イスラエルの日常、ときどき非日常(3) 共通体験としての兵役(2)|山森みか

初出:2021年12月24日刊行『ゲンロンβ68』
これまで、現在のイスラエルに住んでいる人々には様々な集団が存在することを紹介してきた。マジョリティであるユダヤ人以外に、アラブ人(キリスト教徒、イスラム教徒)、ベドウィンやドゥルーズ教徒といった属性の人たちがいる。またユダヤ人といっても超正統派、保守派、世俗派等のグループに分かれており、それぞれ考え方や生活様式が異なっている。世俗派ユダヤ人のグループ内で生きていても、父親がユダヤ人で母親が非ユダヤ人の場合はユダヤ人とは認められない。
これらの細分化されたグループに属する人々を一つの共同体として結び付けるものに、男女共に課された徴兵制がある(男性約3年、女性約2年)。もっとも、国民皆兵とは言いながら、アラブ人やユダヤ教超正統派は、原則として兵役には就かない。このような状況にあるイスラエル社会においては、たとえユダヤ人であっても兵役に就いていない場合は自分たちの仲間とは見なされにくいし、非ユダヤ人であっても兵役経験者は共同体の完全な一員と見なされる側面がある。イスラエルにおいて、兵役は共同体を維持するための要の一つであると言っていい。
では具体的に、イスラエルで徴兵され兵役に就くとはどういうことなのか。私の息子は1988年生まれ、娘は1994年生まれである。息子が生まれた時「この子が大きくなる頃には徴兵制がなくなっているといいね」と言う人たちがいた。だが、1958年生まれの夫によれば「自分が生まれた時にもそう言われていたらしい」とのことである。これはこの地に生きる人々が長年抱いている希望なのだろう。
その一方で、イスラエルの人口の多くを構成するユダヤ人にとって、自分たちの軍隊を持つことは積年の望みであった。1945年の敗戦を経た日本においては、軍国主義であった過去を反省し、軍備を持たず戦争を放棄することが、平穏な生活を取り戻し、平和を維持するために不可欠な道だと考えられた。それに対してユダヤ人は、自分たちは抵抗するための武力を持っていなかったが故にホロコーストで殺されたという認識なので、自前の軍隊と国家を持つことが悲願だったのである。戦没者記念日などのメディアには、強制収容所で衣服を脱がされたり、着衣であっても俯いたりしているホロコースト時代のユダヤ人女性の姿と、完全軍装で胸を張って闊歩するイスラエル国防軍女性兵士を対比する写真がしばしば掲載される。戦後日本において、女性の裸体像に平和と生命の象徴というイメージが付与されていったのとは対照的に、現代イスラエルでは完全武装の女性兵士の姿こそが、力強い生の象徴と受け止められているのである。
日本とのこの感覚の懸隔はなかなか埋めがたい。また徴兵制による軍隊というと、日本ではどうしても旧日本軍のイメージで捉えられてしまう。もちろん軍隊である以上、旧日本軍と共通する点も多々あるだろうが、とはいえイスラエルの軍隊にはなかなかユニークな面もある。
前回も述べたとおり、私自身は兵役に就いたことがない。だが一家4人のうち私を除く3人が兵役に就いていたので、その経験から得た私の考えをこの機会に述べてみたい。ただ兵役については様々なケースがあり、人によって全く異なる経験や受け止め方があるので、あくまで個別の例として理解していただきたい。

【図1】駅プラットフォームで歓談する男女の兵士たち(2021年)
これらの細分化されたグループに属する人々を一つの共同体として結び付けるものに、男女共に課された徴兵制がある(男性約3年、女性約2年)。もっとも、国民皆兵とは言いながら、アラブ人やユダヤ教超正統派は、原則として兵役には就かない。このような状況にあるイスラエル社会においては、たとえユダヤ人であっても兵役に就いていない場合は自分たちの仲間とは見なされにくいし、非ユダヤ人であっても兵役経験者は共同体の完全な一員と見なされる側面がある。イスラエルにおいて、兵役は共同体を維持するための要の一つであると言っていい。
