ロシア・ソヴィエトのもうひとつの抵抗のかたち──カバコフと地下芸術の文化 つながりロシア(21)|河村彩

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webゲンロン 2024年5月1日配信

静かなプロテスト

 2022年2月に開始されたウクライナ侵攻以降、ロシアではさまざまなかたちで戦争に反対する声があげられてきた。例えば、『緑の天幕』をはじめ、多数の著作が日本語に翻訳されている人気作家のリュドミラ・ウリツカヤは、開戦直後から独立系メディアに発表された反戦声明に名を連ねている。また、侵攻以前から国外を拠点とするロシア語作家は多く存在するが、そのような作家の一人であり、『手紙』などの代表作を持つミハイル・シーシキンは、チューリヒのロシア語インターネットサイト「すべての人のためのスイス」★1で現在のロシアの体制に反対する発言を盛んに行っている。これら著名人の反戦の訴えは、日本のロシア文学研究者たちの尽力により新聞や雑誌でいち早く紹介されてきた。

 その一方で、インターネットを覗いてみれば、ロシアのSNS「テレグラム」はもちろん、ロシア国内からはVPNを通じてしかアクセスできないはずのX(旧ツイッター)やフェイスブック、インスタグラムにも一般市民の反戦の声は日々あふれ続けている。

 反戦の声は文章によるものだけではない。戦争に反対するさまざまなアクションが展開され、その記録が動画や写真で拡散されている★2。例えば、戦争開始から程なくして、「プーチンは殺人者」「人間かゾンビか?」「戦争にノー」などと書き込まれたルーブル紙幣がロシアで出回り、それらの写真がSNSに投稿された[図1]。これは人から人の手に渡ることによって誰が書いたかが特定不可能となる紙幣の匿名性を利用した反戦の訴えであると同時に、戦争に反対する人間の存在をアピールするという役割も果たしている。

図1 URL= https://theins.ru/obshestvo/251928

 あるいは、旧暦に基づいて1月6日にクリスマスを祝うロシアでは、年末から年始にかけてクリスマスシーズンとなるが、この時期には「夫を返して」「パパを返して」「家に帰る時だ」と書かれたプレートが、オーナメントを装ってツリーに吊り下げられた。これらはテレグラムで紹介され、たくさんの「いいね」がつき、リポストされていた[図2]。このような草の根の反戦活動は「静かなプロテスト」と呼ばれて、実に多様な形で展開され続けている。

図2 2023年12月のinsiderのテレグラムのアカウント(URL= https://t.me/theinsider)よりスクショ

 「静かなプロテスト」は、一見するとアートの形式を利用したアクティヴィズムを思わせる。実際には、停戦を実現しようとするための活動というより、抑圧的な体制のもとでウクライナへの攻撃に心を痛める人々の憂さ晴らしの役割を果たしているところが大きいのだろう。あるいは、戦争やプーチン政権に反対している人間が確実に存在していることを示し、仲間がいると思わせることに役立っているのではないだろうか。現在のロシアではささやかな抵抗運動でさえ常に危険がつきまとう。そのような状況の中で、たとえ行動を起こさなくても、「静かなプロテスト」を紹介したSNSに「いいね」をしたり、拡散したりすることで気を晴らしている人々、あるいはそのような投稿を目にするだけで救われている人々も多くいるに違いない。

 このように、現在のロシアでは有名作家や文化人による雄弁な反戦の訴えのみならず、実に多様な抵抗の形が展開されている。さらに過去を振り返ってみれば、ロシアそしてソヴィエトは多様な抵抗の文化を生み出してきた国であるとも言えるのだ。

 この論考で参考にしたいのが、第二次世界大戦後に開花した非公式芸術の文化である。ソヴィエトではスターリンの時代以降、社会主義リアリズムが公的な芸術様式とされた。美術や彫刻などのファイン・アートは、もっぱら社会主義の理想的な社会や人間を描き出し、社会主義の思想を広めるプロパガンダの役割を担わされた。当然、そのような芸術には飽き足らず、自由な表現を希求する人々が存在した。彼らは仲間同士でサークルを作り、屋根裏や地下のアトリエで作品を展示し、詩の朗読会や演奏会を催し、お茶をのみ宴会を開いては芸術議論や哲学談義に耽っていた。

