が医学知識を活かしつつ執筆したのが、小説『犬の心臓』(1925年)だった。
物語の主人公は、飢えや寒さに苦しみながらモスクワを徘徊する一匹の野良犬のシャリク。高名な医師であるプレオブラジェンスキーは、そんなシャリクを偶然見かけて、自宅に引き取ることにする。シャリクは命の恩人であるプレオブラジェンスキーを熱烈に慕うようになるが、実はこの医師の真の姿は動物好きの善人などでは全くなく、恐るべきマッドサイエンティストなのだった。まもなく医師はシャリクの犬の身体に、死んだ人間の男の脳下垂体と精囊の移植手術を行う。その結果生み出されたのが、犬人間シャリコフだった。このシャリコフこそ、冒頭で述べた「新しい人間」のパロディ、ないしブルガーコフ版「新しい人間」なのである[★9]。
最初彼は犬の姿のままでろくに言葉もしゃべれないが、やがて片言ながら言葉を発しはじめ、同時にその外見も人間に近づいていく。そして最終的には人間と変わらない言葉遣い、姿格好へと変化する。ただし可愛げのある犬のシャリクとは違って、犬人間のシャリコフは移植元の男(酒場の喧嘩で死亡したとされている)の野卑な性格と犬の本能が混ざり合った、粗野で嘘つきで好色、猫の虐殺が趣味というおよそ最低な人物だった。さらに、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』の例を出すまでもなく、シャリコフは被造物の常として、彼を生み出しながらも一人の人間として認めようとしないプレオブラジェンスキーに対して、反旗を翻すのである。
『犬の心臓』はプレオブラジェンスキーに代表される旧体制や知識人階級だけでなく、ロシア正教(プレオブラジェンスキーという姓はキリスト教用語の聖体変容に由来している)からアヴァンギャルド芸術、ソ連体制まで、まんべんなく全方位に喧嘩を売る小説になっている。ただそれらについてはすでに山のように先行研究があるので、ここでは「住宅」という問題に絞って見てみたい。
プレオブラジェンスキーは革命前から名の知れた医学者で、モスクワの一等地に住んでいる。彼の住まいは門番が玄関扉を開けてくれるような、特権的な集合住宅だ。しかも間取りは、寝室、食堂、書斎、応接間、診察室、手術室、召使部屋の計7室。もちろんこのような住宅が当局から目をつけられないわけはない。だがプレオブラジェンスキーは、彼の専門である回春術によって政権上部にコネをつくり、今までなんとか「圧縮」を免れてきた。しかし医師が危惧する通り、まもなく彼の住まいに四人の住宅管理委員が乗り込んでくる。そして彼らのリーダー格であるシヴォンデルという男は、医師に診察室と食堂を自主的に明け渡すよう強要する。
「圧縮」を強要されたプレオブラジェンスキーは、けれども唯々諾々と受け容れはしない。彼はすぐにその場でシヴォンデルの上司に電話し、この上司からシヴォンデルらに対して即刻圧縮を止めるよう指示させる(この上司は党の幹部のはずだが、どうやらプレオブラジェンスキーの回春術によってがっちり弱みを握られているらしい)。
物語の主人公は、飢えや寒さに苦しみながらモスクワを徘徊する一匹の野良犬のシャリク。高名な医師であるプレオブラジェンスキーは、そんなシャリクを偶然見かけて、自宅に引き取ることにする。シャリクは命の恩人であるプレオブラジェンスキーを熱烈に慕うようになるが、実はこの医師の真の姿は動物好きの善人などでは全くなく、恐るべきマッドサイエンティストなのだった。まもなく医師はシャリクの犬の身体に、死んだ人間の男の脳下垂体と精囊の移植手術を行う。その結果生み出されたのが、犬人間シャリコフだった。このシャリコフこそ、冒頭で述べた「新しい人間」のパロディ、ないしブルガーコフ版「新しい人間」なのである[★9]。
最初彼は犬の姿のままでろくに言葉もしゃべれないが、やがて片言ながら言葉を発しはじめ、同時にその外見も人間に近づいていく。そして最終的には人間と変わらない言葉遣い、姿格好へと変化する。ただし可愛げのある犬のシャリクとは違って、犬人間のシャリコフは移植元の男(酒場の喧嘩で死亡したとされている)の野卑な性格と犬の本能が混ざり合った、粗野で嘘つきで好色、猫の虐殺が趣味というおよそ最低な人物だった。さらに、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』の例を出すまでもなく、シャリコフは被造物の常として、彼を生み出しながらも一人の人間として認めようとしないプレオブラジェンスキーに対して、反旗を翻すのである。
『犬の心臓』はプレオブラジェンスキーに代表される旧体制や知識人階級だけでなく、ロシア正教(プレオブラジェンスキーという姓はキリスト教用語の聖体変容に由来している)からアヴァンギャルド芸術、ソ連体制まで、まんべんなく全方位に喧嘩を売る小説になっている。ただそれらについてはすでに山のように先行研究があるので、ここでは「住宅」という問題に絞って見てみたい。
