ロシア語で旅する世界(6)ユーロマイダンの顔|上田洋子
初出:2016年7月15日刊行『ゲンロン3』
「モスクワは顔を失ってしまった」──2014年春にモスクワでインタビューをしたとき、ソローキンはそう言った[★1]。「顔」をあらわすロシア語のлицо(リツォ)には、ほかに個性、個人、面目などの意味がある。ソローキンにとってのモスクワは、ソ連邦崩壊後、プーチン政権下でのっぺらぼうになってしまった、ということは、ソ連時代には顔があったということか。ソ連崩壊後20年以上を経たいま、ソ連時代の文化は、日本なら昭和のような、ノスタルジーの対象になっている。しかし、ソ連文化が自由の制限とともにあったことは忘れてはならない。ソ連では、文化の諸相がそうした負の条件を受け入れることによって成立していたし、アンダーグラウンドの対抗文化は、一枚岩の公式文化があるからこそ存在の強度を保っていた。いまでは、世界にとってのモスクワの「顔」と言えばプーチンで、対抗文化の顔は前号で取り上げたアクティヴィストのパヴレンスキーやプッシー・ライオットであるだろう。
さて、今号では、ウクライナ出身の写真家ボリス・ミハイロフによる、ウクライナの革命運動ユーロマイダンを扱ったシリーズを取り上げたい。《戦争行為の劇場、第二幕、息抜きТеатр военных действии. Второй акт. Передышка》と名づけられたそのシリーズは、ユーロマイダンが終結した2014年に、ロシアの旧首都サンクトペテルブルクで開催されたヨーロッパ現代美術ビエンナーレ「マニフェスタ10」に出品された。わたしも同年夏、サンクトペテルブルクを訪れ、この作品を見た。むしろ、この作品を見るためにペテルブルクに行ったと言っていい。マニフェスタ10からは少し時間が経ってしまったが、革命の熱狂が冷めたいま、ミハイロフの写真がユーロマイダンの顔をどのように捉えているのか、あらためて考えてみたい。
マニフェスタは1996年からヨーロッパの諸都市をホストに開催されているもので、本誌掲載のキム・ソンジョン氏の論考「国際性と地域性の並行関係」でも紹介された光州ビエンナーレ(1995年開始)同様、比較的新しい国際現代美術祭である。光州ビエンナーレから遡ること100年、万国博覧会ブームも冷めやらぬ1895年に始まったヴェネチア・ビエンナーレや、第2次世界大戦後10年の1955年から5年ごとに開催されているカッセルのドクメンタなど、いわば老舗の現代美術祭と比較すると、新世代の芸術祭であることが実感できるかもしれない。マニフェスタはヴェネチアやカッセルのような土地に根ざしたタイプのものとは異なり移動展で、初回は委員会本部のあるロッテルダム、2回目はルクセンブルク、3回目はスロベニアのリュブリャナで開催されている。2006年には国家分断問題を抱えたキプロス共和国の首都ニコシアでの開催が予定されていたが、結局中止になるという経緯もあった。第10回でサンクトペテルブルクが選ばれた背景には、オランダとペテルブルクの歴史的関係[★2]のほかに、旧共産圏での開催という政治的な意味合いがあるようだ。
会場となったエルミタージュ美術館は、2014年にちょうど250周年を迎えた。レンブラントやルーベンス、それにモロゾフ=シチューキンコレクションを中心とするモダニズム美術など、古典(と言っていいだろう)の優れたコレクションと、ロマノフ王朝の宮殿をそのまま美術館にした迫力ある歴史的空間がよく知られている。ここはロシア革命の舞台でもあり、美術愛好家でなくとも、一度は訪れてみたい観光地であるだろう。しかしながら、おもに帝政時代に集められたコレクションとともに歴史を背負う場所であるならば、現代美術との相性はどうかと、不安を感じるひともいるかもしれない。
