つながりロシア(10) ルビヤンカ二番地の記憶|真野森作

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初出:2019年10月25日刊行『ゲンロンβ42』
「父は連れ去られるとき、何も言いませんでした。あのときのことを思い出す方が、自分が連行されたときのことより恐ろしく感じます。当時、私たちは3階に住んでいて、私はバルコニーに飛び出て『パパ!』と叫びました。昼間なので通りには人々が歩いています。父は振り向いて手をふりました。恐ろしい瞬間でした。その後、ブティルキ監獄で面会した私たちに、父は『みんな、この正直者にお別れをしなさい』と言いました。父は誰よりも素晴らしい人だと私たちは知っていました。 

 母が連れ去られたのは、私がおじのダーチャにいたときのことです。おじは仕事から帰ってきて私を呼び、『お母さんが逮捕されたよ』と言いました。私が最後に母を見たのは、ダーチャに送りに来てくれた駅のプラットフォームでした。母の逮捕後、手紙を送ることしかできませんでした。その後、小包を送ったら『荷受人は転出済み』と書かれて返送されてきました。それで私は何が起きたのか悟ったのです……」

 



 私は2013年秋から17年春まで、日本の新聞社のモスクワ特派員としてロシアと旧ソ連諸国を担当した。駐在を始めた秋、最初にモスクワで試みたインタビューの一つがタチヤナ・スミルガに対するものだった。ロシア革命2年後の1919年生まれ、当時94歳。ソ連のスターリン時代に共産党幹部だった父イワルと母ナデージュダを処刑され、自身も4年4ヶ月間のラーゲリ生活を強いられた。スターリンが主導した「大テロル」の犠牲者、その数少ない生き証人だ。1930年代に起きた大テロルでは党幹部や軍人、知識人から農民まで100万人以上が逮捕され、約70万人が処刑され、約16万人が獄死したという。全体主義国家ソ連で起きた巨大な事件だ。 

 着任間もなく私が彼女タチヤナに話を聞くことにしたのは、仕事上の必要とほんの好奇心からだった。世界各国の代表的な「通り=ストリート」を取り上げ、そこにまつわる物語を描く夕刊連載の当番が回ってきたためだ。「ソ連・ロシアと言えば旧KGB(国家保安委員会)だろう」と考え、その本部庁舎が面していた大ルビヤンカ通りを取り上げることにした。そして大テロルとの関係をテーマに据えた。支局のベテラン助手、オクサナ・ラズモフスカヤがタチヤナの所在を見つけ出し、取材の約束を取り付けてくれた。 

父イワルがレーニンらと並んだ写真などを示すタチヤナ・スミルガ=モスクワで

 タチヤナが語る大テロルの体験は、私の心にべったりとこびりつき、今もこびりついている。レーニンに続いたソ連の2人目の最高指導者、スターリン。3年半続いた私のモスクワ特派員生活はスターリンが残した爪痕をたどるようなもの──だった気もする。彼女の話を中心として、スターリンと彼の時代を語る人々の言葉を取材メモからここに書き残しておきたい。それは現代のロシアやウクライナなど旧ソ連諸国を知ることにつながっている。例えば、2014年に起きたウクライナ危機。クリミア半島の先住民族クリミア・タタール人は第二次大戦中、スターリンによって民族丸ごと中央アジアなどへ強制移住させられ、その穴を埋める形で大勢のロシア系移民が半島へ入植した。これがロシアによるクリミア強制編入の伏線となった。 

 

 



 13年秋のインタビューに戻る。モスクワ郊外、ソ連時代に建てられた共同住宅の一室。脚の悪いタチヤナは緑色のガウン姿で長いすに座っている。少し早口で、迷いなく記憶の糸を紡ぎ出す。彼女の父が連行されたのは1935年1月、母は36年7月だった。恵まれた共産党エリート家庭で育った彼女の10代は暗転した。 

