戦いの虚しさと恐怖を語り継ぐ──現在のウクライナ戦争下の世界情勢の中で観るべき東欧映画11本|Knights of Odessa

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webゲンロン 2023年3月7日配信
 私、Knights of Odessa は、「死ぬまでに観たい映画1001本」を通して知ったフランチシェク・ヴラーチル監督によるチェコ映画『マルケータ・ラザロヴァー』(1967年)の力強さと、フサーリク・ゾルタン監督によるハンガリー映画『Szindbád』(1971年)の摩訶不思議さに惹かれて以降、東欧映画を400本ほど鑑賞してきた。今回は「現在のウクライナ戦争下の世界情勢の中で観るべき東欧映画」として、関連する11本の作品を紹介したい。

 本題に入る前に、2点ほど明確にしておくべきことがある。1点目は、今回の記事のテーマが「現在のウクライナ戦争の状況を知るために観るべき映画」ではないことだ。ウクライナでは、特に2014年のクリミア併合以降の期間に、ロシアとの問題を扱った作品が多数製作されている。しかし、今回は広く「東欧映画」を紹介するため、この問題を描く作品ばかりを取り上げるわけではない。

 2点目は、どこからどこまでを東欧と呼ぶのか、である。本来、これはかなり繊細な議論が要される論点だが、今回は一般的に中欧/東欧地域と呼ばれる国々の他に、旧ユーゴスラビア諸国とコーカサス諸国も含めることにした。後者の地域の近代史において、ソ連/ロシアが見逃すことのできない影響を与えており、かつ本記事の目的が様々な映画を紹介することにあるというのがその選択の理由である。

ドンバス戦争を描いた映画たち


 広く「東欧映画」を紹介するとは言ったものの、やはり今観るべき東欧映画としてウクライナの作品を無視することはできない。なので、まずはウクライナの作品を3本ほど。

 1本目は、セルゲイ・ロズニツァ『ドンバス』(2018年)だ。この作品は2014年以降続いたドンバス戦争を描いた劇映画で、ドンバスにおける一般市民の様々な挿話を「しりとり」のように紡いだ作品である。シームレスに繋がる人々の物語は、地続きで繋がる国土をも思わせ、しかしそこには明らかな分断があるということもそれと同時に視覚化されていく。この映画は、何度観ても何が起こっているのかさっぱり理解できない。しかし、ここで感じる「誰と誰が戦っているのかも分からない無力感」は、この戦争の当事者たちもまた持っている感覚なのではないか。そのうえで、ロズニツァは敢えてこの状況をそのまま提示することで、世界中の人々に思考を促しているのではないか。そう私は考える。ロズニツァは常に作品の主題を一般化して、観客たちに問いかけ続けてきた。劇映画でもドキュメンタリーでも、その姿勢は共通している。

映画『ドンバス』より(©︎MA.JA.DE FICTION / ARTHOUSE TRAFFIC / JBA PRODUCTION / GRANIET FILM / DIGITAL CUBE)

 
 2本目に紹介したいのは、マリナ・エル・ゴルバチ『クロンダイク』(2022年)だ。この作品は、ドンバス戦争と、その状況下でロシアとウクライナの国境に暮らす夫婦を描いている。広大な平原のど真ん中にポツンと建った家で暮らしていた二人だが、ある日砲撃を受けて家が半壊状態となってしまう。その後も、家の中というプライベートな空間と家の外というパブリックな空間が、壁に空いた穴によって接続されたまま、或いはスクリーン=大穴を介した夢と現実が繋がった状態として、観客の目前に迫ってくる。広大な平原にも、親ロシア派が撃墜した民間機のあげる黒煙や、犠牲者の遺体を探す懐中電灯などが遠くに確認でき、逃げ場のない恐怖が常に画面に存在し続ける。そんな中で、親ロシア派と反ロシア派が代わる代わる現れ、夫婦に「どちらにつくのか」という選択を迫る。画面上の逃げ場のなさが、この選択への圧力に収束していくのだ。本当に恐ろしい映画だ。

映画『クロンダイク』より(2023年公開予定、詳細は記事末尾)