だが、それは杞憂にすぎない。じつはエルミタージュは、現館長ミハイル・ピオトロフスキーのもと、美術館の現代化・活性化に力を入れている。2003年、レム・コールハースと彼の事務所OMAのリサーチのもと、エルミタージュ美術館現代化プロジェクトが始まった[★3]。2007年には「エルミタージュ20/21」という現代芸術プロジェクトが立ち上がり、それまで存在しなかった現代美術のセクションが設けられ、展示と収蔵が定期的に行われるようになった。2014年の開館250周年に向けて、2008年からコールハースとのプロジェクトがより大きな規模で再開され、美術館全体の運営コンセプトのほか、小エルミタージュの改装や、巨大な収蔵庫のある郊外のスターラヤ・デレーヴニャ(古い村を意味する)での図書館の設計をOMAが担当することになった[★4]。2015年にはザハ・ハディドの約300点からなる大規模な回顧展を冬宮の大広間(ニコライ・ホール)で開催し、1日平均8500人、トータル68万人の来場者数で、同年のロシア首都圏の美術展でも最多の来場者数を獲得した[★5]。この展示は、ザハの生前最後の大規模な個展となった。
マニフェスタ10も、エルミタージュ20/21の一環として開催されたものだ。おもな展示は冬宮、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、小エルミタージュからなるネヴァ川沿いの本館建物群ではなく、宮殿広場を挟んで向かいにある旧参謀本部の建物にある分館で行われた[図1]。エルミタージュではたんに「参謀本部」と呼ばれるこの分館は、コールハースのコンサルティングのもと、現代的な展示ができるように改装されている[図2]。そして、マニフェスタと時期を合わせて、それまで本館三階に展示されていたマティスやピカソなどの20世紀以降の美術作品がまとめてこちらに移動された。ピオトロフスキーはマニフェスタ10の図録の挨拶文で、ロシア・アヴァンギャルド全盛期にはエルミタージュ美術館が「過去の遺物」として美術の前衛から攻撃されていたことや、ソ連時代末期の1987年に開催されたイヴ・サンローラン展に対し、「聖堂としての美術館」が商業主義に汚されたとの名目で反対デモが行われたことなどを紹介しつつ、このビエンナーレの開催がエルミタージュのイメージを刷新する契機となることを強調している[★6]。
さて、今号では、ウクライナ出身の写真家ボリス・ミハイロフによる、ウクライナの革命運動ユーロマイダンを扱ったシリーズを取り上げたい。《戦争行為の劇場、第二幕、息抜きТеатр военных действии. Второй акт. Передышка》と名づけられたそのシリーズは、ユーロマイダンが終結した2014年に、ロシアの旧首都サンクトペテルブルクで開催されたヨーロッパ現代美術ビエンナーレ「マニフェスタ10」に出品された。わたしも同年夏、サンクトペテルブルクを訪れ、この作品を見た。むしろ、この作品を見るためにペテルブルクに行ったと言っていい。マニフェスタ10からは少し時間が経ってしまったが、革命の熱狂が冷めたいま、ミハイロフの写真がユーロマイダンの顔をどのように捉えているのか、あらためて考えてみたい。
進化するエルミタージュ美術館
マニフェスタは1996年からヨーロッパの諸都市をホストに開催されているもので、本誌掲載のキム・ソンジョン氏の論考「国際性と地域性の並行関係」でも紹介された光州ビエンナーレ(1995年開始)同様、比較的新しい国際現代美術祭である。光州ビエンナーレから遡ること100年、万国博覧会ブームも冷めやらぬ1895年に始まったヴェネチア・ビエンナーレや、第2次世界大戦後10年の1955年から5年ごとに開催されているカッセルのドクメンタなど、いわば老舗の現代美術祭と比較すると、新世代の芸術祭であることが実感できるかもしれない。マニフェスタはヴェネチアやカッセルのような土地に根ざしたタイプのものとは異なり移動展で、初回は委員会本部のあるロッテルダム、2回目はルクセンブルク、3回目はスロベニアのリュブリャナで開催されている。2006年には国家分断問題を抱えたキプロス共和国の首都ニコシアでの開催が予定されていたが、結局中止になるという経緯もあった。第10回でサンクトペテルブルクが選ばれた背景には、オランダとペテルブルクの歴史的関係[★2]のほかに、旧共産圏での開催という政治的な意味合いがあるようだ。