 人民の敵──。 

「私たちは政府から大きな家をあてがわれていて6部屋もありました。パパが連行されると1部屋没収され、ママが連行されるとさらに1部屋没収され。最後には私と2歳下の妹ナターシャ、昔からの子守役だったアンナの3人で1部屋だけが残されました。やがて裁判所に呼ばれ、『ここにいるのは人民の敵の娘だ。家を没収しなければ』と裁判官に言われました。私は泣きました」 

 冷たい視線を浴びながら学校生活を送り、20歳になったばかりの39年6月11日午前4時、自宅で突然逮捕された。 

逮捕前のタチヤナ・スミルガ(中央)

「1939年春のことです。いとこから電話で『オーシャ・マリスキーが友達づきあいを再開したいと言っている』と言われました。彼の父親は私の父の友人で、父が連行された日も彼は家に来ていたのです。そしてオーシャは久しぶりに遊びに来ました。良い服を着てカメラやお菓子を持っていました。おしゃべりが始まりましたが、私は自分の意見は慎重に話すように注意し、妹がうっかりしたことを言わないようにも気をつけていました。けれど、しゃべっている最中につい言ってしまったのです。『この国では古株の共産党員ばかりが席を占めていると、もし海外で知られてしまったら、一体いつ世界革命は可能になるのでしょうね?』と。私は取り乱しました。オーシャがまっすぐ帰宅するなら右に曲がるはずなのに、彼は左に曲がってしまった……。もしかしたらすぐに報告にいったのかもしれない……。 

 6月11日の午前4時、ついに来ました。私と妹は寝ていました。部屋がノックされ、男性2人が入ってきました。『逮捕だ。服を着ろ』と。妹は泣き始めました。私は、母が連行されたときにそうしたように、自分の腕時計を外してナターシュカに残しました。私が持っていったのは、カバンとフランス語の教科書、歯ブラシ、室内サンダル。スプリングコートもつかんでいったのは幸運なことでした。そして2人に挟まれて連行されていきました」 

 ルビヤンカ──。 

「連行用の車はゴーリキー通りに止まっていて、後部座席に押し込まれました。私はショック状態でした。車はまっすぐルビヤンカ二番地(KGB本部)へ向かいました。中ではまず裸にされて徹底的に調べられました。そして独房へ。どれだけの時間あそこにいたでしょう。黒パンのかけらを与えられたことだけ覚えています。パンは食べませんでした。ショックと恐怖から歯が痛くなっていたのです。それから2人部屋に移されました。同室は30歳のドイツ女性マルガリータ。とてもチャーミングで音楽が好きで、小さな声で一緒に歌った。彼女はベートーベンが好き、私はチャイコフスキーやラフマニノフ……。 

大ルビヤンカ通りから見た旧KGB本部庁舎(正面奥)=モスクワで

 取り調べは夜だけでした。とても恐ろしかった。同級生のタマラ・メドベージェワがしゃべった、と言われました。私が『パパは何も悪いことをしていないのに、きっとスターリンとの関係が良くなかったから』と話したと証言したのです。本当にそう言ったのかと尋問されました。確かに言いました。私はママのことは考えないようにしていました。もう銃殺されたとは知らなかったのです。拘置された部屋は独特のにおいがしていました。取り調べで泣いて、出してほしいと頼んだこともありました。家までは走ればたった10分だったのです。 

 ある取り調べのとき、検察の罪状認定書を示されました。そこにはこうあったのです。『反ソ連的な若者の会合においてタチヤナ・スミルガは『世界革命は起きない』と発言した』。私はオーシャの密告だったと理解しました」 

 移送──。 

「その年の9月の終わりごろ、護送バスに乗せられてブティルキ監獄へ移されました。父の面会に行ったので旧知の場所でした。今度は3人部屋です。12月初めまで入れられていました。だからコートが役立った。そこでラーゲリ収容3年という判決を受けたのです。『ITLに3年』と宣告され、『それは何?』と尋ねると『矯正労働ラーゲリ(イスプラビーテリナ・トゥルダヴォイ・ラーゲリ)だ』と言われました。何を矯正するの? お願いだから私を家に帰して。勉強したいのです。試験を受ける必要があるのです……。 