 2023年に亡くなった世界的な美術家であるイリヤ・カバコフはこのようなモスクワのアンダーグラウンドの中心的存在だった。旧ソヴィエト連邦、現在はウクライナに位置するドニプロペトロウシク出身のカバコフは、絵本の挿絵画家として生計を立てる傍ら、のちにモスクワ・コンセプチュアリズムと呼ばれ、世界から高い評価を受ける作品群を制作した。1980年代からはヨーロッパに拠点を移し、ベネチア・ビエンナーレやドクメンタに参加し、展示室の空間全体を用いてカバコフが作り上げるフィクションの世界を鑑賞者に追体験させる、「トータル・インスタレーション」で世界的な名声を獲得する。1990年代からはニューヨークに拠点を移して、パートナーのエミリアとともに、イリヤ&エミリア・カバコフの名前で制作を行った。

 日本とも縁が深く、1999年に水戸芸術館で個展「シャルル・ローゼンタールの人生と創造」が開催されたのをはじめ、定期的に芸術祭が開催される越後妻有にも作品が恒久設置されている。2008年には高円宮殿下記念世界文化賞を受賞した。亡くなる前年に開催された「大地の芸術祭2022」では、世界で良いニュースがあった時と、戦争や事故などの悪いニュースがあった時とでそれぞれ色を変える《手をたずさえる塔》を出品した。筆者が知る限りでは、カバコフがロシアによるウクライナ侵攻について直接コメントすることはなかったが、この作品にどのような思い出が込められているかは容易に想像がつく。

 カバコフは書物やインタビューの中で、1960年代および70年代における地下での制作とソヴィエトでの自分の生活を振り返っている。興味深いのは、カバコフがソヴィエトの体制を恐れ嫌悪してはいたものの、自分がそのソヴィエトのシステム内部の人間であり、その中で善良で礼儀正しく忍耐強い人間でいなければならないと感じていたと告白していることである★3。そして、このような体制がもたらす恐怖に対する自分のリアクションは、常に「ずらかり」「消え去り」「逃げる」ことだったと語る★4。カバコフの作品には、プロパガンダのための威圧的な絵画やポスター、ゴミだらけの荒れた室内など、恐ろしいものやくだらないものの象徴としてソヴィエトの記号が絶えず引用されるが、カバコフはそれらを利用し分析することで、ソヴィエト的なものから心理的な距離をとり、恐怖を緩和するというメカニズムを作動させていると言えるだろう。カバコフは体制に反発するものの、体制に反抗して「闘争」を仕掛けるのではなく、体制から「逃走」し、冷静な観察者に徹していたのである★5

 アントン・ジェルノフによって2017年から18年にかけて制作されたカバコフ夫妻のドキュメンタリー映画『哀れな人々』の中の彼は、終始おだやかで、「敗者」として自分の少年時代や非公式芸術家時代のことを慎ましやかに語っていた。だが、ときおりユーモアを交えながら、ソヴィエトでの生活や美術の制度に対して鋭い皮肉を述べていた。カバコフの著作や、美術批評家ボリス・グロイスとの対談を読むと、カバコフが優れた作家であるのみならず、鋭い芸術批評家であり、ソヴィエト文化の観察者でもあることがよくわかる★6。本論では批評家としてのカバコフの言説を参照しながら、「闘争」ではなく「逃走」という手段をとった非公式芸術家時代のカバコフの抵抗に、今日のロシアの状況を考える手がかりを探ってみたい。