会場となったエルミタージュ美術館は、2014年にちょうど250周年を迎えた。レンブラントやルーベンス、それにモロゾフ=シチューキンコレクションを中心とするモダニズム美術など、古典(と言っていいだろう)の優れたコレクションと、ロマノフ王朝の宮殿をそのまま美術館にした迫力ある歴史的空間がよく知られている。ここはロシア革命の舞台でもあり、美術愛好家でなくとも、一度は訪れてみたい観光地であるだろう。しかしながら、おもに帝政時代に集められたコレクションとともに歴史を背負う場所であるならば、現代美術との相性はどうかと、不安を感じるひともいるかもしれない。
だが、それは杞憂にすぎない。じつはエルミタージュは、現館長ミハイル・ピオトロフスキーのもと、美術館の現代化・活性化に力を入れている。2003年、レム・コールハースと彼の事務所OMAのリサーチのもと、エルミタージュ美術館現代化プロジェクトが始まった[★3]。2007年には「エルミタージュ20/21」という現代芸術プロジェクトが立ち上がり、それまで存在しなかった現代美術のセクションが設けられ、展示と収蔵が定期的に行われるようになった。2014年の開館250周年に向けて、2008年からコールハースとのプロジェクトがより大きな規模で再開され、美術館全体の運営コンセプトのほか、小エルミタージュの改装や、巨大な収蔵庫のある郊外のスターラヤ・デレーヴニャ(古い村を意味する)での図書館の設計をOMAが担当することになった[★4]。2015年にはザハ・ハディドの約300点からなる大規模な回顧展を冬宮の大広間(ニコライ・ホール)で開催し、1日平均8500人、トータル68万人の来場者数で、同年のロシア首都圏の美術展でも最多の来場者数を獲得した[★5]。この展示は、ザハの生前最後の大規模な個展となった。
マニフェスタ10も、エルミタージュ20/21の一環として開催されたものだ。おもな展示は冬宮、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、小エルミタージュからなるネヴァ川沿いの本館建物群ではなく、宮殿広場を挟んで向かいにある旧参謀本部の建物にある分館で行われた[図1]。エルミタージュではたんに「参謀本部」と呼ばれるこの分館は、コールハースのコンサルティングのもと、現代的な展示ができるように改装されている[図2]。そして、マニフェスタと時期を合わせて、それまで本館三階に展示されていたマティスやピカソなどの20世紀以降の美術作品がまとめてこちらに移動された。ピオトロフスキーはマニフェスタ10の図録の挨拶文で、ロシア・アヴァンギャルド全盛期にはエルミタージュ美術館が「過去の遺物」として美術の前衛から攻撃されていたことや、ソ連時代末期の1987年に開催されたイヴ・サンローラン展に対し、「聖堂としての美術館」が商業主義に汚されたとの名目で反対デモが行われたことなどを紹介しつつ、このビエンナーレの開催がエルミタージュのイメージを刷新する契機となることを強調している[★6]。