 判決を言い渡されると、護送用の広い部屋へ移されました。面会が許されたので妹に防寒着を持ってきてもらいました。小銃を持った見張りがいる中で鉄格子ごしに妹と会いました。私は彼女のことが心配でした。『オーシャが来たら追い払いなさい』と言ってやりました。その後、オーシャが家に来たときに妹が『姉のターニャみたいに私も投獄したいの?』と言うと、彼は二度と来なくなったそうです」 

 ロシア西部モルドヴィア(※ソ連邦を構成したモルドヴァ共和国とは異なるロシアの一地方)のラーゲリにて──。 

タチヤナ・スミルガはモスクワからモルドヴィアのラーゲリに収容されたのち、トヴェリ州への移住を余儀なくされた。両者はモスクワをはさみ約700kmの距離がある

「ラーゲリでは私は縫製工として働きました。戦争までは8時間ずつの3交代、戦時になると午前5時から午後5時までの労働。仕事が終わると精根尽き果てて眠りました。私の刑は3年だったので1942年に満期となりました。けれど、モルドヴィアを出ることは許されませんでした。他の同様の仲間と共に引き続き矯正区で働き、そこで眠ったのです。私たちの上役が縫製工を必要としていたために放免してくれなかった。結局、私は4年4ヶ月あそこで働いた。でも、私はまだ幸運な方。3年は最短の刑期だったのです。 

 矯正区で暮らしていたとき、ある若者と知り合いました。私より2歳年下。私は学校では何のロマンスもなかったけれど、なんとまあ、モルドヴィアのラーゲリでロマンスが生まれたのです。彼は父親がポーランド人で、その後ポーランド軍に入営しました。それでおしまいです。私たち元囚人は森を抜けて小さな村を訪ね、せっけんや衣服を食べ物と交換しました。ラーゲリでは大麦のカーシャを与えられ、時々トウモロコシのカーシャもありました。トウモロコシ・カーシャはとてもおいしかった。野菜も時々。私たちにとって食事は大きな楽しみでした」 

 ラーゲリを出て──。 

「私はボルガ川河畔の都市キムルィに住むことを許されました」。キムルィはロシア西部トヴェリ州にあり、モスクワからは約150キロ。 

「そこで新聞社の仕事が見つかりました。ラーゲリから解放されたのは43年10月のこと。モスクワに戻るのは禁止され、100キロ圏外に住むよう命じられたのです。新聞社で働くのは幸せでした。けれども、やがて解雇されてキムルィからも追放されることになったのです。追放生活はラーゲリよりもつらかった。ラーゲリでは友達がいて、愛されていたからです。ラーゲリを出てからはあちこちへと追放されました。 

 ある冬の夜、列車のステップにつかまって移動しなければならなかったときのことは忘れられません。リュックサックを落としてしまった。逮捕された日に持って出たフランス語の教科書や友達からの手紙が入っていました。彼は同級生で19歳のときにがんで亡くなりました。私たちは一緒にラジオで音楽を聴いたり、コンサートへ行ったりしていたのです。あのころは文化があったのです……」 

 1953年3月、スターリン死去。そして、名誉回復──。 

「1956年に名誉回復が実現したことで私の放浪生活は終わりました。51年に娘を産んでいたのですが、夫と入籍したのは名誉回復後のことでした。彼を危険にさらしたくなかったのです。家族ができたのは本当にうれしかった。そして、やっと故郷モスクワへ戻る許可が下りました。これで誰からも隠れる必要がなくなった。ただ、実家には戻れませんでした。既に他の家族が住んでいたからです。新たな暮らしを始めるのは大変でした。私の人生から17年間が奪われたのです。それでも私は大学の教育学部を卒業しました。母は63年に名誉回復されました」 