プレオブラジェンスキーは革命前から名の知れた医学者で、モスクワの一等地に住んでいる。彼の住まいは門番が玄関扉を開けてくれるような、特権的な集合住宅だ。しかも間取りは、寝室、食堂、書斎、応接間、診察室、手術室、召使部屋の計7室。もちろんこのような住宅が当局から目をつけられないわけはない。だがプレオブラジェンスキーは、彼の専門である回春術によって政権上部にコネをつくり、今までなんとか「圧縮」を免れてきた。しかし医師が危惧する通り、まもなく彼の住まいに四人の住宅管理委員が乗り込んでくる。そして彼らのリーダー格であるシヴォンデルという男は、医師に診察室と食堂を自主的に明け渡すよう強要する。
「その診察室と食堂のことで、われわれは話しに来たのです。お仕事にさしつかえないものとして、あなたの意思で食堂を明け渡していただくようお願いすることを総会で決めたのです。いまどき、モスクワで食堂を持っている人などだれもいません」
「イサドラ・ダンカンでさえ食堂は持っていませんわ」娘が甲高い声で叫んだ。
「診察室もやはり明け渡してください」シヴォンデルはつづけた。「書斎はじゅうぶん診察室と兼用することができます」
「うむ」フィリップ・フィリッポヴィチ[プレオブラジェンスキーの名と父称:本田]は、なにか異様な声をもらした。「それじゃ、わたしはどこで食事をとればいいのだね」
「寝室で」四人が一斉に声を合わせて答えた。
フィリップ・フィリッポヴィチの紅潮した顔は、いくぶん灰色がかってきた。
「寝室で食事をする」彼はあえぐような声で言いはじめた。「診察室で本を読む、応接間で着がえをする、召使部屋で手術をする、そして食堂で診察する。おおいにあり得ることだ、イサドラ・ダンカンならそんなふうにしているのだろう。もしかしたら、彼女は書斎で食事をとり、浴室で兎を料理しているのかもしれない。たぶんそうだろう。だが、わたしはイサドラ・ダンカンではない!」彼は突然どなりだし、まっかな顔も黄色くなった。「わたしは食堂で食事をとり、手術室で手術をする! そのことを総会に伝えてくれたまえ、そしてどうかお願いだから、あなたたちもそれぞれ自分の仕事にもどって、正常な人間ならだれでもがしているように、わたしもしかるべき場所で、つまり玄関や子供部屋ではなしに、食堂で食事ができるようにとりはからっていただきたい」[★10]
「圧縮」を強要されたプレオブラジェンスキーは、けれども唯々諾々と受け容れはしない。彼はすぐにその場でシヴォンデルの上司に電話し、この上司からシヴォンデルらに対して即刻圧縮を止めるよう指示させる(この上司は党の幹部のはずだが、どうやらプレオブラジェンスキーの回春術によってがっちり弱みを握られているらしい)。
住宅管理委員会はこうしていったんは撤退を余儀なくされる。だが彼らは諦めなかった。彼らの反撃の契機となったのが、他でもないシャリコフの誕生である。シャリコフが人間であるならば、彼は他の全ソ連市民同様、現在住んでいる場所、つまりプレオブラジェンスキー邸に居住登録を行う必要がある。そこでシャリコフは、シヴォンデルの入れ知恵でもって、プレオブラジェンスキー邸内に一部屋分の居住権を手に入れる[★11]。こうして「圧縮」は遂行され、プレオブラジェンスキーとシャリコフは、もはや飼い主と飼い犬の関係ではなく、(少なくとも書類上は)対等の居住者となったのである。
注目したいのは、先の引用に含まれているプレオブラジェンスキーの台詞だ。睡眠は寝室で、食事は食堂で摂るべきだと彼は主張する。言い換えれば、部屋とその機能は一対一の対応関係にあらねばならないと彼は考えているのだ。彼の主張は、19世紀の中流階級に典型的な住宅観を反映している。対照的に、前回紹介したようなモダニズム-構成主義建築家たちは、労働者住宅の合理的デザインを探求する過程で、このような部屋と機能の固定化された対応関係を批判し、解体しようとした。彼らが目指したのは、特定の機能に特化されず、必要に応じてさまざまな機能を果たすことのできる空間だった(もちろんこのような探求の先には、ミース・ファン・デル・ローエのユニバーサル・スペースがあったわけだ)。たとえば前回見たように、構成主義の建築家モイセイ・ギンズブルグは、《ドム・ナルコムフィン》などの集合住宅の設計に際して、限られた居住面積でも快適に生活できるように、一室に食堂と居間、寝室の機能をもたせている。しかし現実の大多数のコムナルカでは、《ドム・ナルコムフィン》よりもずっと以前から、住人たちはすでに元廊下や元バスルームですべての活動を──仕事も、食事も、睡眠も──行っていた。設計者の意図によらず、コムナルカではあらゆる空間があらゆる用途に開かれていたのである。その結果、これらの空間はモダニズムの理念とはほど遠い、混乱や不和、不衛生の温床となった。
プレオブラジェンスキーはしかるべき部屋でしかるべき行為をするよう述べるだけでなく、住宅管理委員たちにそれぞれの本来の仕事に戻るよう説いてもいる。医者は医者としての仕事を、靴屋は靴屋としての仕事を行うべきで、住宅の分配などという本来の職分とは関係のない業務に携わるべきではないと主張するのだ。だが実は彼もまた医師としての領分を──あるいは被造物としての人間の領分を──超えて犬人間シャリコフを作り出し、人間と動物の境界をかき乱したのではなかったか。そしてあたかもこの境界侵犯に対する罰のように、プレオブラジェンスキーの住宅はシャリコフによって「圧縮」させられ、特権的な生活は崩壊の瀬戸際まで追い詰められることになるのである。
図版出典
【図1】Уплонение. 1918.