マニフェスタ10では、参謀本部のおもな展示とは別に、本館でも、ゲルハルト・リヒター、ルイーズ・ブルジョワ、森村泰昌らの作品が常設展に混ざって配置されていた。伝統と現代、歴史と現在を美術で結ぶ構造である。たとえば森村の作品《Hermitage 1941-2014》は、第二次世界大戦中のエルミタージュの風景に画家が入り込む小さな写真とエスキスのシリーズで、のちにエルミタージュに買い上げられたが、歴史に同化するあまり、作品としての存在感は薄かった。マニフェスタ10は全体としてもやや保守的な構成ではあったのだが、わざわざエルミタージュで現代美術展を開催することの筋は通されており、近現代美術館として整備された参謀本部とともに、ある一定の新しいヴィジョンは提示されていたように思う。なお、友人のエルミタージュ学芸員たちはマニフェスタにはほとんど関心がなく、モダニズム美術を担当している30代の学芸員ですら、「リヒターを見てると本当に落ち着く」というのが感想だった。伝統を突き崩すのは難しい。
ボリス・ミハイロフの《戦争行為の劇場》は、マニフェスタ10のメインプログラムの参加作品のなかでも、もっともアクチュアルな事象を扱っていたと言っていいだろう。ユーロマイダンは2013年11月に始まったウクライナの政治運動で、EU加盟を公約していたウクライナ政府が、ロシアの圧力下で加盟への一歩となる連合協定の署名を凍結したことに端を発する。人々はキエフ中心部の独立広場を占拠し、多いときで約80万人が、政権に反対し、EU加盟を求めるデモに参加した。この革命運動は約3ヶ月続くが、翌年2月にはウクライナ内務省特殊部隊のスナイパーが民間人を無差別射撃する事件が起こり、多くの死者が出る。最終的にはマイダン勢力に押されて当時の大統領が逃亡し、その後新政権が誕生した[★7]。
ユーロマイダン運動は、ウクライナ-ロシア関係の悪化をもたらした。この運動がいったん収束した直後に、ロシアはクリミアを併合し、またウクライナ東部では親ロシア派とウクライナ軍の間で内戦が始まった。ロシアでは政府の情報統制によってメディアがウクライナへの反感を煽り、ロシア国民は反ウクライナと親ウクライナに分断されてしまった。ミハイロフはウクライナの写真家であり、マニフェスタ10の開催時期がもう少し遅かったならば、ユーロマイダンを扱う彼の作品は展示できなかったかもしれない。
《戦争行為の劇場》では、キエフの独立広場でユーロマイダン運動に参加している人々が、客観的かついくぶんユーモラスに捉えられている。たとえば「自由」「死」の文字と、下手くそな骸骨のイラストが描かれた盾を持つ若者[図3]。ヘルメットには、「いまこそヨーロッパに加入する時が来た」と、勇ましいスローガンが印字されている。これらの文字は、なぜかすべてウクライナ語ではなくロシア語だ。思いつめたような、どこかおどおどしたような若者の顔は、いささか幼稚な盾との組み合わせで、マイダンの勇者としてはどうも頼りなく見える。別の写真では、白い砂袋で築かれたバリケードがコラージュで強調され、高みに立つ迷彩服姿の若い男性が微笑んでいる。彼が持つ白い盾には赤字で十字架が描かれている[図4]。同じような盾はバリケードのふもとにも複数飾られ、その前には「ヤヌコーヴィチ(前大統領)反対」「ユーロ加盟万歳」のステッカーが貼られたヘルメットが、案山子のように棒の上にかぶせられている。盾はおそらく手作りで、こちらにもユーロ加盟万歳のスマイルマークにウクライナ民族衣装の花飾りをつけた可愛らしいステッカーが貼られているのが、どうも間抜けで現代っぽい。盾の白、砂袋の白、曇天の白が積み重なるなか、高みに立つ男性は英雄のようにも見える。
2枚の写真をラフにつなげて横長の画面に構成した別の作品では、バリケードの前、焚き火を囲んで集まる参加者たちがいる[図5]。19世紀ロシアの歴史画家スリコフの作品を思い起こさせる、横長で前景に人々が密集する構図。作戦会議のようにも見えるが、実際はただ集まって暖をとっているだけなのだろう。若者から老人まで、さまざまなひとがいるが、彼らには特に革命の志士らしき特徴はない。唯一、ヘルメットをかぶっている若者たちは、ほんの少しそれらしく見えるのかもしれない。バリケードとドラム缶の焚き火が物々しい雰囲気を作るなか、人々は素の日常を生きているようだ。このタイプの、革命の日常、あるいは裏側を捉えたものとしては、ほかにも大量のスナップショットが、展示ケースのなかに、小さなフォーマットで連続写真のように並べられていた。