 85年、ソ連最後の指導者ゴルバチョフが登場。ペレストロイカ(建て直し)とグラスノスチ(情報公開)が始まった──。 

「私はゴルバチョフに心酔しています。彼の時代になってようやく少し楽に呼吸できるようになりました。私はずっと父の名誉回復を求める手紙を書き続けていました。父の名誉回復の知らせを受けた当時、私は博物館の係員として働いていました。突然、手紙を受け取ったのです。私は52年4ヶ月の間、待ち続けていた。家に帰って娘に電話しました。歓喜です。ゴルバチョフは理解したのか、十分に賢かったのか、それとも心があったのか。彼は全ての『反対派』を名誉回復したのです……」

 



 これがタチヤナの語った大テロル体験だ。私はモスクワ特派員としての3年半の間に、他の人々からもスターリンとその時代について聞く機会があった。それらも記録しておく。スターリンをどう見るかは一様ではなく、その幅を知ることが旧ソ連を知ることの一助となるからだ。 

 

 



「私は中国の要人が来ソした際、スターリンの通訳を2度務めたことがあります。1度目は1939年、日本と戦う中国へ支援の武器をどう送るか検討する話し合いでした。会談は2時間続き、スターリンが話の方向をリードしていました。2度目は51年、朝鮮戦争のさなかです」 

 ソ連外交官として1950年代の日ソ国交回復交渉にも携わった中国専門家のセルゲイ・チフビンスキー。2016年5月、モスクワの高齢者施設にて。当時97歳の彼は日ソ交渉を巡る私たちのインタビューで若き日を振り返り、スターリンについて語った。 

「あのころ、スターリンへの崇拝はまるで現人神といった感じでした。もしあのように意志の強い人物がソ連にいなかったら、私たちは戦争(第二次大戦)に負けていたでしょう。リベラルなおしゃべり屋たちではドイツには対抗できなかった。ファシズムは恐ろしい勢力でしたから。あのころ、誰も疑問なんて持っていなかった。みんな大規模な弾圧(大テロル)が行われたことは知っていました。みんな分かってはいました。しかし、あの戦争は『追いつかないよりは行き過ぎた方がましだ』ということを示したのです。無論、あの弾圧は正当化できるものではありません。罪なき人々が犠牲となり、その名誉回復は死後のことでした。しかし、歴史に if はない。あの戦争で戦った者たちはみんな、スターリンの肖像が描かれたメダルを授けられました。誰も反対しませんでした。今でも彼らはそのメダルを身につけます……」 

 チフビンスキーは18年2月、99歳で死去した。 

 

 



 さらに、いくつかの断片。 

 

 



 12年5月、スターリンの生地であるグルジア中部ゴリ。女子高校生、テオナ・メスヒ(17)の言葉。「祖父母はスターリンを誇りに思っているけれど、父はそうではない。けんかになるから家では話題にしません」 

 

 



 15年5月、モスクワのタス通信本社・会見場。愛国主義グループとしてプーチン政権を支持するバイク愛好家集団「ノチヌィエ・ヴォルキ(夜のオオカミ)」のリーダー、アレクサンドル・ザルドスタノフ(52)。対独戦勝70年記念で実施したモスクワ―ベルリン間のツーリング「勝利の道」に際して、ポーランドとドイツでメンバーが入国拒否されたことについての記者会見で。 

「我々がスターリンを称揚していることについて非難されている。だが、スターリンは独裁者ではない。世界で唯一の独裁者は米国のウォール街だ。カネが全てを決めてしまう。ロシアは違った生き方をする。ロシアには精神的、宗教的なありよう、価値観がある」 

 

 



 16年1月、マトリョーシカの産地として有名なモスクワ近郊の町セルギエフ・パサート。民芸品の歴史に詳しい地元の学芸員、スベトラーナ・ゴロジャニナ(56)へのインタビュー。 

 ──政治指導者を描いたマトリョーシカが初めて登場したのはいつのことですか? 