では具体的に、イスラエルで徴兵され兵役に就くとはどういうことなのか。私の息子は1988年生まれ、娘は1994年生まれである。息子が生まれた時「この子が大きくなる頃には徴兵制がなくなっているといいね」と言う人たちがいた。だが、1958年生まれの夫によれば「自分が生まれた時にもそう言われていたらしい」とのことである。これはこの地に生きる人々が長年抱いている希望なのだろう。
その一方で、イスラエルの人口の多くを構成するユダヤ人にとって、自分たちの軍隊を持つことは積年の望みであった。1945年の敗戦を経た日本においては、軍国主義であった過去を反省し、軍備を持たず戦争を放棄することが、平穏な生活を取り戻し、平和を維持するために不可欠な道だと考えられた。それに対してユダヤ人は、自分たちは抵抗するための武力を持っていなかったが故にホロコーストで殺されたという認識なので、自前の軍隊と国家を持つことが悲願だったのである。戦没者記念日などのメディアには、強制収容所で衣服を脱がされたり、着衣であっても俯いたりしているホロコースト時代のユダヤ人女性の姿と、完全軍装で胸を張って闊歩するイスラエル国防軍女性兵士を対比する写真がしばしば掲載される。戦後日本において、女性の裸体像に平和と生命の象徴というイメージが付与されていったのとは対照的に、現代イスラエルでは完全武装の女性兵士の姿こそが、力強い生の象徴と受け止められているのである。
日本とのこの感覚の懸隔はなかなか埋めがたい。また徴兵制による軍隊というと、日本ではどうしても旧日本軍のイメージで捉えられてしまう。もちろん軍隊である以上、旧日本軍と共通する点も多々あるだろうが、とはいえイスラエルの軍隊にはなかなかユニークな面もある。
前回も述べたとおり、私自身は兵役に就いたことがない。だが一家4人のうち私を除く3人が兵役に就いていたので、その経験から得た私の考えをこの機会に述べてみたい。ただ兵役については様々なケースがあり、人によって全く異なる経験や受け止め方があるので、あくまで個別の例として理解していただきたい。

高校時代まで
徴兵年齢は男女共に18歳なのだが、16歳半ばになると、軍でどの部署に行くのかの適性選抜が始まる。ただし彼らの人生にいきなり徴兵制が現れてくるわけではなく、兵役を視野に入れた、ある種のナショナリズムの涵養に通じる教育は、それ以前の義務教育期間から始まっている。私が知っているのは主として世俗派ユダヤ人が住んでいる地域の公立世俗派学校のケースだが、それはイスラエルでは多数派に属する人が通う性格の学校である[★1]。
そこでの歴史教育は、日本のように「日本史」と「世界史」が分かれているわけではなく、「歴史」という一つの科目の中で自国を含めた世界の歴史を学んでいく。一貫しているのは、古代イスラエルから始まり、古代イスラエルが滅んでからは離散したユダヤ人の歴史、そして現代イスラエル国ができる過程と現在、という視点である。バランスが取れているかと問われれば、首を傾げざるを得ない側面はある。だがしかし、バランスが取れた中立的な歴史教育というものが果たして存在し得るのかという疑問もある。
イスラエル人は、世界の主流である西欧的視点に対する懐疑を常に持っている。たとえば邦訳も出ているイスラエルの古典的な歴史教科書の「ルネサンス」の項では、ミケランジェロのモーセ像の写真と共に「下の写真は、ルネサンス期の彫刻家ミケランジェロの作品、ユダヤ人のラビ=モーセ像である。あなたがモーセ像を想像する場合、このような姿を想像するか」という問いが立てられ、西欧キリスト教文化がいかに古代ユダヤ史やユダヤ人を西欧的イメージ及び視点で解釈してきたかが示される[★2]。
この地において人々は「私たちの視点から見ればこうだ」と、独自の立場に立っていることを隠さない。それは偏った視点であることは間違いなかろう。だがそうすることで、自分たちの視点も、自分たち以外の視点も、ある意味で相対化しているとも言える。万人が受け入れられる中立的な視点というものがない以上、自分たちと同様、他者もまた彼ら自身の視点に立っている、というかたちでしか、他者の立場の正当性についての理解はできないのではないかとも思えるからである。