ソヴィエトの地下文化

 カバコフは自伝の中で1960年代を「地下の文化の開花の時代」として振り返る★7。この時期の地下文化はいわゆるソヴィエトの「雪解け」とその後の動向に呼応している。独裁者スターリンが亡くなると、次の指導者フルシチョフは1956年にスターリン批判を行った。これにより政治に関しては東西冷戦が緩和すると同時に、国内の文化的抑圧も一時的に弱まった。1962年にはソルジェニーツィンが『イワン・デニーソヴィチの一日』を発表し、矯正収容所での政治犯の実態を告発した。美術においてもウラジーミル・ヤンキレフスキーやオスカル・ラビンといった地下芸術家の展覧会が次々と開催され、雪解けの波に乗って地下の芸術が一気に地上へと姿を現した。

 ただし、自由の波は、すぐさまそれに対する当局側からの牽制も呼び起こすこととなった。1962年12月にモスクワの大規模展示会場「マネージュ」で開催された展覧会には、多数の地下芸術家たちが出品したが、抽象画を目にしたフルシチョフはロバの尻尾に絵の具をつけて振り回して描いたような絵画だとして彼らの作品を罵倒した。その後共産党の機関紙『プラウダ』にも、選考委員会なしの展覧会は創造の自由を盾に個人の主観を民衆に押し付ける試みだとして、マネージュでの展覧会を批判する記事がすぐさま掲載された。

 さらに自由な芸術と体制との闘争は事件を引き起こす。1974年、ラビンらが首謀して、モスクワ郊外で非公式の芸術家たちによる屋外展が決行された。当局はこれを許さず、開催初日にブルドーザーを導入して展覧会を破壊した。展覧会の主催者たちは周到に準備し、あらかじめこの展覧会の情報を海外のプレスにも報せていたために、政府による破壊行為とソヴィエトにおける地下芸術の存在は国外にも知られることとなった。このような地下の芸術家たちの勢いに妥協する形で、1975年にはモスクワ市委員会の管轄のもとにゴルコム(グラフィック・アーティスト・モスクワ市委員会絵画部門)が設立され、ゴルコムが所有する展示スペースでは非公式の芸術家も作品を展示できるようになった。

 このように、ソヴィエト非公式芸術は1960年代から70年代にかけて、自由と抑圧の間で揺れていた。カバコフ自身も、地下芸術家たちの心の中では、体制への恐怖と自由への期待とが乱高下していたことを語っているが、そのような不安定な状況にもかかわらず、あるいはそれゆえに地下芸術は熱気を帯びていた。

信じられないほど激しく、爆発のように、解き放たれたバネのような力をともなって、巨大な量の絵画、詩、テキストが噴出してきたのであり、実に多様な画家、詩人、作家たちが次々と作品を作っていき、異常なまでに緊張し、白熱した創造的な雰囲気が存在することになった。その雰囲気は、異常なまでに、謎めいて、狂気のように生産的で多様であった……。★8

 このような地下芸術の状況は、1917年の社会主義革命前後に興隆した芸術運動、ロシア・アヴァンギャルドを彷彿とさせる。農民芸術を手本にしたネオ・プリミティヴィズム、幾何学的な抽象画を切り開いたスプレマチズム、社会主義の生活をデザインした構成主義と、ロシアでは革命期に次々と新しい「イズム」を掲げた芸術の流派が興隆したが、これは既存の芸術の伝統や制度に対する反発と、社会の変革と同時に芸術にも革命をもたらそうとする芸術家個人の気概を原動力としていた。

 第二次世界大戦後の非公式芸術もまた、公的な芸術に対する反発と、規範や制度のない中で、芸術家一人ひとりが独自の芸術を生み出そうとする情熱に突き動かされていた。むしろ、「西側」が持つ、美術館やアート・マーケットといった制度、批評の言説に裏打ちされた流行などとは無関係であったことが、ソヴィエト非公式芸術における作風の多様性を生み出したとすら言える。