「80年代終わりのことです。最初はゴルバチョフのものですね。ゴルビー・マトリョーシカ。それまでそういったものはありませんでした。その後、ペレストロイカで表現の自由が広まり、ブレジネフやスターリンを描いたものも登場したのです」 

ソ連・ロシアの政治指導者たちのマトリョーシカ=セルギエフ・パサートで

 16年3月、モスクワのとある住宅にて。トルクメニスタンからロシアへ亡命した馬事専門家、ゲルディ・キャリゾフ(65)と妻ユーリャへのインタビュー。彼らは母国の治安当局者の手がモスクワまで伸びてくるのを恐れていた。 

 キャリゾフ「暴政が存在していると、その権能はその国の境界内にとどまらないのです」 

 ユーリャ「スターリンは今も存在しています。全てがあの時代のような古い手法です。あんなことが今も可能だなんて私は思いもしませんでした」 

 キャリゾフはかつてトルクメニスタンが誇る名馬アハルテケ種の復興に尽力し、馬産業を率いる閣僚級の高官に抜てきされていた。だが、国際的な活躍などが独裁者のニヤゾフ初代大統領に疎まれ、02年に投獄される。06年のニヤゾフ死去後に釈放されたが、2代目大統領ベルディムハメドフの新政権下、当局は一家の住居と馬小屋を破壊し、馬100頭も全て没収。15年まで国外脱出も阻んだ。 

 

 



 モスクワでロマの民族自治組織を率いるナデージュダ・デメテル(63)への16年6月のインタビューもスターリンに触れた。ロマはロシア語では「ツィガン」。ロシアへは15世紀以降に入り、現在では数十万人が暮らす。差別が残るため、出自を隠す人も少なくない。 

 ──スターリン時代、ロマも犠牲となったのですか? 

「もちろんです。他の民族のように強制追放されました。けれど、ロマが赤軍兵士として第二次大戦で戦っていたことや、ロマに対する『ホロコースト』があったことは誰も語りません。スターリン時代に犠牲となったことも。私の祖父はネップ(新経済政策)の時代には成功した商人で家を2つ持っていました。そして粛清されたのです。私はKGBの公文書保管所で彼に関する文書を自力で見つけ出しました。出征せず、ノンポリ主義、機密情報を譲り渡したとされていました。11年の刑です。その後、父が祖父の名誉回復を成し遂げました。こんな例は唯一ではないのです」 

 

 



 16年9月、米国ロードアイランド州。セルゲイ・フルシチョフ(81)へのインタビュー。56年にスターリン批判を行ったソ連指導者、ニキータ・フルシチョフ共産党第一書記の次男であり、ソ連・ロシア史家だ。 

 ──スターリンについてどう思いますか。 

「スターリンは秘密警察を使って国家を運営しました。一方、現在のプーチン政権では多くのKGB出身者が政権入りしました。彼らは『スターリン時代の統治は素晴らしかったが、フルシチョフ時代はひどかった。だから我々も素晴らしい統治をしていこう』というわけです。彼らは色々なことを思いつきます。スターリンは対独戦に勝利した、と。実際のところ、あれは将軍たちが勝利したのです。また、スターリンが国家の工業化を創始した、とも言います。だが、帝政時代のアレクサンドル二世のとき、工業化は既に始まっていた。スターリンは有能な国家経営者だった、とも言う。しかし、彼は多くの人々を牢屋にぶちこんだ。こんな諸々です。 

 私たちが個人崇拝について話すとき、それは単なる新聞紙上の顔写真のことではないのです。スターリンへの個人崇拝が存在し、彼はそれに反対する人たちを排除した。フルシチョフ(父)が『スターリンは偉大な指導者ではなく犯罪者である』と表明したとき、人民は自分が侮辱されたように感じました。だまされたように感じたのです。これは私が今、教会へ行って『神などいない』と言うようなものです。だから人々はフルシチョフについて否定的な思いを抱いたのです。もしかしたら、(スターリン批判は)大きな間違いだったかもしれない。スターリン信仰は段階的に除去すべきだったのかも。 