「歴史」の科目が始まるのは小学校の中学年だが、子どもたちは既に小学2年生から「聖書」の授業で創世記からモーセ五書を読み始めている。モーセ五書とはトーラー(律法)とも呼ばれ、ヘブライ語聖書の冒頭に置かれた創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つの書で、モーセが書いたという伝承がある。天地創造、ノアの洪水、アブラハムに始まる族長物語、出エジプトと荒野放浪など、現代においてはそのまま史実とは受け取りがたい内容が含まれている。もちろん「聖書」の授業においても聖書の記述がそのまま史実として捉えられているわけではない。だがすべてが虚構だとされているわけでもなく、その辺りは曖昧なまま、担当教員と受け取る子どもたち個人の判断に任されているという印象を受けた。授業にかなり教員の個性が反映されるのは、資料に基づいた史実を教える「歴史」でも同様である。イスラエルでは、起きた出来事を通時的に追うという年表暗記方式ではなく、あるテーマを徹底的に様々な角度から掘り下げるという姿勢で教えられることが多い。だからテーマの設定方法に、教員の個性が色濃く出るのだった。
もう一つイスラエルの教育課程で特筆すべきなのは、高校2年生の時のポーランド研修旅行である。参加はあくまで任意だが、学校単位で編成されたグループが10日ぐらいの日程でアウシュビッツ等を訪れ、ホロコーストについて学ぶ。実際に旅行に出るまでの数か月、生徒たちはホロコーストについて予習して入念な準備をする。私が住む地域では、この旅行に参加する条件として地域社会でのボランティア活動が一定時間課せられた。
この旅行については、様々な問題が指摘されている。たとえば特定業者が手配する比較的高額な旅費(ポーランドにおける根強い反ユダヤ主義を懸念して警備費もかかり、総額15万円ぐらいなので全員が参加できるわけではない)、ホロコーストという重いテーマへの取り組みを、規格化された団体旅行の体験で済ませることへの疑問などである。ポーランドでは実際にホロコーストの生存者の話を聞いたりもするが、自分の家族が生存者だという場合も少なくない。
私の夫の両親は出身が北アフリカなのでホロコーストを直接的に体験したわけではないのだが、息子はこの旅行後、自分が今享受している生活は多くの人々の苦難の歴史の末にあることを実感したようで、家族に対する態度が一変し、年長者への敬意をはっきりと示すようになった。
一方その6年後に参加した娘の場合は、期待が大きすぎたのか、さほどの感慨はなかったようだ。旅行から戻った後も文集の発行や発表会が行われるが、これほどの苦難を経て生き残ったのだから我々は国を死守しなければならない、という方向に話がもっていかれがちなのもまた事実である。
なお、それ以外にも、高校から軍の基地に見学に行き、現役の兵士である卒業生の話を聞いたり、体験入隊的なことをしたりというプログラムもある。すなわち小学校から高校にかけて、国を持たないが故に自民族が体験してきた苦難、そして今ようやく手に入れた自分たちの国を維持していくことの重要性が教えられるのであった。
このように書くと、さぞや入念に兵役に向けての準備が日々為されているように見えるのだが、日本で教育を受けた私から見ると、体育の授業については日本の学校の方がはるかに「軍国主義的」な要素があった。イスラエルの学校では、整列や行進、また「回れ右」「気をつけ」「休め」「番号」といった号令は一切教えられない。体育の授業では、生徒たちは整列など一切なく、何となく集まって来てバスケットボールなどを始め、授業時間が終わるとまた何となく解散するので驚いたものである。聞けば軍に入って初めて足並みを揃えた行進の仕方が教えられるのだが、教える側も教わる側も「一糸乱れず」という点にさほど重きを置かないのであまりうまくはならないらしい。外見よりも内実を重視する、いかにもイスラエル軍らしい話である。いくら見た目がよくても実戦で負けてしまっては、国は滅びるのだ。
私の夫の両親は出身が北アフリカなのでホロコーストを直接的に体験したわけではないのだが、息子はこの旅行後、自分が今享受している生活は多くの人々の苦難の歴史の末にあることを実感したようで、家族に対する態度が一変し、年長者への敬意をはっきりと示すようになった。