 

 3本目は、ヴァレンチン・ヴァシャノヴィチ『リフレクション』(2021年)だ。この作品も2014年のウクライナを舞台にした映画で、前線で捕らえられ拷問されたウクライナ人医師の再生を描いている。この作品は全編がワンシーンワンショットで構成されており、目を背けたくなるような光景すらも、息の詰まるような長回しによって直視していく。それに加えて、窓ガラスや車のフロントガラスなど、フレーム内フレームを多用することで、社会と主人公、カメラと社会、カメラと主人公の距離感を変幻自在に操り、空間を安全地帯にも地獄にも牢獄にも変換するという離れ業をやってのける。中でも衝撃的なのは、中盤で鳩が部屋の窓ガラスに当たって死に、その痕跡がずっと残り続けるシーンだ。この映画は、その「痕跡」を軸に、捕虜から解放されても主人公を捕らえ続けていた「牢獄」を可視化し破壊していく。

映画『リフレクション』より

2度の世界大戦を描いた映画たち


 さきほど『ドンバス』の紹介で、「誰が誰と戦っているか分からない無力感」と書いた。次は、そう書きながら思い出した作品を3本ほど。

 1本目は、ハンガリーの巨匠ヤンチョー・ミクローシュによる『The Red and the White』(1967年)である。この作品は、第一次世界大戦でロシアの捕虜になったハンガリー軍の兵士たちが、ロシア革命直後の赤軍と白軍の戦いに赤軍側で参戦させられる様を描いている。しかし、物語は明確な主人公を持たず、とある赤軍部隊が白軍部隊にやられ、その白軍部隊が別の赤軍部隊にやられ……といったふうに、まるでオセロゲームのような展開で進行していく。ヤンチョー・ミクローシュによる、俳優を「物体」とでも見做すかのような超ロングショットも相まって、映画を観ているうちにどちらが赤軍でどちらが白軍なのかさえもよく分からなくなっていく。それでも戦闘は続く。最後の1人が倒れるまで……。

 2本目は、Dragovan Jovanović によるセルビア映画『Girl from the Mountains』(1972年)だ。この作品の主人公は、第二次世界大戦中のセルビアで、ユーゴスラビア王国軍に志願して帰ってこなくなった恋人の身を案じる女性だ。そんな彼女が、ひょんなことからレジスタンス陣営に加わって戦争に身を投じていく様が描かれる。この頃、ユーゴスラビア王国はナチスに降伏し、王国軍は解体されていた。しかしそんな中で、降伏を拒否した一部のセルビア人将校が「チェトニック」という別組織を結成し、民族的/宗教的に敵対する者たちを虐殺していた。主人公の恋人も当然のように「チェトニック」に参加していた。そして、最終的にはナチスそっちのけで、パルチザンとチェトニックが命を奪い合う争いへと発展していく。この無力感たるや。本作では、それをロマンス映画的主題である"with"と戦争映画的主題である"against"の戦いに落とし込むことで、前者のために後者を選ばざるをえなくなった人々の苦しみを描いている。

 3本目は、Olav Neuland によるエストニア映画『Nest of Winds』(1979年)だ。この作品は、第二次世界大戦直後のエストニアで、敗残ドイツ兵を保護してしまったエストニア人農夫の苦悩を描いている。上記の2本に共通する『ドンバス』的な趣旨とは少し異なるが、それまでの期間で戦争を繰り広げてきたドイツ・ソ連・パルチザンの3者は森に地雷を埋めまくり、代わる代わるカツアゲに近いような搾取を繰り返してきたわけで、主人公の農夫の頭上で起こる彼とは無関係な戦いの「落とし物」が全部農場に降ってくるという無力感は、本稿で2本目に紹介した『クロンダイク』に近い。しかも、白い雪に覆われた彼の小さな農場を舞台に3者が相まみえて争い合う様は、まさしくエストニアという土地そのもの奪い合いのようでもある。そして、国の歴史とも密接に絡み合った小さな農場を、手持ちカメラによって絶望感と虚無感の漂う小さな地獄に変換することで、観客を真冬の農場に置き去りにする。我等は今、あなたも今、ここにいるんだ、と。