 「西側」のような美術の制度を持たないソヴィエト非公式芸術は、極めて特異な状況で展開されていた。展覧会は作者のアトリエやアパートで開かれ、それを鑑賞するのは個人的なつながりによって集まった身内や芸術家仲間、あるいは気の合う愛好家たちだった。一般的な公衆である鑑賞者や中立的な立場の批評家が存在しない代わりに、芸術家が互いに作品を鑑賞しては、自分の感想や考えを述べ、批評し、コメントし合っていた。カバコフは回想している。

誰にとってもこれは<すばらしい>時期であった。どこのアトリエやアパートも、酒宴や嵐のような集会でどよめいていた。みなが踊り、飲み、歌い、あるいは詩を朗読した。ほとんどの家は、芸術家の家に限らず、毎晩、こうした陽気な集まりの場所であった。★9

 非公式芸術、地下芸術といった呼び名とはうらはらに、濃厚な作品鑑賞の習慣と芸術仲間同士の人間関係が形成されて実に活気にあふれていたが、当時の「西側」の人々はそのようなソヴィエトの状況について知る由もなかったのである。

非公式芸術家の3つのタイプ

 カバコフは非公式芸術家には3つのタイプがあると指摘している★10。第一のタイプは、非公式な絵画を描き、非公式な生活をしている「調和の取れた」タイプで、ラビンが代表者である。ラビンはモスクワ郊外の街リアノゾヴォのバラックで家族や芸術家仲間とヒッピーのように暮らす、ボヘミアンな画家である。彼の絵画には愛好者が多く、購入したがる人々の順番ができていたという。ラビンはこのような人々のために絵を描いては売り、ソヴィエトの経済制度の枠外で収入を得て、生活を成り立たせていた。

 ソヴィエトでは体制にあからさまに反抗する人々を「異論派」と呼んでいた。異論派は国内外に存在し、作家のソルジェニーツィンがその代表者である。「ブルドーザー展」を首謀したラビンは、正面から体制に反抗する、美術における異論派の役割を果たしていたと言えるだろう。カバコフはラビンとはしばしば彼の住居を訪問するような親しい間柄であり、尊敬の念を持っていた。だが、「ブルドーザー展」の計画を聞かされた時には、恐怖を覚えて参加しなかったという。このエピソードからは、カバコフが明らかに第一の異論派タイプとは異なった立場をとっていることがわかる。

 カバコフのあげる2番目のタイプは、非公式芸術の枠組みの中でもアウトサイダーである芸術家で、ひたすら自分の満足のために作品を制作する者たちである。カバコフによれば、彼らにとって表現することは「実存的」行為であり、もっぱら自分の哲学や理念を表現するために制作し、他者に鑑賞されることを意識して作品を制作することはなかったという。この2番目のタイプを代表するのが1959年のアメリカ絵画展で展示された抽象表現主義に影響を受け、独特の荒々しい筆致で抽象と具象を行き来する絵画を描いたウラジーミル・ヤコヴレフである[図3]。

図3 ウラジーミル・ヤコヴレフ《無題》、1960年代、テンペラ、紙、55×42,5。図版出典=Нет и конформист. Fundacja Polskiej Sztuki Nowoszesnej, &Wydawnictwa Artystysczne i Filmowe Ltd. Warszawa, 1994.

 そして第3のタイプが、一見するとソヴィエトのごく普通の市民として生活しているが、こっそりと非公式芸術活動を行うという別の側面も持った、「二重人格」タイプである。当然カバコフはこの第3のタイプに属し、その理由を自分が臆病者だったからだとたびたび口にしている。

ソッツ・アートとモスクワ・コンセプチュアリズム

 1970年代になるとソヴィエトの地下芸術には、自分を取り巻く社会を作品において分析する新しい傾向が現れる。カバコフとグロイスによれば、このような傾向の作家たちは、ソヴィエト社会の内部にいながらそれとは距離を取り、文化人類学者のようにソヴィエトの市民や社会の特徴的な性質「ソツィウム(социум)」を考察するという手法を用いた。このような手法を可能にしたのは、体制に反発するのでも、無視するのでもなく、体制の内部にいながらもそれを冷静に観察する第三の「二重人格」タイプの視点に他ならない。