一方その6年後に参加した娘の場合は、期待が大きすぎたのか、さほどの感慨はなかったようだ。旅行から戻った後も文集の発行や発表会が行われるが、これほどの苦難を経て生き残ったのだから我々は国を死守しなければならない、という方向に話がもっていかれがちなのもまた事実である。
なお、それ以外にも、高校から軍の基地に見学に行き、現役の兵士である卒業生の話を聞いたり、体験入隊的なことをしたりというプログラムもある。すなわち小学校から高校にかけて、国を持たないが故に自民族が体験してきた苦難、そして今ようやく手に入れた自分たちの国を維持していくことの重要性が教えられるのであった。
このように書くと、さぞや入念に兵役に向けての準備が日々為されているように見えるのだが、日本で教育を受けた私から見ると、体育の授業については日本の学校の方がはるかに「軍国主義的」な要素があった。イスラエルの学校では、整列や行進、また「回れ右」「気をつけ」「休め」「番号」といった号令は一切教えられない。体育の授業では、生徒たちは整列など一切なく、何となく集まって来てバスケットボールなどを始め、授業時間が終わるとまた何となく解散するので驚いたものである。聞けば軍に入って初めて足並みを揃えた行進の仕方が教えられるのだが、教える側も教わる側も「一糸乱れず」という点にさほど重きを置かないのであまりうまくはならないらしい。外見よりも内実を重視する、いかにもイスラエル軍らしい話である。いくら見た目がよくても実戦で負けてしまっては、国は滅びるのだ。
最初の出頭命令
さて上述したように、16歳半になると軍から最初の出頭命令が来る。それが来たら、指定の日時にまずペーパーテストを受け、その後は適性検査、身体検査、長時間にわたる個人面談と部署振り分け過程が進んでいく。イスラエル国防軍は全員が一兵卒から始めるシステムを取っているので、これはだれもが通るプロセスである。著名人や資産家の息子や娘だからといって、このプロセスをスキップすることはできない。どうしても徴兵拒否をするつもりなら、その年齢になる前に海外に移住した方がいい。よって若者たちは15歳ぐらいになると自分はどうしたいのかをそろそろ考え始めなければならない。
男女共に課せられた兵役がある社会とはどういうものか。それは、世俗派ユダヤ人の家に生まれた場合は、例外もあるだろうが、自分の両親も兄姉も、幼稚園や学校の先生も、近所の店のおばさんも、今の子どもたちであれば祖父母の世代でさえ、兵役に就いていたという社会である。前回述べたように、ユダヤ教超正統派やアラブ人の場合は、徴兵が必須ではないので状況が異なる。いずれにせよ、この「周囲のほぼ全員が行っていた」と言っても過言ではない兵役システムに対して、15、6歳の時点で自分の態度を決めなければならない。
兵役に就きたくない場合はどうするか。兵役を避けるためだけに海外移住をするのは多くの人にとって現実的ではないだろう。1型糖尿病のような慢性疾患がある場合は、当然免除される(それでも軍に行きたい場合はボランティアとして参加できる)。メディアなども巻き込んで真っ向から政治運動として徴兵拒否をするとなると、よほどの信念がないかぎり得策ではない。軍当局も立場上裁判にもっていかざるを得ないからである(なお、信念があるのなら、どんなに困難でもやるべきである)。軍というものに関わるのが嫌なのであれば、兵役代わりの社会奉仕のような任務を選ぶという方法もある。軍は受け入れられるが武器に直接手を触れることが問題だというのであれば、その旨の宣誓書を書いて武器に触れない部署を希望することもできる。女性の場合は既婚者になってしまえば免除されるので、とにかく早く結婚するという手もある。
一方、精神科の医師に兵役不適格診断書を書いてもらうという方法は、近頃あまり聞かなくなった。というのも、以前の世代とは異なり、最近は軍もハイテク化が進んでいるため、人海戦術でとにかく大量に人を集めるという方針ではなくなってきているのだ。やる気も能力もない人を無理やり来させても、お荷物になるだけである。召集命令不服従のかどで裁判の末刑務所に収容するにしても、衣食住のコストがかかる。