ユーロマイダンのヒーローたち
ボリス・ミハイロフの《戦争行為の劇場》は、マニフェスタ10のメインプログラムの参加作品のなかでも、もっともアクチュアルな事象を扱っていたと言っていいだろう。ユーロマイダンは2013年11月に始まったウクライナの政治運動で、EU加盟を公約していたウクライナ政府が、ロシアの圧力下で加盟への一歩となる連合協定の署名を凍結したことに端を発する。人々はキエフ中心部の独立広場を占拠し、多いときで約80万人が、政権に反対し、EU加盟を求めるデモに参加した。この革命運動は約3ヶ月続くが、翌年2月にはウクライナ内務省特殊部隊のスナイパーが民間人を無差別射撃する事件が起こり、多くの死者が出る。最終的にはマイダン勢力に押されて当時の大統領が逃亡し、その後新政権が誕生した[★7]。
ユーロマイダン運動は、ウクライナ-ロシア関係の悪化をもたらした。この運動がいったん収束した直後に、ロシアはクリミアを併合し、またウクライナ東部では親ロシア派とウクライナ軍の間で内戦が始まった。ロシアでは政府の情報統制によってメディアがウクライナへの反感を煽り、ロシア国民は反ウクライナと親ウクライナに分断されてしまった。ミハイロフはウクライナの写真家であり、マニフェスタ10の開催時期がもう少し遅かったならば、ユーロマイダンを扱う彼の作品は展示できなかったかもしれない。
《戦争行為の劇場》では、キエフの独立広場でユーロマイダン運動に参加している人々が、客観的かついくぶんユーモラスに捉えられている。たとえば「自由」「死」の文字と、下手くそな骸骨のイラストが描かれた盾を持つ若者[図3]。ヘルメットには、「いまこそヨーロッパに加入する時が来た」と、勇ましいスローガンが印字されている。これらの文字は、なぜかすべてウクライナ語ではなくロシア語だ。思いつめたような、どこかおどおどしたような若者の顔は、いささか幼稚な盾との組み合わせで、マイダンの勇者としてはどうも頼りなく見える。別の写真では、白い砂袋で築かれたバリケードがコラージュで強調され、高みに立つ迷彩服姿の若い男性が微笑んでいる。彼が持つ白い盾には赤字で十字架が描かれている[図4]。同じような盾はバリケードのふもとにも複数飾られ、その前には「ヤヌコーヴィチ(前大統領)反対」「ユーロ加盟万歳」のステッカーが貼られたヘルメットが、案山子のように棒の上にかぶせられている。盾はおそらく手作りで、こちらにもユーロ加盟万歳のスマイルマークにウクライナ民族衣装の花飾りをつけた可愛らしいステッカーが貼られているのが、どうも間抜けで現代っぽい。盾の白、砂袋の白、曇天の白が積み重なるなか、高みに立つ男性は英雄のようにも見える。
2枚の写真をラフにつなげて横長の画面に構成した別の作品では、バリケードの前、焚き火を囲んで集まる参加者たちがいる[図5]。19世紀ロシアの歴史画家スリコフの作品を思い起こさせる、横長で前景に人々が密集する構図。作戦会議のようにも見えるが、実際はただ集まって暖をとっているだけなのだろう。若者から老人まで、さまざまなひとがいるが、彼らには特に革命の志士らしき特徴はない。唯一、ヘルメットをかぶっている若者たちは、ほんの少しそれらしく見えるのかもしれない。バリケードとドラム缶の焚き火が物々しい雰囲気を作るなか、人々は素の日常を生きているようだ。このタイプの、革命の日常、あるいは裏側を捉えたものとしては、ほかにも大量のスナップショットが、展示ケースのなかに、小さなフォーマットで連続写真のように並べられていた。