 1970年代の新しい潮流の一つが、後にソッツ・アートとして世界に知られることになる。ソッツ・アートとは、ポップ・アートに倣って名付けられたものであり、ポップ・アートが広告や大量生産品といった資本主義社会に流通する記号を借用して、マスメディアや産業のメカニズムを明るみに出す芸術であったように、ソッツ・アートは社会主義社会にあふれているスローガンや指導者のポートレートといったイメージを利用し、社会主義体制のもとで作用しているメカニズムを検証する。

 ソッツ・アートを代表するのがヴィターリー・コマルとアレクサンドル・メラミドである。二人は名門ストロガノフ美術学校で学生時代に出会い、1972年から共同制作を開始し、モスクワの地下芸術の世界で活躍した。1978年にアメリカに移住し、ロナルド・フェルドマン・ギャラリーで展覧会を開催して一躍有名になった。

 彼らの初期の非公式芸術作品の一つが、1973年の《ダブル・セルフ・ポートレート》[図4]である。二人の人物の顔を重ね合わせる手法は、ソヴィエトのプロパガンダ・ポスター等でしばしば見られるもので、例えば、革命の指導者レーニンの肖像にスターリンの肖像を重ね合わせることで、後者が前者の後継者であることを示唆する。この作品は油彩にもかかわらず、あえてモザイク画のように描かれているが、それは当時のソヴィエトで頻繁に制作されていた公共施設のモザイク壁画の模倣である。あるいは、名誉の印として授与されたり飾られたりしていた記念メダルのようにも見える。

図4 ヴィターリー・コマル&アレクサンドル・メラミド《ダブル・セルフ・ポートレート》、1973年、デイヴィッド&キャスリン・バーンバウム・コレクション。撮影=河村彩

 この作品は公式芸術の特徴を用いて制作されてはいるものの、実際に描かれているのは作者自身、つまりコマルとメラミドの横顔であり、顔の周りには「有名な芸術家たち。20世紀の70年代。モスクワ市」と書かれている。ソヴィエトの英雄の表象を形式的に模倣しながら、公式芸術家としての成功のチャンスを捨て、モスクワ地下芸術のヒーローとなった自分たちを自画自賛しているのである。この作品では、個人の英雄化と記念碑化というソヴィエトの現象を明るみに出している。

 ソッツ・アートと並ぶもう一つの地下芸術の潮流がモスクワ・コンセプチュアリズムである。これは概念を作品の素材の一部として重視した欧米のコンセプチュアル・アートと似た傾向を示すことから名付けられたものであり、カバコフ自身がモスクワ・コンセプチュアリズムの代表的なアーティストである。1976年の作品《問いと答え》では、キャンバスの中央におろし金が貼り付けられ、「このおろし金は誰の?」「オリガ・マルコヴナのよ」という会話が上部に書き込まれている[図5]。この作品は後に1991年のインスタレーション《共同キッチン》の中に組み込まれ、他にもおろし金の代わりにやかんやおたまを貼り付けたものや、テクスト部分が「このXXは誰の?」「知らないわ」となっているヴァージョンも存在する。

図5 イリヤ・カバコフ《問いと答え》、1976年。図版出典=Бобринская Е. А. Концептуализм. М.: Галарт, 1994.