よって軍当局は、そういう人にはなるべく早い時点で穏当にお引き取り願いたいと考えている節がある。やる気のない人をやる気にさせるのは並大抵のことではなく、業をにやした上官が暴力を振るったりしたら、今のご時世ではその上官が軍事法廷に送られるだろう。そういう人には、一般社会で仕事をして納税、あるいは進学などをしてもらった方が、国にとっても好都合なのである。なので徴兵前プロセスの最初の面接でいかにも不適格なことを示せば、向こうの方から断ってくることが多い。具体的には、コミュニケーションを取るのがきわめて難しい、あるいは自分は全くやる気がない風を示せばよい等と言われている。つまり現代において絶対に徴兵されたくない場合は、何らかの手段で兵役に就かない、あるいは途中でドロップすることは可能なのだ。
では逆に兵役に就くとしたらどのような選択があるか。
まず大きく分けて戦闘部隊と非戦闘部隊のどちらを希望するかが問われる。身体能力に自信がある人は、戦闘部隊、それもエリート特殊部隊に挑戦してみたいと思うようだ。パイロット養成コースや落下傘部隊なども「名誉」とされる。身体能力よりもプログラミングや言語等に長けた人は情報部を目指す。情報部のサイバー部隊などで築いた人脈は、除隊後の就職に大いに有利になる。スポーツや音楽に秀でた人は、兵役中もその活動が続けられる道が、狭き門ではあるけれど、ないわけではない。スポーツや音楽で世界に通用するレベルの才能をもった若者が、軍で全く関係ない任務に就いて2年なり3年なりを浪費するのは国家的損失だからである。
将来大学進学希望だが家計に余裕がない成績優秀者には、まず軍から大学に派遣されて学生として学位を取り(学費免除)、卒業後はその知識を生かして数年間兵役に就くというコースがある。軍は大きい組織なので、それ以外にも車両整備やドライバー、事務や秘書的な仕事、調理関係、施設整備など様々な職種があり、その種の裏方の仕事を「つまらない」と忌避する人もいれば、前線に立つよりはそういう職で兵役を平穏に終える方がいいと考える人もいる。なお、いくら自分が希望したからといって、望んだ部署に行けるとはかぎらないのは当然である。
若い人たちがこの種の情報を得るのは、高校の先輩や本人あるいは友人の兄/姉からのことが多い。親の世代とはシステムも社会の考え方も変わっているので、親の知識は当てにならないとされている。
では逆に兵役に就くとしたらどのような選択があるか。
まず大きく分けて戦闘部隊と非戦闘部隊のどちらを希望するかが問われる。身体能力に自信がある人は、戦闘部隊、それもエリート特殊部隊に挑戦してみたいと思うようだ。パイロット養成コースや落下傘部隊なども「名誉」とされる。身体能力よりもプログラミングや言語等に長けた人は情報部を目指す。情報部のサイバー部隊などで築いた人脈は、除隊後の就職に大いに有利になる。スポーツや音楽に秀でた人は、兵役中もその活動が続けられる道が、狭き門ではあるけれど、ないわけではない。スポーツや音楽で世界に通用するレベルの才能をもった若者が、軍で全く関係ない任務に就いて2年なり3年なりを浪費するのは国家的損失だからである。
将来大学進学希望だが家計に余裕がない成績優秀者には、まず軍から大学に派遣されて学生として学位を取り(学費免除)、卒業後はその知識を生かして数年間兵役に就くというコースがある。軍は大きい組織なので、それ以外にも車両整備やドライバー、事務や秘書的な仕事、調理関係、施設整備など様々な職種があり、その種の裏方の仕事を「つまらない」と忌避する人もいれば、前線に立つよりはそういう職で兵役を平穏に終える方がいいと考える人もいる。なお、いくら自分が希望したからといって、望んだ部署に行けるとはかぎらないのは当然である。
若い人たちがこの種の情報を得るのは、高校の先輩や本人あるいは友人の兄/姉からのことが多い。親の世代とはシステムも社会の考え方も変わっているので、親の知識は当てにならないとされている。
わが家の場合
私の夫は、国としてのイスラエルの存続が危ぶまれるような戦争が何度か繰り返された時期に育った、兵役に行くのは当然と思っている世代である。兄弟や親戚にも似たような考えの人が多い。