ミハイロフの代表作に、故郷であるウクライナ第2の都市ハリコフの浮浪者たちにポーズを取らせて撮影した《ケース・ヒストリー》シリーズ(1997-98年)がある。社会の底辺の人々がカメラの前に裸体を晒し、ときに宗教画のような壮大な構図を取る。そこに見られるのは悲惨さというより、ユーモアと皮肉、美しさと醜さ、狡猾とイノセンスの混在である。《ケース・ヒストリー》は、展示の際には巨大なフォーマットでプリントされることが多い。大きなフォーマットでは、匿名の浮浪者のポートレートがモニュメンタルな力を持ち、あたかも時代の肖像であるかのような様相を呈する。今回の《戦争行為の劇場》も、いくつかの作品は壁いっぱいの巨大なサイズにプリントされている。そこに写る革命の参加者たちは、武装する戦士や殉教者になぞらえられているようにも見える。
しかし、作品タイトルが皮肉にも示すように、彼らの武装やバリケードは、芝居の小道具や舞台装置、あるいは映画のセットのようだ。戦争に関するアイテムは、彼ら自身にも、現実のキエフの街にもどうもしっくりこないのだ。革命の大道具と小道具は、じつはテレビや映画、写真や絵画などの歴史的表象から借りてきて、見よう見まねで作られたのではないのか。革命運動はいつか成就されなければならないから、その拠点は仮のものでなければならない。マイダンの演劇性は、テント村の仮設性とも結びついているだろう。そういえばソローキンの小説のマジックリアリズムにも、映画のセットのような非現実的な描写がつきものだ。2013年の『テルリヤ Теллурия』ではまさに、小国に分裂して蜂起したり、政治に明け暮れたり、欲望のままに映画のシーンのような生を送る未来のヨーロッパがオムニバス形式で描かれ、ユーロマイダンの状況を先取りしていると評されたのだった。
批評家のエレナ・ペトロフスカヤは、ミハイロフの写真が「情緒的に体験された体験、あるいは、そのような集団的な幻想、欲望、思考を表現する夢想としてのイメージという、移ろいやすい物質」を扱っていると指摘する。ミハイロフの写真には「ルポルタージュ性と演劇化の間の緊張」のなかで真実を相対化する、新しいドキュメンタリー性があると言うのだ[★8]。《戦争行為の劇場》では、革命運動の日常に入り込んだ演劇的な身振りがクローズアップされて、無名の人物があたかも英雄であるかのように大きな像に引き伸ばされる。こうした像は、裏側のイメージ、すなわち暖をとったり食事をしたり、ただ所在なく立っていたりする人々の素のしぐさで相対化される。ミハイロフの写真のなかでは、ユーロマイダン革命は崇高な劇にも茶番劇にも見える。そして、ユーロマイダン収束から2年の時が経ったいま、それらを見返してみると、2014年に見たときよりも皮肉めいて映る。おそらくさらに時が経てば、さらに違った見え方になるのだろう。
わたしにとって印象的だったのは、ミハイロフの妻ヴィタの顔のアップからなる連作だった[図6-図8]。化粧もしていない初老の女性が嘆き悲しむ顔。本来は美しい彼女の顔は大げさに歪められ、どこか古代の悲劇の仮面を思い起こさせる。《2014年2月18日》と、手書きのメモが添えられているが、まさにこの日から2月20日にかけてユーロマイダン運動が激化し、警察と民間人が衝突して、多くの犠牲者を出した。政府側とされるスナイパーが、高層ビルから市街にいる民間人を多数射殺するという事件すら起こっている[★9]。しかし、《戦争行為の劇場》=ユーロマイダンで上演されたのは、結局のところ悲劇だったのだろうか。それとも人間の死を代償とした革命の勝利の物語なのだろうか。ヴィタの表情は本当に嘆き悲しんでいる顔なのか。別の写真と組み合わせると、別の見え方をするのではないか。ミハイロフの写真が提示するマイダンの顔は、歴史の評価に合わせて違った物語を演じる俳優の顔 лицо、あるいは仮面 личинаなのかもしれない。