コーカサス地域の内戦を描いた映画たち


 ウクライナと近いコーカサス地域では、ソ連崩壊後に内戦が勃発した。これに関連して2本ほど。

 1本目はオタール・イオセリアーニによるジョージア映画『唯一、ゲオルギア』(1994年)だ。この作品は、アーカイブ映像やインタビュー映像などを使って、内戦とアブハジア紛争(アブハジアがジョージアからの独立を求めて起こした紛争)に発展した故国ジョージアの1994年当時の状況を描いている。全体で3部構成になっており、第1部では交通の要衝として隣接する各地の勢力から狙われ続けながらも独自の文化を残し発展を続けたジョージアの2千年史を縦横無尽に語り尽くし、イオセリアーニの持つジョージア人としての「誇り」を観客に共有する。これによって、第2部におけるソ連の横暴と第3部における内戦及びアブハジア紛争の悲惨さがより際立っていく。特に第3部の構成は、共に1度はソ連の手先となるも別々の道を歩んだ2人の大統領(ガムサフルディアとシェヴァルドナゼ)を中心にジョージア独立と内戦が語られるという点で、セルゲイ・ロズニツァ『ミスター・ランズベルギス』に酷似している。しかし上記の通り、ジョージア人の「誇り」を観客に共有したうえで内戦を描くという点で、ロズニツァの手法とは異なっているのが興味深い。

映画『唯一、ゲオルギア』より(絶賛公開中)

 

 2本目は、Maria Saakyan によるアルメニア映画『The Lighthouse』(2006年)だ。作品内では明示されないものの、ナゴルノ・カラバフ戦争(アルメニアとアゼルバイジャンが同名の自治州をめぐって起こした争い)を描いた映画だとされている。1990年代のあるとき、主人公は祖父母をモスクワに移住させるため、アルメニアの田舎村にやって来る。しかし、祖父母は全く動く気がなく、彼らに同調するかのように動かなくなってしまった電車によって、主人公はモスクワへの帰還を阻まれ、何も知らない故郷での暮らしを余儀なくされる。本作では直接的な戦闘シーンは描かれない。描かれるのは戦闘の合間にある「普通の生活」であり、彼らの前に広がる花や木や丘や空の美しさだ。監督が描きたかったのは、戦争そのものの悲惨さというよりも、それが日常生活にどう侵食し、どう人間を変えてしまうかだったのだろう。戦前と変わらない生活を送っているように見える彼らも、根本的に変わってしまっている。だからこそ余計に、彼らの前に広がる美しく静かな自然には、これまで先祖代々を見守ってきた歴史の重みのようなものを感じずにはいられない。全編がそんな窒息しそうな重苦しさで満ち満ちている。

戦時下の子供を描いた映画たち


 戦時下、及び戦後、子供たちには何が起こっていたのか、というテーマは日本を含めた様々な国で描かれてきた。ここでは、東欧映画における「戦争と子供たち」を描いた作品を3本紹介する。

 1本目は非常に高名な一作、エレム・クリモフ『炎628』(1985年)だ。監督はロシア人だが、舞台は第二次世界大戦期のベラルーシである。パルチザンに加わろうとした少年フリョーラは森に置き去りにされ、落胆して故郷に戻る。すると、家族も村人も全員殺されていて……という残酷な話で、特に終盤の40分は強烈な印象を残す。

 この名作に正面から挑んだのが、2本目として紹介するヴァーツラフ・マルホウル『異端の鳥』(2019年)だ。この作品では、孤児になったユダヤ人の少年が、様々な大人たちの間を渡り歩きながら、様々な地獄絵図を垣間見ていくさまを章立てて構成していく。この作品を撮ったのはチェコ人の監督であり、そのことでチェコ映画だと思われている節もあるのだが、スラブ諸言語を基に作られた人工言語「インタースラーヴィク」を採用し、ハーヴェイ・カイテルやジュリアン・サンズといった国際色豊かなキャストを迎えた独特の位置づけの映画である。この作品は、その独自の手法によって、戦争で少年の体験した恐怖と、その恐怖には加担した大人たちがいるという事実を、東欧世界及び全世界に一般化しようと試みているのだ。これはどこにでも起こりうる出来事であり、そして、だからこそ記憶し止めなければならない出来事である、と。実は、『炎628』のフリョーラを演じたアレクセイ・クラフチェンコも大人になって本作に登場する。作中に登場する多くの大人たちが少年を搾取するのに対して、彼は短い間ながら少年の「父親」のような存在として面倒を見る。その目線は『炎628』を、クラフチェンコの目を通して現代に語り継ぐかのようにも見える。