私は日本で戦後の民主主義教育を受け、しかもクリスチャンホームで育ったので、徴兵制というものには、忌避感がまず先に立つ。しかし周囲の人たちの話を聞いていると、イスラエル国防軍は、私が本を読んだりドラマで見たりして情報を得てきた旧日本軍とはかなり性格がちがうもののようでもある。それぞれの共同体にはそれぞれの文脈があって物事が動いているので、自分の物差しを直接当てはめて判断しても的外れなことがある。それは私がこの地に住み始めて以来、常々感じてきたことだった。
兵役に就く要件が揃っているのに就かなかった場合のデメリットは、あると言えばあるし、ないと言えばない。将来会社に就職する時に出す履歴書に兵役経験が書いてあれば、この国では少なくとも2年なり3年なりチームワークが必要とされる職に就いていたという信用になる。社会的評価が高い軍の部署であれば、就職にはきわめて有利になろう。
しかし自営業の場合、兵役経験の有無は全く関係ない。今の社会では兵役に就かなかった人をあからさまに「非国民」扱いすることはあまりなく「そういうタイプなんだ」という受け止め方が多い。しかしこの国に住んでいるかぎり、住民は治安維持に責任を負っている軍の恩恵を多かれ少なかれ受けているので、特に理由なく兵役に就かなかった人への視線は、自分は寄与しないのに恩恵だけを受ける「フリーライダー」を見る時のものになる点も否めない。
その一方で、今後国際的な平和活動に関わりたいという場合、イスラエル軍の兵役を拒否したという事実は一種のキャリアになるだろう。逆にイスラエル軍の兵役に就いた過去があると、国外においては良くも悪くも「『あの』イスラエル軍にいた人」というスティグマが一生付いて回るかもしれない。いずれにせよ人はそれぞれ歴史的、空間的制約をもって生まれてくるのだから、イノセントな中立状態を目指すのは非現実的である。
どの道を選ぶにしても、その立場に立ってみなければ見えない風景があるだろう。こういうことはあくまで本人の意志が尊重されるべきであり、周囲の大人が過剰に介入するのはよろしくない。しかし親としては考えを述べないわけにもいかない。
私のきわめて中途半端な考えはこうである。政治的なものであれ宗教的なものであれ、何か確固たる信念があって兵役拒否という選択をするのであれば、それは立派なことである。だがそういう信念なしに、要件も満たし能力もあるのに何となくめんどうだからという理由で兵役に行かないままこの共同体に属し続けるのには賛成できない。それは今後の人生にとって、あまりよくないことだと思う。日本国籍も持っていることは、兵役に行かない理由にはならない[★3]。大学で学生を見ていると、兵役に行かず高校卒業後直接進学してきた人たちは、必ずしもそれが悪いというわけではないのだが、チームワークでの仕事に慣れていない印象を受ける。それは、高校までの若者は自宅とその周辺地域に住んでいる、家の経済的レベルも考え方も近い人々の間で主に人間関係を築いているが、軍に入ると国中の様々な地域から来た、異なる社会階層の人間と仕事をせざるを得ないことに関係すると考えられる。とはいえやはり、直接武器を使用する部署や、危険な場所には行ってほしくない。できれば情報部や事務仕事で何とか無事にその期間を終えてほしいというのも本心である。
イスラエルは先進国の中では出生率が高く、ユダヤ教世俗派でも子どもが3人以上ほしいという人が多い。その原因はいろいろ分析されているが、兵役において子どもに万一のことがあったら、という懸念が意識的あるいは無意識的に前提されているのだろう。そのことがおぼろげながら了解されたのはこの時、つまり自分の子どもが徴兵されるという事態に直面した時であった。
これに対して戦闘部隊出身の夫は「情報部に行くと、頭も要領もよくて、すぐに話が通じる人たちが大勢いる。勤務場所はエアコンが効いて快適だろうし、後々の就職に有利になるような人脈ができるのも確かだろう。しかし本当の危機的状況になった時に無条件に頼りになる、真の意味での『いい奴』は情報部にはいない。そういう人がいるのは戦闘部隊のことが多い」と言っていた。