【図2】Уплонение. 1918.
注目したいのは、先の引用に含まれているプレオブラジェンスキーの台詞だ。睡眠は寝室で、食事は食堂で摂るべきだと彼は主張する。言い換えれば、部屋とその機能は一対一の対応関係にあらねばならないと彼は考えているのだ。彼の主張は、19世紀の中流階級に典型的な住宅観を反映している。対照的に、前回紹介したようなモダニズム-構成主義建築家たちは、労働者住宅の合理的デザインを探求する過程で、このような部屋と機能の固定化された対応関係を批判し、解体しようとした。彼らが目指したのは、特定の機能に特化されず、必要に応じてさまざまな機能を果たすことのできる空間だった(もちろんこのような探求の先には、ミース・ファン・デル・ローエのユニバーサル・スペースがあったわけだ)。たとえば前回見たように、構成主義の建築家モイセイ・ギンズブルグは、《ドム・ナルコムフィン》などの集合住宅の設計に際して、限られた居住面積でも快適に生活できるように、一室に食堂と居間、寝室の機能をもたせている。しかし現実の大多数のコムナルカでは、《ドム・ナルコムフィン》よりもずっと以前から、住人たちはすでに元廊下や元バスルームですべての活動を──仕事も、食事も、睡眠も──行っていた。設計者の意図によらず、コムナルカではあらゆる空間があらゆる用途に開かれていたのである。その結果、これらの空間はモダニズムの理念とはほど遠い、混乱や不和、不衛生の温床となった。
プレオブラジェンスキーはしかるべき部屋でしかるべき行為をするよう述べるだけでなく、住宅管理委員たちにそれぞれの本来の仕事に戻るよう説いてもいる。医者は医者としての仕事を、靴屋は靴屋としての仕事を行うべきで、住宅の分配などという本来の職分とは関係のない業務に携わるべきではないと主張するのだ。だが実は彼もまた医師としての領分を──あるいは被造物としての人間の領分を──超えて犬人間シャリコフを作り出し、人間と動物の境界をかき乱したのではなかったか。そしてあたかもこの境界侵犯に対する罰のように、プレオブラジェンスキーの住宅はシャリコフによって「圧縮」させられ、特権的な生活は崩壊の瀬戸際まで追い詰められることになるのである。
次回は2021年5月配信の『ゲンロンβ61』に掲載予定です。
図版出典
【図1】Уплонение. 1918.
【図2】Уплонение. 1918.
★1 Joseph Brodsky, Less Than One: Selected Essays (New York: Penguin Classics, 2011), p. 454.
★2 Lynne Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia: Private Life in a Public Space (Manchester and New York: Manchester University Press, 2010), p. 34.
★3 Gregory D. Andrusz, Housing and Urban Development in the USSR (Basingstoke: Macmillan, 1984), p. 29.
★4 Дома-коммуна в Москве. Оганек. 1923. №7. С. 16.
★5 Svetlana Boym, Common Places: Mythologies of Everyday Life in Russia (Cambridge: Harvard University Press, 1994), p. 128.
★6 Attwood, Gender and Housing in Soviet Russia, pp. 34-35.
★7 Ibid., pp. 41-43.
★8 現実はといえば、『圧縮』の教授のような革命前に教育を受けた専門家や知識人は、セルゲイ・ロズニツァが『粛清裁判』(2018年)で描いたように、まもなく弾圧と粛清の対象となってソ連社会から抹消される運命にあった。
★9 沼野充義「解説『反カーニバル』のグロテスクと狂騒」、ミハイル・ブルガーコフ『犬の心臓』水野忠夫訳、河出書房新社、2012年、218頁。
★10 ブルガーコフ『犬の心臓』、44-46頁。なお会話に出てくるイサドラ・ダンカンとは、実在するアメリカの舞踏家で、モダンダンスの始祖と呼ばれる人物である。
★11 同書、161頁。


本田晃子
1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
革命と住宅
- 革命と住宅 特設ページ
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- 革命と住宅(7) 第4章 フルシチョーフカ──ソ連型団地の登場(前篇)|本田晃子
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- 革命と住宅(5)第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(後)|本田晃子
- 革命と住宅(4)第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(中)|本田晃子
- 革命と住宅(3) 第2章 コムナルカ──社会主義住宅のリアル(前)|本田晃子
- 革命と住宅(2) ドム・コムーナ──社会主義的住まいの実験(後篇)|本田晃子
- 革命と住宅(1) ドム・コムーナ──社会主義的住まいの実験(前篇)|本田晃子