 ここで用いられているのは、日用品をそのまま流用する、いわゆるレディ・メイドの手法だが、カバコフは事物と言葉によって、コムナルカ(共同住宅)での生活というそれらの背景で繰り広げられた状況を生み出している。当時のソヴィエトは住宅事情が悪く、複数の家族でアパートの一区画に住み、キッチンやバスルームを共有する生活をしていた人々が多数存在した。キッチンを共同で使用していると、調理器具を貸し借りしたり、誰かが置き忘れたりする。この作品はコムナルカでいかにも起こりそうな事態を、ソヴィエトの生活を表すフィクションとして示している。

 さらに、「知らないわ」という回答は、ソヴィエトのある種の典型的な官僚的受け答えでもある(筆者は個人的に関西弁の「知らんがな」にニュアンスが近いと感じている)。かつてはロシアの公共機関の窓口や受付の担当者は、複雑な依頼や案件に遭遇すると、面倒くさがり、あるいは責任逃れのためにしばしば「知らないわ」と口にしていたものだった。密告が横行していたソヴィエト時代には、時には厄介ごとに巻き込まれないため、時には家族や隣人を守るために、共同アパートのさまざまな場面で「知らないわ」が発せられていたに違いない。この作品は、一種のソヴィエト的コミュニケーションのプロトタイプをも明るみに出していると考えられるだろう。

 カバコフはこのようなソッツ・アートやモスクワ・コンセプチュアリズムといった1970年代の傾向に関して、極めて興味深い例えによって説明を加えている。

顔の向きを変えて、プロパガンダの人差し指が差し示している方向ではなく、指そのものを見ることが、あるいは拡声器ががなり立てている音楽に合わせて行進するのではなく、その拡声器そのものを点検することさえ可能になったのだ。要するに、つねに途切れることなくわれわれのすべてを監視していた熟視してはならないこれら恐ろしげなプロパガンダ用の装置のすべてが、それ自体、なぜか熟視の対象になったのである。★11

 つまり、拡声器の声に従って行進しプロパガンダの指し示す方向を素直に見る「体制派」でもなく、あからさまに指示に従わず反抗する「異論派」でもなく、群衆の一部でありながらも群衆を動かそうとするメカニズムを冷静に分析するタイプの人間が現れ、その人間の見方が作品において表明されたことをカバコフは述べている。

ソヴィエトのリヴィングストンたち

 このように、ソヴィエト社会に属しながらも自分が身を置く環境を冷静に分析し、記述しようとする志向を、カバコフは「アフリカのリヴィングストン」になぞらえる★12。デイヴィッド・リヴィングストンはスコットランド出身の宣教師であり、ヨーロッパ人で初めてアフリカ大陸を探検した人物である。1840年にケープタウンに到着したのを皮切りに、数度にわたってアフリカを探検し、その著作『アフリカ探検記』はヨーロッパ人に対してアフリカに関する知識をもたらし、多大な影響を及ぼした。

 カバコフは当時、ソヴィエトの現実や日常生活に嫌気を覚え、イデオロギーを常に恐れていたというが、そのような状況を、芸術家のアンドレイ・モナストィルスキーや批評家のイオシフ・バクシテインとともに、獣や敵に襲われ、たびたび病に罹りながらもアフリカ大陸を旅し、正確な観察に基づく記録を記したリヴィングストンに例えて、しばしば話題にしていたという。

 しかも、リヴィングストンの書物は単に他者の目でアフリカを観察した記録ではなく、自分自身についての記述でもある。それは「何らかのひどい病を患った医者の自己記録」であるとカバコフは指摘する★13。同じように、カバコフとともに議論に参加していたモナストィルスキーは、のちに出版された『モスクワ・コンセプチュアリズム用語辞典』の「アフリカのリヴィングストン」の項目で、「モスクワ・コンセプチュアリズムの参加者たちの文化的状況および現実認識についての自己定義」と説明している★14。内部からソヴィエト社会を観察し、同時にその内部に存在する自分自身のことを考察するという、参与観察と自己観察を同時に行う態度は1970年代の芸術家たちの間で共有されていたことがわかる。

 さらにカバコフはリヴィングストンの書物の読み手にも言及している。彼はリヴィングストンの書物が、ロンドンの地理協会のメンバーが備えていた習慣に従って、「落ち着いたトーンで」書かれていることに注目する。その理由をカバコフは、イギリス本国には「彼のユーモアと書物を評価する、賢い人々である友人が座っているクラブが存在していると、想定されている」からだと指摘する★15