 もちろんスターリンは間違いなく犯罪者です。スターリンはロシアにおける議論の『つまずきの石』となった。しかし、これは無神論者と信仰者との対立のようなもので、(スターリン批判の是非は)無益な論争です。 

 プーチン氏は非常に用心深い人間です。スターリン主義者たちの運動を公には支持せず、中立的立場を保っている。これは正しいやり方だ」 

鼻を削られたスターリン像と大テロル犠牲者を象徴する石像=モスクワのムゼオン芸術公園で

 最後にもう一度、タチヤナ・スミルガのインタビューに戻る。 

 ──あなたにとって大テロルとは何だったのでしょう。 

「私にとっては神の死滅、希望の死滅でした。大地震よりもなおひどい。その先何十年にも及ぶ魂の破壊です。名前のない犯罪です。父と母がいて、突然、『彼らは悪人だ』と言われるのです。私たち家族はバラバラに壊されました。学校では両親との関係を一切断つように迫られました。ピオネールの部屋に呼ばれて座らされ、『いつになったら関係を断つのだ』と尋ねられたこともあった。なんてひどい! これは犯罪的です。私は『父の罪が証明されたらすぐにも関係を断ちます』と言い返しました。父は帝政時代だった18歳のときから流刑された経験があり、レーニンも父に敬意を持って接していたのです。ただ、スターリンとの関係は良くなかった」 

 

 



 タチヤナの父イワル・スミルガは古参の大物だった。革命100年を機に出版された『オクトーバー 物語ロシア革命』(チャイナ・ミエヴィル、松本剛史訳、筑摩書房、2017年10月5日刊行)で、私はこんな記述を見つけた。《彼(※レーニン)はイヴァル・スミルガあてに手紙を書いた。フィンランドで軍・艦隊・労働者の地域執行委員会の議長を務める、極左ボリシェビキの人物である》。彼は、スターリンと対立して国外追放となったトロツキーに近かった。それが命取りになったのかもしれない。 

 

 



 ──ルビヤンカの旧KGB本部庁舎をどう思いますか。 

「爆破したいです、できることなら。愚かな考えですが……。あの建物はかつて保険会社でした。似たような建物に私たちも暮らしていたのです。ピアノがあって、作家や革命家たちが遊びに来ていました。私は両親がルビヤンカに入れられていたことを知っています。そのことを考えると恐ろしくなります。子供のとき、多くの立派な人たちと知り合いでしたから、私は『幸運だった』と言うことも出来るかもしれません。けれど、私はそうは言えないのです。私は最も身近な人たちを失いました。パパは44歳、ママは42歳でした。いまだに私は夜よく眠れないのです。思い出してしまうと、とてもつらくて。そんなときは文豪のプーシキンや彼の文章を思うことで考え事の方向を変えるようにしています」 

 タチヤナ・スミルガは2014年9月27日、95歳で亡くなった。 

 


(敬称略、カッコ内の年齢は取材当時) 
写真提供=真野森作

真野森作

1979年、東京都生まれ。毎日新聞外信部・副部長。一橋大学法学部卒業。2001年、毎日新聞入社。北海道報道部、東京社会部、外信部、ロシア語学留学を経て、13-17年にモスクワ特派員。大阪経済部記者などを経て、20年4月-23年3月にカイロ特派員。単著に『ルポ プーチンの戦争──「皇帝」はなぜウクライナを狙ったのか』(筑摩選書、18年)、『ポスト・プーチン論序説 「チェチェン化」するロシア』(東洋書店新社、21年)、『ルポ プーチンの破滅戦争──ロシアによるウクライナ侵略の記録』(ちくま新書、23年)がある。
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