 3本目は、ゲツァ・フォン・ラドヴァニによるハンガリー映画『ヨーロッパの何処かで』(1948年)だ。ハンガリーは、第二次世界大戦の終戦直後に映画製作を再開したことで知られる。その状況の中ですぐに完成したのが本作である。主人公となるのは戦争孤児たち。冒頭のシーンでは、収容所に向かう列車のマドから逃された子供や、放牧に出ていて空爆から生き延びた子供、目の前で父親を殺されてしまった子供などが登場し、最後に火事で溶け落ちるヒトラーの蝋人形が映し出される。短いながら戦争の恐怖と終焉、そしてそのトラウマを同時に表現した見事なシーンだ。生き残った少年少女たちは次第に集まって、所有者のいない古城に流れ着き、そこで「戦争が終わっても戦争に囚われ続けていた」こと、そして彼らこそ新たな世界の担い手であることが、彼らの意識の中に浸透していく。その過程が見事だからこそ、彼らを迫害する大人たちの不寛容が際立ち、夢が叶う直前に亡くなってしまった子供たちの姿には、戦争を生き延びても戦後の不寛容を生き延びられなかった全ての子供たちが重なってしまう。

 



 今回の記事を書くにあたって、様々な角度から戦争を描いた作品を調査したことで、改めて気付かされたことがある。1つは、在り来りではあるが、映画を観ることで戦争の様々な事実や側面を知ることができる、ということだ。例えば、今回紹介した作品だけでも、戦時下で一般市民はどんな生活をしているのか、孤児になった子供はどんな生活を強いられるのか、捕虜になった兵士はどんな光景を見てしまうのか、など様々な切り口で戦争を知ることができる。まずは知ることから始める、そのために映画を観る。それは大きな前進だと私は思う。

 もう1つは、「東欧映画」の力強さを再確認したことだ。東欧地域において、特に共産政権時代に撮られた戦争に関する映画は、ナチスの破壊的行為を描きながら、それを現在のソ連による行為とも重ねていた。映画製作には厳しい制限があったため、企画を通すために様々なアレゴリーを混ぜ込み、結果として奥行きの深い作品を次々と生み出していった。そうした深みのある語り口は共産政権崩壊後も、映画史を参照する若い世代に引き継がれているように感じられる。これからも継続して東欧映画を研究していきたい、とまた強く心を動かされた。

 



映画『Klondike(原題)』(2023年公開予定)
監督・脚本:マリナ・エル・ゴルバチ
撮影:スヴャトスラフ・ブラコフスキー
音楽:ズヴィアド・ムゲブリー
出演:オクサナ・チャルカシナ、セルゲイ・シャドリン、オレグ・シチェルビナ
2022/ウクライナ・トルコ/原題:KLONDIKE/ウクライナ語・ロシア語・チェチェン語・オランダ語/100分/G/カラー/DCP/ワイドスクリーン/5.1ch
配給:アンプラグド
日本語字幕:岩辺いずみ

Knights ofOdessa

東欧 / ロシア映画愛好家。チェコ映画『マルケータ・ラザロヴァ』とハンガリー映画『Sinbad』に魅了されて以来、東欧映画を観続ける会社員。noteにてハンガリー映画史や東欧映画紹介記事を投稿している。「キネマ旬報」2020年12月下旬号にハンガリー映画史についての記事を、2022年6月上旬号にセルゲイ・ロズニツァについての記事を寄稿。2023年2月19日、「死ぬまでに観たい映画1001本」(2011年版)を完走。
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