【図2】筆者自宅最寄り駅前バス停で2001年7月16日に起きた自爆攻撃により亡くなった男性兵士(当時20歳)と女性兵士(当時19歳)を記念する碑(列車駅前)。第二次インティファーダの後、分離壁建設以前はこのような自爆や銃乱射攻撃が頻発していた
このような会話が交わされた後、2004年に16歳を過ぎた息子にも最初の出頭命令が届いたのだった。次回からは、出頭命令が届いた後の顛末を述べていきたい。
イスラエルは先進国の中では出生率が高く、ユダヤ教世俗派でも子どもが3人以上ほしいという人が多い。その原因はいろいろ分析されているが、兵役において子どもに万一のことがあったら、という懸念が意識的あるいは無意識的に前提されているのだろう。そのことがおぼろげながら了解されたのはこの時、つまり自分の子どもが徴兵されるという事態に直面した時であった。
これに対して戦闘部隊出身の夫は「情報部に行くと、頭も要領もよくて、すぐに話が通じる人たちが大勢いる。勤務場所はエアコンが効いて快適だろうし、後々の就職に有利になるような人脈ができるのも確かだろう。しかし本当の危機的状況になった時に無条件に頼りになる、真の意味での『いい奴』は情報部にはいない。そういう人がいるのは戦闘部隊のことが多い」と言っていた。

このような会話が交わされた後、2004年に16歳を過ぎた息子にも最初の出頭命令が届いたのだった。次回からは、出頭命令が届いた後の顛末を述べていきたい。
撮影=山森みか
次回は2022年3月配信の『ゲンロンβ71』に掲載予定です。
★1 イスラエルの義務教育は、基本的に居住地にある地域の公立学校で行われる。その地域がユダヤ人地区であれば教育言語はヘブライ語、アラブ人地区であればアラビア語であり、それぞれ宗教教育も異なる。ユダヤ人地区には世俗派学校と宗教学校があり、世俗派学校は一般的な教育、宗教学校は聖書やタルムードなどの授業に力を入れている。
★2 ツヴィ・バハラハ、 ヤアコヴ・カッツ『イスラエル 1──その人々の歴史(全訳世界の歴史教科書シリーズ)』、池田裕、辻田真理子訳 、帝国書院、1982年。
★3 日本の現行法では、出生により日本と他国の二重国籍を持つ人は22歳の誕生日までに国籍選択届を出すことになっている。しかし2022年4月から日本の成人年齢が20歳から18歳に引き下げられることにより、国籍選択期限も2年早まり20歳の誕生日までとなる。いずれにしてもイスラエルの徴兵年齢である18歳の時点では国籍選択届を出す義務はなく、日本国籍を保持する若者がイスラエル軍に徴兵されるのに支障はない。URL= https://www.moj.go.jp/MINJI/minji06.html たとえばガザ国境で誘拐され2006年から5年半に渡ってガザで拘禁されていたギルアド・シャリート(当時19歳)は、イスラエルとフランスの二つの国籍を持つ現役兵士であった。その身柄の解放にはフランス政府も働きかけた。


山森みか
大阪府生まれ。国際基督教大学大学院比較文化研究科博士後期課程修了。博士(学術)。著書『古代イスラエルにおけるレビびと像』、『「乳と蜜の流れる地」から――非日常の国イスラエルにおける日常生活』、『ヘブライ語のかたち』等。テルアビブ大学東アジア学科日本語主任。
イスラエルの日常、ときどき非日常
- 「二級市民」という立場 イスラエルの日常、ときどき非日常(9)|山森みか
- イスラエルの日常、ときどき非日常(8) 第六次ネタニヤフ政権発足──揺れるイスラエルのユダヤ人社会|山森みか
- 兵役とジェンダー(2)
- ホロコーストへの言及をめぐって(初出:2022年10月25日刊行『ゲンロン13』)
- イスラエルの日常、ときどき非日常(5) 兵役とジェンダー(1)|山森みか
- イスラエルの日常、ときどき非日常(4) 共通体験としての兵役(3)|山森みか
- イスラエルの日常、ときどき非日常(3) 共通体験としての兵役(2)|山森みか
- イスラエルの日常、ときどき非日常(2) 共通体験としての兵役(1)|山森みか
- 現代イスラエル人とは誰か(初出:2021年9月15日刊行『ゲンロン12』)