 このリヴィングストンに関する見解には、明らかにカバコフとその仲間の非公式芸術家たちのことが重ね合わされている。上記のリヴィングストンの書物についての分析の後に、カバコフは次のように続けている。「われわれは、決して行ったことはなくとも、他の国からの派遣者であると自分自身を感じていた」★16。この文章でカバコフは、ソヴィエトから出たことがなく、その内部にいるにもかかわらず、外部の人間であるかのように自分自身を位置付けていたということを告白している。さらに彼は「非公式の芸術家たちは自分自身を他の空間のエージェント[ロシア語ではスパイを意味する]と感じていた」とすら述べている★17

二項対立を超越する

 ソヴィエト内部にいながら外部から来た者であるかのように見聞きし、振る舞うカバコフたちの態度については、アレクセイ・ユルチャクが後期ソヴィエト文化の特徴として「ヴニェ」と呼ぶものと一致する★18。「ヴニェ」は「〜の外側で、〜から離れて」を意味する前置詞で、バフチンの概念「外在(ヴニェであること вненаходимость )」が参考になっている。さらに翻訳では文脈に応じて「超越」とも訳されている。ユルチャクは体制順応か反体制かといった二項対立によってソヴィエト文化を捉える従来の研究者の見方を批判し、実際のソヴィエトの生活では両者の立場が重なり合うアンビバレントな状況が存在していたことを、多数の事例から説明する。そのような状況を示すのが「ヴニェ」の状態であり、ユルチャクは「システム内部に暮らしながら、システムから見えない存在、視野の外にある状態である」と定義する★19。「ヴニェ」が態度においても発言に関しても明確な反対の意思を示す「異論派」とは異なることは明確である。そしてユルチャクは後期ソヴィエトでは、実際のところ、大半の個人と国家との関係はこの「ヴニェ」の原理に基づいて構築されていたと考える★20

 カバコフが語る、権力と「闘争」するのではなく地下に「逃走」し、「二重人格」として生きる非公式芸術家たちの存在、そしてユルチャクが語る後期ソヴィエトの一般的市民の大半がそうだったという「ヴニェ」の態度は、ソヴィエトそしてロシアの「抵抗」の文化の多様性と複雑さを示すものに他ならない。

 われわれロシア国外の人間は、「外国エージェント」に指定されながらも反戦の声をあげるロシアの文化人や、危険な目に遭いながらも報道を継続する独立系メディアのジャーナリストたちを見て、現在のロシアでも反体制活動が継続されていることを確認する。その一方で、デモが下火になり、プーチン大統領を再選させたロシアの状況を見て、大半のロシア人は体制に取り込まれてしまったと思い込む。

 だが過去のソヴィエトを振り返ってみれば、現状を諦めながらも信念を保ち、情熱をくすぶらせ、体制を恐れながらも冷静に状況を分析する、カバコフのような「二重人格者」たちが現在のロシアにも多数存在することは容易に想像がつく。SNSにおける「静かなプロテスト」を取り巻く状況は、そういった二重人格のロシア人たちの存在を示す兆候のようにも思える。

 カバコフは自らが臆病者のソヴィエト人であることを自覚していたがゆえに、ごく普通の「小さな人々」に鋭くも温かい眼差しを向け、彼らを作品の主人公にした。カバコフがもう少し長生きしていたら、現在のロシアの状況にうんざりしながらも毎日の仕事や生活に明け暮れる、ごく普通のロシア人の様子を想像させるような作品を作っていたかもしれない。

 ユルチャクは後期ソヴィエトにおける、不明瞭な「ヴニェ」の蔓延がいつの間にか国家を変え、突然のソ連邦崩壊を引き起こしたと考える。目に見えにくいものは国家がコントロールすることは不可能であり、明確な反対者である異論派と違って排除することが不可能だからである★21。結果的に体制を変えたのは、特定の「闘争」する者よりも、不特定多数の「逃走」する者たちだったのだ。おそらく、ソヴィエト連邦の崩壊がそうであったように、「無くなるまでは、すべては永遠」★22と思われていた堅固なプーチン体制が終わった時、多くの人はきっとそれを当然のこととして受け入れるのだろう。