この作品が《戦争行為の劇場》と名づけられているのには、別の皮肉もこめられているように思われる。作品が展示されているエルミタージュ美術館、それに参謀本部という場所それ自体が《戦争行為の劇場》であるからだ。美術作品、そして写真は、かつての宮殿や軍事の中枢でどんな力を持つのか。たんなる舞台装置に過ぎないのか、それとも観客に経験として分有されることで、劇場を超えて、世界に対してなんらかの作用を持つのか。ミハイロフの作品は、常に美術、そして写真に対する問いかけでもある。
しかし、作品タイトルが皮肉にも示すように、彼らの武装やバリケードは、芝居の小道具や舞台装置、あるいは映画のセットのようだ。戦争に関するアイテムは、彼ら自身にも、現実のキエフの街にもどうもしっくりこないのだ。革命の大道具と小道具は、じつはテレビや映画、写真や絵画などの歴史的表象から借りてきて、見よう見まねで作られたのではないのか。革命運動はいつか成就されなければならないから、その拠点は仮のものでなければならない。マイダンの演劇性は、テント村の仮設性とも結びついているだろう。そういえばソローキンの小説のマジックリアリズムにも、映画のセットのような非現実的な描写がつきものだ。2013年の『テルリヤ Теллурия』ではまさに、小国に分裂して蜂起したり、政治に明け暮れたり、欲望のままに映画のシーンのような生を送る未来のヨーロッパがオムニバス形式で描かれ、ユーロマイダンの状況を先取りしていると評されたのだった。
批評家のエレナ・ペトロフスカヤは、ミハイロフの写真が「情緒的に体験された体験、あるいは、そのような集団的な幻想、欲望、思考を表現する夢想としてのイメージという、移ろいやすい物質」を扱っていると指摘する。ミハイロフの写真には「ルポルタージュ性と演劇化の間の緊張」のなかで真実を相対化する、新しいドキュメンタリー性があると言うのだ[★8]。《戦争行為の劇場》では、革命運動の日常に入り込んだ演劇的な身振りがクローズアップされて、無名の人物があたかも英雄であるかのように大きな像に引き伸ばされる。こうした像は、裏側のイメージ、すなわち暖をとったり食事をしたり、ただ所在なく立っていたりする人々の素のしぐさで相対化される。ミハイロフの写真のなかでは、ユーロマイダン革命は崇高な劇にも茶番劇にも見える。そして、ユーロマイダン収束から2年の時が経ったいま、それらを見返してみると、2014年に見たときよりも皮肉めいて映る。おそらくさらに時が経てば、さらに違った見え方になるのだろう。
わたしにとって印象的だったのは、ミハイロフの妻ヴィタの顔のアップからなる連作だった[図6-図8]。化粧もしていない初老の女性が嘆き悲しむ顔。本来は美しい彼女の顔は大げさに歪められ、どこか古代の悲劇の仮面を思い起こさせる。《2014年2月18日》と、手書きのメモが添えられているが、まさにこの日から2月20日にかけてユーロマイダン運動が激化し、警察と民間人が衝突して、多くの犠牲者を出した。政府側とされるスナイパーが、高層ビルから市街にいる民間人を多数射殺するという事件すら起こっている[★9]。しかし、《戦争行為の劇場》=ユーロマイダンで上演されたのは、結局のところ悲劇だったのだろうか。それとも人間の死を代償とした革命の勝利の物語なのだろうか。ヴィタの表情は本当に嘆き悲しんでいる顔なのか。別の写真と組み合わせると、別の見え方をするのではないか。ミハイロフの写真が提示するマイダンの顔は、歴史の評価に合わせて違った物語を演じる俳優の顔 лицо、あるいは仮面 личинаなのかもしれない。
この作品が《戦争行為の劇場》と名づけられているのには、別の皮肉もこめられているように思われる。作品が展示されているエルミタージュ美術館、それに参謀本部という場所それ自体が《戦争行為の劇場》であるからだ。美術作品、そして写真は、かつての宮殿や軍事の中枢でどんな力を持つのか。たんなる舞台装置に過ぎないのか、それとも観客に経験として分有されることで、劇場を超えて、世界に対してなんらかの作用を持つのか。ミハイロフの作品は、常に美術、そして写真に対する問いかけでもある。