★1 URL= https://schwingen.net/
★2 ロシアの反戦アクティヴィズムについては次の記事に詳しい。上田洋子「ネットとストリートの戦争と平和 ロシアの反戦アクティヴィズムについて」『ゲンロン14』、ゲンロン、2023年、80-99頁。
★3 Илья Кабаков. Борис Гройс. Диалоги. Вологда: 2010. С. 9.
★4 Там же.
★5 地下芸術家たちの抵抗については次の拙論も参照。河村彩「闘争と逃走 ソヴィエト時代の反体制的な芸術をふりかえる」、『チェマダン特別号 ウクライナ侵攻とロシアの現在』、2022年、97-106頁。URL= https://chemodan.jp/(2024年4 月2日参照)
★6 カバコフによる著作は英語、ロシア語、ドイツ語でいくつか出版されているが、本論では主にИлья Кабаков. Борис Гройс. Диалоги. Вологда, 2010(イリヤ・カバコフ、ボリス・グロイス『対話』、ヴォログダ、2010年)、Илья Кабаков. Три инсталляции. М.: Ад Маргинем, 2002 (イリヤ・カバコフ『三つのインスタレーション』、アド・マルギネム、モスクワ、2002年)、Илья Кабаков. 60-е — 70-е…: Записки о неофициальной жизни в Москве. Wien: Gesellschaft zur Förderung slawistischer Studien, 1999 (邦訳はイリヤ・カバコフ『イリヤ・カバコフ自伝 60年代—70年代、非公式の芸術』、鴻英良訳、みすず書房、2007年)を参照した。
★7 『イリヤ・カバコフ自伝』、22頁。
★8 同書、59頁。
★9 同書、24頁。
★10 同書、60-69頁、Кабаков. Гройс. Диалоги. С. 29.
★11 同書、105頁。
★12 Кабаков. Гройс. Диалоги. С. 38-40.
★13 Кабаков. Гройс. Диалоги. С. 39.
★14 Ливингстон в Африке // Словарь терминов московской кон-цептуальной школы / Сост. А. Монастырский. М.: Ad Marginem, 1999. С. 57.
★15 Там же. С. 38.
★16 Там же.
★17 Там же. С. 32.
★18 アレクセイ・ユルチャク『最後のソ連世代 ブレジネフからペレストロイカまで』、半谷史郎訳、みすず書房、2017年。ユルチャクは著作の中で、異論派とは異なり、二項対立の紋切り型には当てはまらない芸術家としてカバコフに言及してはいるものの、ソヴィエト芸術を公式/非公式の二項対立で捉えることには疑義を呈しており、芸術よりもむしろ都市フォークロアといった日常実践に「ヴニェ」の実例を見出していることは書き添えておく。ただし、カバコフが地下芸術家を3つのタイプに分類し、自らを異論派と異なったものとして位置付ける際に根拠とした、内部における部外者という特徴は、ユルチャクによる「ヴニェ」の定義と見事に一致すると筆者は考える。
★19 同書、178頁。
★20 同書、179頁。
★21 同書、180頁。
★22 ユルチャクの本の原題は、Everything Was Forever, Until It Was No More: the Last Soviet Generationである。

河村彩

1979年東京生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(博士)。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専攻は、ロシア・ソヴィエト文化、近現代美術、表象文化論。著書に『ロトチェンコとソヴィエト文化の建設』(水声社、2014年)、『ロシア構成主義 生活と造形の組織学』(共和国、2019年)、編訳書に『革命の印刷術 ロシア構成主義、生産主義のグラフィック論』(水声社、2021年)、訳書にグロイス『流れの中で インターネット時代のアート』(人文書院、2021年)など。
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