★1 ソローキンのインタビューは次を参照。ウラジーミル・ソローキン(聞き手、東浩紀)「『プーチンのロシア』とユートピアの死のあとの文学」上田洋子訳『ゲンロン通信』13号、2014年、3-16頁。この言葉はインタビュー収録の前後の雑談で語られたものであり、右記には収録されていない。
★2 ロシアのピョートル大帝(1672-1725)は、25歳の頃、使節団をオランダに派遣。身分を偽ってみずからも団員のひとりとなり、造船技術を学んだ。彼がネヴァ川の河口に築いたサンクトペテルブルクの街は、アムステルダムをモデルとしていた。
★3 下記、OMAのサイトに、簡単なプロジェクト紹介が掲載されている。http://oma.eu/projects/hermitage-museum また、最近では建築雑誌『a+u』のOMA特集号でも取り上げられた。「特集:OMAの近作─エルミタージュ美術館」『a+u』2015年9月号(540号)、56-59頁参照。
★4 OMAのサイトおよび前掲の『a+u』2015年9月号、60-70頁を参照。
★5 Рейтинг. Самые посещаемые музеи и выставки в России в 2015 году. The Art Newspaper Russia. No. 43. 18 Мая 2016. ザハ・ハディド展の展示概要は、下記、エルミタージュ美術館の展示サイトを参照。 URL=https://www.hermitagemuseum.org/wps/portal/hermitage/what-s-on/temp_exh/2015/hadid/?lng=en
★6 Пиотровский М. Кресты над Мани-фестой. // Манифеста 10: Европейская биеннале современного искусства. Лондон: Koeing Books Ltd. 2014. エルミタージュ美術館で「参謀本部」と呼ばれている旧参謀本部東翼は、1993年に同美術館の一部になった。
★7 セルゲイ・ミールヌイ、東浩紀「独立は血であがなわれた」上田洋子訳、『ゲンロン通信』16+17号、2015年、76-99頁。
★8 エレナ・ペトロフスカヤ「写真における物質と記憶:ボリス・ミハイロフの新しいドキュメンタリティ」後半部、八木君人訳『チェマダン』2、2013年。
★9 ユーロマイダン運動では、警察および「イヌワシ隊 беркут」と呼ばれる内務省の特殊部隊が市民に対して武力を行使し、ときに銃器も用いられた。ユーロマイダン側の犠牲者は後遺症で亡くなったひとも含めて100名を超え、「天国の100人」と呼ばれている。そのうちのほとんどが、2014年1月22日および2月18-20日の大規模武力衝突の際に命を落としている。ユーロマイダン側はおもに火炎瓶や敷石を剥がしたものなど、即席の原始的な武器で応戦した。
上田洋子
1974年生まれ。ロシア文学者、ロシア語通訳・翻訳者。博士(文学)。ゲンロン代表。早稲田大学非常勤講師。2023年度日本ロシア文学会大賞受賞。著書に『ロシア宇宙主義』(共訳、河出書房新社、2024)、『プッシー・ライオットの革命』(監修、DU BOOKS、2018)、『歌舞伎と革命ロシア』(編著、森話社、2017)、『チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド』(調査・監修、ゲンロン、2013)、『瞳孔の中 クルジジャノフスキイ作品集』(共訳、松籟社、2012)など。展示企画に「メイエルホリドの演劇と生涯:没後70年・復権55年」展(早稲田大学演劇博物館、2010)など。
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